第二十三節 魔法使いは思考する(1/2)

 その日の朝の洗濯物を干し終わる。暦も2月から3月へと変わり、暖かい日差しが心地よい。日向ぼっこをしている猫もこんな気持ちなのだろうかと、少しズレた考えを抱く。洗濯物かごを元の場所に戻し、さて今日は何をするかと考える。

 亮介からの連絡がないことから、恐らく修業は言い渡されていないのだろう。平和で何よりだ。リリーは今朝がた、何やら用事があると自分より早く出かけてしまっている。香織も、町内会でのお茶会で何故か朝から出かけている。お茶会の前の準備と言っていたが、そんなに時間のかかる準備なのだろうか。

 ああそうだ、この間見つけた初老のマスターが営んでいる、あの喫茶店にでも行こうか。あの店のオススメプリンは絶品だったな。いやしかし、この間行ったばかりなのに、また行くのはしつこいと思われないだろうか。

 悶々と一人考えていたところに、ある人物が声をかける。


「あの、エルさん。少しお尋ねしたいんですが……」

「沙羅……?」


 大学が休みなのだろうか、沙羅が聖に話しかけてきた。外用の恰好をしているが、出かけるのだろうか。


「今日ってエルさん、何か用事がありますか?」

「いや、ないが……」

「でしたら、ちょっとお付き合いしてもらってもいいですか?」


 付き合い、それはお互いが唯一の恋愛パートナーであることを認め合い、その信頼に応える義務を背負うこと。約束を交わし、制約を背負うことで覚悟を示し、信頼関係を強めることができる。

 確かにそれはいいかもしれない、が……。


「……俺と沙羅の間には信頼関係はあっても、恋愛感情とは……?」

「ああっ、エルさん違いますよ!?その、私の言うお付き合いというのは、一緒に出掛けませんかということです」

「そうだったのか」


 ぼそりと、日本語をマスターするのは難しいなと呟く。

 特段用事もなかったうえ、今日の予定はどうしようかと思案していたのだ。断る理由もないならば、共に出かけるというのも良いのかもしれない。レーアも言っていた、生きている人との関わりというやつだ。

 沙羅からの誘いを受け、出かけるための準備をする。火元の確認や戸締りの確認を入念に行ってから、あったか荘をあとにする。4月から、通っている大学の2年生になるという沙羅。今日はそのために、勉強に必要そうな参考書や専門書を買っておきたいのだという。荷物がどのくらい増えるかわからないから、聖に手伝ってほしいのだという。


「了承した。つまり、荷物持ちという役割をこなせばよいのだな?」

「聖さん、またドラマの影響を受けたんですか?」


 沙羅にも、あったか荘以外の場所では自分のことをエル、ではなく聖と呼んでほしいとお願いしておく。彼女にも一応、そうしなければならない理由はある程度は伝えてある。詳しい説明はまだできていないが、それでも快く受け入れてくれた彼女の懐の深さには感謝する。


「大学から教科書とか専門書とかは、もちろん与えられるんですが……それでも、自分でもっと勉強しておきたいなって思って。医学に関するいろんなこと、自分の中に蓄えておきたいんです」

「……勉強熱心なのだな。何故そこまでする?」

「それは……夢があるから、ですかね」


 そう語る彼女の横顔が眩しい。何事も、目標がある人間は皆同じようにキラキラとした眼をしている。彼女の夢は医者になることだという。小児科の医者を目指しているらしい。応援していることを伝えれば、彼女は微笑んで礼を述べた。



 駅の近くにある本屋。地下にまで広がる空間は、ありとあらゆる本が陳列されている。確かにここならば、目的の本が手に入るだろう。待ち合わせの時間を決めて、しばしの自由行動をとる。ぶらりと辺りを歩いて、ふと目についたのはフランスの風景を写した写真集だ。引き寄せられるようにその本を手に取り、ぱらぱらと頁を捲る。

 懐かしい風景だ。日本に亡命する前、聖はフランスに身を置いていた。ブドウ園から風に乗って漂ってくる瑞々しい香り。庭に広がる薔薇園。何もかも、色褪せずに自分の中にある。……それらが奪われたときの痛みも。

 そんな懐かしさに暫くの間胸を痛めていたが、ポケットに入れていた携帯のバイブレーションで意識が現実に戻された。沙羅からの電話だった。


「沙羅か」

『はい。聖さん、今どちらにいらっしゃいますか?』

「すまん……待ち合わせ時間か。すぐ向かう」

『はい、待ってますね』


 電話を切り、眺めていた写真集を棚に戻す。

 今は、ここにいることが幸せだと感じる。それでいい。昔のことは思い出さないようにしよう。考えを切り替えて、沙羅との待ち合わせ場所へ向かった。


 待ち合わせ場所にいた沙羅の足元には、大きな紙袋が2つ置いてあった。よくそんな大量の本を、まずレジまで持って行けたものだと感心する。1つずつ持とうという意見に、少し考えてから自分で2つ持つと意見する。


「いいんですか……?」

「ああ」

「では、お言葉に甘えます」


 片方の紙袋を持つ。見た目を裏切ることのない重量感だが、苦ではなかった。これならば両方とも持てると確信し、両手に一つずつ紙袋を持った。

 さて時間は正午近く。どこかで昼食を取ろうということになり、辺りにすぐ利用できる飲食店がないか探す。ここは駅前だ、飲食店は数多く存在する。だが今はお昼時、どこもかしこも満員だろう。さてどうしようかと聖が考えあぐねていると、沙羅がスマートフォンで何かを検索したのか、声をかけてきた。


「聖さん、ここからすぐの近くの大学の学食って一般開放しているらしいですね。もし聖さんがよろしければ、ここでお昼ごはんにしませんか?」

「学食……?」

「えっと、学食って言うのは学校内に設置されている食堂のことです。多くは学生しか立ち入れないんですが、一般の方向けに開放している場合もあるんです。値段もリーズナブルですし、結構美味しいんですよ」


 そう笑う沙羅。今月分のお小遣いの節約のためにも、確かにリーズナブルに抑えることはいいことだ。不特定多数の人がいることには多少の不安を覚えるが、背に腹は代えられない。それに興味がないかと言われれば、完全に否定はできない。たまにはこういった趣も良いのだろう、と結論付けて彼女に構わないと返事をする。

 一般開放されている大学は、あるいて数分の場所にあった。入ってすぐに置いてある立て看板に従い、敷地内を歩く。そして自然に囲まれた、一見すると本当にここは学校なのだろうかと疑うほどお洒落な建物がそこにあった。看板には「聖竹せいちく大学カフェテリア」と書かれてある。中に入ると、これまた目を疑うほど上品な空間が漂っている。まるでそこの敷地だけが、学校内から切り離されたようだ。

 辺りを見回せば学生のみならず、老夫婦や若い母親達が楽しそうに談笑している姿が目に入る。確かにこれ程の空間であるならば、一般開放するには申し分ない。


「凄いですね!私が通っている大学の学食とは大違いです」

「そうなのか」

「私の大学は、そうですね……食堂みたいなものをイメージしていただけると」

「長テーブルに丸椅子が延々とならんでいるような、あれか?」

「はい、そんな感じです。それもドラマで?」

「ああ。香織さんの部屋で、いつもリリーが見ていてな……。意識しているつもりはないのだが、頭に入ってしまった」


 空いている席を探しながら、そんな他愛のない話をする。沙羅とは普通に話ができる。5年間共にあったか荘で暮らしているだけあり、お互いの気遣いが自然とできているからだ。

 窓際に近い席が空いている。紙袋の中の本のことを考えると避けようと思ったが、沙羅の方からその席はどうかと打診された。念のために本のことを尋ねると、大丈夫だという返答が返ってくる。


「そうか……。ならば、先に席についている」

「ありがとうございます」


 そうして座席の一つに紙袋を置いて、席に着く。思っていたより長い時間重い荷物を持つと、手がヒリヒリしてしまうと学んだ。

 ガラス張りの壁から、3月の頭らしい少し暖かい日差しが挨拶をしてくる。徐々に緑も色づいてきて、春になるのだなと感じる。過ごしやすくなってくることはいいことだ。


「ねぇそのケーキ一口ちょうだいっ」

「ちょっと、人の返答聞く前にフォークでかっさらわないでよ」

「いいじゃん、今度心理学のノート貸したげるからさぁ」


 後ろに座っている自分と、さほど変わらないような年齢の女子たちが楽しそうに話している。女子会、というやつなのだろうか。いやしかし、話を聞いているとどうもこの大学の学生らしい。盗み聞きしているわけではないのだが、相手側の声が大きくて意識しなくとも耳に入ってしまう。


「そうだ!今度の休みさ、3年になる前の最後の旅行なんてどうよ?」

「いいねぇ!3年になったら就活始まるし、遊べるのは今しかないよねぇ」

「だしょー?そういやウチら、高校の時もいろいろ遊びに行ったね」

「あー、高校生活は馬鹿やって楽しかったね」


 彼女らの他愛ない会話に、何故か考えさせられる聖。以前行った喫茶店のマスターも、学校は良いものだと言っていた。彼だけではない。レーアも香織も、自分たち以外との関わりはいい刺激になると教えてくれた。

 日本に亡命してきて、早5年。今までは自分の身を隠すことだけを考え、生きてきた。それなのに、今になってその考えが揺らいでいる。関わりを持つべきなのか否かと。これを、どう言い表していいのかわからない。あえて言うのならば、不安、なのだろうか。


「聖さん?」


 上から降ってきた声に、はっと視線を上げる。そこにはお盆を持っていた沙羅がいた。


「どうかしましたか?」

「いや……なんでも」

「そうですか。聖さんも、食べたいもの選んできてください」


 自分に笑いかけながら席に座る香織。カフェなのにうどんがあったんですよ、と楽しそうに話す彼女。確かにカフェにうどんとは珍しいな、と思いながら彼女の盆を見て硬直する。

 なんというか、赤い。それはそれは見るも素晴らしいくらいに、真っ赤だ。うどんの姿形はおろか、存在さえ疑うほどに、器の中が赤い。


「それは……うどん、なのか……?」

「はい!聖竹大学カフェテリア特製、地獄感マシマシ激辛うどんです!トッピングもあったので食べるラー油も盛れるだけ盛ってもらいました!」


 あまりにも楽しそうに笑う彼女に、どう返答したらいいかわからない。ただただ唖然としている。沙羅が激辛料理好きだということは知っているが、こう直接現場を見ると圧倒される。そんなものばかり食べているせいか、彼女は味覚音痴でもある。

 聖さんも是非、と満面の笑みで迫る沙羅から逃げるように、受付に向かうのであった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る