15センチ=ティア

「嬉しいなぁ、お見舞いに来てくださるなんて」


 ドアを開けると、彼女は僕を一瞥しそう言った。気怠げな目、口角の上がった笑顔。その声に、記憶の中の彼女が鮮明に思い浮かんで、思わず僕は目を逸らした。古びた四人部屋の病室はまさに郊外のそれというに相応しく、その独特な雰囲気と彼女は、何だかよく似合っていた。


「…ちょっとした検査入院ですから、気とか使わなくて大丈夫ですよ」


 病室に入ってから黙ったままの僕とは対照的に、彼女は一人話し続けた。そんな通常運転な彼女に少し安心して、逸らした目線を元に戻した。ようやく彼女と向き合う。窓から射し込む日にシルエットを濃く縁取られていて、彼女がどんな表情をしているのかはよく見えなかった。けれど、何となく笑っている気がしたのは、きっと僕の中の彼女はいつもそうだったからに違いない。

 彼女に話さなくてはならない事があった。今までの僕ら、その全てを否定してしまう可能性を秘めた、そんな話を。喉がヒリヒリと痛む。いつもと変わらぬ彼女が、返ってそれを強いものにさせていた。目に見えぬ何かは僕を責め立てる。このままではいられない、と。


「ストレスですって、お医者さんも少し休めばすぐ元気になるって―――――、」

「初めから、おかしかったんだ」


 何故、彼女を遮るようなタイミングで口を開いたのか、僕自身よく分からなかった。もしかしたら、見たくなかったのかもしれない。沈黙を埋めるようと言葉を紡ぐその様子が、どこか虚しく思えて仕方なかったのだ。


「…初め、から?」


 虚を突かれた時、人はこんな顔をするのか。僕は動揺で二の句を告ぐのを躊躇った。逆光に目が慣れてきて、次第に彼女の表情がはっきりと認識できるようになる。一瞬、心臓が強く脈打つ。心の締め付けられる感覚が、呼吸をしづらくさせた。瞬間的にまた、目を逸らしたくなる衝動に駆られ、けれど今度はそうはしなかった。逃げてはいけない、強迫観念に似ているそれだけが、ただ僕を突き動かしていた。

 そうして少し逡巡している間に、彼女は笑顔に戻っていた。いや、その笑顔は今までのそれとは、やはりどこか違っていて、そこにいつもの挑戦的な彼女はいなかった。それは受け入れと諦めが飽和したような、そんな笑顔だった。ならば僕もそれに応えねばならない。意を決して、彼女に問いかけた。


「あの日…初めの日、何で君は、テレパシーの条件が15センチ以内だって事を最初から知ってたんだ?」


 その問いを最後に、長い沈黙が僕らを包んだ。それはある意味当然の事で、初めからそれが正しかったのかもしれない。僕も、彼女も、探るようにお互いにお互いの目を見つめ合う。その気怠げな瞳に、僕が映る。そしてそこから目が離せなくなる。あぁ、そうだ。あの日もそうだった。あの日も彼女の瞳を通して、僕は自分と目を合わせていた。誰かを経由した自分は、まるで他人のようで。それでいて、無機物のようで。

 先に目を逸らしたのは彼女だった。俯き、その横顔は髪に邪魔されて窺う事ができない。しばらくそうしていた彼女は、へらっと笑いながら顔を上げ、いつもの笑顔で答えた。


「…いつから気付いてたんですか?」


 零れた一筋の光が、彼女の頬をつたう。僕はそれに少し腹が立って、拳を握り締めた。


 こんな時に限って、蝉は静かなままだった。




 ─────*──*──*─────



 祭りの日、僕らは童心にかえったようにはしゃいだ。かき氷から始まり、輪投げ、射的、綿菓子や水飴も食べた。金魚掬いなんて何年ぶりだろう。掬った金魚が少なかった方がりんご飴を奢る約束をして、僕らは馬鹿みたいに一生懸命、金魚を追った。

 結果は僕の負けだった。意気込んだものの一匹も掬えなかった僕の横で、彼女はなんと四匹も掬いあげてみせた。素直に驚いていると、口角を上げ得意げな彼女の笑顔が見えて、嵌められた事に気付いた。


「得意なんです、金魚掬い」

「…狡くないか、それは」

「狡くなんかないです、約束は約束ですよ。りんご飴、ご馳走様です」


 人混みから外れたベンチに腰掛け、彼女はさぁ、と僕を急かした。納得はいかなかったが、仕方ない。りんご飴屋台はどこだったか、練り歩いていた時に見かけた気がするんだが。雑踏に再び踏み込む直前、片手を振る彼女が目に入る。もう一方の手では、四匹の金魚が窮屈そうに揺れていた。


 りんご飴屋台はどこも並んでいた。まぁ、当然と言えば当然か、りんご飴といったら祭りの定番なのだから。いくつかある屋台の中で、比較的空いている列に並ぶ。僕と同じく、一人で並んでいる人が思っていたより多くて、少し安心した。何人かの友人で回る屋台を決めたりしているのだろうか。もしかしたら、本当に一人で祭りに来ている人もいるかもしれない。

 そんなどうでもいい事を考えていると、徐々に僕の番に近付いてくる。あと四、五人、そのくらいまで進んだ時だった。


「りんご飴、完売御礼です!」

「えっ」


 突然の売り切れ。全く、この十五分を返してほしい。まぁ、こういうのも祭りの醍醐味ではあるのかもしれないが。列がバラバラと崩れ、僕もそれに乗じて波に身を任せながら考える。りんご飴は買えなかった。他の屋台に並ぶには時間が掛かり過ぎる。しばらくそうした結果、僕は彼女の元へ一度帰る事にした。他の列をまた待つとしても、それを報告すべきだと思ったからだ。

 この時初めて、僕は彼女と連絡先を交換していない事に気付いた。というより、彼女が携帯電話を持っているのかすら知らなかった。不便に感じるといえば感じるが、それでも今更聞き出そうとも思わなかった。きっとそれは彼女も同じ考えだった筈だ。僕らの関係は、何でもない。友達も、恋人も、何かがどこか違っていて。15センチを共有している、ただそれだけの関係で。そこにそれ以外の情報は要らなかった。僕と彼女、それだけで十分だったのだ。


「遠野?」


 だからこそ一目見た時、異変に気づくべきだった。人混みを掻き分けベンチに近付くと、目を瞑り、背もたれに身体を預ける彼女が見えた。寝てしまったみたいだ。起こさないよう気を付けながら、僕は静かにその横に腰を下ろした。そうして、普段の仮面を取り外した、彼女の何でもない表情を改めてまじまじと観察する。知り合った頃から思っていた事だが、彼女はとても整った顔立ちをしていた。それも際立ったものではなく、落ち着き大人びて見えるのが、逆に友好関係の発展を阻害しているのだろう。引っ付きにくい、というのが無難か。とにかく、眠りこける彼女は綺麗だった。


「…もち、づきくん?」

「あ、起こしちゃった?」


 しばらくして、彼女はゆっくりと目を覚ました。肩に掛かるくらいの黒髪がそれに合わせて揺れる。目が合うと、途端に見つめていたのが気恥ずかしくなって、僕は誤魔化すように祭囃子に視線を泳がせた。鼓動が早くなっている気がした。気怠げな目はいつもよりそれを増していて、どこか火照った頬は見ていられなかった。


「…あれ、りんご飴は?」

「あぁ、並んでた屋台が売り切れちゃったから、一度戻って来たんだ」

「そうですか…なら、諦めましょう。多分、どこも売り切れてるでしょうし」


 ここで僕は、ようやく違和感に気付いた。彼女の受け答えや呂律が、何となくぎこちなく感じたのだ。もう一度彼女を見やると、呼吸が荒いようにも見えなくもなかった。


「ちょっと失礼するよ」


 そう断りを入れ、僕は彼女の首筋に手を当てた。触れた甲に体温が流れてくる。それは、信じられないくらい熱かった。


「…手、冷たくて気持ちいいです」


 寝ぼけたように彼女はそう呟いて、当てられた手を両手で包んだ。熱を持ち始める僕の手とは裏腹に、背筋には冷水のような汗がつたう。一体いつから、どうして。金魚掬いの時はこんな状態じゃなかったのに。徐々に思考が理解に追いつき、そして追い越し始める。困惑が、焦燥が、僕の頭を蝕み始めた。


「き、救急車、呼ばなきゃ…いや、祭りの本部に向かうべきか…?」


 こういう時、どうしたらいいかなんて知らない。ただとりあえず、このままじゃいけない事だけは分かった。慎重に、状態が悪化しないよう細心の注意を払いながら、不慣れな動作で彼女を抱き上げる。肩に、胸に、全身に、彼女の温度が上書きされていくような気がして、それを奥歯を噛み締めて堪える。柱に掛かっていたチラシから、本部の位置を確認する。くそ、ここから真反対じゃないか。今の彼女を抱えながら、人混みには入れない。つまり、迂回せざるを得ないのだ。

 迷っている暇はない、彼女に振動を与えないように、それでいてなるべく早く小走りをした。焦る僕の腕の中で、彼女は苦しそうに笑う。大丈夫ですから、安心してください。たどたどしく呟く彼女のその笑顔が、より僕を不安にさせるのだけれど。

 またしても僕らは、祭りの外へ放り出されていた。あんなに煩かった祭囃子も、どんどん遠のいていくのを感じる。沢山の目は、そんな僕らに好奇な視線を寄越す。けれど、そんな事を気にしている余裕すら、僕にはなかった。急がなくては、それ以外の事は頭になかった。


「大丈夫ですか?」


 そう声を掛けられたのは、本部まであと半分といった辺りだった。話し掛けられた事で立ち止まり、瞬間腰が砕けたような感覚に襲われた。危うく倒れかけて、肩を抱き止められる。


「どうされました?」


 オレンジ色のキャップに同色の法被を羽織ったその人は、恐らくは祭りの係員か何かだろう。息が切れて上手く話せない僕を見て、彼は無線と思われる機械に何か話した後、こちらへ、と人がいない方へ案内してくれた。


「こちらに救急車を誘導させますので、安心してください」

「あ、ありがっ、」

「いえいえ、ゆっくりでいいので何があったかお聞きしても─────」


 収まらない心臓が呼吸を邪魔する。そのせいで係員の丁寧な対応も、全く耳に入ってこなかった。自分はあの時なんて答えたのだろうか、要領を得ない言葉だったのは間違いない。思い出せるのは彼女の生暖かい体温と、自分の鼓動の音くらいで、それは治まるどころかどんどん早まっていた。

 案内されたベンチに彼女を寝かせる。額には気味の悪い汗が浮かんでいて、それが彼女の容態の悪さを物語っていた。とりあえず呼吸を整えねばならない、このままでは僕が過呼吸になりかねない。そう頭では分かっているのに、なんで身体は言う事を聞かないんだ。焦る僕を見て、彼女は口角を上げた。


「大、丈夫、ですから。このくらい、へっちゃらです」


 明らかに無理をしている笑顔で、何が大丈夫だ。何とも形容しがたい感情に支配される。きっとそれは無力な自分への怒りだった。どうして、こんな状況で笑っていられるんだ。もしかしてずっと、ずっと無理していたのか。だとしたら、彼女は、僕は。

 どこからか不気味な音が聞こえてきて、気付いた時には彼女を抱き寄せていた。ただの自己満足、そんな事は分かっている。分かっていて、でも僕にはそれくらいしかできなかった。極至近距離で目が合って、彼女は照れ臭そうに、へへ、と笑い、僕の服を掴む。


「ごめんなさい…私の、せいです」


 このまま熱が僕に移り住めばいいのに。サイレンは更に近付く。ふいに彼女が遠くに行ってしまう気がして、僕は彼女を更に抱き寄せた。子供のように、離れまいと必死だった。彼女も、できうる限りの力で僕にしがみついた。感じるのは、彼女の体温と僕の鼓動だけで、救急隊員に引き剥がされるまで、僕らはただ全力で、15センチを押し付けあった。


 救急車が彼女を連れ去って、係員が何かを僕に言っていたけれど、よく思い出す事ができない。鞄を取りに、彼女が待っていたベンチに戻ると、そこには僕らの鞄が置いてあるだけで、そこだけ祭りから取り残されているようだった。

 急速に彼女の温度が失われていくのを感じて、堪らず僕は膝を地面に突いた。


 ベンチの下には、金魚の死骸が並んでいた。



 ─────*──*──*─────



「…ごめんなさい」

「…それは何に対して?」

「全ての事に対して、です」


 頬を拭った彼女は、まず最初にそう言った。そんな事を求めている訳じゃない、そう言い返そうとして、彼女はそれを遮った。


「…姉に、聞いたんでしょう。本当の事を」

「…あぁ」

「それなら、それが真実です。それ以上でも、以下でもない。私は最初から、…それだけの事です」


 突き放すように放たれた言葉は、深々と僕の胸に刺さった。多分、僕はそれをはっきりと表情に出してしまったと思う。彼女はそれでも、笑顔のままだった。



 ─────*──*──*─────



「君が、モチヅキくんかな?」


 そう呼び止められたのは、祭りの次の日、"遠野 笑美エミ"のプレートが掛けてある病室を訪れた時だった。声のする方へ振り返ると、二十代半ばくらいの女性が僕を見ていた。


「…そうですけど、何か?」


 不審に思いつつも、そう答えると、その女性はニヤリと笑った。その笑顔に既視感を感じて、その正体がその口元にある事に気付くのに、そう時間は掛からなかった。


「君に忠告してあげよう。笑美には、もう関わらない方がいい」


 遠野の姉だ。その口角の上げ方に、そう直感した。

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