15センチ=ダウン

「あ、そこ間違えてますよ。問五の三番です」

「え、どこ?」

「そこの解の公式、ルートの中が計算ミスしてます」

「えーっと…ほんとだ、ありがとう」


 夏休みの教室は異様な程暑かった。生徒のために開放してるとはいえ、快適かと問われれば首を傾げる他ない。まぁ、僕ら以外の生徒は全く見当たらないのだが。


「んー!終わったー!あれ、望月くんはまだ終わらないんですか?」

「煩いな、学年トップテン入りしてる君と比べないでくれ」


 わざとらしく伸びをして、彼女はこちらを一瞥した。少し口角が上がっているのは、僕をからかっているサインだ。気怠げな目も、いつもより色味がかかっているように見える。

 彼女と関わって数ヶ月、段々遠野という女子がどういう人間なのか分かってきた。基本的に一人で行動している事が多いから、人付き合いが苦手なのかと勘違いしていたが、どうやらそうではないらしい。

 彼女は思っていたよりも気さくで、人をからかうのが好きみたいだった。気怠そうな普段からは想像もできない程、二人でいる時は積極的に話し掛けてきた。


「早くしてください、検証時間が短くなっちゃうじゃないですか」

「急かさないでくれ、あと三十分もすれば終わるから」

「あと三十分ですね?分かりました、計りますね」

「…四十分にしてくれ」


 いや、積極的というよりは一方的の方が正しいかもしれない。あの日もそうだった。



 ─────*──*──*─────



「…シェア?」

「そうです。シェア、しませんか?」


 唐突過ぎて、意味が分からなかった。シェアとは一体何の事だ?ただでさえ不可解な現象に悩まされてるのだ、頭は既にキャパオーバー寸前。これ以上はもう勘弁してほしい。そんな僕の不満を感じ取ったのかもしれない。彼女は更に言葉を重ねた。


「…どうやら私達、ある条件を満たすと、お互いの思考を読み取れるみたいですね」

「条件?」


 えぇ、と彼女は頷き徐ろに一歩踏み出した。不審に思って後ずさると、すぐ真後ろの机に気付いた。狼狽える僕を尻目に、彼女は距離を詰める。


「ちょ、まっ…」

「しっ」


 鼻と鼻が触れそうな、いや実際触れていたかもしれない。そのぐらい彼女は近付いた。伸ばした人差し指を唇に当て、その瞳はしっかりと僕の目を見つめていて、何故かそこから目を離せなくなる。無意識に息を止めているのに気付いたけれど、身体は言う事を聞かなかった。

 数秒が長く感じた。校庭から聞こえていた筈の運動部の声も聞こえなくなる程辺りが静かになった錯覚に陥って、そのタイミングをちょうど見計らったように、彼女は少し笑った。


(15センチ以上近づく事、です)


 そう声が頭の中に響いて、彼女は僕から離れた。気怠げな目は緩んでいて、それが更に動揺を誘う。多分この時の僕は、とても酷い顔をしていたんだろうな。後になって彼女が笑いの種にこの話をするくらいだ、相当面白い表情をしていたに違いない。


「…だから、協力してほしいんです。この現象を解明する為に」


 混乱の解けぬ思考で、僕はなんて答えたのだろうか。いまいち思い出せないが、何にせよ彼女の提案を了承したのは間違いない。その後の嬉しそうな彼女の笑顔ははっきりと覚えている。



 ─────*──*──*─────



「ふぅ、終わった」

「五十三分でしたけどね」

「少しくらい大目に見てよ」

「十分を少しって言えるのに驚きですね」


 以来、僕らは放課後を共にするようになった。彼女はそれを"検証"などと言ったけれど、そんな大層な事は殆どしなかったと思う。大体は駄弁ったり勉強したり、時には二人で遠出したり。だが勿論、このテレパシーじみた現象を解明する為に、色々調査したりもした。その結果分かった事もいくつかある。

 どうやら彼女の言った通り、この現象は15センチ以上近付かなければ効果を発揮しないらしい。それも身体のどこでも、という訳ではなく、頭、もっというと額を近付ける必要があった。初めて声が聞こえた授業中も、その日の放課後も、声が聞こえた時はそのくらい接近していた筈だ。定規一つ分、そう考えると想像しやすいかもしれない。それは案外、驚く程近い。検証の際、心臓に悪い思いを繰り返した。その度に彼女が冷やかすものだから、彼女に読み取られる僕の思考内容は主に彼女への悪口が多かった。


「ほー、性格が悪い、ですか。よくこの至近距離でそれ程の悪態がつけますね」

「分かったから、一旦離れてくれ」

「まぁ、許しましょう。照れ隠し、って事にしておきます」


 それともう一つ、例え15センチ以上近付いたとしても、相手の思考の全てを読み取れる訳ではない事も分かった。読み取れるのは言葉のみ、映像や描写といったイメージは送受信できないようだ。思っていたよりも不便だったが、それはある意味助かったかもしれない。理由は省かせてもらおう。


「意外と制約が多いな」

「うーん、まぁ、そんな物語みたいにはいきませんよ」


 初めは週に一、二度くらいだった検証も、徐々に頻度が増え、気付くとほぼ毎日一緒にいるようになった。僕らはお互い、元々他人との交友が少なかったから、こうして話し相手ができた事が嬉しかったのかもしれない。

 そうこうしている内に、いつの間にか夏休みになっていた。生憎、僕には休日に遊ぶ友人も、家族で出掛けるといった予定も持ち合わせておらず、彼女から勉強しないかと誘われても断る理由がなかった。暇じゃない、という言い訳が使えないのが、こんなにも寂しいものだなんて。一つ、知りたくもなかった事を学んだ。


「で、今日は何をするんだ?」

「そうですね、本題に入りましょう」


 基本的に検証方法は彼女に丸投げしていた。その方が楽だという事は、彼女の性格を鑑みれば明らかだった。前触れもなく立ち上がった彼女は、動かしていた机を元に戻し始めた。


「準備してください、出ますよ」

「ここでやるんじゃないのか?」

「えぇ、今日は違う所で検証します」


 相変わらず唐突な彼女に溜め息をつきつつ、鞄に筆記用具やらを仕舞う。視界の端では既に仕度を終えた彼女が、こちらを振り向き急かしているのが見えた。僕はそれが何となくおかしくなって、少し笑った。



 ─────*──*──*─────



 ごった返す人の外、古びたベンチに僕は腰掛けていた。往来する人の多さにうんざりする。あちこちから客引きの声がして、それがより苛立ちを助長させた。


「すみません、混んでいたもので」

「…いや、構わないよ」

「なんか、怒ってます?」


 不機嫌さが顔に出ていたのか、トイレから帰ってきた彼女は怪訝そうに尋ねた。


「…煩い所は苦手なんだ、こういう所は特に」

「あぁ、なるほど。雑音の集落みたいなものですもんね、こんな所」


 最後に祭りに来たのがとても昔に感じた。母親に手を引かれて歩き回ったのを思い出す。りんご飴をせびって食べ切れず、軽く叱られたのが懐かしい。甚兵衛、だったか。あの服を当時の僕は相当気に入っていて、祭りの日以外でも着ていた。あれは今どこにあるのだろう。そもそもまだ持っているのかも怪しい。

 そして同時に思い出す。その年の冬、母が事故に遭った事を。

 鍵を忘れ、家の前で縮こまっていた僕を心配して信号を無視したのがいけなかった。自転車の破損から、事故の凄惨さが伝わる。即死だった。完全に日も落ち、それでも母の帰りを待ち続けていた僕に会いに来たのは、母ではなく、やけに青い制服を纏った警官だった。

 あぁ、嫌な事を思い出してしまった。これだから祭りは嫌いなのだ。楽しい思い出は、悲しいそれと表裏一体だ。いとも容易く引っ繰り返る。あの喧騒の外に、僕は取り残されているのだ。


「ふっ」


 そうやって、暫くぼうっとしていると、気付かぬ内に隣に座っていた彼女が突然笑った。タイミングがタイミングなだけに、僕の苛立ちは更に膨れ上がる。我ながら理不尽な話だ。だが、それはどうしようもなかった。どうしようもなく、僕は子供のままだった。


「何?」


 その感情を隠す事もせず、僕はその一言に多分の棘を纏わせた。けれどそんなもの、彼女には無意味だった。


「ごめんなさい、少し嬉しくて」

「…は?」

「私も苦手なんです、こういうの。あの雑踏の中に、私は居れないから」


 膨らんだ怒りが、ゆっくり凋んでいく。彼女の表情は分かりにくい。その表情の意味も。僕がノスタルジックになっていなければ、気付かなかったかもしれない。同じだ、彼女の自嘲的な笑顔を見てそう思った。彼女も僕と同じ、外側にいた。この時初めて、彼女に興味が湧いた。彼女が内に含むその孤独が、どういうものなのか知りたくなった。


「…でも、だからこそ検証には持ってこいなんです。だって、ここは…」


 立ち上がりながら話す彼女の言葉は、祭囃子に掻き消されてしまい、最後まで聞けなかった。だが今はそんな事、どうでもいい気がした。

 彼女は手を伸ばす。それが何かと重なって、僕は縋るようにその手を取った。途端に彼女の気怠げな目が緩んだ。


「行きましょう、検証です。このお祭りを、私達が楽しめるかどうか」


 彼女の口角が上がる。どことなく挑戦的なその表情が祭りに溶けていく。


 喧騒の中に、僕らは溶けていく。



 ─────*──*──*─────



 そこから先は、あまり覚えていない。

 焦る僕とは対照的に彼女は笑って、ごめんなさい、と言葉を零した。けたたましいサイレンの音が近付き、それが堪らなく恐ろしくなって、咄嗟に僕は彼女を抱き寄せた。ヘルメットを被った人が彼女を白い車両へ連れて行く。僕がその車に乗ろうかどうか迷っていると、それはサイレンと共に走り去っていった。

 呼吸が不規則に揺れ、視界の隅が靄がかかり始めた。とても立っていられなくて、地面に膝を突く。手に残った彼女の温度が、ゆっくりと引いていくのを感じた。叫んでいた、かもしれない。吠える、の方が正しいか。相変わらず唐突だな、そう頭の中で誰かが呟いた。


 その日、その時、僕はまた独りになった。

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