15センチ=シェア

瓶戸 みどり

15センチ=シェア

「望月くん、ちゃんとやってます?」

「やってるよ」

「その割には、ちっとも進んでないじゃないですか」


 夏になると、蝉が煩くて堪らない。短い自由を精一杯生きようとするその様が、惰性で過ごしている事を糾弾しているみたいで、それが無性に僕を腹立たせた。


「そうですか?私は好きですけど、蝉」

「…勝手に頭の中読まないでっていてるでしょ。あと、近いよ」

「しょうがないでしょう、15センチ以内じゃないと駄目なんですから」


 数字が散りばめられたプリントから顔を上げると、驚く程近くに彼女の顔があったものだから、僕は反射的に身体を引いた。今、僕らの距離は25センチぐらいか。

 そのあからさまなアクションに、彼女は大して表情を変えなかった。ただ、少しだけくすりと笑ってみせると、すぐ手元のプリントに視線を戻した。彼女の解いている問題は、既に僕よりも二ページも先まで進んでいて、それにもまたちょっと腹が立ったが、仕方ない、こればっかりは解くのが遅い僕が悪い。彼女に倣い、僕もプリントに視線を落とした。



 ─────*──*──*─────



 確か、あれは古文の授業だった気がする。

 黒板に並んだ白い文字を、何となく目で追っていると、それは聞こえてきた。


(消しゴム、取ってくれないかな…)


 授業中にしては、かなり大きな声だった。少なくとも小声とは言えないくらいの大きさ。随分な独り言だな、そう思い辺りを見渡して声の主を探してみた。しかし、別段クラスに変わった様子はなく、誰もその独り言を気にしていない風だった。

 嘘だろ、皆そんなに授業に集中してるのか。いや、まだクラスメイトはいい。いつもは私語に厳しい先生ですら、何のお咎めもなく授業は進んでいく。この時初めて僕は異変に気付いた。あの声は多分、僕にしか聞こえていない。

 思い返せば確かに、あの声は聞こえてくる、というより頭に直接響いてくるような変な感覚だった気もする。けれどそうでもなければ、それに誰も反応しないのはどう考えてもおかしい。それ程幻聴にしては、あまりにはっきりしすぎていたのだ。

 背筋を薄ら寒い何かが駆け抜けた気がした。幽霊などの類いは信じない質だが、不可解な現象を前に少し身体が強ばってしまう。まずは緊張を解こう。そう思い、背もたれに背中を預けて、ある物を見つけた。

 消しゴムだ。僕の足元、つまりは机の下にそれは転がり込んでいた。無論、僕のではない。もしこれが、声の主の物なら、あるいは。

 殆ど無意識だったと思う。惹かれるように手を伸ばし、人差し指と中指でそれを摘み上げた。至って普通の消しゴム。真新しいのか、あまり小さくなっていなかった。


「あ、それ私のです…」


 まじまじと消しゴムを観察していると、横からか細い声が聞こえた。今度は間違いなく、幻聴などではなかった。

 そして同時に、その声は間違いなく、先程の声の主と同じだった。

 恐る恐る隣を見やると、ある女子がこちらに顔を向け、消しゴムを指さしていた。確か名前は…そうだ、遠野。下の名前は思い出せなかった。


「…あぁ、はい」

「ありがとうございます…」


 正直なところ、唐突に話し掛けられた事でひどく動揺していたが、我ながら上手く隠せていたと思う。彼女もなんの疑いもなく、僕の手から消しゴムを受け取ろうとして、─────そのまま手を滑らした。


「あ」

「あ」


 転がる消しゴムを見守りつつ、二人して間抜けな声をあげた。一拍置いて、恐らくは僕の方が早かったと思う。落ちた消しゴムを拾う為にお互い屈もうとした、その時だ。


(あぁ、ごめんなさい…)


 頭の中で、また遠野の声が響いた。僕は驚いて、咄嗟に彼女の方を見やって、更に驚いた。彼女も同じように僕を覗き込んでいたのだ。

 極至近距離で目が合う。けれど、何故か僕は目を逸らせずにいた。いつも気怠そうな彼女の目が、この時ばかりは大きく見えた。数秒、その妙な睨めっこは続き、ややあって彼女が口を開いた。


「…声が…」

「…え?」

「今、声が…」

「こらそこ!授業中に何してるんだ!」


 けれど、その声は先生の怒鳴り声によって掻き消されてしまった。僕らは慌てて消しゴムを拾い、それぞれの席に着く。周りからは少し笑いが起きていた。



 ─────*──*──*─────



「望月くん、少しいいですか?」


 それから遠野が僕に話し掛けてきたのは、その日の放課後だった。帰り支度を一旦止め、彼女に向き直る。相変わらず気怠そうな目で、ピントが合っているかも怪しい。


「何?」

「さっきの、消しゴムの件ですけど」


 ちゃんと遠野と話すのはこれが初めてだった。落ち着いて話し始める彼女に、少し苛立った。


「それが、どうしたの」


 言い方に棘が生えたのは、そのせいだ。それにあの変な幻聴の事も早く忘れてしまいたかった。そんな僕の焦燥を感じ取ったのか、彼女は少し鼻で笑った、ように見えた。


「単刀直入に言いますね、シェアしません?」

「は?」

「私と、15センチだけシェアしましょう」


 僕の中の何かを試すみたいに、遠野はそう言った。


 先に言っておこう。これは少し変な彼女と、至って普通な僕の、小さな秘密の話だ。

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