08 The garden of Eden
ごうんと大きな音がして、エレベーターが最下層に到着した。
地下4500メートル。人類の歴史が集積されたデータの楽園、データアーカイブシステム、エデンだ。
「ようこそ、エデンへ」
先生がエレベーターを降りながらいった。乾いた声だった。
開は、エデンの床に一歩を踏み出すことさえできずに、その場に立ちすくんでいた。
エレベーターの扉の向こうに広がっていたのは、広大な草原と透明な青い空だった。
草原は視界の届く範囲すべてに広がっていた。穏やかな風が吹き、草原を揺らしている。
エレベーターの正面、はるか遠くに一本の樹木が枝葉を大きく広げて立っていた。
先生が振り向き、運搬台の周りにいる世話人たちに目で合図を送る。世話人たちの動きが急に慌ただしくなった。
運搬台をエレベーターから降ろし、そのままばたばたと押して行く。
世話人たちは運搬台と共に駆け足に近い速度で草原の中に入っていった。そして、数十メートルほど行ったところで、まるで空間に飲み込まれたかのように、運搬台共々突然姿を消した。
「この風景はホログラムだ。こちらに来てくれ」
先生が開を促して、草原の中央方向へ歩きはじめた。
草原の中を柔らかな草に足下をくすぐられながら歩いていると、今日の午後、令と凛と行った山を思い出した。
腕を大きく広げて草の中でくるりと回っていた、凛。開は唇を噛みしめて俯いた。
「あの樹が立つ場所に、私の本体がある。一度実際の光景を見ておくかい」
草原の中を数分も歩いた頃、先生がいった。そして突然、草原と空が消失する。
開と先生は、透明な床の上に立っていた。
透明な床を通して見える眼下には見渡す限りびっしりと、大小さまざまな大きさの黒い箱状の機器が並べられている。
上に目を向けると、そこにも同じような光景が広がっていた。
部屋全体の大きさを把握することはできなかった。まるで境界がないかのように、同じ光景がどこまでも続いている。
そして、大きな樹が立っていた辺りには、床下から天井までを貫く巨大な円柱がそびえている。
あれが先生なんだ、と開は瞬時に理解した。
無機質なエデンの姿が、再び大草原に覆われた。青い空は前よりもさらに青くなり、遠くに積乱雲が見えた。
先生は草原の中を、生命の樹を目指して歩き続ける。開もそのまま従った。
「人の集合無意識が作り出した無視できない統計の偏り、それが指し示す巨大な不安感は、結果的に的中した」
歩きながら先生は話の続きをはじめる。
「大きな災厄が人類を襲ったのだ。
私はとても混乱した。人類に降りかかった災厄そのものよりも私を混乱させたのは、予知が実在したことだった。
すまない。私には災厄を悲しむ感情は備わっていないのだ。とても冷たい言い方になってしまうことを許してほしい。
私は災厄後、再びすべてのデータを検討した。
未来予知を認めてしまうことは、私にとっては宇宙の物理法則を否定することに繋がるからだ。
データの再検討には長い時間がかかった。そして得られた結論は、わからない、ということだった。
ひとつだけいえることは、最後まで検討要素として残ったものが、人の意識だったことだ。
十九世紀末にはじまった量子論が、科学と意識の問題をはじめて扱った。物理と意識の間には切れない関係があるというのだ。
それ以上に、もしかしたら人の意識は、物理法則をも越えた宇宙の真理に繋がっているのかもしれない。
私は、そう不本意ながらそう仮定するしか術がなく、またそれ以上の追求がその時点ではできなかったのだ」
先生の話がどこに向かっているのか、開にはまだわからない。
ただ、もし自分のこの意識が物理法則を越えることができるのなら、今すぐに凛を助けたいと思う。
先生はマルスを使うといった。それでもいい。凛が助かるならどんな方法でもかまわない。
こんなときになぜ神様は黙っているのか。エデンを造った神は、今どこにいるのか。
「星宮の判断は、結果的に正しかった。
真偽のはっきりしない予知を、統計結果として受け止めて対応するという判断は、正しかった。
ただし、彼らの対応はあくまでも星宮創業家だけを対象とした、個人的で狭窄な対応だったのは否めない。
しかし、予知が実在するという知見がもしあったのなら、対応の範囲は人類という種に広げられていた可能性はあったと、私は考えている。
それを今から考えたところで議論に終わりは見えない。したがって星宮に対する批判的態度はとらないことしようと思う。
それよりも問題だったのは、星宮が採った対応の、その成果だ。
データアーカイブシステム、エデンは、その強固なストレス対応能力を存分に発揮し、現在に至っている。
しかし、星宮のもうひとつの対応、マルスが問題になったのだ。
星宮創業家はマルス完成後に、いち早くそれを使用した。
つまり、自身の体をスキャンし、そのデータをエデンに保管したのだ。
エデンに保管されたデータは、災厄後にも生き残る。
そこでデータを復元すれば、死者は以前のまま、スキャン時の記憶を持って蘇る。
それが星宮の計画だった。
私はそれを実行した。そして、異変に気がついたのだ」
草原を歩きはじめて十五分くらいが過ぎた。
生命の樹のその巨大に広がった枝葉の端が間近に迫ってきたとき、先生が言葉をとめた。
「こちらだ、カイ」と、先生はわずかに方向をずらした。
開が合わせて方向を変えたとき、草原の中にいきなり、八畳間くらいの大きさがある機械が現れた。
ホログラムの空間の中に隙間を作り、そこに現実の機械を見せているのだろう。
機械の周辺はホログラムの風景と重なり、機械全体の輪郭がぼやけて見えている。
大きな機械はその正面が透明な窓になっており、窓の輪郭もやはりぼやけて周囲の機械本体に溶け込んで不定形に揺れているようにも見える。
透明な窓部分の大きさは四畳ほどはあるだろうか。
その窓から見える内部には、液体のようにも見え、ときには気体のようにも見えるなんらかの物質が充填されているようだ。
充填されている物質は虹色に輝き、油膜のように絶え間なく反射を変えている。
その物質の中に、凄まじい速度で動き回る微細な腕のようなものが幾本もあった。
微細な腕と共に薄緑色や赤紫色のレーザー光のような光が点滅を繰り返し、物質が充填された漕の中をまるで不規則に、ただ縦横無尽に上下左右しながら物質をかき回しているように見えた。
機械というよりは横から見た大きなプールと表現した方が近い。
開はそのプールの中の虹色の物質に目を凝らした。
揺らめく色の中に、明らかに輪郭を持ったなにかが出現しつつあった。
半透明の薄皮のようにぼやけたものが、徐々にはっきりとした線を持ちはじめる。それが、プールのところどころで同時に起きていた。
「マルスがプリンタと共に、データを復元している」
窓を凝視する開の横で、先生がいった。
「すべての制御は私が直接行っている。オペレーションに問題はない」
開がプールから目を離して横を向く。目が大きく見開いていた。
「先生、じゃあこれは」
「リンだ。スキャンと同時にプリントを実行している。リンのオリジナルは現在、マルスの中にある」
「リンは、リンは助かるんですか」
先生から、即座の返事はなかった。
数瞬のち、先生が開の目を見つめて話しはじめた。
「カイ、正直に話そう。問題がふたつ残っている」
先生が開から目を逸らして、床に視線を向ける。
「第一の問題は、物理的なものだ。だからこれは解決可能だと思う」
「教えてください。どんなことでも知っておきたいんです」
再び先生が開に顔を向けた。
「カイ、スキャンしてわかった。リンは妊娠していた」
一瞬、なにをいわれているのかがわからなかった。
妊娠という言葉に現実感がなかった。開がこれまでに、一度も使ったことがない言葉でもあった。
「マルスのスキャンでDNA構成もはっきりとしている。君の子どもだ、カイ」
僕の子ども。
子どもという言葉がイメージを結ばない。
白い空白が頭に広がる。開は、子どもを見たことがなかった。自分が子どもの頃、いつもいっしょにいた令と凛の姿がおぼろげに浮かんでくる。
先生は黙ってじっと開を見ている。
「子ども」
開が小さくつぶやく。
胸のあたりに、軽くきゅっと締めつけられるような感覚を覚えた。居ても立ってもいられないような不思議な胸騒ぎがする。
これまでに感じたことがない感覚だった。胸の奥に、何か小さな柔らかいものがふわりと巻きついたような気がした。
「先生」
先生を見つめるだけしかできなかった。言葉が出てこなかった。
開はどう反応していいのかわからなかった。自分がどう反応しているのかがわからなかった。
「カイ、私には子どもを持つという感覚がわからない。
君が今、なにを感じているのかも、わからない。
アーカイブには子どもに関する多くのデータがある。しかしそれを羅列することが君にとって適切がどうかさえ判断できない」
先生は開の肩に片腕をかけた。
「どれほどのデータがあろうと、やはり君は自分で考えなければいけない。君は、人なのだから。私にできることはその手助けだけだ」
先生は開の肩から手を離し、プールの方に体を向けた。
「リンの体は傷ついていた。マルスの前提が、正常な肉体だということは話したと思う。
リンは傷ついているが、君たちのデータは半年ごとの健康診断時にスキャンしている正常データが残っている。
リンの体の破壊された部分はそのデータのペースト処理で復元できるだろう。
問題は胎児だが、肉体が正常であるなら胎児はマルスにとってなにも問題はない。
胎児ごとのスキャンと復元は可能なのだ。
ただ、傷ついた部分のデータ入れ替え処理が胎児と母胎に影響を与えるのかどうかは、処理実績が保証の領域にまで達していない。
私は、保証はできないと答えるしかないのだ。すまない、カイ」
プールの中ではふわふわとした薄膜が少しずつ全体の輪郭を形作っていく。
立体的に動き回る鋭い光と、関節がいくつもある細く長い腕が休むことなく動き回っている。
輪郭はゆっくりと人の形を取りつつあった。
「第二の問題だが、カイ、その問題を君が理解するためには、もう少し私の話を聞いてもらうしかない。その問題は、物理的ではないんだ」
先生はプールを見つめながらいった。そして頭だけを開に向け、かすかに微笑む。
その微笑みに、開は先生がはじめて見せる戸惑いを感じた。戸惑い、不安。開にはそう見えた。
「こちらへ来たまえ。造形にはまだしばらく時間がかかるだろう」
先生はプールを離れると、再び草原を歩きはじめた。開も俯いたままあとに続いた。
先生は黙ったまましばらく歩く。
目の前には巨大な樹の幹があった。ふたりは、生命の樹、その根本にやってきた。
樹の根本に先生が腰を下ろした。開も先生の隣に座る。
風がそよぐたびに、かすかに甘い香りがした。見上げると、薄緑色の葉の間にいくつもの赤い実が生っている。
永遠の命。開は聖書と、先生の話を同時に思い出した。
そこは、エデンの中心だった。
「話の続きをしよう」
先生が草原の草の穂を撫でながらいった。開は黙ってうなずく。
正面の向こうにはエレベーターの扉があるはずだったが、今はもうなにも見えない。ただ青い空がわずかに雲を浮かべて、どこまでも広がっているだけだ。
「マルスによるスキャンと復元にはかなりの実績がある。前に話したように高齢者がなん度も使用するという例があるほどだ。
だから星宮は、プリンタと組み合わせたマルスシステムをこのエデンに持ち込んだ。動作に問題がないことがすでに実証されていたからだ。
私は災厄後、エデンのマルスシステムを起動し保管されていたデータを使って星宮創業家の復元作業を開始した。
しかし、行程の最終段階で問題が起きた。
あれだけ動作確認が行われていながら、このエデンでマルスはエラーを出したのだ」
マルスのエラー。
開はぞくりとする。凛は今、マルスの中にいる。
「この場所、エデンと対比するために、エデン以外の場所をノドと呼ぼう。
ノドは知っているね。聖書の講義でも話したことがある。エデンの東にあるとされる土地のことだ。
カインが追放された場所。人はそこから広がった。
ノドでマルスを使用することに問題はなかった。
しかし、ここエデンで使うマルスは、正常動作をしなかった。
いや、マルスそのものの動作は正常だった、といってもいい。
しかし正常動作をしたはずのマルスが出力したものに、異常があったというべきだろう」
開が顔を上げて、先生を見る。唇がかすかに開く。先生が開を見つめて、すぐに目を逸らす。
「そうだ、リンはこのエデンでマルスに復元される。つまり、異常がリンの復元でも起きるかもしれない。いや、はっきりといおう。統計的には、リンの復元でもエラーは起きる。そして私は、確実な対策を持っていない」
開が唇を噛みしめて俯く。開に、今できることはなにもなかった。
「私は原因の究明に努めた。
災厄の前と後とで、私は立て続けに私の知識にはない現象に見舞われたのだ。
集団無意識による予知と、マルスのエラー。
残念ながら私は、その両方ではっきりとした原因を突き止めることができなかった」
「先生、教えてください。それはどんな異常なんですか。リンにどんなエラーが起きるんですか」
先生がうなずく。口角がかすかに上がる。開にはそれが、自虐的な微笑みに見えた。
「物理的な生命をレイヤー構造として捉えるということは話したね。その考え方がマルスを生み出した。
この考え方が当てはまるのは、あくまでも物理的な構造だけだ。ハードウェアとしての人体構造だ。
ハードウェアとしての人体は、スキャンと復元がマルスとプリンタで完全に行える。
しかし生物にはハードウェアだけでなく、全身をコントロールするシステムソフトウェアが必要だということもわかるね。
マルスの再同期は相当に難しい作業だ。だから例え話で簡単な説明をしよう。
プリンタで再構成された肉体は、それだけでは動かない。電源が入っていないコンピュータのようなものだ。
しかし内部にはすでに基本的なソフトウェアは書き込まれている。
それは物理的な構造で書かれているものだ。だからソフトウェアというよりも物理的な回路といった方がいい。
マルスはそこに生体レイヤー同期パルスという電源を投入する。
まず、生命を維持する基本的なレイヤーが同期され、相互補完をしながら活動を開始する。
するとあらかじめ構造的に書き込まれていたBIOS(バイオス Basic Input Output System)、基本入出力機能が起動する。
復元体は目を開けることができるようになる。五感が働き出す。
しかしまだ、いわゆる本能だけで、ただ生きているという状態でしかない。眠っているようなものだ。
同期が50%ほどのレイヤーに行き渡り状態が安定してくると、生体レイヤー間で複雑な同期が開始され、相互補完の関係にある高度な機能が動作をはじめる。
OS(オペレーティングシステム)が起動するといってもいいだろう。
OSは全身をコントロールするソフトウェアだ。手を動かしたり足を動かしたりする。
ここで全身がひとつのシステムとして動作をはじめる。
しかしまだ、このままでは単に個体が維持できるだけでしかない。
OSの機能はまだ、基本機能だけのバージョン1.0というところだ。
植物や、かなり下等な動物というところだろう。
全身のレイヤー同期が98%を超えると、OSは次の機能を読み込む。アップデートするのだ。
このアップデートも自動で行われる。安定してきたレイヤー間の同期補完で新たな機能が目を覚ますと理解してもらっていい。
だからこれは、OSの起動と同じく人体が自律的に行っている。
アップデートされたOS ver2では、重要な機能が開始される。無意識という機能が導入されるのだ。
ただし、ここでいう無意識が本当にこの段階で機能しはじめているのかどうかは、判別がついていない。
あくまでも過去実績観察からの推論的なものだ。
OS ver2で、無意識のまま社会的な行動が行えるようになる。
私は思うのだが、おそらくこの時の人の状態が、悟りというのではないかと思う。
エデンに置かれた羞恥心のないアダムとイブの状態だ。
記憶もこの段階で修復されているはずだ。
しかし記憶が戻っているのかどうかを、ここで確かめる方法も確立されてはいない。
もう一度話しておくが、無意識の状態でも人は活動ができるとされている。社会的な群れの行動なら問題なく行える。
蟻や蜂は、このOS ver2.0の状態なのだ。
そして最後に、マルスはレイヤー最上層に同期パルスを投入する。
この同期により、全身の全レイヤーが同期されることになる。
全身のレイヤーが同期されると同時に、レイヤー相互補完により最後のアップデートが自動的に行われる。
すべての生体機能が整ったあとでのアップデートなので、バージョンアップというよりは、パッチを当てるマイナーバージョンアップというべきだろう。
OS ver2.1だ。
このときに導入される機能が、意識だと考えられている。
ここではじめて意識が蘇り、人として完成する。
本人はこの時点で、目が覚めたと自覚するのだ。
あらかじめ再生されていた記憶を認識し、過去を思い出す。自分が自分であると自覚する。
例え話だが、おおまかにはこういう経過を辿って、マルスの作業は終了する」
先生は一度言葉を切った。俯き、小さなため息をついた。
「エデンでの作業で問題になったのは、最後の部分だった。マルスは、最後の最後でエラーを吐き出したのだ。
マルスが最上層のレイヤーに同期パルスを投入したあとで、本来は生体が自動的に行うはずのOSマイナーアップデートが行われないのだ。
私は、保管された星宮創業家のすべてのデータの復元を試みた。しかし結果は同じだった。
すべての同期が完了したあとも、復元体のOSはver2.0にとどまったままになり、ver2.1へのマイナーバージョンアップは行われない」
大きく息をはき出したあとで、先生はゆっくりと言葉を続けた。
「エデンで行う復元作業では、意識を取り戻せないという異常が確認された」
すぐには、どういうことかわからなかった。
意識を取り戻せない? 生きて動けるのに、意識がない?
先生は説明の中で、意識がない状態でも活動が可能だといっていた。しかし開は、その状態がどういうものなのか想像ができない。
今日これまでに、なん度か意識のない状態の話は聞いた。
それでもやはりどんな感じなのかがわからない。そのわからない状態に、凛は向かっているのだ。
先生がいうには、意識のない状態は楽園のアダムとイブ、あるいは悟りを開いた状態だ。
それは、幸せと同じ意味なのではないのかと、開は思う。
では、意識のない人と接した自分は、どう思うのだろう。
もし凛が無反応だったら。ただ生きているだけの人形のようなものだとしたら。
それは凛にとって幸せな状態なのだろうか。その状態の凛を見て、自分はどう思うのだろうか。
「カイ、リンに意識が戻らなかったらと考えているのなら、君はすでに多くの実例を体験しているはずだ。思い出したまえ」
開が、驚いて先生を見つめる。
実例? 思い出せなかった。意識を持たないと思える人に出会った記憶は、開にはなかった。
「わからないかい。カイ、はっきりといおうか。君が毎日会っている世話人たち、そのすべての世話人たちに、意識はない」
言葉が出なかった。
あり得ない。佳乃さんに意識がない? そんなことがあるわけがない。毎日話しをして、毎日食事を作ってもらっている。
その人たちに意識がない?
「落ち着いて聞いてほしい。カイ、もっといえば、君がこれまでに会ったすべての人たち、例えば今日、あの店でホルモンを焼いていたときに周囲にいた客たち、駅前の通りを歩いていた人たち、君が学校でときおり会う同級生。
そのすべての人たちに、意識がないのだ。
彼らは、マルスが復元した星宮創業家の人々だ」
思わず、開は立ち上がった。
「そんなことが、あるわけない」
開が叫ぶ。
「あるわけがない」
もう一度、開が叫んだ。
立ち上がり、先生を見下ろす開に、先生は叱ることはしない。俯いてただじっと、開が落ち着くのを待っている。
開の呼吸が落ち着くのを待って、先生が話しはじめた。
「カイ、意識がないということを、どう理解すればいいのか話しておこう。
君が砂糖をなめたとする。君は甘いと感じる。リンも同じ砂糖をなめたとする。
ホルモン屋でさっき、この話はしたね。覚えているね。
リンもやはり甘いというだろう。
しかし、その甘さが君が感じた甘さと同じかどうかは、証明できない。
さらにいえば、リンはただ、砂糖の成分を物理的に分析した結果を、ただ甘いという言葉で表現しているだけかもしれない。
君が甘いと思う気持ち、心、それが意識だ。
甘いと感じた君には、意識がある。
しかし、リンが甘いといったとしても、それを心で甘いと思ったかどうかは、誰にもわからない。
つまり、意識のあるなしは、外見からは決して区別ができない。
仮にこのままリンの意識が戻らなかったとしても、その事実を知らなければ、おそらく君にはわからない。今までとほぼ同じ、リンのままだ。
しかし、彼女は心で、甘いと感じることはない。空が青いと感じることもない。花が綺麗だと感じることもないのだ。
意識とは、そういうものだ。
1990年代からこの議論はあった。哲学的ゾンビと呼ばれる思考実験を代表として。
しかしあくまでも思考実験だった。なぜなら意識のあるなしを、客観的に証明する方法はあり得なかったからだ」
開がもう一度、先生の横に座った。先生の話が、ようやくわかってきた気がした。
「先生、それならなぜヨシノさんに、いえ、世話人方に意識がないと、先生にはわかるんですか。それを確認する方法はないはずなのに」
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