07 The tree of life

 開は先生の後を歩き、学校へと入った。先生はあれから黙ったままだった。

 大理石の太い柱で支えられた玄関を抜けて、ロビーへ出る。正面は二階へ通じる階段だ。

 先生は階段へは向かわずに、その裏側、中庭へ出る扉へと足を向けた。

 学校の一階を通り抜けて出た中庭は、両側を学校の右翼、左翼に囲まれた四角く広い空間だった。

 建物の窓には明かりが灯っていない。しかし、中庭を囲むように定間隔で設置されたLEDの投光器が中庭の中央を照らし出している。

 そこには、大きな円状の記号が記されていた。

 先生は中庭に出たところで両腕をズボンのポケットに入れて、上を見上げている。

 なにかが起こっていた。

 開にもそれはわかった。ただ、先生はまだなにも話してはくれない。開の方からなにかを聞ける雰囲気ではなかった。

「私は、統計から得た説明のつかないデータ、人類すべてが感じている巨大な不安というデータを星宮へ報告した」

 突然、先生が話しはじめた。先ほどまでの話の続きだ。

 先生は頭を下げて、中庭の中央に描かれた丸い記号を見つめている。開は黙って聞いている他はない。

「カイ、すまない。なにが起こったのかは、もうすぐわかるはずだ。それまではもう少し、私の話を聞いてくれ」

 開は先生のななめ後ろに立ったまま、黙ってうなずく。それが先生に見えているのかどうかは、開にはわからない。


「星宮の上層部、星宮創業家の人々は、私の報告を半信半疑に受け止めた。過去にはない知見だから、当然だ。

 しかし彼らは、半信半疑のままで対策を検討しはじめたのだ。私の報告が、最悪の結果を予知しているものと想定して。

 幸いなことに、採るべき対策の半分はそのときすでに完成していた。

 それは他ならぬ、データアーカイブシステム、エデンそのものだった。

 彼らが次に採るべき対策として選択した手段も、技術はすでに実験段階まで来ていた。彼らはその技術の実用化を急いだ。

 それが、MuLSS(マルス)と呼ばれるシステムだ」

 植物工学の講義で、開は今までになん度もその言葉を聞いていた。

 植物合成を効率的に行うためのシステムだ。マルスのおかげで、食物供給が劇的に改善したといわれている。

「マルスは、正式には、Multi Layer Synchronized System(マルチレイヤーシンクロナイズドシステム)、多層構造同期化系のことだ。

 マルスは現在、植物や家畜の改良に使用されている。

 しかし、本来の開発動機、星宮が欲した機能は、もっと別のものだった」

 そのとき、真っ黒な夜空から突然白い強烈な光が降り注いできた。同時に、空気を震わせる低音が鼓膜に響く。

 光は上空から、中庭の丸い記号を照らし出した。空気がかき乱されて中庭に埃が舞う。

 開は埃が目に入らないように、手で目の上を覆ったまま上空を見上げた。

 強烈な白い光源を下腹につけた、大きな魚のような物体が浮かんでいた。

 飛行機という乗り物のことは知っていた。本や図鑑で形も知っていた。

 しかし開は、これまでに空を飛ぶ乗り物を見たことがなかった。はじめて見るその機械に開は、驚くことも忘れて呆然としていた。

 その機械には、開が飛行機の記号として覚えていた翼はなかった。円錐系の黒い艶消しの機体が、翼もなくただ浮いている。

 機体の下部につけられた白い光源が、突然消えた。

 ゆっくりと中庭の記号の上に降りてくる。巻き上げられていた埃が大きく広がり空気に紛れていく。

 機体が着地する頃には、重い低音も、風も収まった。すべてはあっという間の出来事だった。

 なにもなかった中庭に、いつの間にか巨大な黒い魚が出現した。開にはそう思えたのだった。

「星宮がマルスで目指したもの。それはね、カイ。フランケンシュタインの創造物、その実現だ」

 艶のない大きな黒い魚を見ながら先生がそうつぶやいたとき、黒い魚の横腹が大きく開いた。


 魚のような機体から、ぞろぞろと人々が降りてきた。

 ほとんどが着物姿で年輩の女性だった。着物の上に白い割烹着を着ている人もいる。数人、農作業用の作業着姿の男性もいた。

 見覚えのある世話人たちだった。

 十人ほどが降りたったあとで、機体から大きな箱のようなものが運び出された。

 木製のその箱は機体から出されるとすぐに折り畳み式の運搬台に乗せられ、がらがらと音を立てながらこちらに運ばれてくる。

 先生がその箱に近づいていく。開もそのあとに続いた。

 運搬台が機体から離れたところで停められ、先生がその前に立った。

 世話人のひとりが箱の蓋を持ち上げ、先生が箱の中を覗き込んだ。先生が小さく呻く。

 開も先生のうしろから、その箱を覗き込んだ。

 箱の中には、息をしていない凛が横たわっていた。

 伸ばした体の胸あたりから足もとまで、ぐっしょりと濡れている。

 それが血液だとわかるまでに時間はかからなかった。そして腹部には、トレーナーを切り裂いた細長い傷跡が見えた。

「リン!」

 開が叫ぶ。先生を押し退けて箱に近づき、開は枠を掴んで箱を揺らした。

「リン!」

 開は箱から手を離して、先生の上着の襟を掴む。

「先生! どうしてリンが、こんな」

 先生は開に揺すられるままになりながら、俯いた。

「残念だ。私も、この事態は想定していなかった」

「先生、先生は僕たちを、いつも見ていたんじゃないんですか。それなら、リンがこうなる前に」

「カイ、私は君たちをそこまで監視はしていない。そこまではできないんだ。機能の問題ではない。人に対する私の礼儀として、それはできなかった」

 先生は目を閉じて、頭を振る。

「しかし、そうするべきだったのかもしれない。レイの行動が私の予想範囲を外れることが多くなってきたとき、再考するべきだった」

 開が先生の上着から手を離す。ふらりと後ずさる。

「レイが・・・・・・」

 先生は頭を横に向け、目を伏せる。

「レイは、リンの家にいる。行動を制限している。世話人たちが彼を監視している」

「どうしてレイが」

「その理由は、私には理解できないかもしれない。類推はできるが、やはり、君が考えるしかない」

 世話人のひとりが、開の背後から声をかけた。佳乃だった。

「あのう、これを」

 そういいながら、開に透明な袋を手渡す。袋の中には、土で汚れた薄桃色の封筒が入っていた。

 開は袋を受け取ると同時に、令と凛の間になにが起きたのか、その状況を察知した。

「・・・・・・僕の、僕の責任だ。先生、これは僕の責任だ」

 先生は箱の横にいる世話人に目で合図を送り、蓋を閉めさせた。そして開の肩を両手で包むように支える。

「カイ、いいかい。落ち着いて、私の話を聞くんだ。さっきまでのように、私の話を聞いてくれ」

 崩れ落ちそうになる開の体を、先生が支える。そして肩を抱いたまま建物に向かってゆっくりと歩き出した。

 世話人たちは運搬台を押して、先生のあとに続く。

 ロビーに戻ると先生は開の肩から手を離した。そして俯いたままの開を立ち止まらせて、もう一度正面から開の肩を持った。

「カイ、予定を変更する。予定では二年後だった。しかし、もうそんな時間はなくなってしまった」

 運搬台を押す世話人たちは、開と先生をそのままに、学校の右翼側の通路に箱を押していく。

 通路は暗い。奥に進む世話人と運搬台は開から見えなくなりそうなところまで進み、そこで停まった。

 壁際のボタンを押している世話人がかすかに見えた。

 そこにエレベーターがあった。


「カイ、いいかい。今日は話をするだけの予定だった。しかしそういうわけにはいかなくなった。これからマルスを使うことになる。君も見ているがいい」

 開が、はっとして顔を上げた。

 フランケンシュタインの創造物という、先生の言葉が思い出された。開は、数年前にその読みにくい小説を、苦労して読んだのだ。

「あまり時間がない。カイ、来るんだ」

 開は先生に促されて、エレベーターに向かって歩き始める。先生は早足で開を先導した。

 開と先生がエレベーターの前に着いたとき、扉が開いた。大きな扉だった。開と先生、運搬台と世話人十人近くが乗り込んでも、まだ余裕のある大きさだ。

 扉が閉まって、エレベーターが下降をはじめた。ゆっくりと時間をかけてエレベーターが下向きの加速を増していくのがわかった。

 それでも、4500メートルの降下にはそれなりの時間がかかる。

「話の続きをしよう。今は私の話に集中したまえ。それが今の君にできる唯一のことなのだから」

 開はうなずいた。先生を信じよう。

「生命が物理的現象として解明されたのは、エデンが稼動してしばらくしてからのことだ。

 のちにマルスを開発する、星宮の生命物理研究所の仕事だった。

 彼らの研究の画期的なところは、生命を複数のレイヤー構造体として扱ったことだ。

 生命は臓器などのパーツ単位ではなく、全身に張り巡らされたネットワークごとの、レイヤー単位で扱うべきものだったのだ。

 神経系、消化器系などの大まかなレイヤーが内部でさらに細かなレイヤーに分かれ、それぞれが複雑に相互関係を持っているもの。

 それが生命を維持する物理的な構造だったのだ。

 生命は一度死ぬと、生き返らない。

 これは歴史的に見ても、生命の根源的な謎だった。

 物理的な構造は生きているときとなんら変化はないのに、なぜ生命は一度失われたあとで、復活できないのか。

 二十一世紀になって、部分的にこの問題は前進した。AEDと呼ばれる機器が普及したのだ。

 しかしこの機器も、やはり古典的な生命の理解の元で作られたものだった。

 異常な拍動をおこした心臓を電気ショックにより停止させて、正常な状態での心臓再起動を促す、というものだ。

 問題は心臓という臓器に限定されたことと、他の臓器が生きていることを前提としていること。

 そして前進は、心臓再起動による拍動の正常化という考え方だ。

 問題の部分は、これは仕方がない。知識的にも技術的にも、未熟な時代だったのだから。

 しかし、拍動の正常化という考え方は、そのまま生命物理研に受け継がれた。もちろん考え方を大幅に拡大して。

 拍動の正常化というのは、言い方を変えれば、再同期だ。

 そして、生命の物理的本質は、同期にあったのだ。

 再同期を行う対象は、レイヤーごとに分かれていた。

 心臓を再同期するためには心臓を含めた系全体を、つまりレイヤーを再同期しなければ、根本的解決には至らない。

 逆にいえば、心臓系レイヤー全体を再同期すれば、心臓は確実に動き出すということだ。

 しかし、それはあくまでも単レイヤーだけで考えた場合であり、生命はそんなに単純なものではない。

 レイヤーごとに他のレイヤーとの同期が行われ、さらにそれが他のレイヤーと同期されている。

 あまりに複雑なレイヤー構造と、さらに複雑な同期が絶えず行われているものが、生命だ。

 それほど複雑な生命がなぜ産まれてくるのか。

 それは、同期が受精卵の段階ではじまるからだ。

 数個の細胞から単純な同期がはじまり、それが成長とともに複雑化していく不可逆性の同期体、それが生命の物理的本質なのだ。

 この仕組みを知れば、死というものが理解できるはずだ。

 死とは、同期の停止だ。

 一度停止あるいは変調を来した同期は、その複雑性ゆえに再同期が不可能になる。

 それが、生命の死だ。

 いくら物理的構造が死ぬ前と変わらなくても、内部での同期が取れない場合は、再び蘇ることは不可能なのだ。


 しかし、もしも全レイヤーの同期を再開することができたとしたらどうだろう。

 複雑性を乗り越えて、全身の全レイヤーを細胞単位でマイクロ秒レベルの同期が行えるとしたら。

 結果をいえば、死者は蘇る。再び生きて活動ができるようになる。

 全身を原子レベルでスキャンし、微細なレイヤー構造を分析し、各レイヤーにそれぞれ別の同期信号を送り込み、全レイヤー全細胞を同時同期させる。

 これを実現したシステムが、マルスだ。

 マルスが発表されたとき、世間は大騒ぎした。

 それはそうだろう。一度死んだ人間を生き返らせることができるシステムなのだから。ゾンビ論争と呼ばれた大激論も巻き起こったくらいだ。

 ただし、結果からいえば、マルスはほとんど使い物にならなかった。

 マルスの前提は、正常な肉体を保ったままの死だったからだ。

 そんな死は、ほとんどあり得ない。

 大抵の場合、体のどこかが破壊されているか、時間の問題で細胞死が起きているか、臓器に異常を来しているかなどで、マルスではどうしようもないケースが、死のほとんどを占めていたからだ。

 正常な状態での死などというものは、一部の突然死以外は、なかったのだ。

 マルスは一部の富裕層が老衰での死を免れるために、なん度も使うというような、極めて限定的な稼動しかなかったのが現実だ。

 しかしマルスの活用法は、他にもあった。

 植物の接ぎ木などのように、違うDNAを持つ種を掛け合わせるような場合に、マルスは役に立った。違う個体DNA間で強制的に同期を行うという方法は、品種改良に効果的だった。

 こうしてマルスは、君も知っているとおりに、食料供給の救世主になったわけだ。

 しかし、マルスの本当の威力は、別にあったのだ。

 その成果は星宮の内部だけに置かれ、発表されることはなかった。

 マルスの真の力は同期ではなく、同期するためのデータ取得にあった。

 原子レベルでの人体スキャンとレイヤー分析。そのアーキテクチャとアルゴリズムこそが、マルスの真の実力だったのだ。

 人体の完全な物理構造データ。

 脳のシナプス構造をも含めたそのデータは、その個体の複製が、記憶も含めて可能だということを示している。

 すでに、原子レベルでの3Dプリンタは産業界で普及がはじまっていた時期だ。有機物のプリントは実用技術になっている。

 そのプリンタと、完全な再同期を行うマルスを組み合わせれば、なにができるのかはいわなくてもわかるだろう。

 フランケンシュタインの創造、その実現だ。

 そしてそれが意味するところを、星宮の上層部は理解していた。

 すなわち、永遠の命だ」

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