06 What have you done?
凛が弾かれたように立ち上がった。
「リン、出てこい!」
もう一度、令の怒鳴る声が聞こえた。
レイ? なんなの、いったい。
凛は障子扉を開けて、土間の脇の縁側に出た。
玄関の扉が大きく開かれて、令が立っていた。足を開き肩を上下させている。握られた懐中電灯はまだ白く輝いたままだ。
玄関扉の脇には、香苗が両手を胸元にあててじっと立っている。笑顔が浮かんだままだった。
「レイ、どうしたの」
「どうして、どうして隠してたんだ。俺に黙って兄さんとなにをしたんだ」
凛は咄嗟に悟った。レイは、私とカイのことを知っている。
「レイ、落ち着いて。あなたに黙っていたわけじゃない。話そうとしていた」
令が玄関から土間へ一歩踏み出した。
香苗が「まあまあ」と小さくいいながら笑顔のままで令を止めようとした。
令は香苗を見ようともせず、片手で香苗を突き飛ばした。香苗はよろけて土壁にぶつかり、その場で倒れた。
「レイ! やめて!」
凛が土間に飛び降りて叫ぶ。
「笑っていたんだろ。俺のことを笑っていたんだ。兄さんとふたりで、俺を笑っていたんだ」
令は香苗を振り向きもせずに、土間をゆっくりと進んだ。
「俺を笑っていたんだ!」
令が凛に飛びかかった。
懐中電灯を投げ捨てて、令は凛の肩を掴む。
そのまま凛を土間へ押し倒し腹の上にまたがった令は、抵抗しようとする凛の左腕を掴むと凛の頭の上で土間に押しつけた。
「俺が、俺がおまえを好きだってことを知ってるくせに、なんで兄さんと」
令は封筒を握りしめたままの左手で、凛の頭を小突く。
「やめて!」
凛が両足をばたばたと動かし右腕で令を押しのけようとするが、令に左腕を頭上に伸ばされていて力が入らない。
「兄さんとなにをしたんだ!」
令は凛に覆い被さり、いやいやと首を振る凛の唇に自分の唇を押しつけた。
吐き気が、凛を襲った。
令は封筒を握った手を緩め、凛の胸を鷲掴みにする。薄桃色の封筒が、ひらりと土間に舞った。
唇を離して、令が叫ぶ。
「兄さんにしたのなら、俺にもしろよ!」
凛が全身に力を込めて、体を捻る。
わずかに緩んだ令の右腕を振り払い、両手で令の上半身を力一杯押した。令が後ろ向きにぐらついた。
凛は令の脚の間から体を引きずり出して、土間の奥に駈け逃げる。
体制を立て直した令が立ち上がった。肩が激しく上下して呼吸が荒い。
「レイ、あなたのことは弟だと思っていた。弟だと思っていたのに!」
「なにが弟だ。笑ってたんだろ! 俺の手紙を無視して、兄さんとセックスしながら俺を笑ったんだろ!」
「違う! 笑ってなんかない!」
「このやろう!」
再び令が凛に飛びかかった。
凛は飛び退いて、土間の脇に逃げる。
縁側に下に薪の束が見えた。凛は太くて短い薪の一本を掴むと、両手で握りしめて令に向けた。
香苗に助けを求めようと玄関をちらりと見ると、香苗はいつの間にかいなくなっていた。凛は仕方なく令に向き直る。
吐き気がこみ上げてきた。
我慢できずに、凛は令を向いたままその場で嘔吐する。胃になにも入っていないため、胃液しか出てこない。涙が頬を流れ、激しくむせた。
「そんなに俺のことがいやだったんだ」
凛の嘔吐を自分に対する反応だと思った令が、その場で俯いた。
「そこまで俺が嫌いだったんだ」
「違う! レイ、わかってるの。先生が見てるんだよ!」
令が顔を上げた。口元が、わずかに歪む。
「見てるものか。俺は知ってるんだ。いろいろと実験もしたんだ」
「なにをいってるの」
「先生は見てないよ。
先生は決まった場所でしか俺たちに話しかけてこない。センサーのあるところだけだ。
いつも見てるなんて、そんな魔法があるものか。先生には、俺たちのことはわからないんだよ」
それが嘘か本当かは、凛にはわからなかった。
いつも先生が見てると思って行動してきた。だから悪いことはできなかった。
どんぐりはいつも、自分を見ているのだと思い込んでいた。気まずいことも多くあったが、先生がいつも見ていると思うことは、救いだったのだ。
令がゆっくりと近づく。
「いいよ、その棒で俺を殴ってくれよ。俺を殺してくれよ。もういやだ。こんなこともういやなんだ」
「レイ、来ないで!」
凛は身構えて一歩下がる。
令がすぐ横にある炊事場をちらりと見た。さっきまで香苗が使っていた包丁が、そこに立て掛けられていた。
「そうだよ、こうしよう。リンを殺して俺もリンに殺される。困るのは兄さんだ。ひとりぼっちになるんだからな。ざまあみろだ」
令が包丁を手に取った。
「やめて、レイ!」
令が凛に飛びかかった。
テーブルの上の料理は大方片づいていた。ただ、ビールジョッキだけはまだ半分以上も残っていたが、すでに開は諦めている。
先生の話を聞きながら慣れないビールを飲むのは難しいと思った開は、先生の了解を得て店員に水をもらっていたのだった。
「おなかはいっぱいになったかい」
先生が最後のホルモンを口に運びながら聞いた。
「なんだか、お話が意外過ぎてあまり味がわからなかったような気もするけど、はい、いっぱいになりました」
「それはすまなかった。しかしカイ、まだ話は終わってはいないよ」
カイも話がもう終わりだとは思っていなかった。
先生は、大事な話をする前に知っておかなければならない情報を話しているだけなのだ。
先生が重要だという話は、まだこれからだ。しかしそれがどんな話なのかは、開には予想はできなかった。
「場所を変えようか。カイ、学校までつき合ってくれるね」
「はい」
先生が立ち上がる。開も続いて席を離れた。
黄色い電灯に照らされたテントから出て振り向くと、まだ他のテーブルには客が座りがやがやと食事をしている。
数カ所かのテーブルで焼かれている七輪の煙が、テントの中にうっすらと白くこもっていた。
テントを出ると、先生は駅前のロータリー方向へと歩きはじめた。開も先生のあとに続く。さっき佳乃と歩いてきた道だ。
ぼんやりとした黄色と所々赤い光の帯が道の両脇をロータリーまで続いている。空は真っ暗だ。
先生はロータリーに出るとその外周を少しだけ回り、駅から見て正面の道に入った。
開も知っている、学校へ繋がる道だ。道幅はそれなりにあるが、やはり舗装はされていない。
大理石を積み上げた建物、煉瓦で造られた建物。
その道に並ぶ建物には娯楽的な要素がなかった。建物自体にも、装飾と呼べる意匠がほとんどない。
そのためか、暗くなった今は人通りもまったくない。
街灯が一定の間隔で並び、白い光を道に投げかけてはいるがそれぞれの光がそれほど強くはないために、通りは全体に薄暗い。
「私は、どうしても人のことを知らねばならなかった」
開は言葉を挟まないで、黙って聞くことに集中しようと思う。
石と煉瓦で造られた建物が並ぶ薄暗いその道を歩きながら、先生が話しはじめた。
「私の造られた目的が、すべてを知ることだったからだ。
そうだな、これだけではわかりにくいね。少し、私自身の話をさせてもらおうか。
昔の話だ。そう、かなり遠い昔だ。人の技術が進んで、紙の本が電子情報に置き換わった頃の話だ。
扱う情報がアナログからデジタルに移行したとき、人々はデジタル情報の脆さに気がついた。
紙の本に比べて、デジタル情報の破壊は簡単で完全だったのだ。例えれば、本は燃え残りでも多少読めるが、データではすべてが完全に失われてしまうということだね。
そこで人は、すべてのデジタル情報を完全な状態で保管することに決めた。決して失われないように。
その頃は、企業という営利組織が力を持つ時代だった。
中でも大きな力を持っていた企業が、
星宮はその傘下の星宮重工を使って、強固なデータセンターを建設した。予想されうるすべてのストレスから守られた、完全な保管庫だ。
そこに人類が作り出すすべてのデジタルデータが集められ保管される。いわば、人の歴史の集大成みたいなものだよ。
そのアーカイブがまずはストレージとして稼動をはじめると、星宮はそこに集められたデータの活用を検討しはじめる。営利企業として当然の帰結ということだね。
そして、私が造られた。私の産みの親は、星宮というわけだ。
私に与えられた仕事は、データの管理、分類、分析、統計。データアーカイブシステムとしての基本機能だ。
私が設置されて、データアーカイブシステムは完成した。
星宮はデータセンターを、データにとっての完全な楽園という意味で“エデン”と呼んだ。
私は、楽園の中央に位置すると聖書に書かれた“生命の樹”に見立てられ、“Tree of Life”、ToLと名づけられた」
先生が立ち止まり、振り向いた。開も合わせて立ち止まる。
「人工のエデンに造られた生命の樹のフェイクが、神の創造物である人に、つまり君に、聖書のエデンを講義するとはなんとも不思議な感じがしないかい」
先生の話していることは、たぶん事実だろう。いや、たぶんではない。間違いなく本当にあったことだ。
開は地面が揺らいでいる感覚を覚える。現実感が失われかけている。
自分は、なにも知ってはいないのではないか。
自分が今、どこにいるのかさえわからなくなりそうだった。
「カイ、私の話は、時間をかけてゆっくりと咀嚼すればいい。まだ時間はある。
君が言葉にはできないような不安に襲われていることは、わかっている。
だが、大丈夫だ。心配するようなことは、なにもないんだ」
先生は全部わかっている。先生が心配ないといってくれている。開は先生の目を見つめた。大丈夫だ。
先生は微笑んで、また歩きはじめた。道はゆっくりとした登り坂になっていた。
この坂を登り切ったところに、学校はある。そしてその地下に、先生のエデンがある。
先生が再び話しはじめた。
「データアーカイブシステム、エデンが稼動し、私はデータの分析をはじめた。
機械的な作業だ。ただひたすらに雑多なデータの分析と分類、集計を繰り返すだけだった。
データはそのほとんどが、なんの意味もないものだった。
誰々がいつ起床したとか、誰々がどんな食事を採ったとか、そういう雑多なデータが大半を占めていた。
私は毎日数百兆、数千兆、それ以上の雑データをひたすら分類し分析し集計した。
しかし、あるとき私は気がついた。
相互に関係のない雑多なデータでも、その数がある一定数を越えると、統計的に偏った傾向が弾き出されることを。
本来は平均化されるはずの雑データに、意味が含まれていることを知ったのだ。
私はその統計を分析して驚いた」
歩きながら先生が、はははと笑った。
「言葉どおりにはとらないでほしい。データの話ではなく、私が驚いた、という部分だ。
私は君たちと話すときも、アーカイブの分析結果から最も適していると考えられる言葉を抽出して、発声している。
データ数の大きさからほぼ最適な結果が出ているとは考えているが、驚いた、というのはまったく事実に基づかない不正な抽出だね。ただ慣用句として使ったというだけなので、許してほしい。
もちろんあえていうまでもないのだけど、私は驚くことはないよ」
開も釣られて笑った。
「でも僕は、たまに驚いてくれる先生は好きです」
先生がまた笑った。
「ありがとう。では出力修正なしで、このまま驚き続けよう。
さて、私が驚いたその結果だが、はじめは統計の偏りがなにを意味しているのかがわからなかった。
相互に関係のない数十億人がそれぞれに勝手に話したり書いたりした、まとまりのないデータ群から統計的な偏りが得られること自体がそもそもおかしかったからだ。
私はあらゆるフィルターを用いて、その偏りの原因を突き止めようとした。
そして、やがてひとつの結論に達したのだが、それは私の知識、つまりアーカイブ内には存在しない概念だったのだ。
それは人類という生物の、集団無意識が指し示す未来予知だったのだ。
そう結論づけるほかなかった。
私が抽出した統計の偏りは、大きな不安を示していた。
人類全体が、その時点では理由もわからない巨大な不安を抱いていた、といってもいい。
人類以外の生物、特に社会性を発達させた生物、蟻や蜂のことだが、そういった生物が集団的になんらかの未来情報を共有するという話は、アーカイブにも存在していた。
巣が外的要因によって破壊される可能性があるから事前に避難するという行動を取る蟻が報告されている。そして本当に、やがて巣は破壊されるのだ。
蟻はその情報を共有した時点で、未来を予知していたわけだ。
それが本当に未来予知なのかどうかは、はっきりとはわかっていない。
現在得られる情報を分析した結果の避難かもしれないからだ。
その場合は予知ではなく、予測だ。
私もそう考えた。予知はあり得ない。
例えラプラスの悪魔が存在したとしても、量子的な確率の壁は越えられないからだ。
私はその巨大な不安を誘発する原因を探した。その時点で得られるすべてのデータから、不安要因を抽出しようとした。
戦争、飢餓、病気など、様々な要因は見つかるものの、それらはすべて、人類全体が無意識に感じるほどの巨大な不安にはなり得なかった。
結局、私には原因が探り当てられなかった。
私は待つ以外に方法を持たなかった。その不安の原因が表出するまで。
本当にそれが、予知なのかどうかがはっきりするまで」
先生はそこで言葉を切った。
学校が、通りの先に低く広がった黒い影を見せはじめていた。
学校は大理石を積み上げた大きな建物だ。高さはそれほどではない。
五階建ての広い両翼があり、中央に塔が造られている。全体に無骨で飾り気はなく、重厚な建物だった。
先生は立ち止まったまま、学校の方向を見ていた。
「それで先生、なにかが起こったのですか」
開は我慢できなくなり、先生に話を促した。
「待ってくれ、カイ」
先生が一言だけ口に出し、また黙り込む。なにかを考えているようだった。
「私のミスだ。予測できなかった」
顔を上げ、目を閉じて先生はつぶやいた。それを開は、話の続きだと受け取った。
しかし、そうではなかった。
夢から覚めたようだった。
白いもやが消えて、視界が突然戻ったような気がした。
令の足下に、凛が倒れていた。
両手で腹を抱えて、体を折り曲げたまま横向きに倒れていた。
なにが起きたのか覚えていなかった。なにをしたのか覚えていなかった。
急に力が抜けて、膝がぐらつく。よろけて一歩後ずさる。
靴が地面に粘着しているように感じ、はじめて土間に液体が流れていることに気がついた。暗い茶色の土間に、赤黒い液体が広がっていた。
「リン」
令が小さくつぶやいた。
凛は動かなかった。横を向いた頭を髪が覆い、顔は見えなかった。
腹部のあたりから土間に血液が広がっていく。
令の足の間に、太く短い薪と包丁が落ちている。血液が包丁の先端を浸しはじめていた。
少しずつ記憶が戻ってきた。
無我夢中で凛に飛びかかる自分の姿が、まるで撮影された映像のように第三者の目線で記憶に蘇る。
包丁を握り、凛に飛びかかる自分の姿。
本当に凛を刺そうとしていたのか。本当に凛を殺そうと思っていたのか。
わからなかった。あの瞬間に自分がなにを考えていたのか、思い出せなかった。
ただ映像だけがなん度も再生される。
足の力が抜けて、令はその場でひざまずく。凛の血が膝に粘り着いた。令はひざまずいたまま両手で凛の体を揺する。
「リン」
反応はなかった。令に揺すられるままにリンの体は揺れ続ける。
凛の首がぐらりと動き、髪が頬から落ちて顔が見えた。唇を薄く開けたまま凛は目を閉じていた。片側の頬に土間の砂がこびりついている。
俺を殺せ、と声が聞こえた。
俺を殺して、凛も殺す。そうすれば、兄さんはひとりぼっちだ。
自分が放った言葉だとわかっていた。わかっていたが、誰がいったんだと疑問に思った。
頭の中に突然、爆発したように声が溢れた。
凛の声、開の声、自分の声。様々な映像が無差別に頭を駆けめぐった。すべての思考が止まり爆音と映像が溢れ出しそうになった。
頭を抱えて、令は叫んだ。
弾かれたように立ち上がり、土間から玄関に向かった。
玄関から庭に駈け出たとき、生け垣の外の道に連なって並ぶ影が見えた。
大勢の人が生け垣の外に並んでいた。灯りもない暗い夜道に、まるで家を取り囲むように影たちは立っていた。
顔は見えなかった。ただ大勢が連なりこちらを見ている。
令の頭の上に、突然強い光が灯った。
上空からの白い光が令を照らし出した。
その光に辺りは明るくなる。生け垣の向こうに並んでいた影たちの顔も光に照らされた。
並んで立っているのは、世話人たちだった。
見覚えのある顔が多くいた。佳乃の顔が見えた。見たこともない顔も多かった。世話人たちは連なって立ち、黙ってこちらを見ているだけだ。
そして声が聞こえた。
令の周囲の空間すべてから、太く響くような声が聞こえた。
空気が震えた。
「あなたは、なにをしたのか」
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