04 Where are you?
山から下り、ふたりと分かれ道で別れたあと、凛は早足で家に戻った。暗くなる前に家に着きたかった。
山ではなに事もないような振りをしていたが、凛は体調が優れなかった。
凛が暮らす家は、分かれ道から山の麓を回る道を十五分ほど歩いた場所にあった。
開と令の家ほど大きくはなかったが、やはり藁葺き屋根の古い民家だった。大きめの庭があるものの、鶏は飼っていない。庭と家は生け垣にぐるりと囲まれ、春には良い香りが立ちこめる。
元々は凛も、子どもの頃は開と令といっしょにあの大きな家に住んでいたのだが、十歳を過ぎた頃にこちらの家に移動させられたのだった。
はじめは元の家に戻りたくて連日泣いたものだったが、今ではもうこの家が気に入っている。
凛が家に戻り、荷物を置いてため息をつきながら畳の上に横になったとき、玄関の外で声が聞こえた。凛の元へも、ほぼ毎日世話人がやって来るのだ。
「こんにちは。いらっしゃいますか」
畳の上に上半身だけを起こして凛は、はあいと返事をする。
「食事の支度にまいりました」
世話人はそれだけいうと、玄関の扉をがらがらと開けて土間でもう一度、凛に声をかけた。
玄関に鍵を掛ける習慣は、凛にはなかった。子どもの頃からなので、同じように開と令にもその習慣はない。
「おじゃまいたします。よろしいですか」
「はい、どうぞ」
凛は起き上がり、障子扉を開けて土間へ顔を出した。着物をまとった上品な年輩の女性がにこにこしながら立っている。はじめて見る世話人だった。
「よろしくお願いします。カナエといいます」と頭を下げる世話人に、凛も思わず裸足のままで縁側を飛び越えて土間に降り、頭を下げた。世話人の上品さに少し気後れする。
「こちらこそよろしくです。リンです。お世話になります」
世話人はにこにこしながらもう一度頭を下げ、振り向いて玄関の扉を閉めた。隙間からわずかに見えた外は、すでに暗くなりはじめていた。
香苗は腰を心持ち折り曲げて、にこにこしたまま凛の前を過ぎていく。
三角状に開いた着物の喉元を隠すかのように巻いた白い布が、電灯を反射して黄色く見えた。香苗は、ちゃんとわかってますからとでもいうように、奥にある台所へそのまま向かっていく。
その様子では、台所はもちろん、道具の場所もやはりわかっているのだろう。
凛も慣れない頃は少しだけ心配したが、今までの世話人ははじめてやって来た人も含めて、凛に物の在処を尋ねたことはない。
不思議には思ったが、そういうものだと特に気にもしていなかったし、料理を自分ではほとんどしない凛は、仮に尋ねられたとしても答えられるかどうかは怪しい。
今日、山に持って行った弁当にしても、前日に世話人が炊いておいてくれた白米を握り、昼食用のおかずを詰め合わせただけだった。
いそいそと台所に向かう香苗を土間から見送ると、凛は縁側に上がって足裏の砂を払い、座敷に入る。
やはりどうも身体が重い。少しだけ頭も痛い。このまま寝てしまいたい気分だった。
六畳の座敷には低い飯台と簡単な書棚しか置かれていない。家具類は隣の部屋だ。
横になる広さは充分にあった。勉強しながら疲れてそのままここで寝てしまうこともあるくらいだ。
台所から、香苗が食事の支度をする音が聞こえはじめてきた。
その音を聞きながら、このままここで横になるのは気が引けると思う。
やはり奥の寝室できちんと横になろうと決めて、土間沿いに作られた部屋と部屋を繋ぐ廊下代わりの縁側へ出た。縁側を通って寝室に向かうには、台所の横を通ることになる。
凛は炊事場で背中を向ける香苗に声をかけた。
「カナエさん、すみません、少し体調が優れないので横になってます。あの、なにかあったら声をかけてくださいね」
包丁を持った香苗が振り返り、にこにこしたまま少し間を置き、「あらまあ、お大事に」と言いながら頭を下げた。
凛もお返しに頭を下げたあと、寝室に向かった。
寝室もやはり六畳間だったが、箪笥や鏡などの家具がそれなりに置かれており、それほど広くは感じられない。部屋の中央には布団が敷かれたままだった。
ジーンズのまま、凛は布団の上に腰を下ろす。ふう、とため息をつく。
このところこの部屋に入ると、まず頭に浮かぶのは開のことだった。
そのままごろんと横になり両腕を伸ばして枕代わりにする。もう一度、大きくため息をついた。
今日は、令がひとりで来ると思っていた。昨日誘われたときからそう思っていた。
令にはいつか正直に話さなくてはならないと思う。そのチャンスが今日だと思っていたのだ。
分かれ道で令を待つ間は、かなり緊張した。
どう話したらいい? どう話せば令はわかってくれる?
話をどう切り出すかを思いつかないまま、凛は逃げ出したい気分になっていた。
そして、遠くに見えた令は、開といっしょだった。予想していなかった凛は、思わず大きな樹の陰に身を隠し、気持ちを整えたのだった。
横になっていても身体の重さを感じる。気分が悪い。下腹に違和感がある。少し吐き気もしてきたように思う。
眼を閉じる。おなかの違和感を我慢して深呼吸をする。
息を吐き出し呼吸を落ち着けると、枕にしている自分の腕の感触で開の腕枕を思い出す。
半年ほど前からもうなん度も、開とこの布団にいっしょに入っていた。そのたびに、開は腕枕をしてくれていた。
令が自分に、開と同じような感情を抱いていることを、凛はわかっていた。
近いうちに、令にはきちんと自分たちのことを話さなければいけないと、開とも相談していた。それがなかなかできないまま、ずるずると時間だけが過ぎていく。
凛も開も、はじめの頃は自分たちの気持ちの理解ができていなかった。
先生に相談するべきことなのかどうか、その判断さえつかなかった。思いついたのは、集会場の図書室でその感情を描いた本を読むことだった。
制限範囲内の本でも、恋愛という感情を解説したり描いたりしている本はたくさんある。
凛はそれらを読み進め、自分が抱く感情は自然なもので決して間違ってはいないものだという自信を得たのだった。
だからこそ、令にはきちんと自分の気持ちを話さなければならないとも、凛は考えていた。
寝返りを打ち、腹這いになる。そうすると少し、おなかの気持ち悪さが緩んだような気になった。
枕元に置いたままになっている、小さな箱が目に入った。金属光沢がある銀色の小箱だ。今は中になにも入っていない。
凛はこの部屋で裸になるときにどんぐりのペンダントをその中に入れていた。開にもそう勧めていた。
先生に見られることが恥ずかしかったというよりも、もしかしたら自分たちが悪いことをしているのかもしれないという罪悪感からだった。
台所から米の炊き上がる香りが漂ってくる。その匂いにむせて、吐き気が込み上げてきた。
凛はあわてて家の奥まったところにある便所に駆け込んだ。
改札で身分証明書を見せると、駅員が軽く頷いた。
開は滑らかな石造りの改札を抜けて、駅舎内のロビーへ出る。床は磨かれた大理石だった。数人が駅舎内を歩いている。灯りはやはり、黄色みを帯びた電灯だった。
街の駅は煉瓦造りで重厚だ。ロビーの屋根は高く、見上げると吹き抜けの丸天井で三階ほどの高さがある。
大きな駅ではあったが、舎内に商店はなく駅としての機能だけに特化されていた。
改札からロビーを横切ると、駅前通りに出る。そこはロータリーになっていた。
ロータリーの中央には金属のモニュメントが建っていたが、それがなにを意味しているのかは開にはわからなかった。
道は舗装されていない。だからというわけではないだろうが、自動車は見かけない。開はこれまでに自動車は数台しか見たことがなかった。
ロータリーを囲むように街灯が設置されているが数はそれほど多くはなく光も強くはない。街灯の光が届かないところは、暗くぼんやりとしている。それでも、モニュメントには街灯の黄色が反射してきらきらと輝いていた。
学校に行ってみるべきかな、と開は考えた。学校はここから歩いて十五分くらいの場所だ。
先生は、街まで来ればわかるようにしておくといっていた。
どうすればいいのかな、と開が駅前での行動を迷っていると、駅の脇の暗がりから着物姿の女性が現れて、ゆっくりと近づいてきた。
世話人の佳乃だった。
あれ? と開は思う。これまで、世話人と外出先で会ったことは一度もなかったからだ。
佳乃だけでなく、おそらく百人を越えるだろう世話人たちのすべてと、開は外で出会ったことがなかった。
それに、ヨシノさんは家で晩ご飯の用意をしていたはずだ。次の列車で来たのかな、と開は思う。たぶん、そうなのだろう。
「まあまあ、よくいらっしゃいました」
佳乃が開に声をかける。首元の薄水色の布も、その笑顔も、いつもどおりだ。
「ヨシノさん、こんなところで会うなんて、びっくりしたよ」
「そうですねえ。こちらへどうぞ」
佳乃は身体を少し横に向けて、わずかに腰をかがめて頭を下げながら、開を促して歩きはじめた。開もそのあとをついて歩きだした。
先生の案内役がヨシノさんなんだなと、特に疑問も感じずに開は佳乃の後ろ姿を眺めていた。
街の道はロータリーを中心にして放射状に数本、広がっていた。
駅からロータリーを挟んで正面の道が最も広く、その通りには石と煉瓦造りの建物が並ぶ。その先に学校もあった。
そちらへ向かうのだろうと思っていた開だったが、佳乃はとことこと歩きながらその道の手前、駅から斜めに遠ざかる細い道に入っていった。
その道の幅はそれなりにあるが、建ち並ぶ飲食店がそれぞれ店の前にテーブルと椅子を出しているために、通行できる幅は数メートルしかない。
テーブルの上には即席のテントが張られて、その中に裸電球が灯されている。
ぽつりぽつりと赤い提灯もぶら下がっているが、店の看板が見あたらないためにどのテーブルがどの店のものなのか区別がつきにくい。
みんな慣れているからこれでいいのかなと開は思う。
テントの下に並ぶテーブルにはそれぞれに数人の客が座り、がやがやと飲み食いしていた。
様々な料理とその香りに、開は夕飯を食べていないことを思い出す。
歩きながらテーブルを眺めていると、開が見たこともなく食べたこともない料理が多いことに気がついた。
通りに入ってしばらく歩いたところで、佳乃が立ち止まった。
「こちらです。どうぞ」と、佳乃が空いたテーブルを指し示す。
「ありがとう、ヨシノさん」
礼をいって椅子に腰掛けると、佳乃は頭を下げた。
「それではこれで」
そういうと、佳乃は来た道をまたとことこと引き返して行った。
ふう、と腰掛けた椅子の上で背を伸ばし、開はあたりを見回した。
空いていたのは開のテーブルだけで、他はすべてそれぞれなん人かの客で占められている。
常に誰かの話し声が聞こえていたがすぐにそれには慣れてしまい、心地よい環境音になった。
席は先生が予約していたのかなとぼんやり考えていると、料理が運ばれてきた。
「へい、お待ち!」と威勢のいい声がすぐ横で響き、テーブルの上に皿が置かれた。
置かれた皿に乗っていたものは、タコの足だった。それも切らずに茹でられた丸一本だ。勢いよく湯気が上がっている。
先生が来る前に食べていいのかなと少しためらったが、空腹は我慢できなかった。
それに、先生が来るかどうかもわからなかった。開も令も、そして凛も、これまでに一度も先生には会ったことがないのだから。
遠慮することはやめて、開はタコ足の切り口に刺された串を握る。熱さに気をつけながら、先端をかじった。柔らかくて味の染みたタコは、抵抗もなく噛み千切れた。
その美味しさに夢中になり、はふはふと丸一本のタコ足を食べ終わろうとしたとき、開は通りの向こうから近づいてくる男に気がついた。
ぴしりとした黒い背広と白いシャツ、そして青いネクタイ。髪をきれいに後ろに撫でつけている。
男が開に近づき、テーブルの向かいに腰掛けた。
「やあ、カイ。待たせてすまない」
男が微笑んだ。
あと一口分残ったままの串を皿に置くことも忘れて、開は男を見つめた。
「先生、ですか?」
男が声を出して笑った。おそらく四十歳くらいだろうか。
「そうだ。君たちのいう、先生だ」
便所から戻ると、吐き気も弱まっていた。
しかし、全身の力が抜けて、立っていることが辛い。凛はふたたび布団に横たわった。
大きく息を吸い、吐き出す。かなり楽になってきた。でも、このまま寝ていたい。
凛は腕を上げて手の甲を眼の上に置く。灯りを消したかったが、立ち上がることが面倒だった。
そのままの姿勢でなん度か深呼吸を続ける。
身体が楽になると同時に、また開のことが思い出されてくる。開の滑らかな手の動きを思い出すと、身体が熱くなってくるようだ。
凛は眼を閉じて唇を結び、しばらく開との思い出に身を委ねる。
開はいつも、どんぐりを外して箱に入れたあとでゆっくりと凛の服を脱がしはじめる。とても優しく、少しも傷をつけたくないとでもいうように。
凛も開の手の動きに合わせて、体を動かして消極的に開を手伝う。補帯を残してお互いが裸になり、抱きしめ合う。
凛の肌に開の温もりが蘇る。布団の上でひとり、凛は少しうめいて寝返りを打った。
できることなら一度、首や腹、両手両足の間接に巻きつけられている補帯も外して開と愛し合いたいと思う。
しかし、やはりそれは無理な思いだった。
産まれてからすぐにつけられる補帯は、開も凛も、もちろん令もつけていた。
香苗さんだってそうだ。他の世話人たちもみんなそうだ。そしてみんな、外したことはないはずだった。
ただ一度だけ、外すとどうなるかという講習を子どもの頃に受けていた。
そこで経験した怖さを、凛は忘れていない。補帯は外せないのだ。体の成長と共に補帯も伸縮するため、取り替える必要もない。
それでもやはり、一度は産まれたままの姿で開と抱き合いたいと思う。
いつか、その願いが叶うことがあるといい。凛は心の底からそう思う。
ため息をついて、凛はまた寝返りを打った。
とんとんと、障子を叩く音がした。
「晩ごはんできましたけど、どういたしましょう」
香苗の呼びかけに、凛はゆっくりと上半身を起こした。
どうしよう、と凛は思う。とても今は食べる気にはならない。台所に置いたままにしてもらおうか。
「カナエさん、ごめんなさい。やっぱり食べられないみたい。そのままでいいので、置いておいてください」
一呼吸の間があり、香苗が応える。
「はい、わかりました。お医者に連絡しますか」
凛も一呼吸置く。お医者かあ、どうしようかな。明日になってもよくならなかったらお医者に診てもらうとして、今夜は様子を見るだけにしようかな。
「大丈夫だと思います。ありがとう、カナエさん。ごはんの匂いで、ちょっと気持ち悪くなっただけなので」
障子の向こうで、香苗がまた一呼吸置く。
「そうですかあ。それは、つわりですかねえ」
息を切らして、令は走っていた。
怒りは収まるどころか、ますます強くなっていく。
山の麓を回る道に街灯はない。令の持つ懐中電灯だけが、唯一の灯りだった。
ひどい、ひどすぎる。
ふたりとも俺の気持ちはわかっていたはずだ。
今日だって、本当は凛とふたりで会うはずだった。それを兄貴が邪魔したんだ。そのおかげで、俺は凛に、忘れていたなんて嘘をつく羽目になってしまった。
令は、開の無神経ぶりに怒りを感じる。暗闇の道で走りながら、令は叫んだ。
凛だってそうだ。俺の気持ちに気がついているはずなのに、先週手紙を渡したはずなのに、どうして今までなにもない振りをしているのか。
令が握りしめる薄桃色の封筒は、凛が開に宛てた手紙だった。
そこには開と凛の関係がただならぬものだと匂わせる内容が記されていた。誰が読んでもふたりはすでに性行為にまで及んでいると悟らせる内容だった。
それぐらいは、経験のない令にもわかった。
あまりに甘く、あまりにあけすけで、令にはやりきれない手紙だったのだ。
それだけなら、まだいい。
凛はそこに、令から手紙をもらったことを、その内容と共に開に報告していたのだ。どうすればいいのか、開に相談を持ちかけていたのだった。
ふたりは全部知っていたのだ。
知った上で、なに事もないように三人で山に行ったのだ。
自分ひとりが笑われているのだと、令は感じた。
ふたりは目配せで合図しながら、俺を笑っていたのだ。今までどおりの演技をしながら!
道は山の麓を大きく回り込み、その向こうに生け垣から漏れる黄色い光の粒が見えてきた。
令は立ち止まると、肩を激しく上下させて息を整える。そして再び、大きく叫んだ。
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