03 Let us go into the field

 山道を下り終えて分かれ道まで戻ってきたときには、すでに夕方だった。

 凛が住む家は、開と令の家から山の入り口を通り過ぎた向こう側、分かれ道を山の麓に沿ってしばらく歩いたところにあった。

 手を振りながら駆けていく凛を、同じように手を振りながら見送る令の横で、開は先生の呼び出しのことを考えていた。

 凛が遠くなり、木々に遮られて見えなくなると、開と令は農道を引き返しはじめた。

「なんだろうな、先生の話って」

 令が、開の考えを読みとったように話し始める。

「兄さん、なにか思い当たることはあるのかい」

 開もそれを考えていた。だが、やはり思い当たることはなかった。

 今までにもひとりだけで呼び出されたことはあった。成績が目標レベルに達していなかったときや、こちらから先生に相談を持ちかけたときなどだ。しかし今回はどれも当てはまらない。

「わからないよ。何か叱られることをして、忘れてるのかな」

「叱るなら、俺たちの前で叱るんじゃないかな。兄さん、この前二十歳になったじゃないか。そのお祝いをしてくれるのかもしれないね」

「それこそ、レイとリンの前でしてくれたらいいじゃないか。三人で街に行って、みんなで食事すればいいじゃないか」

 そうか、そうだよなあと、令の声も小さくなった。

 田畑を通り抜け、藁葺き屋根の家へ続く坂道が見えてきた頃には、周囲は薄紫色に陰りはじめていた。


 ふたりが坂道を上がり縁側が見えてきたとき、庭の奥に作られた鶏小屋の前にしゃがんでいた着物姿の女性が立ち上がった。着物の上から首元に巻かれた薄く柔らかな薄水色の布が印象的だ。

 世話人の佳乃だった。そうか、今日はヨシノさんなんだ、と開は少し嬉しくなる。他の世話人が嫌いなわけではないが、なぜか佳乃とは波長が合う気がしていたのだ。

 しかしすぐに、自分はこれから出かけなければいけないことを思い出した。

「まあまあ、お帰りなさい」

 佳乃は鶏を小屋に追い入れたところだったのだろう。手には、開たちが取り忘れていた卵がひとつ抱えられている。ソフトボールと同じくらいの大きさだが、殻は赤く味は濃い。

 やはり改良前の鶏の卵で、開の大好物だった。

「山へ行ってたんだ。リンもいっしょにね。そうだ、蟻を見たよ」

 令が鶏小屋に近づきながら佳乃に話す。

 六畳ほどの大きさがある鶏小屋の中では、敷き詰められた藁の上で鶏が三匹、羽を膨らませて座り、うとうとしている。

 昼間に見た蟻の胴体部と同じくらいの大きさがある鶏だが、羽毛を膨らませて寝ているところは、それなりにかわいいものだった。

「へえ、蟻ですか。それはそれは」

 にこにこしながら佳乃が応える。

 当たり障りのない応えは佳乃だけではなく世話人のみんながそうだったが、佳乃の笑顔はそれを帳消しにする。開は、その笑顔が好きだった。

「そろそろ晩ご飯の支度をしましょうかね」

 佳乃はそう言うと、大事そうに卵を抱えてとことこと土間の入り口に向かった。開は思い出して、その後ろ姿に声をかける。

「ヨシノさん、僕は今から街に出かけるんだ。だから令の分だけお願いします」

 佳乃は立ち止まり、頭だけをこちらに向けてにっこりと笑う。

「そうなんですか。それはそれは。お気をつけて」

 どの世話人もそうだが、決して理由を詮索したりしない。

 これまでに数え切れないほどの世話人が、この藁葺きの家にやってきた。名前を覚え切れていないほどだ。同じ人が何日か続けて来ることもあったが、ほとんどが日替わりでやってくる。

 子どもの頃はそれに不思議を感じたものだが、今では開も令もそういうものだと、特に疑問も持たなくなっていた。

 物心ついたときからずっとこの家に暮らすふたりだったが、開と令がふたりで暮らすには、この家は大きすぎた。世話人が来てくれなければ、すぐに荒れ放題になってしまうだろう。

 世話人の中でも、佳乃は比較的よく来てくれる方だった。十日に一度くらいの割合で佳乃はやって来ていた。

 世話人はみんな、食事を作ってくれる。夕方に来て、夕食と翌日の朝食、必要なら昼食も作っておいてくれる。

 不思議なもので、どの世話人が作った食事もすべて、同じように美味しかった。メニューは様々だったが、美味しさに変わりはなかった。

 それでも、美味しさは味だけで決まるものではない。作る人に対する好意や興味、親しさで美味しさの判断は変わものだ。開は佳乃が来ることを楽しみにしていたし、作ってくれる食事も同じように楽しみにしていた。

 直接話し合ったことはなかったが、おそらく令も、他の世話人よりは佳乃に好意を感じているだろうと、開は思う。

 土間の奥に作りつけられた台所から、佳乃が使う包丁の音が聞こえてくる。ぐつぐつと煮立つ鍋の湯気が八畳間にも流れはじめた。

 ちゃんとレポートやれよと令に忠告したあと、開は食欲をくすぐる香りに心引かれながらも、橙色の電球に照らされて台所に立つ佳乃に挨拶し、家を出た。

 土間と縁側から漏れ出す暖かな光に照らされた庭を抜けて坂道を下ると、そこから先はもう懐中電灯が必要だった。


 分厚い木で作られた丸い飯台に並べられた夕食。

 金属を白く塗装した腕に盛られた白米は、改良後の小さな粒だ。

 俺はやっぱりマルスを使ったこっちの方が好みかな、と令は思う。大きい米も悪くはないけど、なんだか繊細さが欠けている気がしないでもない。

 マルスは品種改良を効率的に行う仕組みのことらしいが、生物学専攻の令もまだそこまでは学習が進んでおらず、名前くらいしか知らない。

 佳乃が並べたおかずは、玉子焼き、厚めのステーキとサラダ、それと味噌汁だった。

 図鑑に載っている目玉焼きという料理は知っているが、あの卵でそれを作ったら片目だけで五人分くらいになってしまう。

 だからか、世話人は溶き卵で作る玉子焼きしか作らない。そのために令は、これまでに目玉焼きを食べたことがなかった。

 それでも、塩と出汁の味が効いた佳乃の玉子焼きは絶品だと思う。佳乃以外が作る玉子焼きも同じ味がするのだけど、やはりなんとなく違う気がするのだ。

 ステーキは牛だ。塩と胡椒で下味をつけたステーキを醤油で食べる。箸で食べられるように、佳乃はすでに切り分けてくれていた。

 令は、一度も牛を見たことがなかった。蟻と同じく図鑑だけだ。

 蟻と違うのは、蟻は野生で生息しているが、牛はまだ行ったことがない牧場でしか見られないということだった。

 二十歳を越えると、生物専攻者には実地研修の機会があるということは知っている。それを考えるとわくわくしてくる。

 ステーキを頬張っていると、土間の台所から佳乃が顔を覗かせた。

「それではこれで。朝ご飯はいつものところに用意してありますんで」

 そういいながら佳乃はにっこりと微笑む。いつもとおりに必要最小限だ。

「ありがとう。お疲れさま」と声をかけて、佳乃の後ろ姿を見送る。

 きれいな人だな、と令は思う。もし母がいたとしたら、おそらく佳乃と同じくらいの年齢かなとも思う。いや、ヨシノさんはもっと若いのかな。わからなかった。母のイメージが浮かんでこなかった。

 ひととおり食べ終わりお茶代わりに味噌汁をすすっていると、二日後が期限のレポートのことが思い出されてくる。

 飯台の下を覗き込むと、朝、山に出かける前に放り出したままにした資料と、書きかけのレポートがそのままそこにあった。

 ふう、とため息をついてレポート用紙を手元に引っ張ったとき、同じように置き放しにしてあった開のレポートが眼に入った。

 そういえば植物と機械に関するレポートって、どんな内容なんだ、と興味を引かれた令は、どれどれと小さく声に出しながら開のレポートを取り上げた。

 初ページを眺め次ページに移ろうとしたとき、数十枚のレポート用紙の中ほどから、薄桃色の封筒がひらりと落ちた。


 駅は、藁葺きの家から歩いて二十分ほどのところにあった。

 家を出て田畑を抜けるまでは、灯りといえるものは手元の懐中電灯だけだ。しかし、駅が近くなるとそれなりに街灯も設置されている。

 台所と同じく裸電球に傘をかけただけの簡素な街灯だったが、それでも灯りがあるのとないのとでは大違いだった。

 建ち並ぶ小さな商店と民家。

 十数軒程度ではあったが、それでも山の中に比べれば駅前という雰囲気は感じられる。

 開は駅の正面まで来たところでぐるりと辺りを見回してみたが、人通りはなかった。

 改札の正面に道を挟んで建っている雑貨屋は、暗くなった今でも営業しているようで明かりが灯り扉が開いてはいるが、人影はなかった。

 まあ、この駅ではいつものことさと思い、改札に向かう。

 駅は木造平屋で、切妻屋根に瓦を乗せただけの簡素な造りだ。茶色の塗装もあってか、ずいぶんと古く見える。

 実際のところどれほど古いのかを、開は知らなかった。子どもの頃からずっと、開の記憶にある限り駅の姿は変化していない。

 駅に待合室のような部屋は用意されていなかった。簡単なベンチが改札の横に数脚置かれているだけだ。待合室どころか駅員室でさえ、この駅にはなかった。

 改札は通りに面した入り口からわずか数歩のところに作られていた。開は改札の真上に掲げられた時計を確認して、改札をホームに抜ける。

 幅が数メートルしかない狭いホームにも、やはり人影はない。通りと同じように電灯が数カ所だけつけられたホームは、薄ぼんやりと黄色く染まっていた。

 しばらく待つと、軌道の先から列車の音が聞こえてきた。滑らかに唸るような音だった。

 黄色い電灯の光に照らされて、ゆっくりと列車がホームに入ってくる。

 黄色い光のために緑色に見える塗装が所々剥げた、四角く無骨な車両がホームに停まった。少しだけ車体が沈み込む。リニアモーターが停止し、車両全体が軌道の上に降下した。

 無音のまま扉が開き、数人の乗客がホームに降り立った。

 乗客たちはそれぞれに大きな鞄を持ち、ふらふらと改札方向に向かう。開は狭いホームで道を譲り、彼らが行き過ぎるのを待った。

 列車はこの駅で折り返し、引き返すことになっている。停車時間は五分以上あるはずだった。

 この路線の通常運転では、この駅が最終駅だった。軌道はこの駅から先も続いているが、しばらく行くと地下に潜り、その向こうは車両整備所になっているはずだった。

 降車客がいなくなると、開は列車に乗り込んだ。

 当然のように、車内に人はいない。開は油拭きされた板張りの通路を通ってその車両の中央ほどまで行き、ビロードのような質感の布が張られたクロスシートに腰掛けた。背もたれは可動せず、ただの板のようだ。板の反対側はうしろの席の背もたれになっている。ビロードを囲む枠や肘掛けは、磨き上げられてつるつるになった木材だった。

 車体は完全な気密に作られており、窓を開くことはできない。

 窓枠に肘をかけてしばらく誰もいない黄色いホームを眺めていたが、やがて車体がわずかに上下するのを感じた。いつの間にか扉は閉まり、リニアモーターが作動していた。

 列車はゆっくりとホームを離れ、黄色くぼんやりした光を抜けてその先の闇に吸い込まれていった。


 右手に持った懐中電灯の白く鋭いLEDの光が激しく揺れる。

 令は真っ暗な足下を確かめもせずに揺れる白い光に向かって走っていた。朝、開といっしょに握り飯をかじりながら歩いた道だ。

 ちくしょう!

 吐き出すようにつぶやきながら、令は走る。

 やがて、揺れる光の先に山に入る分かれ道と、その横に立つ大きな樹が見えてきた。

 昼間、凛が隠れていた樹だ。

「ちくしょう!」

 令はまたつぶやくと、山の入り口を横目にしてまっすぐに走り抜けた。懐中電灯を持った右腕は前に向けられ、走る令に合わせて揺れ続けている。しかし左腕は、棒のように伸び切ったまま体幹に合わせてわずかに前後しているだけだ。

 力が入り過ぎて爪が掌に食い込みそうなその左手には、薄桃色の封筒が固く握り締められていた。


 列車は音も振動もなく加速する。窓の外にはときおり小さな光点が遠くに見えるだけだ。

 やがてその光点も見えなくなり車窓は闇に包まれた。

 窓には薄暗い電灯に照らされた車内と開の横顔が反射して映し出されている。列車は、長いトンネルに入ったのだ。

 街はトンネルを抜けたその先にあった。

 街へは年に一、二度程度しか出かけない。この列車はそのとき使うだけだった。

 開と令、凛が学校と呼ぶ施設が街にあったが、そこに通学しているわけではなかった。

 学習は基本的には在宅だったが、週に三日は凛も加えて山の麓にある集会場での合同講義の時間が設けられている。

 集会場もまた木造の古い建物であったが、規模はかなり大きく、ほとんどを図書室が占めていた。数十万冊の本がそこにはあると聞かされていたが、閲覧には年齢制限がかけられており、歳を経るごとに徐々に制限が解除されていく。

 街の学校へ出かけたときには同じ年代の学生を見かけはするが、ほとんど会話らしい会話はなかった。

 開にとって、クラスメイトと呼べるのは弟である令以外は、凛しかいない。それは、令と凛にとっても同じだった。

 トンネルは長い。列車は三十分ほど走り、ようやくトンネルを抜けた。

 夕暮れから夜にかけて街から山の家に列車で帰ったことはこれまでにもあったが、夜間に街へ来たのは、これがはじめてだった。

 車窓から見える灯りが増えてきた。数階建ての建物が軌道の両側に建ち並び始める。

 建物は石や煉瓦で作られているものもあるが、木造の瓦屋根がほとんどだ。それぞれの窓には暖かな橙色がほっこりと灯っていた。

 列車は速度を落としてゆっくりとホームに滑り込み、やがて停車した。車体がわずかに降下する。車内の気圧調整が行われたあと、音もなく扉が開いた。

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