Last_moment,in_the_"Ciel".

第一話:幻想見聞録。

 鏡の前で、彼は自分の姿を確認している。

 茶色の髪はややくせ毛で、それも相まってか、元々中性的だった体つきや童顔が、相乗してますます女々しさを増している。彼はそれが少し嫌だったが、バトラーとしての正装である礼服を着ていると、それが一番に合うため、結局、髪をストレートにすることは、ここ十年以上していない。彼のイメージする執事とは、少し違うものではあったが、それでも彼は、特に変わることも無く、平凡な日々を送る。

 そうして彼は、また同じ一日を始めるのだった。




 角砂糖を二個ほど入れたサントスコーヒー、その横の皿におかれた二つのマフィンといくつかのマシュマロを口に運びつつ、時々膝の上に座る少女に要求され、苦笑しながらもその頭を撫でる。

 毎日同じ時間、毎日同じように、毎日同じ事を続けている。全くというわけでは無いし、退屈だというわけでもない。むしろその日々が、彼にとっては自分の欲求を充足させる大事なものだと、彼自身気がついている。だからこそ、その日々を大事に消費しようと、彼は毎日を生きている。

 しかし今だけは、この時間だけはどうにも、ルーチンワークのような感覚とは言え、浪費してしまうのだった。


「はあ、あったかい……」


 膝の上にちょこんとすわり、未だ寝ぼけているような印象を与える褐色の肌の少女。そのやや傷んだ髪をほぐすようにして、彼はその髪を優しく梳きながら、時々コーヒーを口にする。これが彼にとっての日課であり、ある種の幸福な時間と言うか、実直に幸せだと感じられる時間だった。

 そんな風に時間を過ごしていると、キイイと音を立てて扉が開き中年男性が部屋に入る。二人は互いに軽く挨拶をすると、男性の方がいたずらっぽく笑って、椅子に座った途端冗談を言い始めた。


「懐かれてるねえ、マルコ。あんまり若い子に手を出し過ぎると、イロハからロリコン扱いされるぞ」

「いやいや、あはは。シャルさんは年来の付き合いですし、それに彼女の方から来てしまいますので。あ、オリバーさん、イロハさんには言わないでくださいよ?」


 そう言われ図星だったのか、オリバーは笑ってごまかす。

 そんな彼を見て、彼、マルコは苦笑いを浮かべて冷や汗を垂らす。そして相変わらず眠そうなシャル――正しい名はシャーロット――に、そろそろ降りるよう声をかけようとした。しかし、彼女はそのまま眠り込んでしまったらしく、暫くは起きそうになかった。

 ……膝の上でちんまりと座って眠り、安心しているような表情を見せる彼女。そんな彼女を見て、マルコは出そうとした声を押しとどめた。


「本当に、不用心と言うか」


 どこか懐かしいような、悲しいような、手に届かないものでも見るような表情を浮かべるマルコ。

 彼の表情を見て、オリバーは慰めようと思ったのか、しかしいつもの調子と変わらず、彼を気遣って話を持ち掛ける。


「ジブリールも、たまにはこっちの方に呼んだらどうだ。お前の方が辛いだろ」


 その提案に、マルコは暫くだんまりとして、考え込む。だが結局、彼は丁寧に断って、オリバーに謝った後理由を述べた。


「ジブリールもシャーロットも、互いに一人前になってから会おうと約束してるのです。その約束を、監督者であり保護者である自分が、自己満足の為に破らせるなんてできません」

「……と、言っても。本音を言うと僕自身かなり気になってるわけですが」


 コーヒーを片手に、シャル、シャーロットの頭を撫で、彼は思いに更ける。


 カリム・ジブリール。シャーロット・シエル・ウォーカー。彼と彼女は元々、この屋敷に居た庭師だった。

 ジブリールはシャーロットよりもニ、三歳ほど年上でおとなしめの子、日に焼けたような褐色肌と黒い短髪からは想像もつかないほど物静かで冷静で、必要以上に素直にものを言わない子だった。だからこそなのか、庭師の仕事には物凄い熱が入っていた。一方シャーロットはと言うと、ジブリールと似たような褐色肌と黒髪ではあったが、彼とは違いとんでもなく破天荒で、度々とんでもないことをしでかして、監督者であるマルコやイロハによく怒られる子だった。

 しかし、やがて二人とも庭師としての技能を習熟していくと、そのうち二人は競い合うようにして技能を磨くようになり、そしてジブリールは二十歳も超えずに独立、より自己の技術を研鑽するために、世界を飛び回っていた。一方シャーロットはというと、年のこともあり、まだ教育期間としてこの館に置いておくということになっている。


 そうしていつの間にか、互いに一人前になってから会うという約束が交わされ、ジブリールの無事とシャーロットの成長を、彼が気がかりにしているわけである。


「まるで保護者だなあマルコ。……ま、わからないわけじゃあないけどよ、子供の前ではなるべく地を出さないようにはしておけよ。必要な時以外はな」


 オリバーはそう言って、やや含みのある低い笑い声を出すと、なるべく音を立てないようにして席を立ち、そっとシャーロットの頭を撫でて部屋を後にした。

 扉が開く時と同じように、キイイと扉が閉まる音がした後、静寂が訪れる。

 目の前にあるマシュマロを手に取って、マルコはふと、あることに気がついた。


(……そう言えば、マコーリーさんとクリミナーレさんは、知らずと仲が良かったような)


 今度は、二人とも一緒に働けるよう、仕向けてみるか。彼はそう、ようやく起きたシャーロットの頬をそっと撫でて、アリーチェとシャーロットを重ねて見てしまうのだった。


「んう……マコ? そのマシュマロ、食べないの?」

「……そうですね、食べますか?」

「あーんしてー、マコー」

「……もう、ちゃんと自分で食べなきゃだめですよ。ほら、あーん」


 そうして、流れる水の様に時を、―――自分はただ、何かを思いながら過ごしている。

 自分のような人間が、彼女のような純粋な人間に触れていいのか、と。

 そう、自分が―――――



 ―――――思い出す思い出せるのは最低最悪の光景。嫌悪しても拭えない赤色の泥。そんなものにまみれた手であの子に触れることが、どれだけ忌避されることなのかということすら、私の精神を蝕んでいた。息が切れ、涙が頬の傷に沁み込んで、痛みと痒みが伝わる。ぬかるんでいた地面を踏み、足がもつれ、倒れそうになる。軍服が水気を含んで重く、赤色がにじんでいた。両腕に抱えた少女は軽く、右腕は未だに黒い焦げが取れない。とめどない雨。流れ去る血液。土砂が跳ね、泥水を被る。その時彼女は死にかけていた。一度は四肢が裂け、脊椎も体から抜け落ちた。はらわたは砕かれて、心の臓は身体から飛び出していた。右腕は焼け落ちて、左腕は幾千もの傷ができていた。そんな彼女を私は助けようとして、私は無理に魔法を使って彼女を救い、業を背負った。その業は消えることは無い。しかしそれでも彼女がただ無残に死ぬことを私は拒み、彼女に生を取り戻させたのだ。しかしそれがいかに愚かで、仇となったのか。その時の私は知ることも無かったのだ。人を殺すための仕事をしている私が、人を救おうと思うなど、そもそもそれ自体が間違いだったのだ。どうして彼女を助けようと思ったのかは今ではわからない。けれど、けれど―――――



 ―――――ふと、彼は冷たい水を掛けられたような感覚を覚えた。


「地を出すな、マルコ。さっきも言っただろうが」


 オリバーの声が唯々耳に響く。茫然としたまま周りを見て、彼の服の裾をぎゅっと握って、不安そうな、驚いたような表情を浮かべるシャーロットと、コップを片手に持ってやや怒りを含んだような声を出す、オリバーの強張った表情が見えた。


「……少し、昔を思い出していました」


 窓の奥に見える色とりどりの花畑。その中で、ただ、ハゼラニウムだけに色がついているように見えていた。

 そういえば、今日は唯一の休みだったか。





 もしも魔法を誰もが使えるならば、彼はそもそもとしてこんな苦悩を抱くことは無かったのだ。

 しかしだからこそ今の自分が存在する。それを確認するたびに、過去とはどうしようもないもので、今を生き、未来を見据えることしかできないのだと、再認識する。けれど、それができれば苦労はしない。それすらも、彼は理解していた。だからこそ、人には見えない努力を、彼自身積み重ねている。

 だが、だからこそ、過去の話をするのは避けている。自分がそうだという事は、他人もまたそうであるはずだからだ。それなのに、自分の事を棚に上げて、人を気遣わずにいるのは、余りに傲慢な行いではないだろうか。そういった考えが彼の中にはあって、それが独りよがりであることも理解はしていた。

 それでもなお、その苦悩を、苦渋を、苦心を、誰かに話す事だけはしなかった。それが自分が唯一守り通した信念であるからだ。それが愚かしい行為だとしても、彼はそうしていた。憫然だとか、不憫だとか、そう思ってほしいわけでは無く、それが正しいことだと確信しているわけでも無く、非生産的だとか思っているわけでもなく。ただの信念で、それを続けていた。

 もしかしたら、ただ構って欲しいだけなのかもしれない。だが、それは他人にとっては迷惑なだけだろうし――勿論一方的な決めつけに過ぎないのだが――、自分だったら構ってはあげるが、その自分だったらが、いつでもだれでも通用するわけでは無い。


 いつものように東を見れば、暗く澄み切った藍色が、すがすがしいばかばかしいほどの青色に、いつもと変わらず塗かえられようとしている。


(……仕事、しないと)


 そう心の中で密やかに呟き、目色を変えて襟を正した。

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