第三話:ティーカップには夢がいっぱい。
「え、えっと、その」
座りながらにして、酷く緊張しているらしくエプロンドレスの端を握り、戸惑いの表情を浮かべて、不安そうな声を漏らすアリーチェ。その対の席、対の様子で、にやにやと笑って机に膝を突く、ごま塩頭のいかつい壮年の男性。その反対側には、ただにこにこと笑って目を細め、長い髪を梳くシスターのような女性。
女性の方は、一週間前の食事会の時に会った、ソフィア・アクロワという元牧師のメイド長だった。アリーチェは彼女の方は知ってはいたが、男性の方は食事会でも見たことは無く、屋敷の中で見る人物でもなかった。彼は困惑の表情を浮かべるアリーチェを気にせず、葉巻を取り出し、指にそれを挟んだまま口を開く。
「ベル君は優秀だったんだけどねえ。マルのやつから、君を教育してほしいって言うもんでさあ」
「ノル、勝手な比較と煙草はやめなさいね。彼女、一応若いんだから傷つくわ」
ノルと呼ばれた彼はへっへっへと笑って肩をすくめると、咥えようとしていた葉巻を「煙草じゃないんだがなあ」と言いながらしまい、失礼したと言って頭を下げる。そしてそれを確認してから、アクロワは落ち着いた声で紹介を始めた。
「多分、貴女は初めて会うかしら。彼はオリバー・マーティン、まあ猟師とか門番みたいな人よ。ノルおじさんって呼んであげなさい」
「んん、おじさんってのはちょいと勘弁してくれねえかなあ」
そう言って苦笑する彼を尻目に彼女は紅茶を啜り、いい年なんだから意地を張るのはやめなさいと言って笑う。
そんな二人を見ながらも、未だに強張った様相を呈しているアリーチェに対して、オリバーはある言葉を投げかけた。
「なあアリス、気ぃ抜けよ。ここは前の場所とは違うんだ。お前に何があったのか、細かくは知らないが、残りの人生楽しみたいなら、今を頑張ることだ。そしてその為に、今はリラックスしろ。……できないか? なら少し面白い話をしてやろう。ありゃ俺が24歳の時だったけなあ……」
そう言って、彼は椅子に持たれながら、だらしなく話を始めた。
目を輝かせてオリバーの話に聞き入るアリーチェ。そしてその横で、花瓶を弄りながら二人を眺めているシエラは、時々くすくすと笑いながら、それでも話を聞いている。
「……でな、ここからが大事なところだ。俺がその時デートしてたのはもちろん嫁さん。で、俺がちょっとトイレに行ってる時、偶然出くわした友人が……ああ、この友人ってのは二つ前の話の戦友でな、こいつとは今でもやり取りしてるんだが……まあ、話を戻そう。で、そん時会ったダチがな、俺の彼女を紹介してやるって言ったんだ。俺は、てめーには一生彼女なんてできねーって言ってたから、少し悔しかったんだよ。だからまあ、負け惜しみじゃないが、適当に顔でも胸でも尻でもからかってやろうと思ったんだ。そしたらな、なんとこいつ俺の嫁を連れてたんだよ! 俺はもう怒ってよ、思わずそいつと嫁を殴りそうになった! しかし、ここでダチが慌てて、そいつはアンタの嫁の妹さんだよって言うもんだから、思わず頭に疑問符が浮かんだ。で、何が起こったのかわかんねー俺の目の前に、嫁が割って入った。しかし、奴が連れてきた嫁じゃねえ。二人目だ! つまり、全く同じ顔の嫁が二人そろって俺の目の前に出てきたんだよ! ますます何が起きたかわかんなくなる俺を差し置いて、ダチがいきなりクラッカーをバーンバーン! 結局、俺の嫁のデートも、ただのドッキリのための仕掛けだったってわけさ!」
そう言って、オリバーは一度、話を切る。
「……え、それで終わり。ですか」
思わず、あっけない終わり方に声を漏らしてしまう。
しかし、オリバーはそう焦るなと言って、話を続ける。
「言ったろ、さっきのは話の大事なところだって。そして、これが落ちだ」
「俺は、あのデート以外で嫁さんとデートしてねえってことに、昨日の夜、嫁が俺に離婚届を突きつける夢を見て気がついたのさ!」
「な、なにそれ酷いっ! 30年付き合って、結婚もしてるのにまともなデートもしたこと無いの!? それに、夢を見てやっと気がつくなんてノルおじさんも酷いよ!」
「そうなんだよ! これは俺の人生の中でもかなり酷い話だ!」
そう言ってオリバーは腹を抱えて笑い、アリーチェは笑い泣きをして、ハンカチでそれを拭っている。
そんなふうに笑っている二人の空気を断つように、ソフィアは花瓶を机に置き直す。
「ノル、そろそろ笑い話は終わりにして、お仕事の話をしましょうか」
「ん、そうするか。アリスも大分リラックスしたろうしな」
オリバーはばっと表情を変え、先ほどまでの愉快な中年のような雰囲気から、熟練の作業員のような雰囲気をまとわせる。その雰囲気に合わせて、アリーチェもぴっと背筋を伸ばす。その姿勢を見てから一息ついて、オリバーは説明を始めた。
「ベルにはもうやってもらってるが、君が将来的にするのは、ご主人様に用のある客人へのもてなしか、それ以外の雑多な用事のある客人のもてなし、その用件の処理だ。その為にも、君にはこれから半年間でメイドとしての技術、作法をマスターしてもらう」
「そして、私が指導役として半年間付き合います。ああ、もちろん実践もしますので」
ソフィアはそう言って、やや他の想いもありそうな笑みを浮かべて、張り切ったようにガッツポーズをしている。そんな彼女にやや恐怖めいたものを覚えながらも返事をして、アリーチェは質問を投げかける。
「あの、ベルは。イザベルは、もう仕事をしてるんですか」
「ああ、してる。……気になるかね」
アリーチェは少し悩むそぶりを見せながらも、軽くうなずく。
そんな彼女を見て、オリバーは少し黙り……一間置いて、彼女に応える。
「仕事が上手くなれば、彼女と一緒に働ける。イザベルは君とは違って、雇われのメイドだ。君よりも経験は豊富だし、仕事もテキパキとしていて活力もある。客に対するもてなしと言うのもわかっている。しかし君にはそれが無い。わかりやすく言えば、経験が無い。もし君が彼女と同程度になればあるいは、半年くらいで一緒に働けるだろうさ。……まあ、今は努力することだな。それ以外にあるまい」
今日は特にすることも無いから、午後は好きなように過ごしていい。オリバーはそう言って席を立ち、奥の部屋へと入っていった。
そしてアリーチェは、やや悔しそうな、悲しそうな表情をしながらも、部屋を出ていった。
「……ソフィー、アリスは行ったか?」
「行ったわよ。わざわざそんなにかっこつけようとしなくても良いじゃないの」
ひょこりと、オリバーが顔を出す。そんな彼に呆れて笑いながらも、ソフィアは少し、怒ったような様子を見せていた。
「ねえ、最初に言ったじゃない。勝手な比較はやめなさいって」
「ああいう負けず嫌いな子は、適度にムチ打ったほうが努力するさ。意外と三ヶ月辺りでマスターしたりしてな」
まさか。そう呟いて、ソフィアは冷めてしまった紅茶を口に含み。
(……二ヶ月程度、でしょうね)
向こう側の自分を覗くように、ティーカップの中へ、目を落としていた。
呆然と、ぼんやりと、家に入って、倒れ臥すようにベッドへ飛び込んだ。
(……ベルと、一緒に)
自分の手を眺めた。
新しく仕立て直した、真っ白なドレスグローブ。傷の一つも、ほこりの一つも無い。けれどそれは決して、私が丁寧に使っていたり、洗っていたりしたから、というわけではない。むしろ、使っていないからこそここまで綺麗なのだ。
(経験が無い、か)
ノルおじさんの言葉を思い出し、思わず笑いがこぼれる。
……久々に、というべきか。いつ以来、というべきか。知らないことを知れるなんて、本当に懐かしいことだ。
生きることに慣れてしまっていた。人生で起こりうることのほとんどを経験してしまったというわけでは無い。知識を得過ぎた、つまりは知ることに対して飽きていたのだ。
しかし、私が知らないことがまだあるのか? 確かに、ベルやこの屋敷の様に、私の常識から外れてしまっていたものにはびっくりした。しかし、こうにも、こうにも。
(胸が躍る―――!)
知識欲。昂る感情のそれは、いわゆる恋やそういったものに近しいだろうか。ベッドの上をごろごろとしながら、枕を抱きしめて、ためらう事無く感嘆符のような声を漏らし続ける。
(ああ、今までこんなこと知らなかった! 知識を得ることがこんなに喜ばしいことだなんて!)
食事よりも嬉しい。楽しい。余りに懐かしい感覚。
昔では持て余してしまっていた。知れることは何でも知ろうとして、結果としてそれと、それ以外を楽しめなかった。しかし、今は違う。感情がはっきりとしている。私自身がモノを知ることに対して期待をしている。
ベルと会った時もそうだった。
(あの子は私と同じ。でも、私が知らないことを知ってる。だからあそこまで惹かれたんだ!)
初めて彼女と会った時、猛烈にわくわくとした。
パステルカラーのような、水彩色鉛筆で描いたような容姿。そして何よりも、漂う雰囲気の違い。空気を含んだ、ぬるい水のような柔らかさ。けれどどこかにある、融けきっていない氷のような結晶。どんな濾過槽だろうとすり抜けてしまう水と、すぐには通らず、ただ表面上に残り続ける氷。それが彼女だ。
思わず、踊りだしてしまいそうだ。私は、彼女と共に過ごしたいと思った。彼女の氷を融かしたくなった。だからこそ、ここで働きたいと思ったのだ。彼女と一緒に時を過ごし、彼女を知りたいのだ。もし彼女がそれを望まない載らば、それはそれで仕方がない。彼女が私に心を許してくれるのを待つだけの話だ。
それくらい私は、ベルに対して、―――――
「アリス?」
彼女の声が聞こえた。
いつの間に、いたのだろうか。思わず起き上がって、変な声色になりながらも、おそれおそれとして彼女に訊ねる。
「えっと、いつから居たの、ベル」
「その、アリスが家に入ったところから。なんか、変だったから。喜んだ感じだったり、悶えたりしてて。あの、ごめんね。なにも言わないで入ったりして」
その言葉に含まれる意味。それはつまり、私の痴態が全て見られていた、ということになるのだろうか。しかし、ベルはもう働いていたはずだったのでは。
「あの、もうベルは働いてるって」
「えっと、マルコさんから今日はもう良いよって言われたの。お客さんが来る予定も無かったから、どうせだしアリスと一緒に遊ぼうかなって思って」
本当に勝手に家に入っちゃってごめんと言って謝るベル。
……そういうところ、なのかもしれない。
「ベル、謝らなくていいよ。でも、その代わりに、貴方の話を聞きたいなっ」
「え、あっ、えっとその、私なんかの話しを聞いても、つまんないとおもうけど……いいの?」
ベルはそう言って、照れ臭そうに確認を取る。
「私、ベルのこと好きだから、ベルのお話しだったらなんでもいいよ。ベルのこと、もっと知りたいから!」
ベルは、少し驚いたように顔を赤らめて、少しためらいながらも、私の隣へ座る。
その間にあった距離を、私は詰める。
「ち、近いよ。アリス」
「だって、ベルがかわいいんだもん」
それに、近づかなきゃ、ベルの声を聞き逃してしまうかもしれない。
そんなのは嫌だ。彼女のことを知りたいのに、そんな事が出来るだろうか。
「じゃあ、私のこと、アリスに話すね。本当につまらないかも、だけど」
……いや、
「そんな事無いよっ。だって、私が好きな人なんだもん。つまらないわけないよ」
「……そっか、じゃあ、まずは私が前に働いてた場所の話からするね」
「うん、お願い!」
そんな事、出来るわけがない。
私は、彼女の心の音を、耳を澄ませて聞いていた。
「―――……それで、この話は終り。面白かった、かな?」
「面白かったよ! 結局、夕方までずっと話をしちゃってたけどね」
日は、既に沈みかけている。辺りは暗く、すぐ隣にあるはずのイザベルの家が、アリーチェにはとても遠くにあるように思えた。
やがて、外の方から、食事の時間だと言うマルコの声が聞こえ、イザベルは立ち上がって、アリーチェに手を差し伸べた。
「じゃあ、もうそろそろご飯を食べないと。また、明日も、時間があれば話すね」
「うん。……ああ、それとね、ベル」
アリスの手を、ベルの手を、そっと握る。
「私、いつかイザベルと一緒に働くよ。上手くいかないと、半年かかっちゃうかもしれないけど……一ヶ月で、あなたと一緒に働けるようになるから」
「……わかった。でも、無理はしないでね」
「もちろん!」
ぶんぶんと握手をしたまま腕を振り、勢いよく頷いて……アリーチェはすっと手を放し、腕を下す。
「だから、その時まで待っててね」
「……もちろん、待ってるよ。アリーチェのこと。それじゃあご飯、食べにいこっか」
「うん、行こう!」
そう言って、アリーチェはイザベルの手を握り、花畑の道を進んだ。
マルコはそんな二人を見て、ふと、自らの記憶を懐かしく思うのだった。
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