17話:恐れを孕む
オアシスで見た謎の男に関しては、ラバカ大臣がまさかの似顔絵を描いてくれた。黒地石に器用に描かれたそれは、中々に上手い。意外な特技である。
だが、リカラズ出身であるフィリアにそれを見せた途端――今までにない程の恐怖を浮かべて、彼女は取り乱した。
「ひぃっ!! な、何でそいつが!!」
「フィリアさん!?」
「これはいけない。フィリア、すぐに鎮静剤を投与しよう」
偶然来ていたダリド王子が、すぐに置いてあるケースを開け、中に入っていた注射器で彼女の腕に薬を投与する。
すぐに大人しくなったフィリアは、だが目が虚ろなまま座らされ、虚空を見つめていた。
そんな様子を見ながら、ダリド王子は深いため息を吐く。
「やはり、避けては通れないようだ。だが、彼女をその男に会わせる事は、決して出来ない。……このような状態になるからね」
「ヤッドさんによると、リカラズからも仲間を連れて来た、ということらしいですが、この人がそうなんですか?」
里琉の疑問に、ダリド王子が思い切り眉を寄せた。
「出来れば話したくないが、フィリアの危険を考えれば、教える他ない。まず、その男はフィリアの養父だ」
「養父……?」
育ての親、ということか。それなら、フィリアはもしかして虐待されていたのだろうか。
だが、ダリド王子の説明はそれを超えていた。
「あまり言いたくない事ではあるがね。……フィリアは元々、最下層で生まれた人間だ。最下層の人間は、生まれながらに名前はなく、番号で管理されている。彼女は確か、五十七番だったかな。彼女は物心つくまで、その最下層で育ってきた」
「……孤児、ですか」
彼女から家族の話を聞いた事が無かったのは、その為だろう。踏み込むつもりは無かったが、王子は話を続けるらしい。
「そして、最下層の人間は生きる為なら何でも食べる。……人の死体さえも」
「っ!?」
オアシスでの光景を思い出し、里琉はぎくりとした。そういえば、ディアテラスは共食い、つまり人間も食べる事が出来ると言っていた気がするが、もしかしたらそれは、人間としての飢餓状態が関係しているのだろうか。
ともかく、それを食べなければいけないほどに、リカラズの最下層に住む者は飢えている、ということだけは理解できた。
「フィリアは昔から器用だったようでね。死体を分解し、内臓さえ扱える子供だったというよ。……ある日、それをその男に見られ、目を付けられ、連れ去られたという」
「逃げる暇も無かった、って事ですね」
「そうとも。中層の人間となった彼女に与えられたのは、新たな名前と――時折出て来る死体の分解をする仕事だった」
その名前まで教えるつもりは無いらしい。もっとも、里琉とてフィリアと呼び続けている以上、他の名前で呼ぶ気はないのだが。
それよりも死体の分解という仕事の方が気になった。一体どうしたら最下層の人間でもないのに、そんな事をする羽目になるのか。
「姉上の特殊嗜好について教えておこう。姉上は最下層の人間と違い、美と若さの為に特定の人間の肉を食らう趣味がある」
「っ!!」
ホラー漫画や映画、有名な逸話などで聞いた事はあるが、実際にやっている人間の話というのは、ぞっとする以上のものがない。立派な狂人である。
「実際、彼女が解体していたのは、若い女性ばかりでね。とりわけ――未熟な赤子を胎に宿していた女が多かった。姉上曰く、子を宿す事で体内に栄養を蓄積し、肉質が柔らかく重厚な味となる。そして胎児そのものも、生まれる前の命として、若さとして、女王は気に入っていた」
「う……ぐ……」
淡々と語られても、気持ち悪さがぬぐえない。しかし吐くわけにもいかず、里琉は口元を押さえながら、ふらっと椅子に座り込んだ。
「……すまない。あまり聞かせたい話ではなかったが、説明不足になってはならないからね。私もその事実を知った時は信じられない思いと、強烈な嫌悪感に襲われたよ。妹として生まれなくて良かった、と思う程度にはね」
――知っている。人間が魚の卵や家畜の仔を好んで食らう理由と同じだ。だがそれはあくまでも食物連鎖、栄養という観点において、人ではないから許され、受け入れられた事。同朋を食らうのは、全く別なのだ。
「……続きを。フィリアさんはそれをずっと続けてきたんですよね」
こみ上げる胃液を、置いてあったカップの茶で押し戻す。
ダリド王子は少し気の毒そうな顔をしたまま、頷いて続きを語り始めた。
「それが数年経った頃、彼女に一つの異変が起きた。……初潮だ」
「……生理、ですね。初めて来た時は、私も怖かったです」
普段有り得ない所から流れ出る、血とそれに似た何か。じわりと痛む下腹部や、腰。酷い人は頭痛や吐き気にも襲われ、立ち上がる事すら困難になるという。
それを彼女は迎えた時、どう思ったのか。今のフィリアに訊く事は難しいだろうし、聞いてどうなるとも思えない。その先の方が重要だ。
「ああ。その初潮が終わったとほぼ同時だ。……彼女は、その養父に、犯された」
ざわり、と全身が総毛立つ。そうだ、ストーカーの相談を最初にした時、彼女は――トイレに駆け込んで。
「……あ、あ、私……私はっ」
そんなつもりじゃなかった。思い出させるつもりではなかった。それでも彼女は気上に振る舞って、何度吐いてでも、里琉を助けようとしてくれて。
「そこからは地獄だったそうだよ。妊娠の恐怖と隣り合わせの行為と、尋常でない執着。その男が抱えていたのは、かつて失った妹への妄執だった」
「……妄執?」
「ああ。そもそも気にならなかったかい? 何故彼女が、最下層でこの男に見つかったか」
「……そういえば、確かに……」
最下層はスラム街のようなものだろう、と里琉は想像している。そんな所に身なりのいい男一人が来たら、身ぐるみ剥がして殺されるだけだ。
それなのに、そうならなかったのは。
「この男には妹が居た。妹を溺愛していた男は、ある日、同じ屋敷に住む使用人の男と妹が恋仲であると知った。そして更には、妊娠までしていると。……男は、どちらも殺し、そして男の方を先に最下層へ運び入れ、捨てたんだ」
「まさか……フィリアさんが、その死体を……」
彼女は解体が得意だと言っていた。そして死体も食べてしまうと。つまり、新鮮な死体を見つけてしまったのが運の尽きでもあったのだ。
「最初に言った通り、それがきっかけだ。そしてすぐに、屋敷では一人の少女の解体をやらされたという」
「……妹さん、ですね」
聞かなくても分かる。同時に殺したのなら、当然の処置だ。
それでなくても、女王の嗜好に沿った存在なら、尚更。
「……全てを解体させた男は、残った部位をフィリアに与えた。その後は普通の食事に戻したそうだが、……時折、余った部位を食べさせてもいたようだ。だから彼女は人間の死体を今でも食らう可能性がある。ディアテラスでもないというのにね」
「そんな……」
植え付けられたものが、簡単に消えるはずもない。フィリアはここに来てからその衝動を起こしていないのだろうか。
「……幸い、私が持ってくる薬で今は何とかなっているようだが……この国にその男が居ると知った以上、どうなるか」
ダリドは心配そうにフィリアを見る。彼女は未だ虚ろなままだ。
「話はまだ終わりではない。彼女はその地獄から逃れる為に、必死に勉強した。養父と見張りの老女には、勤勉に見えるように誤魔化しながら、いくつもの知識を吸収し、己の知見に合わせて特化させていったんだ」
「あ、人体に詳しいのってまさか……」
「そうだとも。彼女は己の武器を己で理解し、磨く力を持っていた。だからこそ、姉上の目にかなったのだよ」
女王の生誕パーティー。そこでフィリアは成人と共にパーティーへの参加を許され、女王への挨拶で己がしてきたことを暴露したという。
『お初にお目にかかります、女王陛下。私、ゴラーブの養女の――と申します。女王陛下がご所望なさる特別なお料理の下拵えを担っております栄誉を、ここにてご報告いたしたく』
『まあ、お前が? 本当なの、ゴラーブ?』
『……は、はい。非常に手先が器用で、しかも賢く、人体における知識においては、同年代の中では随一かもしれない、とさえ……』
『まあ! では早速、簡単な試験を受けさせなくては。合格したら、すぐに王属研究院へいらっしゃい。あなたの席を作っておいてあげるわ』
『し、しかし、それでは……女王陛下へのあれが……』
『いいのよ。そろそろ、飽きてきたから。それにね、頭のいい子は私、とっても好き。私のお願いも、きっと叶えてくれると信じているもの』
『身に余る光栄です。是非、お受け致したく存じます』
『うふふ、今夜は泊まって、明日、朝から試験を受けてちょうだいな。ゴラーブ、この子の荷物を明日、全て持ってらっしゃい。もうこの子は王家のものよ』
『…………かしこまりました、女王陛下』
――ダリド王子は、その顛末をただ見ているだけしか出来なかったという。
だが、結果として彼女は養父の家から逃げおおせ、すぐに研究員として成果を出し始めたそうだ。
「多くの薬を開発し、毒となる素材さえ無駄にはしなかった。姉上が望んだ処刑方法さえも発案し、実現させた。そのせいで、死体の数は増えた。だが、フィリアが悪いとは思っていない。姉上が望む通りにしなければ、己が死ぬ。そういう場所だったからだ」
「……ディアテラスも、その、女王の命令でしたよね」
「ああ。人間をどうすればもっと強く、もっと扱いやすく出来るかを検討して理論を確立させ、実際に作るまでを任せたんだ。……その時に一度、彼女はストレスに耐え切れず、死体食を発症している。私が止め、応急処置として安定剤を投与する事で、その後は抑制出来ているようだが」
「……それでも、成功、してしまったんですね」
「その通り。そしてその第一号が――養父だ」
「っ!」
そうか、だからあの時アリスィアと一緒に居たのか、と里琉も納得する。そして、男の発言の中身も。
「き、危険です。フィリアさんを誘き出して、捕らえるつもりでした! 国から逃げ出した以上、フィリアさんをどうにか保護して、この男を始末しないと!」
「――それは私の役目よ」
静かに、深く、闇を孕んだ声でフィリアが言った。
「フィリア。……正気に戻れたようだね」
「何とかね。その男は、私の手で完璧に、完全に始末したいの。殺したいの。でなければもう、私は安心出来ないわ」
ふらり、と寝台から立ち上がるフィリアは、里琉の肩をがっと掴み、暗い瞳で言った。
「ねぇ、リル。連れてって? オアシス管理局へ、私も一緒に」
「フィリア、さ……」
「お願い。殺さないといけないの。その為なら、何だってするから、ねぇ、ねぇ、ねぇ……!」
ぎりぎりと指先が食い込む。その痛みに里琉は顔を歪めた。
「フィリア。手を離すんだ」
「……!」
はっとしたフィリアが、慌てて手を離す。まだ感情のコントロールが上手くいってないらしい。
「大丈夫かい、リル殿。……どのみち、フィリアの助力は避けて通れない。技術者として連れて行くよう、王に頼んでもらえないだろうか」
「……大丈夫、です。多分、フィリアさんなら……」
肩をさするが、もしかしたら少し痣になったかもしれない。イシュトに何も言われないといいのだが。
その時。
「へえ、ここが研究員さんの聖域かぁ! あ、スパイ、みーつけた」
――フィリアが放心中の隙に、入り込んでしまったのだろう。
テアの王子、アルカセルがここに来て笑顔でそう言い、更に続ける。
「大人しく、捕まってね? 僕、スパイを見付けるの、得意なんだ。逃げたら殺すよ」
「……やれやれ、他国の王子とやり合うだけの用意はしていないんだが」
「っていうか、フィリアさんが本調子じゃない時に来ないで下さい!」
「……分かってるから、今来たんだよ。ね、研究員さん。他国の、それもリカラズの王子と密会なんて、スパイ行為を疑われても、言い訳出来ないよね?」
「……はあ。安定剤で頭が回らないのが辛いわ。ダリド王子、ここは腹くくって捕まってちょうだい」
「まあ僕は構わないけど……リル殿、出来れば一緒に来て、釈明してもらえないだろうか?」
「あ、はあ……いいですけど」
――そうして、面倒ごとがまた増えた。
※ ※ ※
いつも通り仕事をしていたイシュトは、突如ノックもなく開けられ、更に乱暴に放り出されたそれを見て、色々と止まった。
「…………」
「や、仕事中にごめんね、イシュト。これ、スパイ」
「ははは、スパイと何度も呼ばれるのは困ったものだ。私はただのスパイではなく、この国における益も持っているというのに」
「アルカセル王子! ダリド王子は自国の為に動いてるって何回言わせるんですか! この人のおかげで、ディアテラス用の対武器が手に入ったのに!」
里琉までやってきたが、転がされているダリド王子とやらの味方らしい。というか、王子ということは他国の人間だろう。
「……まさか、リカラズの王子か?」
「はは、こんな無様な格好ですまないね、レダの王。いかにも私が、ダリド。リカラズ国の王子にして、正当なる後継者であり、実姉である女王に反逆の意を持つ革命の頭だ」
軽く縛られて転がされつつも、ダリド王子とやらは堂々としている。
やや遅れて、フィリアが入ってきた。
「面倒だから鎮静剤を追加服用してきたわ。それと、一応の事情を説明にね」
「フィリアさん、本当にもう大丈夫なんですか?」
「ええ。……さっきは悪かったわ。後で手当てするわね」
傍目には怪我をしているように見えないが、何かあったらしい。
それはともかく、現状を整理したいのだが。
「まず、そいつの拘束は解いていい。いざとなったらどうとでもなる。それと、リカラズの王族ならその証くらいは持ってるだろうな?」
「ああ、こちらだ。王族専用のカードキー。このカードキーは他に比べ、絶大なる威力を誇る。無論、電磁波にも強いとも」
拘束を解かれたダリド王子が懐から出したのは、見慣れないカードだった。金色のそれは、黒で紋章が記してある。
「紋章を刻むカードキーは王族の証だ。我が国は技術を重んじる。……さて、面倒な話をする前に、謝罪しておこう。悪いが、私は確かにスパイだ。故に情報をある程度横流ししている。主に、オアシス管理局にだ。……ただし、そこで誤解しないで頂こう。彼らはあくまで女王側であり、僕はそれに敵対している。表向きは協力を示しながら、だがね」
ということは、ある程度の情報はアリスィア達に知られている、と見ていいだろう。
それでも彼らは目立った動きを見せていない。つまり、決定打を示さないと動かないはずだ。
「フィリアの所に居るディアテラス達からも話は聞いたとも。……なんでも、子が成せるディアテラスを開発したとか? 全く、無駄に知恵の回る事だ。大方、欲に駆られたゴラーブが、フィリアを一生飼い殺しにする為に考え、アリスィアがまとめて嫌がらせ出来ると踏んだ策だろう」
全くもって、下品極まりない、とダリド王子が呟く。それは同感だが、当のフィリアは吐き気を堪えているようだった。
「……ああ、早く消したい。殺したい……」
抑制剤がどうのと言っていたが、効いていないのではなかろうか。
と、不意にダリド王子の隣で小さな箱を持っているアルカセルに気付く。
「おい、アルカセル。何を持ってる?」
「ん? これ、ダリド王子を縛り上げた時に転がったから、預かったんだけど。何だろうなーって思って」
「……げっ、そ、それ……」
何故か里琉が青ざめる。彼女には心当たりがあるのだろう。
フィリアも慌ててそれを取り返そうとするが、ひらりとかわされてしまった。
「え、何、見られて不味い物なの?」
「どうだろうか。私はリル殿に頼まれて持ってきたのでね」
「あああ! ダリド王子、それ一番言っちゃまずいやつ!」
「……めんどくさ。はいはい、もう諦めて見せましょ」
今度こそ箱を取り返したフィリアが、躊躇いなく金属製の箱を開けた。中には見たことのないものが入っている。
「なにこれ? 初めて見るんだけど」
「……改良した避妊具よ」
「避妊具? ……リル、お前まさか」
「い、一応、イシュトのお母さんが抱えてた懸案だって、宰相さんも言ってたもん! ちょうどいいだろ!」
フィリアに隠れて開き直る里琉だが、それは普通に相談して欲しい内容だった。
いや、避妊したがっていたのは分かるが、だからと言って他国の王子に頼るのは気分がいいものではない。
「へえ! こんなに薄いの? え、開けていい? この切れ込みだよね?」
「駄目駄目! ゴミになるじゃない! 使う時に開けて!」
「だって僕、これ使ってみたいな。ねえイシュト、ライラ姫も成人しているし、いいよね?」
「……そこは当人の同意を取れ。というか、どうやって使うか分かってるのか?」
「うーん、口頭説明で分かればいいけど……」
「何が楽しくて、昼間っから避妊具の使い方を王族に説明しなきゃなんないのよ!!」
「だよね……。私もよく分かんない。クラスで男子が風船代わりに遊んでるのを、先生が見つけて滅茶苦茶怒ってたくらいの記憶しかないや」
つまり、里琉はそのものを知っている、と言う事になる。
「……使わないとならんのか、それを」
「え、嫌なの……?」
避妊したがる気持ちは分からないでもないが、いくらイシュトの成功率が高くても、本当に一発で当たるとは限らないし、避妊してまでやる必要はない、と思ったのだが。
「王様としたら、リルなんかすぐ妊娠するわよ。問題片付くのを待つか、これを使うかの二択に決まってるでしょ」
「僕も賛成かな。僕やライラ姫はこういうの、珍しいし率先して使いたいけど、イシュトは興味向かないどころか、使いたくないみたいだね?」
「ふむ、女性の妊娠は懸念が大きい。リル殿に対して危険を冒せと要するならば、相応の責任が伴うが」
イシュトが悪い流れになっているが、納得いかない。
「むしろ疑問なんだが、何で俺が使わないといけないんだ? 使ってまで抱かれる理由があるのか?」
瞬間、里琉を含めた全員から絶対零度の視線を浴びた。
「うわ、さいてー……」
「ええ……こんな時に駄目っぷりを発揮しなくても」
「レダの王。……貴殿はもしや、鈍いのかね?」
口々にイシュトが非難を浴びる中、里琉は箱を閉めると言った。
「別に、使いたくないならいいよ。その代わり、もう通わない」
「何でだ」
「当たり前だろ。あ、これユジーさんところに持ってくね。サンプルとして一つ渡したいから」
「それはいいけど、あんた、言わなくていいの?」
「この場で? 他人が居る前で? 何の公開処刑?」
「……あ、うん。私が悪かったわ。とりあえずそれはあんたが保管しときなさい、リル。この話は後回し。というか、二人で話し合って決めてちょうだい」
フィリアは里琉の怒りを理解したらしく、もろ手を挙げて降参を示す。
残りの二人も、やれやれとため息をつき、肩をすくめていた。
「僕は一つ貰うね。研究員さんより、同じ男のダリド王子に教えてもらおうかな?」
「やれやれ、さすがはテアの人間。好奇心に勝るものはなし、か。いいとも。そう難しくはないよ」
ひとまず話を別に進める事となり、フィリアは一つの装置を出した。
「これ、カーエを捕まえた時にも使ったんだけど、いわゆる電波干渉装置なのよ。中にエレホスが入ってて、スイッチを入れると近くのエレホスが反応するの」
「あ! そういう仕組みか!」
「さすがリル。理解が早いわね。いい? ここに普通のエレホスを置いて、これのスイッチを入れると……」
かち、と手に持った棒状の機械の小さなボタンを押したフィリアの傍で、置かれたエレホスがにわかに光り出す。
「へえ! これって発光するんだ!」
「蓄電中、あるいは発電状態だと発光するのよ。で、これがディアテラスに対してだと、ジャミング状態……いわゆる干渉を引き起こして、エラーを起こすの。だからまともな思考はおろか、動けなくなるのよ」
「……ん? ということは」
ふとイシュトは思い出し、机の引き出しを開けた。そこには、放置してあったエレホスが置いてある。
取り出したそれも、やはり光っていた。
「ちょっと王様! それ去年渡したやつじゃない! 持ち歩きなさいよって言ったわよね! 人体蓄電量が他人より倍はあるから、カルフに埋もれるって困ってたのは王様でしょ!!」
途端にフィリアから叱責が飛んできた。
里琉がそこで首を傾げる。
「かるふ?」
「あー、風期はね、風と共に山からやってくる不思議な生き物が居て、それがまた、蓄電体質なのよ。まあ、毛皮というか、綿みたいなものに包まれている、無機物生命体なんだけど」
「えええ! 無機物生命体って何!? すごい! 見たい!」
興味に目を輝かせる里琉を見て、アルカセルが若干引いている。
「うわ……すごい食いついてる……」
「あー、えっと、中に「雷華石」っていう、カルフの心臓みたいな石が、ゴムみたいな厚手の皮膚に内包されてて、目と尻尾みたいなのはあるけど、それ以外はただの綿の塊っていうか……」
フィリアがうろ覚えらしき知識を与えると、更に彼女は目を輝かせた。
「石が心臓!? み、見てみたいけど、生きてるんだよね……?」
「おい、雷華石は取り扱いした時点で極刑だぞ」
さすがに見かねてイシュトが言うと、里琉は驚いた顔をする。
「極刑!? 大げさすぎない?」
「大げさではない。カルフが来なければ綿は取れず、この国での布が作れない。布だけではない。糸にする際に出る綿くずでさえ、生活のあらゆる場面で使用されている。それらを大量に残して、風期の終わり際に山へと戻り、代わりに雨をもたらす存在だ。決して捕獲、解剖、流通などしてはならない」
「ふむ、一体だけでも預かりたいが、それは難しいようだ。ちなみにその話をするということは、過去に前例が?」
ダリド王子の想定通りだ。イシュトは頷いて軽く説明する。
「かなり前の代になるが、やはりカルフの生態を見極めるべく、十体程集めての実験をいくつか行った記録がある。だが、その実験によってなのか、カルフは例年より早く山へと戻り、雨もほとんど降る事はなかった。雷華石はカルフの体内にある状態ならば、美しい紋様を表面に浮かばせ、光を帯びて体内に浮かぶが、それをひとたび外せば紋様は消え、浮遊もしなくなる。その石を割ると、中には粒状の石が更に詰まっていて、一粒一粒が非常に美しい金色をしているという。それらの情報は外部に一応秘匿されているが、やはり気になる馬鹿がやらかして流通させ、捕まる事例は絶えない」
だからこそ、実験は中止となり、カルフという存在を重要視して守る方に決めたのだ。
里琉は首を傾げているが、もう見たいとは思っていないらしい。眉を寄せて呟く。
「石の中に石があるってことは、無機物として集合体である状態か。共鳴反応で、ある程度の意思疎通くらいはしているのかも。尻尾があるって言ってたけど、それは多分アンテナの役割を担ってて、一体が破壊されたらそれが伝播していくんじゃないかな。無機物生命体、っていうのは間違ってないと思う」
「あんたはどうにかして見たいとか言わないの? 今回」
「私は石が好きなだけで、生命体なら石でも命だと思うから、それとこれとは別」
彼女の場合、良心があるおかげで理解が早くて助かる。
ともあれ、カルフに関しては概ね理解出来ただろうか。
「まあでも、丁度良かったわ。リル、はいこれ」
「え、これってさっきの機械だよね」
「カルフの山に近付ければ蓄電するから。やれるだけやっちゃって」
「それならこの二つも蓄電出来ない?」
「うーん、分散して蓄電した方がいいわね。エラーが起きても困るし」
「じゃあ一つは僕がやるよ。面白そうだし」
ひょい、と一つを手に取り、アルカセルが言う。
「けど、結構小さいね。布袋越しでもいける?」
「余裕余裕。となると、あと一つだけど……」
「私が蓄電しておこう。リカラズならば、カルフが居なくても蓄電はどこでも出来る」
ダリド王子がそう言いながらもう一つを引き取った。
リカラズの知識に関しては相変わらず門外漢だが、イシュトは言い知れぬ疎外感を抱く。
とはいえ、自分に何が出来るかと問われたら、答えられない。
「じゃ、王様は今回もカルフに埋もれながら生き延びてね」
フィリアがとどめの一言を放ち、里琉は肩をすくめるだけだった。
「運が良かったら助けてあげるよ、王様」
「あははは、僕だったらお礼をしてもらおうかなー?」
「……引きこもりたい」
「レダの王は、もしや子供の心のまま成長してしまったのかね?」
ふと問われ、イシュトは驚く。
「何故だ」
「先ほどから観察しているが、貴殿はいくつか、問題を抱えている。リル殿との関係、リカラズの知識に対する理解不足と消極的な姿勢、カルフに対しての対策の無さの維持。……そう、全てに対し、向上心が見えないのだよ」
「ダリド王子、余計な事言わなくていいわよ。王様、子供の頃から色々あったから」
「そう、色々とあり過ぎて、受動的過ぎるんだよね、イシュトは。何て言うか、手遅れになるまで動けない? みたいな」
アルカセルもダリド王子の言葉に賛成のようだ。つまり、まだ足りない、という事だろう。
それどころか、また手遅れになるかもしれないかのように言われている。
「リル殿、そういえばエレホスの蓄電に関して、銃を持ってきたんだが、貴殿は扱えるだろうか?」
「銃!?」
驚く里琉に、フィリアが二つの何かを出してきた。
一つは角ばっているが、もう一つは丸みを帯びている。どちらも似たような形だが、これが銃というものだろうか。
「うーん、これなら多分、反動は大きくないですよね。少し練習すれば、感覚は掴めると思います。ただ、こっちの方はビーム銃ですよね?」
「そうなのよ。熱線銃だから、下手な所に当てると被害が広がるのよね。でも、管理局の奴らは大半が持ってるみたいだから、せめて何人かでも扱える人材が欲しいんだけど」
「んー……これ、仕組みとしては?」
「エレホスじゃないのよね。レダで採れる朱水石みたいな石を、瞬間的に高熱チップで溶かして噴射してる感じ。その高熱も、一度起動させたら一定時間で一定の温度になるから、それまで使えないってのが難点なのと、中の石が無くなると勝手に電源が落ちる仕組みなの。ややこしい部分は省くけど、とにかく熱源があって、それで石を溶かして瞬間噴射してるから、ビームというか、水鉄砲の危険なやつ、と思っていいわ。連射も出来ないわよ」
「そっか。だったら、片っ端から奪って無力化した方が早いかも。電源さえ落とせば使えないんだよね?」
「ええ。危険な代物というだけはあるから、電源を落としたら急速冷却が始まって、再起動までの時間は倍以上になるわ。その間にジャミングか頭に電気ショックを与えれば、倒す事は可能よ」
「へえ、じゃあその銃は奪うだけ奪って、こっちの戦力にする? それともダリド王子に返還する? 革命に必要なら、有用に使った方がいいよね」
アルカセルの申し出に、ダリド王子は感心したように頷いた。
「ふむ、話の分かる相手はありがたいとも。クーデターが成功したあかつきには、是非、テアとの貿易も行ってみたいものだ」
「あはは、僕が代替わりするまでに終わらせてね。君こそ、結構抜け目がないじゃないか、ダリド王子?」
「リカラズは毎日が生きるか死ぬか、だからね。富裕層も貧民層も、王族さえも。だから勝機は死ぬ気で掴まないとならないのだよ」
「……はあ。厄介なのが手を組んだ気がするわ。ま、この二人はいいとして……王様。さっきからボケっと話聞いてるけど、何するか分かってる?」
「…………っ、あ、ああ」
――正直、自分を置いて話を進められていた気がするので、自分が何をしたらいいのか、むしろ分からない。
が、それを言えば彼らの事だ。十倍、百倍にして返してくるだろう。
「……お前達がリカラズ側の技術を扱うなら、俺はレダの力を扱うまでだ。少なくとも即戦力の招集、オアシス近隣の避難、生活困難者の受け入れ先用意、いくらでもやる事はある。……ただ、その前に一つ問いたいんだが。……アルカセル。お前が初日に来た時に言っていた言葉は、どういう意味だ?」
虚偽の噂を流すとか言っていたが、そこに里琉と自分の関係は正直、必要ないと今でもイシュトは思っている。
しかしアルカセルは怪訝な顔で問いを返してきた。
「あれ? まだ分からなかったの? っていうか、さっきの避妊具の話に繋がるって事も理解してない?」
「無理です、アルカセル王子。今のこの人に、私を抱ける責任感は持ち合わせてないでしょう」
唐突に里琉が、冷たく言い放つ。
「っ!」
「王子がやりたかった事は、簡単です。私とイシュトがれっきとした恋仲である事をアリスィア達に噂として伝え、焦らせる事。計画を途中で断念せざるを得ない状況を作り出せば、嫌でも向こうは防衛に転じなければいけないはずです」
「何だ、分かってたんだね」
「ただ、私としては妊娠は困ります。その為に避妊具が必要であると……あれ? 私、言いませんでしたっけ? ねえ、イシュト? 王様?」
「……帰る為に、じゃないのか」
「そんな選択肢、とっくの昔に後回しにしてますよ。ユジーさんからも奇跡の石が奇跡じゃないと言われているのに、現状、何のヒントもなく帰れると思ってませんし、このままなし崩しとはいえ、制圧に関わるのは間違いありません」
声で分かるが、非常に怒っている。恐らく、互いの気持ちにズレが起きているせいだろう。
避妊具を用意すると言ったが、まさか他国から持ち込まれると思わなかったし、それならそうと説明が欲しかったのも事実。それに、扱うにも教授しなければいけないと言う時点で、抵抗があった。
里琉はきっと、それさえあれば避妊出来るから、という理由だけで求めたのだろう。
だが、噂の為なら、その必要はない。彼女が無理に純潔を自分に捧げる意味は、そこには――存在しないのだ。
「リル、何でお前、俺に抱かれようとしてるんだ」
――瞬間、場の空気が凍り付いた。
フィリアは天井を仰ぎ、アルカセルは肩を震わせている。
ダリド王子は苦笑して、里琉の肩をポンと叩くと、言った。
「リル殿、怒っていいとも」
こくりと頷き、里琉は――平手を急にかましてきた。
ばちーん!!
「この鈍感、女誑し!!」
そうしてそのまま、バタバタと部屋を飛び出してしまう。
「……逆なら分かるんだ。俺はあいつに求婚してるからな」
ひりひりする頬を押さえながら言うと、アルカセルが呆れた声でそれに返す。
「じゃあ何でその逆が無いと思ってるわけ? 君ってそういうところ、馬鹿だよね」
「可哀想に。あの子散々悩んだ挙句、避妊具を王子にお願いしたってのに」
「何度も頭を下げられたよ。不躾なお願いですけど、とね。だが事情を聞いたら、やはり協力はしてあげたいと思ったのだが……肝心の貴殿がそれでは、なんとも」
彼らの言い方はまるで、里琉がイシュトに抱かれるのを望んでいるようで。
イシュトは、そんな馬鹿な、と困惑した。
「いや、俺はあいつに同意を得ていないぞ?」
「待ってたに決まってんでしょ、馬鹿王様」
「今頃、ライラ姫の所にでも行って泣きついてるんじゃない? あーあ、どうするの?」
「どうもこうも……話し合う必要があるだろうな」
「でも、あの様子じゃ当分どころか、もう絶対通わないわよ、あの子」
「それに避妊具は彼女の手の中だ。さて、どうするかね? レダの王。愛しき相手を口説き落とすには、体だけでは足りない事が分かってもらわないと、彼女としても絶望するだけなのだが」
これによって、イシュトに一つの疑問が芽吹いた。
(あいつは、俺を好きなのか? いや、今ので嫌われたか? ……どうしたら、いいんだ……)
――その日の夜から、彼女は本当に通わなくなった。否、通えなくなった。
「血の道!?」
「ええ。どうも気を張り続けていたからか、急に来て、苦しみ出したのです。姫様と居る時に……。ですから陛下、彼女は安静にしてもらっておりますわ」
「鎮痛剤も効かぬでの。しかも平時より重いそうじゃ。兄上のせいじゃと」
「あ、王様は数日、面会謝絶。反省しなさい。そんでもって、王子様の避妊具講習、明日の朝一だからそれ受けて」
「は!? 何故俺まで……」
使う気は無い、と意思表示しかけたが、ライラがぴしゃっと遮った。
「愛しき女子を大事にせよと、母上も父上も何度言うたと思うておるか! あれは、そなたのせいで情欲というものに苦しんでおったのじゃぞ! 娼婦まがいの事までするほどにのう!」
「……姫様、今のは?」
メーディアが黒い声で問いかけると、フィリアがしれっと話に乗る。
「ああ、あの子そういえば、王様の情欲をどうにかしなきゃって言ってたわね。どうするかと思ったけど、ふうん。……王様、そういう事させちゃったわけ」
白い目で見てくるが、イシュトも一応は止めた。彼女が退かなかっただけで。
否、無理にでも止めるべきだったかもしれない。彼女の足掻き方は、無知で無垢で、それでいてあまりにも必死だったから。
「そうですか……娼婦のような、真似事を。……ふふ、ふふふふふ……。あの子もそうですが、陛下。まずはあなた様から、きつぅいお説教が必要ですわね……?」
メーディアに知られたらまずい、とガルジスは言っていたが、まさか自分に波及するとは思わず、イシュトは逃げを打とうと後ずさる。
瞬間、その背後を突き飛ばされた。
「あれ? イシュト。そんな所に居るから、ついどかしちゃったよ。で、何? リルが娼婦みたいな事してるって聞いたけどホント?」
「まったく、こういう時だけちゃっかりしおって。まあ良い。アルカセル、リルは血の道で絶対安静じゃ。ここで兄上をこってりと絞るとしようではないか」
「いいよ。昼間のあれじゃ、全然効果無かったみたいだし」
「おい、待て。俺は」
「問答無用。最も大事な事はリルに言わせるとしても、王様が分かってなきゃ意味ないし」
だから何がだ、とイシュトは困惑する。そして逃がしてもらえる状況ではないらしい。
――長い長い拷問の夜が、始まった。
※ ※ ※
翌朝、寝台の上で里琉は痛みに耐えつつフィリアと話をしていた。
「――で、今は王子様と一緒に、避妊具のお勉強中。覚える気が無いんじゃなく、この先必要だからっていうのを理解してもらうまで、ホントかかったわ」
「別に……もう期待してない」
「あらそう。失恋ってとこ?」
「……そうかも。私、イシュトの事、好きになりかけてた」
改めて一人で考えて、里琉は涙が出てきた。なのに、イシュトはどうして自分と最後までしたいと思うのか、分かってなくて。
「……だって、初めてだったんだ。全部」
「はいはい、今は感情も不安定だから、あんまり思い詰めないの」
「でも、イシュトはそうじゃなくて、今だってどうせ、嫌々受けてるんだ……!」
「……嬉々として受けられるのも、ちょっとどうかと思うけど」
「アルカセル王子は分かってた。ライラにも話をしたら、すぐ理解したのに、どうして、イシュトだけっ……!」
「……あんた失恋してなくない? むしろ逆じゃない?」
感情がぐちゃぐちゃなのは分かっている。だが、怒りの矛先がイシュトにしか向かないのは、どうにも出来なかった。
そこに、ノックがしてメーディアが入って来る。
「リル、大丈夫? ……あら、泣いてるじゃないの」
「王様が、王様が、ってショック受けてるのよ。後は任せたわ、女官長さん」
「分かったわ。リル、布を一度取り換えて、それから少し話しましょう」
言われるままにお手洗いへ行き、一度足の間を軽く洗ってからまた清潔な布を巻き直す。これがこの国での生理の過ごし方らしい。
もちろん、生理の血が布を巻き終わるまでに流れ落ちてしまったら一大事な為、生理が始まった瞬間から布を巻きつけ、報告し、終わるまで強制的に休みとなる。
そんなわけで里琉は新しい私室で過ごしているわけだが。
「――まったく、嘆かわしいとしか言えないわ。陛下の為に娼婦の真似事をしようなんて! 陛下にもきっちり釘を刺しておいたけれど、夜伽相手と変わらないやり方でしかないのよ。あなたはそもそも、心の傷が全く癒えていないというのに、どうして!」
「だから、イシュトにも……その、気持ちよく……なってもらいたかった、からで」
「ええ、ええ、さっきからそればかりね。あなた自身はやりたくてやったの? 違うでしょう?」
「……ほ、他に方法があったら、それをしてたかも……」
「結局そうなるのね! いいかしら? 初日から私はずっと言ってるでしょう。もっと自分を好きになりなさい、大事になさいと! それは、こういう時に分かるものなのよ!!」
ぴしゃーん、とメーディアの雷がさっきから里琉めがけて落ちて来る。フィリアはとっくに退散していたので、助けもない。
ただ、そう言えば、と思い出す。
「……メーディアさん。自分を好きになる、ってどういう感じなんですか」
「ありのまま、過去から今までの自分を含めて、受け入れて、胸を張って生きる事よ」
里琉の質問に、きっぱりとメーディアは言った。そして彼女は、不意に脇腹に手をやる。
「……ここにはね、決して消えない傷が残っているの。昔、私がある男に犯された後に、自死しようとした傷よ」
「……あ、メーディアさん、も……そういえば」
あの夜に湯浴みを手伝ったメーディアも、同じように男に穢された体だと言っていた。しかも、里琉と違い、手遅れだったとも。
幸い避妊薬は効いたが、女官としての仕事上、どうしても男に近付く時は恐怖で体が竦んでいたらしい。
「ええ。……いくら避けても、悪夢にうなされ、次はいつ誰に引っ張り込まれるか。そう考えるようになって、私は自死を決意したの。短剣をお腹に刺して、産めない体になって死のうと。……でも、それを止められたわ」
「ガルジスさん、ですか」
思い当たるなら、彼しか居ない。メーディアは少しだけ哀しい顔をした。
「ええ。必死な勢いだったから、軌道が逸れて……脇腹を抉る形になってしまったけれど。あの頃はお互い若くて、まだ互いに上の立場にすらなっていなかったけれど……彼は、私の絶望を受け止めたの」
『この先に待っているものなんて、無理矢理嫁がされる義務だけでしょう! 私はもう、好きな人を見付けられる体じゃないのに!! 邪魔しないで!!』
「……ガルジスさんは、何て?」
「若さと勢いと、……後は何だったのかしらね?」
『ああそうかい! 俺だって義務がある! 二番目に傷付けた男として、責任取ってお前を嫁にしてやるよ!!』
すごいプロポーズだ、と里琉はくすっと笑う。あのガルジスがそんな事を言えるとは。
だが、それでも彼らはまだ結婚していない。とっくにしていてもおかしくないのに。
「あの……じゃあ、何で耳飾りも付けてないし、結婚もしていないんですか」
「……丁度ね、陛下が生まれた頃だったのよ」
「イシュトが?」
「ええ。私は世話係の一人として任ぜられ、ガルジスは騎士団員として出世していくところだった。お互い、その場の勢いの約束みたいなものになりかけていたわ」
「ちょ……そんな無責任な」
「ふふ。まさか。彼はちゃんと覚えていたのよ。騎士団長に任命された時、改めて言われたのだから」
『いつかの約束を果たしたい。お前が俺を選んでくれるなら、俺は生涯をお前と共に歩む』
数年経ってたくましく成長した彼だからこそ、メーディアは悩んだと言う。
「……結局、陛下の事もあって、ご無事に成長されるまでは、って先延ばしにしちゃったのよ。そうしたら、問題しか起きなくて、今もこの調子。私達、婚期を完全に逃したの。でも、私もこうして女官長になって、彼とほぼ対等に話せる立場で……今も変わらない気持ちを、彼は時々、伝えてくれているから、まだこのままでもいいかしら、と」
「よ、良くないですよ! 二人こそ結婚して下さい! あいたたた……」
本当に今回は重い。あまりない事だからこそ、痛みには慣れず、里琉はベッドに突っ伏すしかなかった。
それでも、自分達よりよっぽど心が通い合っている。なのにどうして結婚しないのか。
「……決めたの。二人で。……陛下と姫様が、幸せになるまでは、って」
「イシュトと、ライラが?」
「叶わないかもしれないと思っていたわ。でも、あなたが来て……姫様が戻っていらして……私、期待してしまったの。あなたはずっと帰りたいと思っているはずなのに……」
ほろ、と透明な雫がメーディアの手の甲に落ちる。
「ごめんなさい、リル。あなたが妃になれば、陛下はきっと幸せになれると思ってしまった。だけどそれは、あなたの幸せとは限らないのね。あなたが陛下にした事は、娼婦まがいと言ってしまったけれど……言い換えれば自己犠牲、献身なのよ。好意ではないわ。……厚意なの」
発音は同じでも、意味は違う。それは里琉にも伝わった。
「だってあなたは、今も自分を、他人を、好きではないんだもの」
「…………好きに、なろうとしてはいたんです。多分」
うつぶせたまま里琉は言う。
「だけど、現実って残酷なんですよ。そのままでいいなんて、綺麗事でしかない。私が髪を短くしているのも、剣を扱うのも、石にしか興味が向かないのも……結局のところ、私には「それしかない」と思ってるからなんです」
髪を切られたあの日から。女らしい格好を否定されたあの日から。綺麗な顔を宝石のようだと思ってしまったあの日から。――里琉にとって、他人とは「相容れない存在」になった。
「イシュトって、前髪、長かったじゃないですか。私、あれに安心してたんです」
「安心?」
「はい。表情が分からなかったから。それに、口数も今より少なくて、距離感もあって。……だから懐いたんです」
王だというのはすぐ分かったが、それも関係ない立場で会話をして、それがとても気楽だった。
なのに、妹への愛情は口先だけで、おまけに前髪も切って、好意まで向けられて。そのくせ、抱こうと思わないなんて。
――何て、変化の激しい人なのだろうと思った。
里琉が今まで見て来た他人とは違う。変わろうと思えばいくらでも変われる人。なのに根っこは同じままで、全然駄目な人。
今回の事だって、里琉がどうして抱かれたいかなんて、考えてもいなかったのだ。欲情させる事は分かってたくせに。
今は痛む下腹部は、彼に口付けられ、触れられていると疼いて仕方なかった。何度も絶頂させられて、気を失って、それでも――彼は里琉を欲しいと言わなかった。
(ライラの時と、同じだったんだ)
彼は彼の価値観でしか動かない。里琉の価値観を理解していないし、する気もない。
そんなすれ違いは、どのみち破綻を呼んでいたに決まっている。
「陛下は、あなたを好いていらっしゃるわ。だからこそ、他の男に受けた傷に触れないよう、抱く事を最初から選択肢に入れていなかったようなの」
「!?」
初耳、である。何回か脅すように「次こんな真似をしたら抱くぞ」とは言うくせに、実はそうではなかったのか。
「あれほどに怯えていたあなたに、痛みや恐怖を与えたくなかったそうよ。だからあなただけが快楽を受けて、自分は耐えることを選んだ。……それでも、理性は厳しかったようだけど」
「……避妊具の話も、乗り気じゃなかったのは、そのせい?」
「あれは少し違うみたいよ。単純に、リカラズからの輸入というのが気に障ったみたい。元々、保守的ではあるから」
「ああー……納得した。他国の技術なんて、受け入れて改良してなんぼだと思ってたから、うちの国」
馬鹿かよ、と里琉はぼやく。そんな臆病な気持ちより、里琉の気持ちを優先して欲しかった。
「でも、あなたがした事に関しては、二度とやらせないって言っていたわよ。陛下も、望んでさせたわけじゃないようだから、勘違いしない方がいいわね」
「っ……教えたくせに……無責任」
「どうせ出来ないだろうと思って教えたら、やられてしまったから困った、とは言っていたわ。あなたは性知識に乏しいから、恥ずかしがると思ったのでしょうけれど」
「……イシュトのでも駄目なら、他の人でも駄目だと思ったから……。でも…………されてた時のあんな顔見て、私が……我慢できなかった」
避妊具さえあれば、やっぱり求めていたのではなかろうか。
「ねえ、リル。避妊具の件は、あなた自身を好きになってから、出直しなさい。それとも、答えは出始めているかしら?」
メーディアの問いかけに、里琉は、しばらく考えてから小さく答える。
「……まだ分かんないから、もう少し、考える」
「そう。長話をしてごめんなさいね。少し休んでちょうだい。起きたらまた布を替えて、暖かいお茶を飲んで、軽い食事もしましょう」
頭をさらりと撫でて、メーディアは静かに出て行く。
半分だけ開いた窓の向こうは、果てしなく広く遠く見えた。
「…………わかんないよ。今も、どうしてイシュトの事ばっかり考えてるんだろう」
ダリド王子の避妊具講座とやらは、ちゃんと理解してくれたのだろうか。使おうと思ってくれただろうか。
否、自分じゃなくてもいい。避妊薬を女性に飲ませるくらいなら道具を使った方が負担が減る事を、知って欲しい。
アルカセル王子が一緒でも、そういう大事な事まで教えてもらえるとは限らないのだ。
「エレホスも、武器についても、…………もっと、興味とか、関心とか、知って、有効に使って欲しいな。未知の文明は未来への投資なんだから」
彼には沢山を望んでしまう。期待してないと言いながら、どこかで変わってくれるはずだと。
痛みと共に襲い来る眠気の中、里琉は目を閉じる。
思い浮かぶのは、彼の綺麗な横顔だった。
※ ※ ※
結構な時間にわたる講義において、イシュトはぐったりしていた。
「どうかね、レダの王。避妊率は八割以上、と言われるこの避妊具、試してみる価値はあると思うのだが」
「僕使いたいんだけど、せっかくあるならさ。……利用したいんだよね。ねえイシュト、リルに謝って仲直りして、使わない?」
「……あいつが求めない限り、抱かないと決めてる」
「っていうのを言わないからこじれたの、昨日話したばかりだよ?」
「面会謝絶状態で、どうやって言うんだ。あいつはそもそも、文字の読み書きが出来ないんだぞ」
避妊具自体はシンプルで、筒状の薄い皮膜を男性のそれに被せるように着けるだけでいいという。ただ、厚さ次第では破けたり、状態によっては中で外れてしまう可能性もあるらしい。
そういうのを防ぐように注意は必要だが、その場合は装着方法がまずかったという理由なので、当人の腕次第、となるようだ。
が、里琉はずっとこんな物を欲しがっていたのか、と困惑するしかない。
「これ以上こじれても困るし、第三者である僕が言うけどさ。リルは君に抱かれる事を望んでたんだよ」
「……それは昨夜理解した」
「今はどうか知らないけど、君が延々と生殺しだと思ってる間、リルも生殺しだった。だから娼婦みたいな真似事で誤魔化した。……それも理解した?」
「ああ。止めて話し合うべきだったと後悔している」
「遅いよ。だから次の手を打つんだ。すぐにでもね」
アルカセルは、未開封のそれを手に笑っている。
「あの子は己の気持ちを伝える事が苦手みたいだし、そもそも理解出来ていないんだろうね。そんな状態じゃ、抱いてなんて言えないと思うよ」
「ふむ、確かにその通りだが……彼女が生理を終えた後、どうするつもりかね? レダの王」
ダリド王子に問われ、イシュトは頭を抱えたまま未開封のそれを手に、ため息を吐いた。
「まずは謝罪、だろうな……。あいつの求めている答えが何なのかは知らんが」
「そうだね。とりあえず仲直りはよろしく。それとリカラズの王子さん、スパイとしてお願いしたいんだけど」
「名前で構わないとも。それで、何かね? テアの王子」
アルカセルはにこやかに、あっさりと提案した。
「もう少しだけここに居て、情報を増やしてからオアシスに行って欲しいな? もちろん、僕達の関係、イシュト達の関係も含めて、バラバラの状態で情報を明け渡してくれって意味なんだけど」
「……は? お前、ここの情報をほぼ全部渡す気か? 勝手な真似を……」
「ははあ、なるほど! アリスィア達に混乱を及ぼせばいいということか! 貴殿も面白い。……確かにいくつかの情報は手にしてある。全てを個別の情報として扱い、その裏側にリル殿の影をちらつかせろ、と」
「正解! リルの危険度は多少上がるかもしれないけど、イシュトが仲直りしてくれたら、そこは問題ないよね?」
――他国の王子二人は、この国の王を一体何だと思っているのか。
とんとんと話を進めるアルカセルとダリド王子は握手までしている。意気投合したらしい。
そして勝手に、イシュトが里琉と仲直りした挙句、関係を持つ事を前提にしている。
「…………あいつが拒否したら、どうするんだ」
「は? 知らないよ。自分で何とかしたら? その顔で」
「顔……」
そういえば、里琉はイシュトの顔が好みだとか言っていたような気がする。
今更通じるかは知らないが、今一度、口説き直す機会を設けてもらうしかないだろう。
ただ、やはり怖くはある。
(リル。お前は今もなお、他人を……俺を、拒み続けたいのか)
人間嫌いの彼女が自分の傍に居て体をある程度許したのは、彼女のどんな感情によるものだったのだろう。
何も知らず甘い蜜を吸っていた自分が今更、体の関係を持ちたいと正式に頼んだとして、承諾されるのか。
もやもやした気持ちは今だ、イシュトの中では晴れないままだった。
※ ※ ※
生理も落ち着き、あと二日ほどで安静から解放される頃。
里琉の部屋に、今まで一度も来なかった来客が現れた。
「……イシュト」
正直言って、来ないとさえ思っていた。彼にとって、里琉という存在は、もう必要ないのだと。
だが、数日会わなかった彼は、少しやつれたようにも見えて。
「…………リル。体調は、どうだ」
「えっと、二日後には……動けるようになります」
「……もう、対等に話してはくれないのか」
「それが望みなら……そうしますが」
「違う」
イシュトが困惑したように言った。そして、何かを振り切るように里琉の方へと歩み寄り、急に抱き寄せる。
「!?」
「……そのまま、聞いて欲しい」
静かに彼は言う。里琉は小さく頷いて、続きを待った。
「俺は、お前の気持ちを何も考えていなかった。上辺の言葉だけを受け取って、叶えた気になっていた。……だから、今でなくていい。時間をくれ。お前の内側にある、本当のお前を知る時間を」
「…………どう、して?」
「俺が、知りたいからだ。お前そのものを」
「……幻滅、するよ。きっと百年の恋も一瞬で冷めるくらい」
里琉の中には、人間を嫌う要素がいくつもある。それらは過去に紐づけられていて、だからこそ極力、表に出したくはなかった。
それでもたまに漏れていたのだから、元々隠し事は向いていないのだが。
イシュトは体勢を変えずに、里琉の言葉を否定する。
「お前が綺麗なだけの人間でない事は、もう承知済みだ。その上で、お前だけが持つ暗い声が知りたい」
「……馬鹿。後悔するんだからね」
「了承と見なすぞ」
切実に訴えられたら、里琉とて無下には扱えない。
「でも、どうして……急に?」
「…………怒らないか」
「内容次第かな」
ここで空気を読めない発言をしたら、張り倒す。そう思ったが、彼はハグを緩めて、里琉を見つめてきた。
「お前を傷付けることはしたくない。だが……お前が傍で眠らない夜は、やはり俺には辛いものがある。だから、お前を今一度、理解した上で口説き直したい。……帰らないでくれ、と……言わせて欲しい」
「……っ」
(その顔でそのセリフは反則では……!?)
つまり、里琉の裏表をどちらも受け入れて、伴侶にしたいと言っているのだ。既に口説かれている感すらある。
「だから、時間をくれ。……厳密には、その、二日後……は駄目か?」
「…………話、だけならね」
もうあんな事はしないよ、と言外に告げると、イシュトは安堵を見せた。
「ああ。普通の夜着で来い」
「……今更訊きたくなかったんだけど、イシュトってどんな気持ちであんな事してたの?」
「…………俺の口付けのせいだと思っていたから、その欲情を晴らすのが目的だっただろう。だが……八割くらいはお前を乱れさせるのが、癖になっていた……悪い」
「だんだん中身がやらしくなってったのは、それかー……」
目的と手段が逆転した、いい例である。
はあ、と里琉はため息を吐き、そしてイシュトにデコピンをかました。
「っ」
「イシュトの変態。えっち」
「お前が人の事を言えるか!? 生娘だからって何でもやろうとするんじゃない! あと、何が何でも口説いて、お前の純潔は俺がもらうつもりだからな!」
「…………そのセリフ、もっと先に聞きたかったなー」
「ひ、避妊具も使う。……元より、そのつもりだったんだろう、お前」
ばつが悪そうになるイシュトに、里琉は肩を小さくすくめた。
「そうだよ。どうせ他の人に言われて気付いたんだろ。だから鈍感って言ったんだ」
「お前こそ、自分の本音に鈍いだろうが。……どうせまだ、気付いていないんだろう。だから、二日後だ。二日後、お前という人間を俺に教えに来い」
「……分かった。いいよ」
再度、今度はしっかり了承を告げると、彼はやっと出て行った。
ふう、と小さくため息を吐き、里琉は枕の下にしまったブローチを取り出す。
これを眺める度、王都での事も思い出すのだ。
「……ばか。似合う、なんて……私がめちゃくちゃ欲しかった言葉、くれたくせに」
異性からの、本気の言葉。きっと彼は何気なく言ったのだろう。
だが、里琉は嬉しかったのだ。今なら認める。
「…………特別、だよ。ちゃんと、今も」
ブローチを握り締め、里琉は目を閉じたのだった。
※ ※ ※
「えっと、何から話せばいいのかな」
二日後、寝る為だけの夜着を纏った里琉は、イシュトと同じ寝台に上がり、困ったように呟いた。
「俺やフィリアはそれぞれ理由が明確にあるが、お前の場合、人間嫌いになるだけの理由が分からん。男だけならまだしも、女もというのが気になっていた」
イシュトがずっと疑問だったことを告げると、ああ、と里琉は手を叩いた。そしてイシュトの顔をじっと見る。
それが十秒ほど経過した時点で、イシュトは思わず問いかけた。
「……答える気が無いなら、口付けていいか?」
「だめ」
ぺしん、と額を軽く叩かれた。そして、はあ、と無遠慮にため息を吐かれる。
「イシュトはさ、私以外に今みたいに見られたら、睨みつけるって前に言ってたよね」
「当たり前だ。鬱陶しいからな」
「じゃあ何で私はいいんだよ」
「……お前が俺を見る目は、人間を見る目ではなかった」
当人も覚えがあるらしく、少しだけばつが悪そうに俯く。
「…………それくらい、いつも察しが出来てたらなって思うよ。……昔、こんな風に近くで、綺麗な女の子を見ていた事があるんだ。……そうしたらその子は私に「気持ち悪いから見ないで」って言ったんだよ。――綺麗だった顔は、一瞬で醜くなった」
暗い笑顔で里琉は静かに語る。
「人は見続けると、醜くなるんだ、って思った。女性も嫌いになった、最初のきっかけ」
「……気持ち悪い、はないだろう……。怒るところじゃないのか、そこは」
「ううん、普通に哀しかった。私は見るだけで綺麗なものを醜くしちゃうのか、って。だから、綺麗な人もなるべく顔を見ないようにしてきたんだ」
「それがきっかけなら、それだけじゃないんだろう」
彼女が抱えてきたであろう、無垢とは正反対に属する感情。それを聞きたいから、イシュトはあえてここに呼んだのだ。
里琉も分かっていると頷き、続ける。
「うん。色々言われたり、陰口叩かれたりもしたけど……そうだね。物を隠された時かな。お守りみたいに持ち歩いていた、川で拾ったガラス玉。ビー玉、っていうんだけど、その時は一番気に入ってて、いつでも見たいからって小さな袋に入れてたんだけど……それを、こっそり鞄から取られて、袋ごと学校の裏庭の池に、投げ捨てられた」
人の心は、醜い。変哲の無いそれを眺める彼女をただ困らせたくてそうしただけなのだろうが、里琉にとってはたまったものじゃなかったはずだ。
「どうやって見つけたんだ?」
「あ、違う違う。放課後に呼び出されて、「これなーんだ?」って見せられた私の宝物を、目の前の池にポイって捨てたんだよ。あの子達が」
池の水は濁っていたし、魚も泳いでいたが、里琉は構わず入ってそれを取り戻したという。だが、それを見ていた少女達は、けらけらと笑い、そして里琉は。
「だからね。――全員、池の中に突き落としてやったんだ」
イシュトは思わずそこで吹き出してしまった。
「ぷっ……く、くくくっ……ははっ」
「何か、おかしいこと言った?」
「いや。さすがだ。お前は昔から、そうだったんだな。よくやり返した」
くしゃくしゃっと頭を撫でると、里琉は困ったような顔をしながら、髪を手櫛で直す。
「同じ事、兄さん達にも言われたよ。まあ、大騒ぎになったし、結局どっちも怒られたけど、私の方が怒られたかも。……その頃には男子とも殴り合いの喧嘩してたから、余計に、かな」
「お前は被害者ぶって責任を擦り付けようとは思わなかったのか?」
「演技は下手だし、私は悪い事したと思ってないからね」
それ以降、学校に持っていくものは最低限にし、やられたらやり返すという里琉の主義に乗っ取り、陰湿な嫌がらせには、思い当たる節に対して同じ嫌がらせをした。
「虫の死骸を靴に入れられるとか、机に傷をつけられるとか、教科書に落書きされるとか……色々やられたけど、思い当たる奴らは冤罪かどうか関係なく、仕返しを全員にやった。落書きはね、わざと昔の偉い人の顔に色々付け足して、授業中に笑うように仕向けて、先生に怒られるのを見てたんだ。だって、私がやった証拠はないし、私もやられたわけだし、向こうは打つ手がなかった。そうしてやられてやり返されて、私は生き延びたよ」
決して楽しくはなかっただろう日々。イシュトが元婚約者にされた事とは別次元の苦痛。
誰も助けず、誰も味方にならない立場で、友人など望むはずもなく。
「……イシュトは命の危険が明確にあったけど、私の国だって、別に平和じゃない。私はやり返せても、大半の人間はやり返せないんだ。そして、自殺を選ぶ。長い苦しみより、短い苦しみを選ぶ。私はただひたすら、石があったから生きて来た。どんな石でもいい。私が知る為に、そこにあるのなら。……人と違って冷たくて、何もしてこない、何も変わらない石だから、私は傍に置けたんだ」
――ここに来て、彼女がイシュトの持っていた石だけに目を付けたのは、持ち主に初めから用など無かったから、なのだろう。
時折見せる彼女の気楽さ、呑気さは、彼女自身がそう見せて安心させる為の擬態であって、常に警戒していたら自由が得られないから、だ。
「だから、人間は嫌い。嘘はつくし、悪意だらけだし、外見だけで判断するし」
「じゃあ、お前も人間だろう。お前自身も嫌いなのか?」
意地悪に問うと、里琉はあっさり頷いた。
「産んで育ててくれた両親や兄さん達には悪いけどね。私、ずっと自分の事、嫌いなんだ。やられた事を笑って流せない。許せない。些細な事も気にし続けて、先へ進めない。大事なものに執着し過ぎて、手放せない。この外見も、嫌い。だってこれは、なりたかった私じゃないから」
「お前はどうなりたかったんだ?」
短い黒髪は、あまり伸びない。だが、当初よりずっと艶が出て手触りも良くなっていて、伸ばそうがそうでなかろうが、彼女としての魅力の一つになっている。
「……多分、普通の女性、だったんじゃないかな。可愛いもの、綺麗なものは今も好きだし、甘いものも好き。そういうのが堂々と言える女性になりたかった」
「ここでは言ってるだろうが」
「誰も昔の私を知らないし、言っても特に問題ないみたいだったから」
当然、といえばそれまでだ。彼女は女性であり、女性だからこそ好きと言えるものを当然と受け入れている。
彼女にとっては違和感が大きかったかもしれないが、女であると示しているからこそ、彼女を阻害するものは少ない。
「なら、これからお前はどうなりたいんだ?」
「…………嫌な事を言うよ」
沈んだ声で、里琉はこちらに背を向けたまま両ひざを抱える。
「正直、帰らなくてもいいや、って思い始めてる。だけど、家族が心配だから、帰れるならその一度きり、さよならを告げてこっちに戻りたい」
「……つまり、こちらを選ぶ、と言う事か?」
「卑怯だよね。最初は帰りたい帰らせろって言ってたくせに、あんな目に遭って、怖くなって、元の世界じゃもう誰も相手にしてくれないのが分かって、傷を一人で抱えて生きるのが……怖くなったんだ」
やはり、あの件が彼女の中の天秤を揺らしたらしい。
「本当なら、あんなの犬に噛まれた程度で、二度目はどうせないから平気、とか言えるつもりだった。でも、無理だった。夢に見て、飛び起きて、その度に悔しくて、苦しくなる。傷が全然、消えない」
「当たり前だ。まだ一ヶ月も経ってないぞ」
「そうだとしても、忘れるどころか一生残る傷になってる。事情を知らない男の人に近付くのも、怖くなった。この世界でこれなら、元の世界はもっと怖い。家から一生出られなくなりそうだと思ったら……もう、帰れない方がマシだとすら思ったんだ」
その上であんな事を毎晩続けたら、心は摩耗して当然だ。自分はやはり、間違った事をしたんだとイシュトは猛省する。
「危なかった。イシュトが避妊具を忌避してくれたから、時間が出来たけど。それが無かったら、私は、イシュトの体で、自分の心を埋めようとしていたんだ」
だが、不意に振り向いた彼女の顔は、泣きそうに歪んでいた。
「リル……っ」
「最低なんだ。相手は王様なのに。このまま快楽に身を任せて抱かれたら、全部、上書きされて、綺麗な思い出になるって、そんな浅ましい考えまで浮かんだ。だから、イシュト。嫌いになって。離れて」
ぽろぽろと里琉の双眸から涙が零れ落ちるのを、イシュトは困惑と共に見つめた。
嫌いになれるわけも、離れられるわけもない。浅ましいなどと、思ってさえいない。
この体でそれが出来るなら、いくらでも埋めてやりたい。
同時に思う。彼女は――あまりにも自分が見えていないと。
「……それは、出来ないな」
「どうして! 利用されてもいいっていうのかよ!」
「俺はそう思わないからだ。なら、俺からも最低な提案をしよう。――元の世界で怯えて暮らすくらいなら、この世界で俺にその傷を埋められながら暮らせ。一生だ」
「……っ! 馬鹿! 出来ないから、言ってるのに……!」
「友人も出来ただろう。珍しい石も、この先沢山見る事が出来る。家族は……まずは俺だけでどうだ?」
「馬鹿! 馬鹿! どさくさに紛れて、口説くな!」
怒ったように胸を拳で叩く里琉は、だが泣いてるせいか力が弱い。
その手を掴んで、イシュトは里琉の体を引き寄せた。
「駄目だな。口説きたくなる。お前をもっと知りたくなる。まだあるんだろう? 誰に何をされた? それを一つ知る度に、俺は思うぞ。――そんな奴らの居る世界になど、帰るな、と」
「じゃあ、もう教えない……」
「知りたいから教えろ。人間というからには、大人も子供も関係なく、なんだろう? 子供はさっきの話でいいとして、大人は何でだ?」
話の続きを促すと、渋々と里琉は語った。
「……教師が、一番嫌いだった。私の夢を全否定して、私の書いた夢だけ、卒業文集に載せなかった教師がいた。……そいつは、私がなりたいのが「鉱物学者」だったのが気に入らなかったみたいで、他の人が書くような「看護師」とか「保育士」とかそういうのを求めてた。書き直さなかったら掲載しない、って言われてしなかったら、本当にそうした……」
「それはどうしたんだ?」
「捨てたに決まってるだろ。自分の夢を否定した奴が作ったものを、部屋にいつまでも置いてるわけないじゃん」
彼女は確かにそういう気質がある。己と相容れない物は受け付けず、受け入れず、受け入れさせず。
イシュトも何度かそういう目に遭ったが、それでもこうして腕の中に居させてくれるのは、少しばかり期待してもいいのだろうか。
「あとは……大人はほぼ皆、同じことを言う。女らしくしろ、って」
「お前のところで言うそれは、どういう意味なんだ?」
「服装とか、口調とか、行動とか。……とにかく全般的に。化粧とアクセも……。似合わないって言われたから、やってないのに」
「似合わない? 誰に言われたんだ、それは」
「……高校のクラスメイト。兄さんの中でもすごいセンス良くて、化粧も服のコーディネートも上手いんだけど……それで街を一緒に歩いてたら、クラスメイトが彼女連れでうっかり出会って……似合わないって言われたから……」
「王都の時のお前の格好を見て、似合わないと言った奴はいなかったが」
「……視線は、痛かったよ」
「目立ったからな、俺もお前も。だが……あのブローチは気に入ったか?」
「……うん」
心なしか嬉しそうに、里琉が頷く。ブローチの時は断固拒否されるかと思ったのだが、そうでもなかった事に安堵した。
ただ、着けるところを見せてはくれない。気に入ったのなら、しまい込んでいるのだろうか。
「……出来れば、着けてくれると嬉しいんだが」
「…………怒られない?」
「俺からのだと言えば、誰も文句は言わんぞ。それに、お前が着けているのが見たいから買ったんだ」
「そ、そういうのもちゃんと……口にしてよね。イシュトは言わないから、着けない方がいいのかなって」
確かに言葉が足りない、とあの日も怒られたんだった。
爪や化粧はもちろん、服やそれに見合ったアクセサリーなども付けていたのに、イシュトはそれらを彼女に似合って当たり前だと思っていたから。
「分かった。なるべく口にする。……基本的にお前は何でも似合うんだ。だからてっきり、自覚して……」
言いながら、馬鹿か自分は、とイシュトは気付く。
自己評価が他人より底なしに低い彼女が、そんな自覚をするわけがない事くらい、当然だというのに。
「いや、今後は都度、言うことにする。だから自覚しろ。頼む」
「…………いや、毎回褒められるのは困るんだけど」
「俺が言いたいと思ったからだ。とにかく、この数日は様子見がてら、お前との話し合い期間だからな」
「……この数日?」
「ああ、まだ言ってなかったな。訓練も再開するから、その時に説明するが、制圧の為の精鋭を揃える選抜試験を設ける。お前には女性騎士として、特別枠として出てもらうからな。お前に負けた奴らは鍛え直しだとガルジスが言っていた」
「…………そっか。ついに、か」
嬉しそうに里琉が呟く。
「頑張るからね、私」
「ああ。存分に力を振るえ。俺が見込んだ女だ。……きっと、そこらの奴らより強いだろう」
頭を撫でて、里琉を抱えたままイシュトは里琉と一緒に寝台に横になる。寝具を引っ張り、彼女に囁いた。
「今夜はここまでだ。……寝るぞ」
「ん……おやすみ、イシュト」
「ああ」
数秒で眠りについた彼女は、ややしてイシュトの胸にすりよってくる。
嬉しそうに甘える声が、小さく彼を呼んだ。
「……ああ。好きだ、リル。だから、俺を選んでくれ。最後の最後まで、俺は諦めたりしない」
――イシュトもそう言って眠りにつく。
そうして、光と闇が入り混じる夜の会話は、数日の間、途切れることは無かったのである。
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