14話:恋奏愛迷

 レダの王都は、広くて複雑だ。

 全体的に組み込まれた水路と呼ばれる道と、普通の道。

 乾期や風期はそこを通れるが、雨期は水路から溢れんばかりに雨が降り、それらは地下へと流れ、王都全体を潤す為の地下水槽へと貯蔵されるのだという。

 だが水路自体、大人が三人ほど横に並んでようやく塞がるくらいの広さがある。かつ普通の道より整備されていて、急ぎの時はこちらを走った方が早いとさえ言われているそうだ。

 ルゴス大臣なんかは、この水路さえも頭の中に地図として叩き込んでいるというが、果たして役に立つ日は来るのだろうか。

 否、そんな事は割とどうでもいい。現状から目を逸らしても、問題は片付かない。

「ほうほう、これが噂の水路か。頑丈な作りじゃのう」

「雨期の間はここを渡す船まであるんだって? 管理が大変だね」

 ――絶対に居てはいけない二人が、何故居るのか。

 その疑問は、出掛ける当初に解決してはいた。納得が出来ないだけで。


『せっかくだから、そのデートに僕達も混ぜて』


 朝食時、笑顔で隣国の王子が言い放った言葉に、里琉はあやうくカトラリーを落としかけた。

 賓客側に合わせつつこちらの文化を取り入れた食事風景は、かなり異様ではある。

 イシュトもライラを外に出すのはさすがに憚られると思ったのか反対したがっていたが、ライラが乗り気となると止める気が失せたのか「好きにしろ」と投げてしまった。

 結果、現在自分達は奇異の視線を浴びに浴びている。

(このまま人ごみに紛れて、一人だけ観光しようかな……)

 いっそそれでも良くないか、とさえ思えるが、哀しいかな、この格好に追加された代物が、単独行動を許しはしなかった。


『はい、こちら耳飾りです。男に鬱陶しい程の声掛けをされたり、連れ込まれたりしたくなかったら付けて下さい』


 これまた笑顔で出してきた宰相の小道具に、里琉はげんなりしつつも付ける羽目になった。もちろん片方だけであり、もう片方はイシュトが付けている。これで見かけだけなら夫婦か恋人だ。

 ちなみにライラとアルカセル王子もダミーながら着けている。二人共毛色が違うという理由でかなりの注目度だ。攻撃されないのは、高貴オーラのせいだろう。

「リル、お前既にげっそりしてんな……大丈夫か」

「ガルジスさんこそ……結局休日出勤になって、ごめんね」

「お前のせいじゃない……。既に胃が痛いがな」

 世間知らずがこれだけ居たら、引率は確かに大変の一言に尽きるだろう。それに、イシュトが王だとバレたら大問題だ。

「こんなダブルデートは嫌だ……」

 ここにメーディアも居たらトリプルデートだが、そうはいかない事も分かっている。

 とはいえ、王子とライラは途中で別方向へ向かうらしい。その為の護衛は一応、後方でこそこそついて来ているようだ。

「視線が痛い……。ネオ大臣の女官達が張り切り過ぎるから……」

「ほう、そなたはあれらの化粧が不服か?」

「素顔と別人だからだよ! あとそっちの人もね……」

「あっははは、イシュト相変わらず化粧すると、女性にしか見えないねー」

「好きでなってるわけじゃない」

 イシュトも外に出るという事できっちり化粧を施してもらったのだが、これがまた、自分が化粧をしても尚、自分が気後れするレベルの美麗さである。

 ただの他人なら眼福と拝むが、その当人と対にされているせいで、下手な行動は出来ない。

 ライラもきっちり美しい化粧をしているし、アルカセルも当然のように化粧されていた。男性としての化粧で女性らしさは微塵もないのに、別な意味で綺麗だと思う。この二人は素材が良過ぎるからだ。

「ところで、君達って石屋に行くんだよね?」

「そのつもりですが」

「じゃあ夕方、どこかの酒場で落ち合おうよ。飲み比べしたいな」

「俺は飲まんが……ガルジス、俺の奢りで飲むか?」

「へ!? いや、さすがにそいつは……」

「ガルジス、そなたの心労は分からぬでもない。ここは素直に甘えよ。その代わりとして、職務を果たすが良い」

「……姫様がそこまで仰るのであれば」

「お酒って、アルカセル王子はまだ十九ですよね」

「酒は十三から飲めるよ。僕の国ではね」

 そういえば、里琉の世界でも外国の方が色々と早いし若いと聞いている。ならばとやかく言っても仕方ないだろう。

 第一、ここは日本じゃないのでそもそもどんな酒があるかすら、まともに知らないままだ。

「レダのお酒は強いのが多いからねー。面白い味もするし、結構気に入ってるんだ。質を確認したいから、っていうのもあるけど」

「貿易対象にしたいのか?」

「まあね。他国の酒、それもレダのは好事家が飲みたがるんだ。少し癖があるからかな?」

 体質に合わない酒もある。里琉もそこばかりは、飲んでみないと分からないだろう。

 ともあれ水路を適当に抜けると、いくつかの通りに分かれる。それぞれの目的に合った場所で石段を上がり、普通の道に出るのが普通らしい。

「じゃ、僕達はこっちだね」

「ああ。……面倒は起こすなよ」

「安心せい。妾がどうにかするわ」

「大丈夫、ライラ姫だけは守るから」

 ――全然噛み合ってない返答をよこす二人は、特に仲睦まじさも見せず、遠ざかっていく。

 護衛がその後ろをついて行ったようなので、面倒が起きたら彼らが対処するのだろう。

 しかし、と里琉は困惑していた。

(今日一日この人と仮の恋人かー……。仮でも求婚されてる身としては、複雑な気分)

 だが、兄の梓曰く、デートでの行動や言動が男として試される場でもあるという。下手な事を言ったりやらかしたりすれば、即振られる事も有り得るのだ、と。


『里琉も、尊大な態度を店員に取ったり、エスコートもろくに出来なかったりする奴なんか、速攻で振っていいからな!』


(おっけーアズ兄、イシュトに期待しないでおくよ!)

 心でそう決めた里琉は、さて、とガルジスを仰ぐ。

「そんで、お店ってどこら辺?」

「こっから歩いて十分くらいだな。はぐれんなよ」

「う、うん」

 休日とかの割り振りは全く分かっていないが、それでも往来にそこそこの人通りはある。閑散としているよりはマシだと思うが、下手に他人にぶつからないようにしなくては。

「……手を出せ」

「?」

 言われるままに手を出す。爪もわずかに赤く塗られていて、可愛らしく彩られていた。

 その手を握り、イシュトは歩き出す。

「……え、あの」

「はぐれない為だろ。繋いどけ」

 ガルジスにこそりと言われ、渋々里琉は頷いた。

 行動だけで示されても困るのだが、一々ガルジスを通訳しないと駄目なのだろうか。

(自分で言えよ!)

 初手からやらかしているが、口にはしないでおく。ただ、後で他の女性を選ぶ時に困らないよう、それとなく言った方がいいだろうな、とは思っておいた。

 てくてくと歩いている通りは、露店形式が多い。それも、宝飾品系統だ。だからなのか、カップルが多いようで、里琉は目のやり場に困る。

「まあ、この髪飾り、素敵ね!」

「そうだね。君の麗しい黒髪に、とてもよく映えるよ」

(うっわ、でかい髪飾り……)

 内心ドン引きするが、彼女は嬉しそうだ。きゃっきゃとはしゃぐ反対側では、別のカップルの会話が聞こえる。

「もー! どっちが似合うかって聞いてるの! はーやーくー!」

「そ、そんなこと言われても……どっちも似合うし、好きな方を選べばいいよ……」

「私は! あなたに! 選んで欲しいのっ!」

「あああ……ど、どうしたらいいんだ……」

(将来、尻に敷かれるな。御愁傷様)

 内心で合掌しつつ、目が合わないように逸らす。

 そこかしこで喧嘩なのかいちゃついているのか分からない男女の会話を見ていると、ふと声を掛けられた。

「――そこの美しいお嬢さん。ブローチはいかがかね?」

 誰の事だろう、ときょろきょろしていると、露店商のおばあさんらしき女性が里琉を見て言う。

「あんただよ、珍しい髪型のお嬢さん。良かったら、少し見て行かないかい? 自信作ばかりなのに、誰も見てくれなくってねえ」

「……自信作……」

 そこまで言うなら、と里琉が近寄ろうとしたが、手を引っ張られる。

「目的を忘れたのか、お前」

「え、でも……」

「……あー、なんだ。別に予約とかじゃないんだし、ちょっとくらいはその、我が儘聞いてやってもいいかと俺は思うわけで」

 ガルジスの助け舟に、里琉はほっとした。

「……どうしても、駄目?」

「少しだけだ」

 イシュトからも許可を出されて、里琉は店先に並ぶ装飾品を見る。

 派手ではないが、細工がとても細かい。

「これ、おばさんが一人で?」

「ああ。旦那を亡くして、手伝ってた頃の見よう見真似でやってみたんだが、楽しくってねえ。あの人の使っていた道具に触れて細工をしていると、まだあの人が隣に居てくれるような気持ちになるんだよ」

「じゃあ、今はお一人なんですね」

「ふふ。一人になっても寂しくないよう、耳飾りがあるのさ」

 そう言って白髪が混じり始めた髪を少しかき上げ、同じくシンプルだが綺麗な細工のされた耳飾りを見せてくれた。

「もしかして、その耳飾りって、旦那さんが……」

「ふふ、目のいい子だねえ。そうさ。これを持ってきて、どうか妻になってくれ、と真剣な瞳で告げられて……。ただの奉公娘だったあたしを選ぶなんて、奇特な男も居たもんでさ。……子供も巣立って、今じゃあ家にはあたしと、あの人との人生だけが残ってるんだよ」

「そう、なんですね。でも……どれも、私なんかには勿体ないです」

 細部にまで丁寧に掘られた花や鳥の細工。わずかばかりの石がそれを彩り、きっと付けた人物の服を上品に彩るだろう。

「そうかねえ? 普段は声も掛けないで一日こうしてるだけなんだけど……あんたを見たら、どうにも堪えられなくなってしまったんだよ。勿体ないなんて言わず、見ておくれ」

「髪飾りもあるんだなー。……お、これ……」

 ガルジスが不意に目を留めたのは、小さいながらもしっかりした造りの髪飾りだ。仕事中に着けていても問題ないくらいのそれを、彼は示す。

「なあ、こいつはいくらだ?」

「おやまあ、そうかい。そうかい……。銀貨一枚、だよ」

「待て、それは適正な価格なのか? 見立てではもっと値上げしても……」

 イシュトの言葉に、年老いた女性は首を横に振る。

「そうさねえ。昔ならこれも、銀貨三枚でだって売れたよ。今は、誰も見向きもしない。みんな、目立った装飾を作って、安値で売りさばかなきゃ生きていけない時代になっちまった。でも……あたしは、あの人の技術を絶やしたくない。だからどうしても、こんな風に地味な見た目になってしまうんだよ」

「なら、銀貨三枚だ。それから……こいつはいくらのつもりだ?」

 イシュトが示したのは、一つのブローチだ。枠は精巧な花びらだけの意匠で、内側は平たかったであろう部分に、一対の小鳥が一本の花をくわえ合って羽ばたいている。そこを守るように、薄い水透石で覆いをしてあった。

「わ、綺麗……! すごい!」

「これは、銀貨一枚と銅貨三枚さね」

(えーっと、二つとも、一万かプラスアルファ? ……職人としてやってる人の値段にしては、確かに安すぎる。これだけ精巧なら、確かに三倍はとれるはずだ)

 価値の暴落。それは職人たちの腕を腐らせる最大の敵ともいえる。

 宝石とて同じだ。採掘からカット、宝飾への装着に至るまで、全て機械では出来ない。だからこその高級品だ。

「イシュト。……無理、言っていい?」

「お前はこれに、どの程度の価値を付けた?」

「最低でも、銀貨五枚」

「分かった。その値を出す」

「ま、待っておくれ。このご時世とはいえ、あたしはそんなつもりじゃ……」

 おろおろする老女に、里琉は言った。

「……見て分かると思いますが、私達、これでも貴族です。高貴なる側が、その額を出すだけの価値がある、と思ったのですから、受け取って下さい。それに、あなたのような技術者を簡単に失いたくないです。今日のちょっと多めな儲けで、とびきりの自信作をまた、作って下さい」

「ほい、俺の分な。包んでくれよ」

「あ、ああ、ああ……! 感謝するよ。貴族というのは、こんな地味な見た目に見向きもしないものだと思っていたけれど……想い人への贈り物かい?」

「ん、まあ、そんなところだ。普通のとは違うのか?」

「……主人を亡くしてから、特別な人に贈る客には、特別な包装をしているんだよ。少しだけ、待ってておくれ」

「ああ、俺はこちらを買う。こいつにすぐ着けてもいいか?」

「もちろんさ。綺麗に着けてやっておくれよ」

 そう言って老女が包装している間、里琉が肩に羽織っていたショールの真ん中に、イシュトがそのブローチを付ける。

「……似合うな」

「ありがとう、イシュト」

 照れはするが、我が儘を聞いてくれたお礼を里琉はする。

「ん? ひょっとして、リルへのプレゼントって初めてじゃないですか」

「……そう、なるな」

 この国で男女がプレゼントを贈り合うのは、かなり特別な意味合いを持っていた気がする。今更ながら、里琉は顔が熱くなるのを感じた。

「待たせたねえ。さあ、どうぞ」

 そう言って老女が渡した包装は、布をハート型に折って、きちんとリボンを結んだものだった。

「へえ、器用なもんだな。……感謝する」

「またいつか、縁があれば立ち寄っておくれ。あたしとあの人が生み出したもう一つの子供達……大事にしてくれれば、嬉しいよ」

「ありがとうございました。……でも、売れないからと言って、あんまりにも安い値段にしないで下さい。それはもしかしたら、あなたと旦那さんの絆を安売りしているのと同じかもしれませんから」

 ブローチに触れ、里琉は老女に言う。厳しいかもしれないが、物の価値というものはそういった見えない部分に宿るものだ。

 老女は目を丸くし、ややしてふっと微笑んだ。

「そうねえ。……次のお客様が来たら、そうしてみるよ。奇特なお客がそうそう、居るとは思わないけれどねえ」

 いい思い出になった、と言わんばかりの老女の店から離れ、里琉達は再び歩き出す。

 ふと気になって、里琉はガルジスへ問いかけた。

「ねえねえ、今のってメーディアさんへ?」

「……絶対言うなよ」

 むうっと口をへの字に曲げたガルジスに、里琉はくすくす笑う。あの髪飾りは、シンプルさを求めるメーディアにはきっと気に入ってもらえるだろう。

「……あ、でもイシュトには銀貨五枚返さな……」

「返すな。受け取れ。というか返品は不可だ」

「いや、でも、本当は私、自分で買うつもりで」

「うるさい。お前の買い物に関しては俺が今日は全部請け負うからな」

「……調子に乗って使っていいってよ」

「やったー、とか言うと思った? 後が怖すぎて遠慮するよそんなの! 血税を無駄遣いする気はないからね!」

 確かにお財布は無いというか、一ヶ月経ったとはいえ、宰相が「給料日は決まってますから」とにこやかにのたまったので無一文である。

 たかる気などさらさらないが、これは最低限、厄介になるしかないだろう。

「ま、今日は観光気分で楽しめよ。ほら、お目当ての店が見えて来たぞ」

「あの、見るからに石の看板?」

「おう。じっくり吟味しろよー」

 言われずとも、と里琉は意気込む。

(まだ見た事すらない宝の山! 鉱山の前に、ある程度の知識はつけておかないと!)

 石が好きなだけでは、そういった仕事は務まらない。それは元の世界でも同じだ。

 いつ戻れるか分からなくても、興味事まで無視は出来ない。

 そうして、薄暗い店内へとわくわくしながら里琉は足を踏み入れたのだった。


※ ※ ※


「どうだい? こいつはテアから取り寄せた本物の……」

「それ、密輸じゃないかな。テアの人間を前にして、よく言えるねえ」

「質も酷いのう。この値で売りさばいておったのか?」

 肌に塗るファンデーション。それは混ぜ物が多く、不自然にキラキラしている。

 他に目を走らせると、目元用の化粧品や口紅、頬紅など、様々な物が置いてあるが、どれも似たり寄ったり、と言うべきか。

 ライラはため息を吐き、店主を睨む。

「ぐっ……貴族様なら、お抱えの奴らが居るんじゃねえのかよ!」

「当然、と言いたいがの。テアとの交易は未だ、縮小中じゃ。妾達にさえ、まともに手に入らぬものが多い」

「…………じゃあ、早く貿易を再開しろよ!」

「彼女に言うべき事じゃないよ。まともに商売も出来ない癖に、偉そうにふんぞり返って文句しか言わないなんて、商人として最悪だね」

 アルカセルが言うと、店主の顔が赤くなり、次いで、店の前に布が乱暴に下ろされた。

「……ふむ、次に行くかのう」

 しかし、その頃には。

「…………あはは、どうやら、聡い奴らも多いみたいだね。どうする? ライラ姫」

 ――大半の露店が、布を下ろしていた。

 今閉めた店を全て、手持ちの地図にチェックする。虹書石という細く削った石は、紙に書き込める性質を持っているのだ。

 さて、と辺りを見渡すと、露店の中でも布を上げている所へと向かった。

「……ふむ、そなたらは後ろめたい事をしておらぬ、と?」

 経営していたのは、まだ若い女性と幼い少女だ。

「わあ! きれいなひとたち! いらっしゃいませ!」

「…………いらっしゃいませ。質はあまりよろしくありませんが、よろしければ、見ていって下さい」

 そう言って並べられた品を、ライラは一つずつ見ていく。

 さっきの店よりはマシだが、恐らくまともな品を扱おうと思ったら、ここまでが限界なのだろう。

「……最優先で化粧品の貿易は拡張すべきじゃな」

「うん。この国にとって、陽射しは大敵だ。ねえ、この店の品はどうやって作っているの?」

 アルカセルの問いに、少女が答える。

「あのね! おうちでざいりょうをそだてて、オアシスのものをとりにいくの!」

「この子の言う通りです。薬草などを何とか改良して育て、オアシスでの採取許可証を頂き、果実や水を採取しております。……しかし、ここ最近は植物の生育や水の質がよろしくなく、オアシスでの採取が不安になっておりまして」

 母親らしき女性が補足する。内容としては、納得出来る中身だった。

「……ふうむ。リルの話とも一致するの」

「うーん……値段は適正だね。一種類ずつ、全部買うよ。それとね、オアシスはしばらく、近寄らない方がいいな。何か他の方法を……」

「そんな……! 代わりの材料がなくなってしまったら、商売が……」

「少しの辛抱だよ。オアシスを元通りにするべく、王宮の人が頑張っているからね」

「オアシス、いっちゃだめ?」

「うむ。駄目じゃ。質がもっと落ちてしまう。売り切る頃には、風期の支度もせねばならぬであろう? これが少しでも足しになれば良いが……」

 ライラは念を押した。ただでさえ危険度は高く、そして毒の水を吸った植物を使えば、これらの化粧品にさえ毒が混じり込む。

 かと言って、全部を買い上げればいいわけではない。

(権力は使い方を誤ると、火種になるからの)

 アルカセルが、まとめて包まれた化粧品を受け取る。

「ライラ姫、行こうか」

「うむ。……ではの、達者でな」

「あ、ありがとうございました!!」

「またね! きれいなひとたち!」

 そうして開いているいくつかの店を廻っては買い、化粧品だらけの袋が詰まったそれをアルカセルが手にしつつ、お昼が近付いた頃、昼食の為に店に入る事にしたのだった。


※ ※ ※


 ――こうなるくらいなら、最初から二人きりにしてやりたかったな、とガルジスは思っていた。

 だが、この二人を外にただ放り出すわけにはいかない。何しろ、予定では近い未来の国王夫妻だ。加えて片方は現王。護衛の一人も付けないお忍びでは、さすがに何かあった時に問題となる為、こうして護衛兼仕事と共について行く事になったわけだが。

(俺は、既にリルの意思を裏切り始めてるんだろうな)

 さっきの迂闊な発言といい、自分でもさすがに分かってはいる。

 彼女を帰したくない、と。王の隣で、彼女らしく生きて欲しいとさえ。

 見た事の無い鉱石を目にしては目を輝かせる彼女に、文字が読めないのを幸いとばかりに教えていく王は、楽しそうだ。家族を失いかけたあの頃に比べたら、随分とその傷は塞がってきつつあるのだろう。

 だが、彼女が居なくなってしまったら、きっとその傷はまた広がっていく。里琉を引き止める方法を考え始めてしまっている自分に、ガルジスは少しばかり嫌気がさした。

「えっと、これは?」

「これは橙煙石だ。光に透かして揺らせば、中が煙のように揺らぐ」

「わっ……すごい! 面白い! あ、じゃあこっちは?」

「香桃石だな。割ると甘い香りがするんだ」

「……ほんとだ。少しだけ甘い匂いがするー」

 カウンターの青年は微笑ましそうにそれを眺めていた。いや、もしかしたら遠い目かもしれない。

「……なあ、お前もうこっちに買ってもらわないか……?」

「それは……これに関してはちょっと」

「駄目だ。言い出したのはお前だろうが」

「ですよね……」

 自分がした約束だ。守りたいとは思うが、状況があの時とは違う為、気後れもしている。本当にいいのだろうか。否、王がいいと言うのなら、やはり彼女には自分なりに褒美を出してやりたい。

「ねえ、これってもしかして、水透石?」

「お、そいつは知ってたか。まあ一般流通しやすいからなあ」

「細工もしやすい上、使い勝手もいい。頑丈で割れにくいのも長所だ。その代わり、職人の手が入らなければ希少価値は低い」

 どこで知ったのか、水透石の透明さに里琉は惹かれているようだ。

 ふと思い出したガルジスは、試しに訊いてみる。

「お前、中庭の四阿にある仕掛けとか、知ってるか?」

「え、何それ。てか中庭も知らない」

 やっぱりかと思ったが、それなら好都合だ。彼女はきっと気に入るだろう。

「……ああ、母上が気に入っていたあれか」

「です。こいつも絶対、気に入りますよ」

 実は有名なジンクスがあるのだが、それは内緒にしておく。彼女があわよくば雰囲気に呑まれてしまえ、というわけではない。決して、無い。……はずだ。

「あ、これ……」

 彼女が見付けたのは、晴青石という、名前通り晴れた空の色をした石だ。水色に近いその色に、里琉は何故か寂しそうな顔をする。

「知ってるのか?」

「似てる石を……兄さんが、誕生日にくれたんだ。ずうっと欲しくて、でもなかなか手に入らなかったやつで……。すごい嬉しかったな、って……」

 誕生日にこの世界へ突然飛ばされた、と彼女は言っていた。それが無かったら、きっと彼女はその石を眺めて幸せに暮らしていただろう。

 ――自分を見ない他人とは、関わらないままに。

「泣きそうな顔をするくらいなら、見るな」

 イシュトが里琉の視界を手のひらで軽く遮る。

「一通り見たが、どうする? お前が気に入ったのはあるか?」

「んー……夜虹石とかも綺麗だなって思ったけど……どうしよう、かな」

 しばらく迷った里琉は、入り口近くに並べてある水透石の棚に近付いて、一つを指さすと言った。

「これにする。……キラキラして、綺麗だから」

 水透石の中に、色の付いた透明な石の欠片を散りばめたものだ。やっぱり、彼女はこういうものが好きなのだろう。

「分かった」

 値段も高くは無いが安くも無いそれを包んでもらい、里琉は大事そうにそれを抱えて店を出る。そしてふと思い出し、中身を出すと光に透かして地面を見た。

 水透石の中に入っているいくつかの色が、反射して地面に美しい模様を描き出している。

「わあ、やっぱり思った通り。綺麗」

「やると思った! ほら、ちゃんとしまえ! そういうのは帰ってからにしろ!」

「はーい。……ねえ、そういえばそろそろお腹空いた」

 まるでこういう時は無邪気な子供だ。石を袋にしまって、しっかりと里琉は片手で持つと、子供のような事を言い出す。

「ん、そろそろ昼か? じゃあ大通りに行くか。屋台が並んでるぞ」

「やった! そういうの好き!」

 石を眺めていたからか、少し明るくなった表情で里琉は歩き出す。その手をイシュトがすぐに掴み、指を絡ませた。

「えっ、何?」

「だから迷子防止だろ。気にせず行くぞ」

「いやでも、この繋ぎ方はちょっと……あ」

 抗議しかける彼女の手を、王はさっさと引いて歩く。垣間見える彼の独占欲は、気付かないだろうが里琉だけの特権なのだ。

 早い所、絆されて口説かれてしまえばいいのにな、とガルジスは一瞬思うが、そんな思考に囚われる時点で駄目だ、と己を内心で叱咤する。

 優先順位を間違えてはいけない。それに、決めるのはあくまでも里琉自身なのだから。


※ ※ ※


「ひ、姫様……お強いですね……」

「すごーい……ライラ、つよーい……」

「む、リル。無理をするでないぞ。ほれ、水じゃ」

「ありがとー」

 イシュトは妹の酒豪っぷりに唖然としていた。

 これまで年齢の関係上、酒はほとんど飲ませなかったが、まさかここまで強いとは。父に似たのだろうか。

「あはは、いい飲みっぷりだね、ライラ姫」

「兄上と違って、妾は強いのじゃ。ガルジス、降参かの?」

「いえいえ、俺はこれからですよ。……あれ? リル? 寝ちまったか……」

「すー、すー……」

 気付けば隣で、彼女はテーブルに突っ伏して眠っていた。

 それを見たアルカセルが、小声になる。

「で、どうだった? デートの感想」

「どうせ兄上、何も褒めてやらなかったのであろう?」

「……いや、その。……爪や髪の細工は気付いた……が、言ってない……」

「うわ、言わなくてどうするのそれ。リルは絶対、気付かれなかったって思ってるよ」

「陛下が手を繋いでも、困惑してましたからね。……陛下、俺を通訳にしないで下さい」

 方々から散々な言われようである。二人きりならもう少し何か言えたかもしれないが、彼女は気にする素振りすら見せなかった。

「ていうか、結局さ、イシュトってリルを真面目に好きなわけ?」

「…………何が言いたい?」

 アルカセルの問いかけは、軽そうに見えて逃げを許さない。

 イシュトに笑顔のまま、続けて問いかける。

「噂はばっちり聞いたよ。あの子は他の男に襲われかけて、その傷が全然癒えてない。だからイシュトは王妃候補にして、守る為の盾を与えた。求婚の件はどうにも極秘のようだったけど、だからこそ知りたくなってね」

「……正式な求婚ではなかった、と言っておく。それに俺も、分からない。こいつに対して本当に恋情を抱いているのか」

 踏み切れないまま、彼女とはあれっきり、一緒に眠るだけだ。彼女が悪夢に苛まれないようにと願いながら。

「まあ、イシュトにとっても初恋かな。王族が恋をすると厄介だよね」

「ふむ、兄上。リルを好いているかどうか、何故判断がつかぬのじゃ?」

「庇護欲なのか、独占欲なのか判断がつかない」

「どっちもありの恋心じゃない? っていうか、恋に定義づけとか無駄過ぎるよ。リルを妃にしたいのなら、その為に動くべきだと思うけどね」

 あっさり言いながらアルカセルは木の実の殻をむいて、ライラに餌付けしている。

「はい、ライラ姫。あーん」

「……指ごと噛み付かれたいか、そなた」

「ええー、恋人がするような行動を示そうとしただけなのに」

「兄上への手本か? よかろう」

 ……やはり妹も多少は酔っているらしい。あっさりアルカセルの手からぱくりと木の実を食べた。

 全く参考にならない。それに、彼女に餌付けならもうした。

「何をしたら、こいつは俺を意識するんだ?」

「正式じゃない求婚だってさっき言ったよね。じゃあ、正式に求婚したら?」

「おお、それは良い。リルとていつまでも独り身ではいられぬしの。他の誰とも分からぬ者よりかは、兄上ならば幾分マシじゃ」

「……彼女は、帰るべき場所があります。彼女次第でもありますが、軽率な発言はお控え下さい」

 ガルジスが真剣に小声で諫める。確かに彼女は帰りたい、と言っていた。だが、それはもはや義務感だけのものではなかろうかとさえ、イシュトは思っている。

 ちょうどその時、里琉が身じろぎした。

「ん……」

「起きたか?」

「夢、見てた……。家族と、誕生日パーティーする、夢」

「…………そう、か。ほれ、起きたんなら、酒以外も飲め。な? 甘いもんもあるぞ!」

「じゃ、じゃあ、甘いやつ……飲む」

 ガルジスの勢いに押された里琉は、困惑しつつそれに乗る。

 追加注文を済ませている間に、アルカセルが里琉に問いかけた。

「……ねえリル。君って、本当に他所の世界から来たの?」

「っ!?」

「アルカセル、どこでそれを聞いた」

「それは教えられないかな。でもその反応を見る限り、事実か。……じゃ、単刀直入に訊くね? 君、本気で帰りたい?」

「そ、れは……えっと」

「君この世界に来て、大変な目に遭ったみたいだけどさ、元の世界とかでそれ、克服できる?」

「おい、やめろアルカセル」

 止めようとしたが、彼は笑顔でイシュトを制した。止める気はさらさらないらしい。

 里琉は青ざめて震えていた。

「リル、今考える事じゃない。深く気にするな」

「君の調査、興味深い事ばかりだったからついついはかどったけどさ。……元の世界に、友達とか居る? 家族は生きてる? 帰る場所、本当にある?」

「友達なんて、元の世界に戻ったら……要らないんです。私は、夢さえ叶えられるのなら、それで……」

「夢? ああ、石博士みたいなやつだっけ? 君、石馬鹿って一部から言われてるよね。それならこの世界の石、君にとっては珍しいものばっかりだし、まだまだ見てないものもあるよ?」

「……こ、鉱山に、連れて行ってもらいます。そこで、奇跡の石の手がかりも、ユジーさんに訊く予定なんです」

「あー、あれかー。……期待しない方がいいよ。あの石、本当に奇跡起こしているかすら怪しいから」

「え……?」

 次から次へと明かされる話に、里琉は狼狽えている。

 その時、追加注文分の品が来て、テーブルは一新した。

「ほい、こいつがお前の分な。まず飲んで、落ち着け」

「う、うん……美味しい」

 赤い花を砕いたものをぎっしりと詰めたその飲み物は、里琉の好みに合ったらしい。こくこくと飲み進めていく。

「……む? どこかで見たような気がするが……はて?」

 ライラが里琉の飲み物を見て、首を傾げつつ蜜酒を飲んでいる。度数が高いというのに、よく倒れないものだ。

「それでさ、リル。仮に帰れなくなったら、イシュトの奥さんになるの?」

「っぐ! げほっ、ごほっ……!」

 質問を再開したアルカセルのせいで、里琉が飲み物にむせる。

「大丈夫か?」

「ん……。……王子。この国は基本的に恋愛結婚です。確かに面倒な事をされて求婚となりましたけど、イシュトがその気にならないのなら、私はこの世界を巡りたいと思ってます」

「そうだったのか!?」

 ガルジスも驚くが、イシュトも初耳だ。

「ほう、旅をするか。良いのう」

「え、国を出るの? だってこの世界、狭いよ? 国五つ回ったら終わりだよ?」

「王妃なんて大人しいガラじゃありません。それに、私よりイシュトに相応しい人はいくらでもいるでしょう」

「へえ。……どうして?」

 再度飲み物に口を付ける里琉は、静かに続ける。

「外見と仕事ぶりを見てれば分かります。それに、イシュトは言葉が足りませんが、誠意をもって接すればちゃんと話が通じます」

「珍獣みたいな言われ方されてるけど、どう?」

 どう、と言われてもある意味では事実だ。その前にまともに接する相手が少なすぎるだけで。

「否定はしない」

「してもいいと思うけどな、さすがに。そこだけじゃないよね」

「顔の話ならもうしました」

「兄上の顔か。……ふむ、リル。そなた、兄上の顔は好みではないのか?」

「お面しててくれませんかね。話しにくいんですけど」

 里琉の言葉に、何となく傷付く。そんなに嫌だったのか、と思いきや。

「薄暗いとか、ちょっと遠いとか、そういう時はいいんですよ。問題はその、至近距離が……」

「言いながら離れようとするな。椅子から落ちるぞ」

 イシュトは里琉の肩を掴んで引き戻す。

「ふふふ、面か。兄上の顔を、そうでもせねば見れぬほど、好いているか?」

「顔は好みなんですよ。顔は」

「強調するなよお前……」

 ガルジスの言うとおりである。その顔にコンプレックスを抱えている人間なのだ、こちらは。

 とはいえ、里琉の表情は曇ったままだ。

「それに……言われたくないじゃないですか。『あんなのと一緒に歩いているなんて』とか」

「え、言われたの?」

「言ってたら睨みつけてたが」

「今日はそもそも特別化粧だからなあ。文句の付けようなんかないだろ」

「……普段の話。それに、昔を思い出したし」

 半分くらいまで飲み進めた彼女は、不意にグラスを置いた。

「…………眠い」

「えっ」

「な、なんじゃ、実は酒じゃったのか!?」

「……いえ、メシュメの花です、こいつ……。やっちまいました」

 ガルジスが頼んだのは、別名「酔い戻しの花」と呼ばれる花が入っていた。ライラも気付いたようで、呆れて天井を仰いでいる。

「馬鹿かお前は! ……おい、大丈夫か?」

「…………へーき。たぶん」

 言いながらまだ飲もうとする辺り、大分気に入ってしまったようだ。取り上げようとするが、両手でしっかり持ってしまっている。

「ねえねえリル、イシュトのいいとこ挙げてみて?」

「おい!」

 こんな時にまだ余計な事を、とイシュトが遮るが、里琉はぽやっとした顔のまま、さらさらと答えていく。

「顔、はさっき言ったけどー、意外と優しいところとか、ワートマールや甘いのが苦手なのに激辛料理は好きなところのギャップとか、危険な時にいつも助けてくれるとことか、仕事もやれば出来るとことか…………むぐー」

「もういい、いいから黙ってそれ飲み切れ」

「あっはっはっはっは。ちゃんと見てくれてるんだね。良かった」

「アルカセル……悪趣味じゃぞ」

「酔った姿を見せた彼女が悪いよ。隙を作るのは、この国では危険でしょ?」

「……あとねー、お酒飲んだら倒れるってきいた! 強いのかなって思ったら、違った!」

「……それは褒めてないな?」

「でも剣はめちゃくちゃ強いよ!」

 飲み切ってしまったので、今度は水でも与えるか、と思ったが、彼女はまたこてんと眠ってしまった。

「あーあ、終わっちゃった。イシュト、責任もって部屋に持ち帰ってね」

「……言われずともそうする」

「ふむ、そろそろ帰らねばの」

「ライラ姫は僕が送るからね」

「不要じゃ。一人で部屋に帰れ」

「……会計、済ませてきますね」

 ガルジスが早々に立ち上がった。王族達の会話に疲れたのだろう。自分も王族だが、生きた心地がしなかった。

 しかし、と眠っている彼女を見る。

「たまに視線を感じると思ったら、大体こいつか……?」

 害のある視線ではない。不躾でもない。だが、気にはなっていた。

 ――何故、届かないものを焦がれるようにこちらを見るのか、と。

 視線を向けても、姿は見えなかったが、きっと彼女は自分に気付かれるより早く視線を外していたのだろう。

「有り得るかもしれんの。ただ、綺麗な顔は長く見られぬと言うておった」

 残りの酒を飲み干しつつ、ライラが言う。

「どうして?」

「昔、同い年の女子の顔が綺麗で、見つめておったそうじゃ。宝石と同じく、特に他意はなかったようなのじゃが、その女子には不快じゃったようでの。……『気持ち悪い』と言われて以来、気にしておるらしい」

「ふうん。ま、見目が良くても心が醜い人間はいくらでもいるからね。リルも運が悪い子だね」

 アルカセルはあっさりとそう呟いて肩をすくめる。

「で、イシュトは?」

「……別に構わないが、こいつが気にするなら、一応言っておくか」

「その方がいいだろうね。この子、言われた事を気にし続けるタイプみたいだ。髪型も、素顔も、きっと……同じように、誰かに言われた事を気にし続けて、否定され続けたんじゃない? 誰かさんみたいにね」

 最後の言葉だけこちらを見るアルカセルに、軽く睨み返しておく。

 元婚約者の言葉に縛られているのは、否定出来ない。

 ただ、里琉が来てからは、その言葉の枷は、少しずつだが、外れている気がした。


※ ※ ※


 まだ夜も明けないうちに、里琉はふっと目を覚ました。

 いつも通り、イシュトの腕の中で眠っている状況に加え、頭が痛い。

「……?」

 昨夜はお酒を飲んだ後から記憶が断片的だ。加えて、頬を軽く触ると、化粧が落ちていないのが分かって、慌てて起き上がる。

 それに反応したのか、イシュトも目を覚ましてしまった。

「……どうした?」

「あ、ご、ごめん。……寝てて、いいよ。私、化粧落として……ついでに、お風呂入って……あいたたた」

 激しく動くのは良くないようだ。兄達の言っていた二日酔い、というやつだろうか。

「……風呂か。なら、連れてってやる。俺もお前を運んですぐ、眠ってしまったからな」

「ん……お願いして、いい?」

 さすがに今回は甘える事にして、里琉は代わりにランタンを持つ。

 一番近くの風呂の入口で降ろされ、里琉はイシュトにランタンを渡した。

「多分、ちょっと時間かかるから、先に戻ってていいよ」

「……待ってるに決まってるだろうが。いいから、入ってこい。一人で大丈夫か?」

「それは、平気」

 急がなければ、これ以上具合も悪くなるまい。そう思って里琉は中に入ると、服を脱いで――ふと気づいた。

「あ、耳飾り」

 これもつけっ放しだったのか、と思ったが、すぐ外れたのでそっと着替えの傍に置く。忘れないように気を付けなければ。

 そうしてお風呂場に入ると、少しひんやりしていた。この時間に入る人間はあまり居ないからだろう。

 だが、代わりに常にランタンの灯りがわずかに空間を照らし、区切られた湯船のすぐ傍には、火がついたままの朱水石が吊るされている。

 これを、滑車の要領で浴槽の隣にある紐を留め金から外して水場に入れると、じゅうっという音を立てつつ、お湯を沸かしてくれるのだ。

 水の中に入れても火が消えない為、周囲からどんどん水はお湯に変わっていく。追い炊きに近いそれを利用して、里琉は体を先に洗いながら、お湯の温度を確認していった。

 全身くまなく洗い、メイクも綺麗さっぱり洗い流したところで、少しだけ熱めになったお湯に浸かる。

 朱水石は好みの温度になった時点で上げておかないと、沸騰して大変な事になるので、見極めが大事だ。風呂好きの里琉が真っ先に覚えたのがこれである。

「んー……きもちいー……」

 頭痛はしているが、体がほぐれていくのが分かる。

 唯一、落とせなかったのがマニキュアだ。これは元の世界と同じように特殊な薬液で落とすらしい。と言っても害も匂いも強くないという。

 後でそれはメーディアに教わるとして、曖昧な記憶で何となく覚えているのは、王子の追及。


『――帰る場所、本当にある?』


 王子にとっては、きっとどうという事のない、ただの疑問。だが、里琉にとっては。

「帰る場所が無くなったら……私は、どうしたらいいんだよ」

 帰れないかも分からない。だが、日に日に感じていくのだ。元の世界への執着が薄れていくのを。

「嫌だ……もういいや、なんて、思いたくない……」

 だが、元の世界に帰っても、きっとこの世界での事は忘れない。忘れる事は、出来ない。

 里琉の特異性を理解する人。里琉と「友達」になりたいと言ってくれた人。里琉を――深く傷付けてでも欲しがった人。

 居なかった。元の世界では、誰一人として、里琉そのものに重きを置かなかった。凡人で、ちょっと変わった程度の人間。多少の功績はあったとしても、それだけだ。

「元の世界……帰る意味、あるのかな」

 ぴとん、と髪から落ちた雫が、湯船に波紋を広げる。まるで心と同じように。

 この世界に居る限り、里琉は一人ではない。元の世界では一人で居るしかなかったが、この国なら。彼らなら。

 は、と自嘲がこぼれる。

「最低だ、私……。結局、一人でなんか、居られないじゃんか」

 ざぷ、と湯船に顔をつけて、涙を誤魔化した。

「……行かなきゃ。イシュトを、待たせてる」

 湯船から上がり、乾燥させた小さな灰の袋を湯船に三つほど入れておく。こうすることで湯船の水は綺麗になり、また使えるのだ。水の少ないこの国ならではの知恵でもある。

 頭痛がひどくならない程度に急いで体を拭いて髪も水気を拭き取り、着替えを済ませる。そして耳飾りを手に、里琉は風呂場から出た。

「……倒れていなかったようだな」

「ごめんね、待たせたね」

「いや、いい。それより、具合はどうだ?」

「飲み過ぎたみたいで、二日酔いしてる、かな。頭が痛いや」

 そんなに飲んだ記憶ないのにな、と思っていると、イシュトが少し考え込んでいる。

「どうかした?」

「いや……お前の体調が優れないなら、このまま戻るか……。見せたいものはあったんだが」

「ん、この時間に? 珍しいの?」

「この時期は珍しくないだろうが、この時間なら誰も居ないだろうと思ってな。……無理はしなくてもいいが」

「んっと、少しなら付き合うよ」

 そんなに真面目に考え込む程の事だろうか、と思いつつ、里琉は承諾する。

「と、その前にこれ。宰相さんに渡してくれる?」

「……ああ」

 耳飾りを渡すと、イシュトはそれを受け取り、代わりに厚手の上着を差し出してきた。

「え、どこ行くの?」

「体を冷やすと良くないだろう。待っている間に持ってきた。着ろ」

 言われるがまま袖を通すと、イシュトにひょいっと抱えられた。お姫様抱っこはもはや慣れつつある気がする。

(いやこれ、慣れるのはどうなんだろう……)

 代わりにランタンを持って廊下を照らすが、本当に人気がない。仮に誰かいたとしても、王と王妃候補なら華麗にスルーしてくれる、はずだ。

 揺れが少ないように歩く彼の指示通りに道を照らして、辿り着いたのは。

「ここ……って、もしかして」


 ――庭らしき場所の真ん中にある、小さな四阿。そこだけ、キラキラとした光のヴェールに包まれているようで。


 あまりに幻想的なその風景に、里琉は言葉を失った。

「昼間に言っていた場所だ。覚えているうちに案内しておこうと思ってな」

「……すごい。どうなってるの?」

「中に入るか?」

「う、うん」

 光のカーテンをすり抜けたその中は、更に凄かった。

「わ、あ……!?」

 天井から、キラキラと雪のように光が降り注ぐ。もはや何が何だか分からない。

「気に入ったか?」

「すごい。こんなにすごい技術を使えるなんて……」

 天井は無数の穴が開いているようで、その先から光が降り注いでいるようだ。恐らく、二重三重の構造になっているのだろう。

「風期に入ってしまったら、危ないから見に来れなくなるだろう。それに、おまえがいつ帰るかも分からない以上、見せておきたかったんだ」

「……イシュトは、私が帰れるって、思う?」

「分からん。お前は特殊な方法で来た。俺には判断がつかない。帰りたくないのか?」

 問われて、里琉は俯く。

「王子に訊かれて、私も、さっき考えた。でも……元の世界に戻ったら、この先ずっと一人で、男の人に怯えて生きると思う。友達も作らないし、家族に心配かけながら生きていくんじゃないかな。……この世界の事を、誰にも言わずに」

 ――考える程、デメリットだらけだ。ストーカーさえ居なかったら、もう少し希望的観測は続いたかもしれないのに。

「自分勝手だけど、もう傷付きたくなくて。一人で生きて、一人で死ぬんだと思う。……この世界に残ってればよかった、って勝手に後悔し始めるんだ。多分」

 人は欲深い生き物だ。そして、より楽な道を選びたがる。

 簡単な道など、ろくなものじゃないと分かっているのに。

 所詮、高尚な思考など一般人の里琉には持てない。二つの世界を天秤にかけている時点で、もう里琉は元の世界への未練を失いつつあるのだ。

「……お前、以前言ったな。薬を使わなければ、信じると」

「へ?」

 思考に沈みかけていた里琉に、イシュトが唐突に告げる。


「リル。本気で、俺の妻に――妃になる気はないか?」


「!?」

 里琉は思わず顔を上げた。至近距離には彼の綺麗な顔。

 見惚れて声を出すのはおろか、息すら出来なくなる程の完璧な美しさ。

 それはもしかしたら、里琉だけの見解なのかもしれない。だが、今まで見て来た人間の顔の中で、彼だけは別格だと里琉は思っていた。

 そんな彼が、今、さらりと――素面の状態でプロポーズしている。里琉に。

「どうした、聞こえてるか?」

「え、えっと……その、聞こえてはいた、というか」

 これこそ夢ではなかろうか、と里琉は思う。しかし、イシュトは更なる猛攻アタックを仕掛けて来た。

「なら、口付けて確かめるか?」

「はぃっ!?」

「酒は当然の事ながら、眠くもない、至って通常の状態で俺はお前に求婚しているんだ。だから、口付けたい。本気だと、お前に伝えたいんだ」

「そ、そんなの、急に言われてもっ」

 頭痛はしているが、それよりもこの場をどうしたらいいのか里琉は分からない。

(え、えっと、キス、してもいいの? それで結婚とか、そんな事になったりしない、よね? ああいや、そうじゃなくって、そもそも何で――……)

 薬で理性が飛んだ時の彼のキスは、里琉の理性も同じく滅茶苦茶にされそうなものだった。思い出すだけで、腰のあたりが妙に疼く。有り体に言って、淫靡な気分になってしまうのだ。

 だからなるべく思い出さないようにしているが、素面の状態の彼は、一体どんな風にキスしてくるのだろう。

(…………あれ? てことは、嫌じゃないんだ……?)

 これがストーカーなら全力で噛み付いていただろうが、イシュトの腕の中で蕩けるのは、多分、きっと、悪くない。

「好きってどんな感じなの?」

「そうだな。一日の思考の大半を、お前という存在に占められる。仕事はするが、それ以外はお前が居ないと、何をしているか、どこにいるか、ちゃんと無事か、気になってばかりだ。だから、お前が一緒に居ると、安心するし、何より嬉しいんだ」

「……そ、そう、なんだ?」

 それは何となく申し訳ないな、と思うが、同時に嬉しくもある。それなら、もっとマメに執務室に通ってもいいくらいだ。

(んん……? これはもしかしなくても、私、イシュトに結構、好感持ってる……?)

 いくら鈍いと言われても、そもそも他に比べて彼と居る時間が長く、しかも色々と言い合っているのだから、本音で付き合える人間としては貴重だ。

 加えて、彼は特段、悪人というわけでもない。己の意思と信念は持っているし、数々の死線を潜り抜けただけあって、とても強い。

 考える程、彼は何故、平凡な自分を好きになったのだろうかという疑問しか湧いて来なくなった。

 否、それは正直、後からでも訊ける。

 今重要なのは――この押しに負けてしまった方がいいのではないか、という葛藤である。

「あ、あの、イシュト」

 思い切って顔を上げると、ばっちり目が合った。

 光の雪が舞う中、彼はいつもの綺麗な顔で、真剣に里琉を見ている。

「……リル。どうしても、駄目か?」

(無理。……この顔には、多分勝てない)

「い、いいよ……んっ」

 承諾を告げた途端、唇を塞がれる。熱を持って潤んだそれは、里琉の唇にも染み込むように馴染んでいく。

「はぅ、ぁ……っ」

 舌が入ってきて、里琉の体はぞくりと震えた。

 きゅう、と下腹部が疼いて、力が全身から抜ける。

(何なんだろう、これ。気持ちよくて、内側から溶かされていくみたいな……)

「……リル?」

 ふっと唇を離したイシュトが、心配そうにこちらを見る。

 里琉は既に乱れた息の中、イシュトにしがみつきながらお腹の辺りを押さえて言った。

「イシュトのキス……、変な気持ちになる。もっと欲しいけど、これ以上は危険、みたいな……」

「…………どうも、俺の口付けはお前を欲情させるらしいな」

 少し困ったように、イシュトは呟いて里琉を抱き上げると、ランタンを持たせた。

「部屋に戻るか。……お前が求婚を受諾すれば、抱く事は出来るが……」

「う、ううん……。こっちこそ、ごめん……」

 体のあちこちが熱を帯びて、触れている体温にさえ擦り寄りたくなる。これが欲情というものなら、確かに今の里琉がこれ以上を求めるのはまずい。

(せ、せめて避妊具でもあればなぁ……。女性が薬を飲むだけっていうのは、ちょっと……)

「どうした?」

「ひゃう!? なな、何でも……ない、よ」

 思考がバレる体質でなくて何よりだ。ストーカーに襲われて間もない女性が、あっさり他の男に抱かれたいと思うなんて、軽薄にも程がある。

「あ、明日は、剣の訓練……しないんだっけ」

「ああ。お前も二日酔い状態だしな。明日は薬が効かない以上、ゆっくり休め」

「それならフィリアさんの所にでも行くよ」

「何かあるのか?」

「うん。フィリアさんの研究所、色々と計測してくれるから。今回の二日酔いでも、対策とかあればなって」

「……お前はいいな。俺はあの場所は少し、苦手だ。全身がピリピリする」

 慣れない場所に入ると緊張するからだろうか、と思ったが、どうやら違うらしい。

「……俺の持つ電気量とやらが、機械と相性が悪いらしい。風期になったら、もっと厄介になるぞ」

 はて、と里琉は首を傾げた。風と電気の関連性がよく分からないが、その辺もフィリアに訊いておくべきだろうか。

 そう思いながら部屋に戻ると、軽く水を飲んで、二人は抱き合ったまま眠りについたのだった。


※ ※ ※


 二日酔いなんですけどー、と言って彼女が訪れたのは、午前中だった。訓練も無かったらしく、寝たら頭痛も大分落ち着いてはいたが、一応確認すると、体調は万全とも言える状態ではなさそうで、一日安静にしておくように言ったのだ。

「ま、少し休んで行きなさいよ」

「ありがとう。そういえば、王様が今度は本気だからって昨夜、求婚してきたんだけど」

「あんた、王妃になるの?」

「まだ保留。……元の世界に戻れなくなったら、考えようと思って。……ところでさ、イシュトのキスで欲情するのって、どう思う?」

 お茶を沸かしながら世間話に入ったが、雲行きが怪しい。

 フィリアは里琉を見た。赤い顔で困ったように下腹部をさすっている。

「あんた、もうじき生理?」

「一ヶ月経ったけど、そういえばそろそろかなあ……分かんないや」

「となると、一度来るまでは王様に抱かれない方がいいわね。特に一定の期間は、妊娠率が倍以上になるはずだから。……でも、それだけじゃなさそうね」

「うん。……イシュトに抱かれたいって思うのは、不味い事、だよね」

「対外的にはまずくは無いけど、あんたの目的である元の世界に帰ることは難しくなる、と思っていいわ。……でも、あんたは帰りたいの?」

「…………帰っても、何も残っていなかったらどうしよう、って思ってる。帰った先で一人で生きていくの、多分辛いと思うんだよね」

「別に帰らなくてもいいってんなら、私は構わないわよ。人間、居心地のいい場所を見つけたらそりゃ居着きたくなるでしょ」

 沸いたお湯をポットに入れて蒸らす。

 彼女はストーカーに傷を付けられた。だが、それをあの王で癒せるというのなら、それ以上の薬はきっとない。

 問題は、温度差か。

「あんた、王様の事好きなの?」

「ふぇっ!? いいいや、顔はそりゃもちろん好きだけど、イシュトみたいに一日の思考を費やしたりとかするわけじゃないし、かと言って他の男と違って、抱き締められたりするのは嫌いじゃないと言うか、むしろ安心出来るというか」

 あたふたする里琉の傍にお茶を置く。

 フィリアも自分の分を飲みつつ、ふう、とため息を吐いた。

(恋を知らずに育ったからこそ、恋がどんなものか定義づけられなくて、今自分がどんな状態か分からない、という感じね)

「あんた、顔、顔って言うけど、王様の顔を知る前まではどうだったの?」

「どう、って」

「抱きしめられたり、キスされたりしてたら?」

「……? イシュトに抱きしめられてる時まで、顔なんて見てないよ?」

 見てない。つまり――里琉の中ではアリだと言う事だ。

 彼がどんな髪型をしていようが、彼である限り、里琉は彼だけに特別の許しを与えている。

(さすが友達居なかった歴、年齢ね。自分じゃ分かってないようだけど)


 ――恋か、その一歩手前。彼女は王に、そんな感情を抱いている。


 とはいえ、指摘したらこじれるだろうし、今は問題が山積みだ。

「そ、それで、あの、イシュトにも言われたんですが、イシュトのキスって、私にはその……ちょっと危険で」

「元々、女を色で落とす特技持ちだから、それは仕方ないでしょうね。で?」

「は、はしたない事に、そのまま……抱かれたいって思ってしまう事が、この先絶対ありそうで……。でもこの国、避妊薬しかなくて、私には使えないじゃないですか」

「…………あんたも人間で、女って感じになってきたわね」

 当初は無垢なイメージだったが、こういう生々しい話をするようになるとは、一ヶ月程度でも染まり始めている証拠だろう。

 ともあれ、言いたい事は分かった。飲み干したカップにお代わりを注ぎ、フィリアは頷く。

「避妊薬ではなく、避妊具が欲しい。そういう事ね」

「……はい」

「ダリド王子にお願いすれば早いでしょうけど、その前に仕掛けられたり、あんたが耐え切れなくなったら困るわね。……かと言ってあんたに自慰行為を教えるのも気が引けるわ」

「じい?」

「危険を覚悟で王様に抱かれるのと、自分で自分を慰めて性欲を発散させるのと、どっちがマシかしら」

 フィリアの言葉に、里琉は真っ赤になって首を左右に振った。

「どど、どっちも出来ない!! だ、大体、自分でとか、そんなの……!」

「あら、割と普通の事よ。まあ、知識ゼロのあんたには想像もつかないでしょうけど」

「うう……意地悪を言われた……」

「ま、いいわ。要は王様に抱かれず、王様に対する性欲をどうにかしたいんでしょ。避妊具が手に入るまで」

「そ、そうなるの、かな」

 まだ赤い顔で困惑気味に呟く里琉に、フィリアはにこやかに言った。

「直談判なさい。王様はああ見えて女の知識をそこそこ持ってるわ。あんたにも性欲はある以上、互いにとって丁度いい落としどころを見つけてくれるんじゃないかしら」

「あ、あのー……つまりそれって、まさか」

「体の関係を、一線を越えずに持つ方法。理性のつよーい王様だもの。最終的に何をするか理解する範囲まで、文字通り手取り足取り教えてもらいなさいよ」

「そ、そんなぁ!!」

 彼女一人でどうにかしようなど、無理な話だ。大人しく王にあれこれ開発されてくればいい。

 次に王子が来るまで、凍結していた案件を進めるか、とフィリアは奥にしまい込んだファイルを引っ張り出した。

「……この国における、避妊具の作成、か。王妃様のご遺志、まさか今になって継ぐとはね」

 ――彼女が相談してこその中身。子供がすぐ出来ても困る場合や、性犯罪においては使うか否かだけでもかなり違うとされる代物。何しろ、性犯罪で生まれた子供は、死亡率も高ければ、捨てられる率も半端ない。

 そういう子供を減らせればと、前王妃は言っていた。

「あんたの、そういうところよ。リル。……必要とされるべきものを、持っている。誰よりも多く、誰よりも大事に」

 呟いてその資料を広げ始めたフィリアの元にこの後、人が訪れる事は無かった。


※ ※ ※


 その日の夜、イシュトは頭を抱えたくなった。

「相談する相手を考えろ……」

「ら、ライラとかよりは話しやすいかなって……」

「大体、避妊具って何だ。この国には薬しかないぞ」

「あ、なんか心当たりがあるみたいだよ? まあともかく、そんなわけでして。……お願い! ストーカーの傷を埋めたいとかじゃなく、これは結構真面目に困ってる事だから!」

 夜になってここに来た彼女は、改まって事の次第を説明した。

 フィリアに相談したらしいが、自慰かイシュトの助けを借りるか、の二択を迫られたらしく、それで後者を選んだらしい。

 元々通っているので、前者を選ばれたらそれはそれで困るが、果たして歯止めが利くかどうか。

「最悪の事は考えてないのか」

「こ、子供が出来たら、潔く諦めるけど……出来ればそれは、諸々の問題が片付いて、帰れなくなりました、って状態でお願い!」

「…………昨日の今日で、凄い方向に話が飛んだな」

 それだけ彼女も危惧しているのは分かるが、頼る相手が求婚した相手であり、王でもあるというのは分かっているのだろうか。

「ほ、他の人には内緒で……。こんな、はしたない思考してるの、イシュトに知られるのは、ホントは嫌だったけど……生理もいつくるか分からないし、他に頼れなくて」

 無知が故に頼めるのだろう。これが一度でも経験のある女なら、色仕掛けかと疑うところだが。

「大体分かった。で、今夜からか?」

「い、イシュトがいいって言うなら、いつでも」

「……なら、まず先に言っておく。夜着を夜伽用に変えろ」

「えっ」

「今夜はともかく、そちらでないと服が脱がせられない」

「え、自分で脱ぐけど」

 夜伽用はあちこちに紐が結んであり、脱がせやすい仕様となっている。普通の夜着は質素なワンピース型なのだ。

 なお、下着もそういう仕様だが、夜伽用となると下着も外される。

 よいせ、と脱いだ里琉は、想定通り下着姿だった。

「……恥じらいとかそういうのは無いのか」

「あるけど、勢いとか大事かなって! ……うう、胸とか全然なくてごめん……」

 脱いだ途端にしおらしい態度になる辺り、本当に勢いで脱いだのだろう。

(まあ……これはこれで、役得か)

 下着姿の彼女を抱き寄せ、口付ける。その合間に夜着の裾から手を差し入れると、滑らかな肌がぴくりと震えた。

「んっ……はぁ……」

 施術のせいか、吸い付くような感触に蠱惑的な感覚を抱く。

(ひとまず……絶頂を覚えてもらうか。俺の理性が飛ばないといいがな)

 まさか五年経った今になって、自分が訓練を教える側になろうとは。

 しかもそれが、好いた女となれば、かなり熱も入る。


 ――結局この日、彼女は口付けとイシュトの手だけで数回の絶頂を知る事となった。


「はくぅ……ん。もぉ、むりぃ……っ」

 甘く乱れた声と吐息で、イシュトの腕に抱かれながら気を失う彼女の体は、今にも崩れて蕩けそうな果実そのものだ。

「くそ……想像以上に生殺しだぞ、これは……!」

 じくじくした己の欲を抑えたいが、彼女を貫くわけにもいかない。

「……だが、こいつが望むなら……これしかないんだろうな」

 色々諦めつつ、イシュトは彼女を抱いたまま、根性で眠りについたのだった。


 ――そして翌日から、彼女の夜着は夜伽用のそれになったのである。

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