12話:穢れを浄める方法

 ――寒い。それが一番最初に気付いた感覚。

 だが次いで、両手の痛みと痺れに、一気に意識が覚醒する。

「いっ……!」

 両手を、頭上に縛られていた。そして、窓は開けられ、月明かりが部屋を照らしている事に気付いて――悲鳴が一瞬上がった。

「ひ……!?」

 壁一面の、服やハンカチや下着。紛失したそれらと、棚に並べられた瓶の数々。中身は見えないが、見ない方がいいのは確かだ。

 一体どうして、と記憶を探り、何とか思い出す。

(エステが終わって、その後、イシュトの所に行く為に護衛の人を呼ぼうとしに行った時、後ろから誰かに……殴られた? 薬の類は効かないはず、だし)

 後頭部が軽くずきずきする。乱暴なやり方で誘拐されたらしい。むしろよく、人目につかなかったものだ。

 それよりも、と足元に目をやる。目覚めた当初に気付いてはいたが、目を逸らしたい事実からは逃げ出せない。

「はっ……はあ、本物の……リルさんの体……」

「離せ変態!」

 蹴ろうとしたが、手首よりは緩めに、だが寝台に縛られているようで、蹴り上げられない。

「ああ、起きたんですね。ふふ、逃げられないようにしちゃいましたけど、許して下さいね。一つになるまでは……」

 素足を撫でられ、唇が押し当てられ、舌で舐め上げられる。

 ぞおおおっ、と背筋が凍るような悪寒がした。

「やめろっ、気持ち悪いっ!!」

「拒絶しても無駄です。ここは誰も来ないような場所ですから。ああ、やっと本物のあなたに僕の愛を注げる……」

「ふざけんな! お前なんかに誰がっ!」

 手足の自由が利かないだけで、恐怖心が募る。暴れても、さほど相手にダメージが与えられない。

「邪魔な服、今、脱がせてあげますね」

 そう言ってハレッジが短剣を月光に煌めかせる。

「っ……!」


 ――ビイイイッ!


 厚手の夜着は、鋭い音を立てて短剣に切り裂かれた。

 前開きの状態になったそれを躊躇なく開き、ハレッジはほうっとため息をつく。

「綺麗な体ですね……。ああ、どこから味わおうか……」

「さ、わるなっ……!」

 首筋を舌先がなぞる感触に悪寒がまた走る。鎖骨、胸と触れては舐めるハレッジの行為は、とても冷静ではいられないほどの嫌悪だった。

 胸と先端を執拗に弄り回しながら、ハレッジは里琉の脚を無理矢理開く。

 恥辱的な格好をさせられ、里琉の頭にかっと血が上る。

「やめろっ!! 気持ち悪い、って、言ってる!!」

 卑猥な舌が胸から下へと徐々に移動していくのが見えて、嫌な予想が頭をよぎる、

(このままじゃ……こいつに……)

「ひぃっ!!」

 普段誰かに見せない場所に舌が到達し、嫌悪が限界を突き抜けた。

「やあああっっ!!」

「ん、ふぅ、すぐ、きもちよく、なりますよ……んくっ」

 這いまわる舌に加え、痛みすらおぼえる唇の吸い方。おまけに指が中への入口を確かめるように弄り回してくる。

「うぅっ、あ、ぐぅっ……!」

 ぽろぽろと涙がこぼれる。抵抗も出来ない。助けも来ない。絶望が心を染めていくのを感じながら、里琉はただ泣いた。

「やだぁっ、やだぁぁ!! 誰、か……誰かあぁ!!」

 助けを呼ぶ声すら、空しく響いて聞こえる。

 やがて、我慢しきれなくなったのか、ハレッジは顔を離し、自分の服を脱いだ。

 初めて見る男の屹立したその姿に、里琉はグロテスクさを抱く。

「さあ……リルさん、僕と一つに……っ!」

 硬くて太いそれが、さっきまで弄ばれていた入口に押し当てられた瞬間、里琉は自分でも驚く程の悲鳴を上げた。


「嫌ぁ――――――っっっ!!」


「っな……!?」

 その悲鳴に、ハレッジが一瞬怯んだ時だった。


 ――ザンッ! と、入り口の布扉が切り裂かれ。


「俺の選んだ女に手を付けようとは、いい度胸だ。死んで贖え」

 かつてない怒気を纏ったイシュトが、剣を手に、そこに立っていた。


※ ※ ※


 実際、イシュトは本気で切れていた。

 これまでのやり方もそうだが、そもそもこの国では同意なき行為は重罪であり、誘拐して関係を無理矢理持った時点で、訴えられたら負けなのである。

 それを分かっていながら、己を律するどころか暴走して相手を絶望の底に陥れるという時点で、許されざるべき存在だ。

 が、今はそれに加えて、相手があの里琉というのが関係していた。

 月明かりに照らされた室内はおぞましいの一言に尽き、里琉の体は夜着を切り裂かれ、手足の自由を奪われている上、そこかしこに情欲を擦り付けた形跡がある。

 極めつけは、彼女の表情だ。

「い、しゅと?」

 泣きじゃくり、青ざめ、その瞳からは光が失われつつある姿に、今まさに彼女を貫こうとしていた男に殺意を向けた。

「邪魔、するな……っ!」

「ひっ!? い、いた……!」

 そのまま無理矢理にでも事を進めようとする姿は、獣以外の何物でもない。

 イシュトはためらわずに、短剣を男の肩へと的確に投げ、突き刺した。

「ぎゃああっ!」

 そしてのたうち回る男に近付き、床へと放り出す。

「あがぁっ」

「リル、少しだけじっとしていろ」

 まずは足の拘束を解き、そしてきつく縛られている手に触れた途端、里琉が声を上げる。

「イシュト! 後ろ!」

「あがああっ! 死ね!」

 ――残念ながら、気配も何もかも、見なくても分かっていたので、遠慮なく腹の辺りを蹴り飛ばした。

 壁か何かに叩きつけられた男の頭に、棚に並んでいた瓶がいくつも落ちたようだが、知った事ではない。

 頑丈だった拘束を解いてやると、手首が痛々しい痣を作っていた。

「……もう、大丈夫だ」

「い、イシュト。何で、どうして」

「お前が来ないから、探しに来た。……間に合ったか?」

 途端に里琉がはっとし、破かれた夜着を掻き合わせてうずくまった。

「み、見ないで……! お願い……っ」

 がたがたと震える里琉だが、ここに置いていくわけにはいかない。それに湯浴みも必要だろう、と思っていると。

「現行犯、でよろしいですね。被害者は?」

「ギリギリセーフのようだけど、精神的なショックが大きいわ。被害者側の聴取は私が代理でいいかしら。情報共有はしてあるし、大体の事は理解しているわ」

「……分かりました」

 イーマ大臣とフィリアがやってきた。そしてガルジスも飛び込んでくる。

「陛下、リルは!」

「恐慌状態だ。湯浴みをさせてやりたいが……」

 うずくまったまま動かない彼女を見て、ガルジスが一瞬、ぎりっと拳を握る。恐らく、過去を想起したのだろう。

「メーディアが、陛下の寝室近くに湯殿を用意してくれている。……大丈夫だ。あいつなら、お前の味方だから」

「でも……でも、今、私……っ」

「いいから、陛下に今だけ甘えてやれ。お前を案じて真っ先に動いたのも、陛下なんだ。ちゃんとこの後も考えている。後は俺達に任せて、お前は安全安心な所に連れてってもらえ」

「……わか、った」

 のろのろと顔を上げた里琉の顔は、放っておいたら完全に心が壊れてしまいそうだった。

 イシュトは自分の羽織っていた上着を彼女に巻き付け、抱き上げる。

 まだ震えているその体を、早く浄めて、抱き締めてやりたい。

 ――さっき告げた言葉は、紛れもなく自分の本心なのだとイシュトは自覚する。

(確かに、選ぶとしたらお前だろうな。リル)

 強くて、弱くて、意地っ張りで、そのくせ甘えたがりで。

 必要以上に関わらないようにしたつもりだったが、遅かったようだ。

 メーディアが待つ湯殿まで行くと、メーディアが一礼した。

「リル、立てるかしら?」

「…………私、やっぱり汚された?」

「大丈夫だ」

「いいえ。汚されているわ。だから、今から綺麗にしましょう」

 イシュトの慰めを蹴り飛ばすように、メーディアが優しくも強く言い切る。

「やっぱり……もう、私の体は」

「今は、というだけよ。洗い流せば綺麗になれるわ。さあ、行きましょう」

「俺は待ってるから、行ってこい。今更、一人にはしない」

「……う、ん」

 揺らぐ姿を見送り、イシュトは深く息を吐く。

 そこに、エクスがやってきた。

「陛下。彼女は湯浴みを?」

「ああ。……気休めだが、薬湯でも飲ませるか」

「いいえ、陛下。……今の彼女に必要なのは、薬湯ではありません」

 元より王女の治療の為にこのエリアに常駐しているエクスも、今回の騒動はある程度知っている。

 そしてこれまでも、里琉のような目に遭った女性達へ薬などを調合し、安定を与えるのも彼だった。

 その彼が、自分を真っ直ぐ見ている。

「……俺が、薬の代わりになどなれるのか?」

「むしろ、逆です。彼女は薬では楽になれない。必要なのは、今の彼女でも傍に居てやれる相手です」

「それは、俺じゃない方がいいだろう。……男に犯されかけたんだ」

「女官長なら確かに、彼女の傷に寄り添う事は出来るでしょう。ですが今、ここまで彼女を連れて来たのはあなたですよ」

「運ぶだけならな。……戻って来たら、拒まれるかもしれんぞ」

 そうなるだろうと思いながらも、動けないのは何故なのか。この後も自分の傍に置こうとしているのは、どうしてなのか。イシュトにその答えは今、出せそうになかった。

「……私の出番は、無さそうですが。陛下、誰よりも我慢強く生きて来たあなただからこそ、彼女の恐怖を取り除ける力があると、私は信じてます」

「…………持ち上げても、俺はそうそう変わらんぞ」

「ええ。私の勝手な期待です。……彼女とて、それは少しでも期待していると思いますよ。ああ見えて、結構絆されやすいので」

 実際、絆されやすいのは知っている。彼女の良さの一つでありながら危険な一面を持つその性質は、誰にでも向けられない事も。

 では、と去って行くエクスを見送る。

 それからしばらくして、新しい夜着に着替えた里琉がメーディアに支えられて出て来た。

「では、陛下。彼女をどうか、よろしくお願い致しますわ」

「……本当に、いいの?」

 里琉はまだ怯えたように、イシュトを見る。迷惑にならないだろうか、とでも考えているのかもしれない。

 だからイシュトは、自ら手を差し伸べて言った。

「ああ。歩けないなら抱えるが」

「…………ん」

 少し迷った里琉は、ぽす、と肩口に頭を乗せてきた。いつもより素直な甘え方に、イシュトは彼女を抱え上げるとメーディアに言う。

「助かった、メーディア。……明日また、様子を見てやれ」

「かしこまりましたわ。……リル、おやすみなさい」

「……はい。おやすみなさい、メーディアさん。あと……ありがとうございました」

 小さく頭を下げる里琉に、メーディアは少し悲し気に笑った。

「いいのよ。あなたが無事なら、私はそれで」

「…………」

 彼女に何があったか知っているのは、上層部のごく一部だ。消えない傷を持つ彼女は、この王宮の女性達の味方であり、そして様々な先達として立ち回っている。

「ガルジスにもし会ったら、代わりに報告してくれ。……明日の訓練は休みだとな」

「かしこまりましたわ、陛下」

 そうして寝室にやってくると、イシュトは寝台に里琉を横たえた。

「……俺は、居ない方がいいか?」

「や、やだ。一人に、しないで」

 怯えて縋る姿に驚く。しかし彼女がそう望むならば、傍に居てやりたい、とイシュトはすぐに彼女に身を寄せた。

「分かった、俺で大丈夫なら、だが」

「……洗っても、洗っても、落ちない気がしたんだ」

 ぽつりと里琉の声が零れ落ちる。まるで、硬質で透明な石のように。

「メーディアさんが居なかったら、全身血だらけになるまで擦ってたかもしれない」

「……リル」

「気持ち悪い記憶を、痛みで塗りつぶしたかった。でも、止められて……。そんな事で記憶は消えないわ、って言われて……」

 その通りだ。今後、彼女は恐らく夢に見たり、記憶が唐突に蘇ったりして、苦しむ事になる。その度に夢と現実の区別がつかなくなり、最悪、自死を選ぶだろう。

「……どうしたら、消えるの。あいつは死んで終わるけど、私はこの先、帰ったら……誰を信じて生きればいいの……!?」

 そうか、とイシュトは気付く。彼女は元の世界がある。そこでは、ここでの事は認知されない。だからこそ、むやみに怯える彼女を見て、誰もが不思議がるはずだ。

 元々孤独な彼女に、家族以外の誰が寄り添えるのか。

 そして彼女のことだ。諦めて、受け入れて、捨てて生きるのだろう。

 一人で、誰にも真実を打ち明けず。

「嫌なら、帰らなくていい。……ここに居れば、メーディアも、ガルジスも、フィリアも、ユジーも、俺も……お前を守る為に動ける」

「簡単に、言わないでよ……! 元の世界を、故郷を捨てるのは、そんなに楽な事じゃない!」

 ――一生、孤独になってでも帰りたい理由など、あるのだろうか。

 彼女は、何の為に生きて来たのだろう。友も作らず、一人で、夢と呼ぶものだけを支えに、家族だけを大事にしてまで欲しかったものが、イシュトには見えない。

 ただ、今の彼女にそんな問いかけはきっと残酷だ。

 だから、抱き寄せたままで静かに言う。

「……耐えられなくなったら、考えてくれ。……この世界もお前の未来の一つになる、と」

「……っ……」

 泣きそうな顔をした里琉は、だがすぐに俯いて「もう寝る」と呟いた。

「ああ。俺が傍に居る。だから、お前の眠りを妨げる事は無い」

 彼女を抱きしめたまま、横になってイシュトは寝具を被る。彼女は横になればすぐに眠れる体質らしく、それはきっと、安寧を知っているからだろうとイシュトは少しだけ羨ましく思った。

 だが、その安寧に裏打ちされていたのは、己への卑下と劣等感だったのだろう。

 己が紛れもなく女である事、己を女として見る人間が居る事、そしてその体を奪おうとする者が存在してしまった以上――彼女の安寧は、もう遠ざかってしまっている。

 だからイシュトは、彼女を抱きしめたまま眠る。

 ほんの少しでも、彼女に束の間の安息を与える為に。


※ ※ ※


 翌日、宰相と共に王の執務室へ来た里琉は、告げられた内容に目を丸くした。


「王妃候補……?」


 候補、というだけで、確実ではないのだろう。

 だが、満場一致だったと言うその案に、里琉だけは困惑せざるを得ない。

「い、いくら何でも……やり過ぎじゃ」

「いえ、ここまでしておけば、あなたに何かしらの危害が加わる前に牽制が可能になります。今回の件は特殊かもしれませんが、次からあなたが何かしらの被害を受けた場合、すぐに動けるようになるのがメリットです」

「そ、そんな。今回は特殊ケースで、普通はこんな、髪も短い、大した外見でもない私が狙われるなんて」

「前例が出来た以上、それは通りませんよ」

 正論に里琉は言い返せない。そんなつもりは無かったのに、と思っていると、イシュトと目が合った。

「……お前の判断を仰ぐ暇がなかった。悪い」

「そ、それに、私は帰る為にここに……」

「近々、まとまった時間が取れそうですよ。それからリル、ずっと疑問だったんですが」

 ふと宰相に言われ、里琉は首を傾げた。


「何故、一度も「鉱山に行きたい」と言い出さないんですか? せっかく王宮の裏手にある山は鉱山なのに」


 その問いかけに、里琉は目を丸くした。そして、同時に気付く。

「あ、ああああ!! 盲点だった!!」

「この国は宝石を始めとした、様々な色の石が産出される。その延長で、宝飾技術が高いんだ。知らなかったのか?」

「し、知らないよ! でもよく考えたら思い付く中身だった!」

「せっかくですから、そのまとまった時間の時にでも、鉱山をご案内致しますよ。とはいえ、少しばかり時間が必要ですが」

「鉱山を見て気が変わったなら、永住してもいいぞ」

 何を、と驚く里琉に映るのは、世にも珍しい王の微笑。

 その麗しさに、里琉はくらくらとしたものを感じて頭を左右に振った。

「か、帰るに決まってるだろ!」

「まあ、今はそれでも構いませんよ」

 そう言って微笑する宰相は、暗に「無駄でしょうけれど」と言われているように思えたのだった。


※ ※ ※


「ふうむ、兄上が言うたと? それはまことか、リル」

「は、はい。……責任を感じてるという様子じゃなかったので、気になってしまって」

 時間が空いたので、ライラの所へ行くと、あらかたの話を既に聞いていたらしく、すぐにお茶の用意をされた。

 そしてライラは、優雅にカップに口を付けながら、ふうむ、と小さく唸る。

「そうじゃのう、兄上はもしや、そなたに懸想し始めたやもしれぬ」

「け、けそう?」

「恋じゃ。妾達王族とて、人間である。人を好く事はあろうて。それこそ、父上と母上は恋愛結婚じゃぞ?」

「そういえば、ご両親のお話はあまり知らないんですが……」

「その前に、リル。その堅苦しい口調はそろそろやめぬか? 遠慮なぞ要らぬ。そなたは妾の恩人じゃ。友として、対等に話したいぞ」

「……いいんです、か?」

 たまに崩れる事はあるが、なるべく姫の前と言う事で里琉は口調を改めていた。

 イシュトはともかく、ライラにもそう言われるのは、嬉しいながらも複雑な気分だ。

「そなたは妾と友でありとうないか?」

「……そんな事はないです。でも、王族なのに、他の人に怒られないかなって」

「兄上に対しても対等な口調であると聞いたぞ。ずるいではないか」

「あ、あれは、イシュトが……!」

「ほう、ほう。兄上をそう呼ぶならば、やはり兄上はそなたを傍に置くに値すると決めたのじゃ。であれば、妾とて同じであるが道理よ」

 イシュトとも違う綺麗な顔で微笑まれると、里琉も弱い。

「女子の友人はずっと欲しかったのじゃ。妾と対等に話す友がの。ほれ、堅苦しい言葉は抜きにせよ。恋について語り合おうぞ?」

「こ、恋の話って言われても……!」

「おお、そうじゃ。父上と母上の話じゃったな。妾も聞いたが、父上がとある理由にて隣国とも言えるノアに行った際の事じゃ。当時、母上はノアをじきに継ぐ第一王女として扱われておった。それはそれは有能で、二振りの剣を扱い、それを扱った舞も秀でておったのじゃ」

「す、すごい……!」

「加えて、国一番とうたわれし美女での。兄上を見れば分かるじゃろ?」

「あ、そっくりだった、って……」

 里琉が何度も見惚れては目を逸らすほど、彼の顔立ちは整っている。あれで女性だったら、引く手あまただっただろう。

「そうじゃ。それゆえにか、才があり過ぎたか……母上は、当時、結婚する気になれぬとこぼしておったそうじゃ」

「あー……なるほど」

 見目も良くて才能に溢れすぎている。しかもそれを自覚しているとなれば、隣に立つ男が自然と限られるのは確かだ。

 ライラもこくりと頷き、菓子を取る。

「婚約者もままならぬでは、譲位も出来ぬ。そんな中、友好国として挨拶ついでに国を越える為の相談をしに来たのが父上よ」

 さくり、と小気味よい音を立ててライラが上品にクッキーを齧る。それを見て、里琉も同じようにクッキーを手にした。

「それで恋に落ちたの?」

「……そう急くでない。無論、当初はただの賓客よ」

 お茶を飲み、ライラは静かに続ける。

 木の実を使ったクッキーは香ばしく、ライラはこれが好物らしい。確かに美味しいな、と思いつつ、里琉は続きを聞いた。

「母上は父上を相手に、様々な付き合いを要求した。父上は慎重かつ、勘の良い男であった。……母上が己を試している事を見抜き、本気で相手をしたという」

「それは、どっちが勝ったの?」

「剣は互角、盤上も互角。では何ならば勝てるか? 母上は久しぶりの強き相手に対し――理性を試した」

 うわ、と里琉の頬が引きつる。要するにハニートラップを仕掛けたのだろう。

「しかし父上は、それをやんわりと拒否したそうじゃ。それどころか、次期女王になるのならば自棄の火遊びなぞするなと、説教をかましおったという」

「どこまでも真面目だったんだね」

「うむ。じゃがな……説教のみならず、やり返しおったのじゃ、父上は」

 やり返した、の言葉に里琉はぎょっとした。それはまずいのではなかろうか。

「母上の理性を試した、と言い換えるべきかのう。父上曰く、お仕置きも兼ねておったそうじゃが……むう、これ以上は言うべきか迷うぞ」

「……逆に気になるけど、まずい感じ?」

「そなた、この間傷を負うたであろう。配慮、というものじゃ」

「…………」

 確かに無理矢理貞操を奪われかけたのは事実だが、今聞いているのは彼女の両親のなれそめだ。

 ならば自分と重ねるのは、失礼だろう。

「うーん、気になるから、話せる範囲でお願いします」

「ふむ、好奇心が強いのう。……ふふ、そなたにはちと刺激が強いぞ?」

 そう言ってライラは立ち上がり、里琉の背後に回る。

「ライラ?」

 白く柔らかな手が、視界を遮り、耳に甘く軽やかな声が届いた。

「のう、リル。相手が分かっておったとしても、こうして見えぬでは、不安になるであろう?」

「……ち、近い、近いっ」

「そう慌てるでない。これは遊戯じゃ。妾がこうしてそなたの肌に触れるも、戯れの一つ――」

 塞がれる視界の中で、細い指先が首を撫でる。

「っ」

「さあ、助けを乞うて、反省するが良いぞ。そなたの好奇心は、禁断の扉に触れておる。開ける前に決めよ」

 鎖骨をなぞり、する、と胸の辺りに手が入りそうになった瞬間、里琉はびくっとした。

「待って待って!! これ以上は駄目!」

「――と、このように父上は母上を煽ったのじゃ」

 ぱっと手を離し、ライラはあっさりと言いながらソファに戻る。

 服はまったく乱れていない。さすがというべきか、配慮もしてくれたのだろう。やり方はギリギリだったが。

「しかし母上は負けず嫌いじゃからの。かえってやる気を出してしまい、父上を本気で押し倒してしもうたのじゃ」

「えええー!?」

「関係を持ってしまった以上、何らかの責任が必要じゃと揉めかけたが、母上があっさりと王位継承権を放棄しおっての。そのまま一緒にレダへ嫁入りしてしもうた」

 ほぼ勢いの結婚ではないか、と里琉は唖然とする。それでもなお羨まれ語られる程に、二人の仲は良かったのだろう。

「父上としても驚愕したようじゃが、母上の本気ぶりに観念したようでの。そうして兄上が生まれたのじゃ」

「……代わりにイシュトが、その元婚約者と婚約させられたんだよね」

「そうじゃ。血縁上は叔母上であり、母上の妹にあたるリコスという存在が第二王女であり、次期王位継承権を持っておった。……母上があまりにも有能過ぎて、屈折してしまった女王を戴くノアも気の毒であったが、そこに嫁ぐ兄上にも同情の声はあったそうじゃ」

 里琉でも同情する内容だ。恐らく叔母であるリコスは、里琉並かそれ以上のコンプレックスに塗れて生きていただろう。そこに母親そっくりの顔に生まれた甥が婚約者となれば、自然とはけ口はそちらへ向かうに決まっていた。

「もっとも、諸々により現状に至るのじゃが、兄上はあれでそこそこ出来る男ではあるぞ? 叔母上が邪魔さえせねば、妾よりずっと良き王となれる器じゃ」

「そ、そうかなあ……。この間は確かに助けられたけど、王様としてちゃんとしてるかっていうのは別だし」

「妨害が多かったからじゃの。そなたが居れば、兄上とてもっと本気を出せるのではないか?」

「どういう事?」

「兄上は本気を出せぬのじゃ。幼き頃から叔母上の呪縛に囚われ続け、己の実力を軽視しておる」

 真の実力を見たことが無い里琉にとって、今のイシュトを見る限り、とてもそうは思えない。

 だが、あのユジーがクーデターを起こさず、ライラが変わらず王位継承権を放棄したままであり、かつ大臣達が変化しているのを見る限り、認められてはいるのだろう。

 だったら、その本気を見てみたい、と里琉は思うのだが。

「例えば、オアシスの問題は、本気を出したらどのくらいで解決できるの?」

 里琉が問うと、ライラは澄んだ緑の瞳を向け、真面目に告げた。


「兄上が臣下を上手く扱い、根回しをし、その上でオアシスを取り戻す準備を整えたならば、半月も要らぬであろうな」


 一瞬、カップを取り落としそうになった。つまり半年前の事件も、里琉が言う通りに臣下の協力を得て根回しをしながら動いていたら――半年の空白など、存在しなかったのだ。

「じゃ、じゃあ、本来なら私は要らなかったって事!?」

「……逆じゃ、リル。そなたが来なければ、兄上は本気の欠片も出せずに終わっておった。妾達が兄上に本気を求められるのは、リル。紛れもなく、そなたが来て、妾を救い、兄上と対等に話せるようになったからなのじゃ」

 ――本当だろうか、と里琉は困惑する。あのイシュトが国の未来を憂えていながら動けなかったのが叔母とやらの呪縛だとしても、今のイシュトはあまりにも王として相応しいとは思えない。

「何度も深く切り刻まれた心を、容易く動かす事は不可能じゃ。兄上が王としての心構えを持つより早く、父上も母上も殺されてしもうた。……それこそが、アリスィアと叔母上の狙いよ。兄上に本気を出させぬよう、妾という人質を取り、焦燥を狙い、失脚を目論んだのじゃ」

 ぞっとする話だが、有り得るのではないかと里琉が思う程度には、敵のやり方は巧妙だった。

 だがもしそうだとしたら、今のイシュトはやはり、本気を出せないままでいるということになるし、今以上にそうさせる何かが必要になる。

「そなたが今、帰るとなれば。……恐らくまた、国は傾くであろうな」

「え……」

「誤解せぬように言うが、そなたを引き止めるつもりはない。仮にそなたが帰るとなった場合じゃ。……そしてそれは、そなたにとってもはや、無縁の未来ともなる。国が滅ぶのは、王族の力不足ゆえ、気にするでないぞ」

 気にするなと言っても、そこまで言われたらさすがに気にする。元の世界でも考えてしまうし、恐らく後悔するだろう。

「……ライラは、ずるいね。私を引き止めないとか言っておいて、私が出来ない事を言う」

「そなたは特別、情に篤くはなかろう? 良いのじゃ。元よりそなたは本来、無関係である。遠き地にて、自由なる生を歩め」

「…………」

 いくら薄情といっても、滅ぶけど帰っていいよ、と言われて帰る人間は少数派だろう。何より、まだ帰れる情報が得られていないのだ。

 その間に戦争などになれば、帰るどころではなくなる。

「のう、リル。そなたは兄上の寝所に通っておるそうじゃな」

「あ……うん」

「兄上の理性、試すか?」

「いや、それは……遠慮しておく」

「そうか。そなたの傷を癒すならば、兄上は適任かもしれぬがの」

「どういうこと?」

 現状、夜はほぼ抱きしめられて眠っているが、それだけでもかなり安心している。それでは不十分なのだろうか。

 ライラは少し苦い顔をし、口を開く。

「……兄上は、女子を抱く技術に長けておる。そこらの男よりよほど、女子を快楽に陥れ、溺れさせるのじゃ」

「溺れ……?」

「どのような女子であろうとも、兄上に抱かれればひとたまりもない。媚薬なぞ不要な程に身も心も蕩かされ、苦痛の一つもなく果てを迎える」

 それは、紛れもなく一種の治癒かもしれない。「上書き」

と言う名の。

「あ、あの、それ、子供とか……」

「抱かれる際は避妊薬を飲まされるからの。五年前も後とはいえ避妊薬を飲ませておる。幸い、子は成さなかったが……」

 確かに夜伽という訓練でほいほい子供が出来るのは困るだろう。

 だが里琉は薬が効かない。子供が出来る可能性も決して低くはないはずだ。

 そう思うと、とても頷けない。

「……私は、駄目だよ。帰れなくなるのは、嫌だから」

「……すまぬ。無神経な事を申した。許せ」

「ううん。……元の世界に戻っても、多分……結婚はしないと思うし」

 自分は、一生独身を貫くだろう。イシュト以上に傍に居られる存在など、見つかりっこないと思い始めている。

 加えてあの事件だ。決して消えはしない傷を抱えて、家族に心配されながらも生きていくしかない。

「そなたは、帰れば孤独になるのか」

「……それが一番いいと、私は思ってるからね」

 里琉の言葉に、ライラは俯く。

「そなたは、幸せにはなりとうないのか」

「……幸せは、不相応だよ。私には」

 石を眺めて生きていられたら、幸せだと信じていた。今はきっと、そうはならない。

 初めから里琉に、幸福な人生など用意されてはいないのだろう。妥協して、これでいいのだと言い聞かせて、上手く誤魔化しながら自分を騙して生きていくのがお似合いだ。

「不相応な幸せなぞ、妾は無いと思うておる。……リル、そなたもまた、何者かの言葉に縛られておるままなのじゃな」

 そうなのかもしれない、と里琉はカップに残っていた最後の一口を飲み干す。

「……私は、いいんだよ。どこにでもいる、平凡な人間だからね」

 彼らのように責務があるわけでもない。ただ何かに巻き込まれただけの一般人だ。

 だから、早く帰りたいと願う。己を傷付け続ける、茨に満ちた世界へ。


 ――甘い菓子のようなここの暮らしに、溺れてしまう前に。


※ ※ ※


 甘い、とイシュトは思った。甘くて、熱くて、柔らかくて、自分が嫌う甘ったるさではなく、花のような香りさえする。

 それが溢れる雫を、一滴も零さないように舌先で掬い取る。

「――……っ、ぁ……!」

 快楽の声。聞き慣れたそれは、だがいつもと違って情欲を更に増す。同時に、誰の声かと疑問が生じた。

 しかし頭が働かない。それよりももっと味わいたい、と再び甘い果実に噛み付こうとして――急速に、冷静さが頭の中を満たした。

「っ……リル!?」

 我に返ったイシュトは、組み敷いていた彼女から弾かれたように跳ね起きる。

 だがすぐに彼女を抱き起こし、ぎゅっと抱きしめた。

「だ、大丈夫か、リル!? 悪い……!!」

「く、苦しい、よ、イシュト……」

 弱々しく抗議する里琉から少しだけ離れ、イシュトは彼女の様子を確認した。泣いてはいないが、瞳が潤んでいる。記憶が全く戻ってこないが、何かに媚薬を盛られ、彼女を襲ってしまったのだろう。

 イシュトの馬鹿力では抗えるわけもない。ましてや、理性を飛ばした状態で口付けてしまったのなら、逃げるどころか――。

「……お前は、まだ正常か?」

 顔を両手で挟み込むようにして、イシュトは問いかける。

 とろんとした瞳のまま、里琉はぼうっと呟いた。

「ん……すご、かった。ぞくぞくってして、きゅうって……」

「……駄目だな。俺のせいか……くそ」

 彼女にはあえて詳しく教えてなかったが、イシュトは夜伽関連でろくな事がない。抱いた女は大半が一度で無理を告げる程度に脆く、だが快楽の味を知ってしまったが為に道を外す者や娼館へと身を落とす者がほとんどだった。

 そして今回、媚薬の効果が途中で切れたのは、彼女の体液が全て解毒作用を持っているからだろう。

 置いてある水をコップに注いで渡すと、里琉は素直に受け取って飲んだ。

 大人しく飲み終わった里琉は、ややして、はっと目に光を取り戻した。

「い、イシュト! 大丈夫!?」

「お前が大丈夫じゃなかった。俺はお前のおかげで正気に戻れたがな……」

「あ、そ、そっか……。キス……で、私の唾液が……解毒したのか……」

 納得したらしい里琉は、どこか落ち込んでいる。それはそうだろう。数日前に他の男に襲われて、その傷も癒えぬうちから今度は信用していたはずの男に襲われかけたのだから。

 しかし、里琉はコップを置くと、脱力して自分の膝上に突っ伏した。

「はぁ~~~~……。ライラの言ってたやつ、これかー……」

「ライリアーナが何か言ったのか?」

「イシュトが女性を溺れさせるって聞いた。けど、うん……あれは確かに、ヤバいね」

「すまん……。だが、不味い事に記憶が飛んでる。俺はどんな状態だった?」

「どうって、……えっと、私が入った時には既にここに居て、何か苦しそうだなって思って、熱があるのかと思ったから声掛けて手を伸ばしたら、掴まれて……そのまま」

 そこまで説明されれば分かる。やはり、彼女を彼女と認識はしていたらしい。

「噛み付いて良かったんだぞ」

「無茶言うなあ……。イシュトの舌を噛み切るとか、無理過ぎるよ」

 そういえばかなり深い口付けをしてしまった気がする。残ったわずかな意識も、止めるどころか欲しがるレベルだった。

 ――そして我に返った今、イシュトは非常に困った事に気付いてしまう。

「まずいことになったな」

「大げさだよ。たかがキスじゃん。犬に噛まれたとかそういう感じでひとつ」

「たかが!?」

「うわびっくりした! ……イシュトって割と声、張れるんだ」

 驚く里琉は、何も分かっていないらしい。諸々を教えていたはずの奴らは、何を教えていたのか。

「この国の口付けについて、教わったか?」

「んー……てきとーに? 興味無かったから流してた気がする」

 ぽん、とイシュトは里琉の頭に手を置いて、ぎりぎりと締め上げた。

「いだだだだだ!!」

「いつになったら、その危機感の無さを改めるんだ? あのまま俺に抱かれていたら、お前は帰れなくなってたんだぞ? 俺の妊娠確率は高いとフィリアが言ってた程度だが、その方が理解したか?」

「ちょ、冗談に聞こえない! ていうかそこまで怒らないで!?」

「怒りもする。この国では最重要である口づけを軽く見過ぎだ」

 手を離すと、里琉は頭を押さえて涙目になりながら抗議する。

「そんな事言ったって、キスは恋人同士がするとか、そういう認識で育ってきたんだから、そんな重要視してなかったし。ていうかされると思ってなかったから」

「するつもりは俺も無かった。媚薬をいつの間にか飲まされたらしい」

 覚えがあるようで無いが、犯人は何を考えているやら。

 とうに里琉は王妃候補だし、今更関係を深めさせようとしても、あまり意味は無いのだが。

「再確認するが、口付けをするその意味は分かってるか?」

「いや全然。多分当初の頃に、好きな人としてねー、くらい?」

「認識が甘すぎる……。いいか、お前にとってはたかが、かもしれんが、この国、特に俺達のような王族は、口付けの相手に細心の注意を払っている」

「夜伽とかそういうのあるのに!?」

 実際、体だけなら奪える。それは男女問わず、今回のように薬を使ったり、他の方法で、あるいは彼女がされたような拘束だったり。だが、口付けはその点において、抵抗が確実に許されるのだ。

「訓練で数度、がせいぜいだな。その時も記録には残るぞ」

「キスが記録されんの……? 普通に嫌過ぎるんだけど」

「今俺がお前にした口付けも、だが?」

「げ!?」

 ぎょっとする里琉は、途端におろおろし始めた。まさか自分まで記録されるとは思っていなかったのだろう。

 気の毒だが、こればかりはイシュトも悪いし、認識が甘い彼女にはもっと気の毒な話だ。

「媚薬のせいだろうが、口付けした事実は変わらんからな。お前だけを例外にするわけにもいかない。……ユジー辺りに報告して、記録する」

「うっわ、嬉々として帰るの妨害しそう。でも何で、そこまでするの?」

 げんなりしつつも気になるのか、里琉が問う。

 イシュトは里琉の頭を軽く撫でつつ答えた。

「この国の口付けは、体の関係を上回る重要さだ。口付けを受けるか否かで結婚が決まる、と言えば分かるか?」

「ええ!? 指輪渡してプロポーズとかしないの!?」

「互いの伴侶としての証なら、耳飾りがセットだが……求婚してから用意するのが普通だな。口付けの時に相手が拒めば求婚は無効になる」

「あー……なるほど。拒否を示す事で諦めてもらう、か。いや、イシュト相手は無理じゃない?」

 納得しかけた里琉は、イシュトを見て首を横に振る。

「本気で嫌なら拒絶出来るだろうが」

「ファーストキスであんなのされて、出来るわけないだろ馬鹿!」

「……口付けさえもが、初めてだった、のか?」

 意味はいまいち理解しきれなかったが、恐らく彼女の様子からして、そうだろうと把握する。

 里琉が赤い顔で頷き、イシュトはますます頭を抱えた。

「何のために、これまで耐えてきたんだ俺は……」

 媚薬の罠は何度も仕掛けられたが、こんな後悔するのは五年前を含め、これで二度目だ。

「いつ仕掛けられたんだか……記憶が曖昧過ぎる」

 随分強い薬を使ってくれたものだ。犯人を特定するのは諦めた方がいいかもしれない。心当たりが多すぎる。

「な、何か、ごめんなさい……」

「お前が悪いわけじゃない。むしろ謝罪すべきはこちらだ」

「キスがプロポーズなんて言われたら、気にするよ……。媚薬のせいなんだし、イシュトがしたかったわけじゃないんだから、これは無かったことにしよう?」

「出来るか! ……それに、媚薬を飲まされたのなら、飲ませた奴次第では、お前の体質が知られてしまう。……お前をこれ以上、悪用されたくない」

「あ、そうか……何も無かった、なんて言ったら、飲ませた側は何を考えるか分からないよね……」

 その通りなのだ。彼女という特異性をこれ以上、他者に広めるわけにはいかない。彼女だからこそ王妃に相応しい、と考える輩が暴走する餌を増やしてしまったら、彼女はこんな可愛い程度のやり口ではなく、もっと悪辣な方法を使われて、ここに縛り付けられるだろう。

「だから、……お前は不本意だろうが、俺に求婚された事実は残す。元より王妃候補としてある以上、もっともらしい理由が増えるだけだ」

 言いながらイシュトは、なるべく優しく里琉の頭を撫でた。

「……どしたの?」

「お前はこの世界に来てから、辛い目にばかり逢うな。俺のせいだと分かっているが……お前を安らがせてやることも出来ないとは」

「全部がイシュトのせいじゃないよ。……それに、誰がどうして連れて来たかも、未だに分からないんだし」

 そう言いながらも、里琉は目を合わせようとしない。

 どうしたものか、とイシュトは困惑する。

(本心では、怒っているのかもな)

「……俺は他の部屋で眠る」

「え、なんで!?」

「いくらお前が解毒したと言っても、前も言った通り、お前を襲わない保証がない。お前も……怖い思いは、したくないだろう」

「っ……」

 びく、とわずかに里琉が震える。だが、俯いたまま首を横に振った。

「駄目、だよ。イシュトが部屋の外に出たら、解毒されたのがバレるかもしれない。リスクは避けないと……」

「だが、お前に負担を掛ける事になる。俺が傍に居て、眠れるのか?」

「…………じゃあ、私が寝たら、イシュトも寝て。それなら、大丈夫、だよね」

 寝ている人間を襲う趣味は持ち合わせていないが、それで納得できるのだろうか、とイシュトは疑問に思う。

 しかし、里琉は言うが早いか、寝台に潜り込んでしまい、そのまま「おやすみ」と告げて目を閉じ――数秒と経たずに寝てしまった。

「……こ、こちらの気も知らずに……こいつは……っ」

 呆れるしかない。怒りのやり場もない。

 だが、しばらく様子を見ていると、不意に里琉がうめき声を上げた。

「う……っ、く……」

「リル!?」

 揺り起こそうと手を伸ばしたが、彼女はそれを弾き、胸の辺りを掴んで苦しそうな声を上げた。

「くる、な……っ、たす、け……っ……イシュト……!」

「っ!?」

 額に浮かぶ汗、零れ落ちる涙。彼女が見ているのは、まさか。

「――いやああっっ!」

 己の悲鳴と共に里琉は跳ね起きた。荒い息をして、額の汗を拭っている。

「はっ、はぁ、はぁっ……ゆ、め」

 安堵の声は、だがすぐに、自嘲に変わった。


「――馬鹿、みてぇ。いつまでも……」


 イシュトはそれを見て、愕然とする。彼女があまりにも荒んだ声を、目を、表情をしていたから。

(本来のお前は、そんなにも、孤独なのか)

 周りを見ようとすらしない。膝に顔を埋めて、泣くのを堪えているようにも見える。

 そんな彼女を怯えさせないように、イシュトは極力、静かに、努めて穏やかに、彼女を呼んだ。

「……リル」

「っ!」

 びくっと里琉は顔を跳ね上げた。そこでやっと、イシュトの存在に気付いたらしい。ごしごしと目元を擦る。

「ご、ごめん……先に眠るって、言ったのに」

「いや、俺の配慮が足りなかった。……やっぱり、お前を一人で眠らせるわけにはいかない」

 泣くのさえ見せたがらない彼女にとって、自分は信用ならないままなのだろう。

 まだマシ、な程度だとしても、イシュトは彼女の傍に居る事を選ぶ。

「安心しろ。何もしない。……お前が望まない限りは」

「…………うん。それなら、いい」

 細い体を抱きしめる。いつものように寝台へ横たわり、彼女の髪を撫でた。

「子供じゃ、ない、よ」

「知っているか? 子供じゃなくても、頭は撫でる」

「どうして?」

 戸惑う声は、子供のようだ。きっと、あまりない事だったのだろう。

 かつて己の母や父が自分にそうしてきたように、イシュトは彼女の頭を優しく撫で続ける。

「不安になっている者は、頭を撫でるといいらしい。抱きしめるのもあり、だと聞いた。……俺の腕で、俺の手で、お前が落ち着くかは分からんが……」

「……ううん。優しい。……ありがと」

 しばらく頭を撫でていると、すう、すう、と穏やかな寝息が聞こえ始めた。

 彼女が今度こそ悪夢に苛まれないように、イシュトは自分も寝付くまで、彼女の頭を撫で続け、抱き締めていたのだった。


※ ※ ※


「はあ!? 求婚された!? 陛下に!?」

「ガルジス、声がうるさい」

「普通に驚きますが、何でまた?」

「誰かに強力な媚薬を盛られた。犯人を突き止めようかと思ったが、面倒だから止めた」

「宰相さんだと思ってるよ」

 早朝訓練の合間、休憩がてら昨晩の事を話した。結果このように驚かれたが、里琉としては割と冷静に落ち着いている。

「手際が良過ぎるし、足が付かないようにしている。まあもちろん、ちゃんと探したら分かるだろうけど、犯人の目的が私達の関係を明確にする事なら、探す必要はないよね」

「そりゃそうだが……やけに落ち着いてんなお前」

 起きてから、ふと思った事がある。無駄でも無理でも、可能性としては、ありかもしれない、と。

「うん。……ライラからの情報と本人の行動が合致したから、一つ、思い付いた。イシュトが私を――むぐ?」

 慌てて里琉の口を手のひらで塞ぐイシュトは、小声で怒鳴った。

「王妃になりたいのかお前は!!」

「……陛下のお言葉に賛成だな。傷が深くて、そういう風に考える奴らも多いとメーディアが言ってた。だが、それは一時の上書きだ。どうせまた思い出して辛くなる。お前はその度に、陛下に抱かれるつもりか、リル」

 厳しいガルジスの声に、やっぱり駄目か、と里琉は首をすくめた。元より、いい返事は期待していない。

「…………はいはい、分かってるよ。私個人の感情に王様を利用するな、って事だろ。言ってみただけだし、実際怖くてまた泣くだろうから、無理だと思う」

「いや、それより問題があるだろうが。帰れなくなるぞ」

「…………そうだね。帰ったところで、それこそ他の男に上書きを頼むような遊び人みたいな事、するかもね」

 何となく、想像がつく。兄達は怒るし、心配もするだろう。だが、そうしないと里琉はきっと、耐えきれない。

 あの世界は里琉のような女性に対して、どこか厳しい。否、世界じゃなくて国独自の文化なのかもしれないが、それでも里琉をこうしたのは、周囲からの目と声と行動だ。

 自分で選んだはずの道だったのに、振り向いたらもう、何も見えなくなっている。

「そんな事をするくらいなら、妃になれ。勅令でも出すか?」

「陛下。冗談でも仰る中身をお考え下さい」

「求婚として受理された以上、この際どうあろうが求婚の意思を示した方が良さそうだからな。馬鹿な事を考える前に俺の妻になれば、それはそれで一種の解決だ」

「ま、解決はするよね。一応。でも、私もイシュトも含め、他の誰も……納得はしないと思う」

「分かってるじゃないか。お前も、自棄にならないでもう少し時間かけて考えろ。メーディアも同じ事を言うぞ」

 真っ当な言葉だが、里琉自身、心は既に壊れつつあるのかもしれない。次から次へと、誰かを巻き込むような考えばかり出て来る。

「そうだなー……いつか王様が、薬のせいじゃなくて本気でキスしたら、考えるよ」

 恐怖という名の毒をいつか綺麗に消せるとしたら、恐らくイシュトだけだろう、とは思う。

 だが、甘えているばかりでは駄目だ。強くなって、出来る事を増やして、そして並び立てるようになったら、きっとその時は、堂々と顔を上げていられる。

「さて、練習再開だな」

「そうですね。リル、準備はいいか?」

「いいよ。さて、どっちから? それとも同時?」

「さらっと怖い事言い出すなよ……」

「いや、そろそろ複数人数を相手にするというのもありだな。常に一対一とは限らん」

 剣の指導となるとスパルタになるイシュトは、月明かりの下で綺麗な顔をしている。

(普段の私じゃ、とても手の届かない宝石だけど)

 ――長く見てはいられない。その顔を歪めたくない。

(こうして、たまにくらいは……見ても、いいよね)

 その顔を眺めて過ごしたい、なんて言ったら、気味悪いと思われてしまう。

 いつか見惚れた綺麗な少女の顔が醜くなるのを、里琉は彼に見出したくなかった。

 今はただ、強くならなければいけない。心も、体も。

 例えヒビが入りかけて、粉々に砕け散る可能性があったとしても。

 それが唯一、里琉に回った毒を相殺する方法なのだから。

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