9話:ミステリック・タイム

「さて、一通り大臣を巡った感想はいかがですか?」

「いかがも何も、よくこの国続いてますね」

 今日の最後の授業は宰相だった。彼も教育するとは思ってなかったが、よく考えたら部下になるのにしないはずもない。

「……なるほど、見るべきものは見た、と。大臣達からも報告は来ていますよ。概ね好評価ですが……二名ほど、やはり反対だと言われました。まあ、あなたの事ですから、予想はついているかと」

 宰相の執務室は、書類の山だらけだ。どれが重要かさえ分からない。だがそれらを的確にさばいていきながらの彼は、落胆を見せる。

「ラバカ大臣とルゴス大臣ですね。他は大丈夫だったことに驚きですけど」

「ええ。私も驚きました。こんなにも彼らが使えないとは」

「使えない?」

 予想外の言葉に、里琉は驚く。

 宰相は一度ペンを置き、立ち上がって隅に積み上がる書類の山を示した。

「陛下で無ければ裁決出来ない書類です。……本当に我々の判断で全てが動けるのなら、元より王は必要ないのですよ」

「確かに、王が居なくても国は動かせます。でも、そういう意味じゃないんですよね」

「その通りです。王が決めるからこそ、意味がある。……これらは、そういうものです」

 だが、その王が戻れない以上、手を付ける事など出来ない。

 例え頼み込んでやらせる事が出来たとしても、きっとそれは、不正解なのだ。

「あなたの人となりだけを見ていた彼らは、王の事など微塵も気にかけてはいませんでした。……あなたを通して国の未来を見る事が出来ない彼らには、真実など不要なのでしょう」

「……私が何故、宰相の部下として大臣から教育を受けているのか。その意味にすら辿り着けていなかった、って事ですか?」

 確かに、思い返せば大臣達は皆、里琉に国の未来を語る事はしなかった。憂いすらしていなかった。ひたすらに「現在」しか見ていなかった、という事なのだろう。

 真実を知らなければ王は戻らない。だが、その真実に繋がる糸口すら、彼ら大臣は掴もうとしていないのが分かった。

「その通りです。あなたの事を評価はしても、あなたの必要性は感じていなかった。もはや彼らの中で、陛下は居ないも同然の扱いなのですよ」

 知らず、里琉はきつく手を握る。王は期待していなかった。真実どころか言い訳すら事件の時に語らなかったのは、こうなると分かっていたからなのかもしれない。

「……宰相さんは、私が真実に辿り着けると思いますか?」

「おや、既に辿り着きかけているのでは?」

 里琉は宰相の言葉に目を丸くする。よく気付いているものだ。

「大臣達に教育を任せたのは、あなたの目で大臣達を見てもらう事が目的でした。最初に会ったあの時に、あなたは私の目を見た。その上で沈黙を選んだ。……あなたを引き込んだ第一の理由です」

「…………」

 さすがにそれは、里琉の想定外だった。あの瞬間に全てが彼の中で決まっていたのなら、それはもはや、誰に止める事も出来なかっただろう。

「そしてあなたは、フィリアやエクス、女官長に騎士団長という、重要な人物と信用を築き上げました。たったの数時間で。……それが第二の理由です」

 ガルジスはともかく、確かにそうなると、連動して彼らに繋がるのは当然だった。となれば、彼の目的は一つに集約される。

 そしてそれは――結果として、里琉と同一の目的に繋がるのだ。

「……王様の真実に辿り着かせる事。それが、真の目的ですか」

「その通りです。ガルジスが保護した以上、そして王の不在を知った以上、どう避けようとも、あなたは情報を得る事になります。どのような形であれ、誰かからは、必ず」

 まさか当人からも聞いている、とまでは思うまい。それを知られていたら、さすがに困る。

「……半年前の事件は、大体知りました。大罪人のアリスィアという女官を、仲良くしていた妹の目の前で王様が殺害。それを目撃した者達がアリスィアを殺したという事で王様を尋問したものの、王様は黙秘。そして女官の死と兄への怒りにより、王女様は離宮へ。その際、アリスィアの無実を信じている女官達も多くが離宮へ流れた、と。その三日後に王様は行方をくらまし、必死で皆さんが探した更に三日後に、ガルジスさんから真実を知る者が出るまでは戻らないと王様の伝言を受け、今に至る。補足ありますか?」

「おや、肝心の部分が抜けてますよ?」

「……アリスィアはディアテラスという化け物であり、心臓を刺しただけでは死ぬはずがなく、しかし大臣達の慢心によって逃亡され、ディアテラスだったという証明が不可能になった、ってところも足しておきますね」

 改めてまとめると、えげつない話だ。この国の発展状況を悪用し尽くしている。アリスィアという人物は相当な極悪人であり、そして頭がいいようだ。

「はい、いいでしょう。ところで、それだけでは足りないのですが、それはご存知ですか?」

「エクスさん達も言ってましたね。何故、あの状況で、あの殺害方法になったのか、と」

「そうです。あの陛下にしては下手を打ったんですよ。そのせいで、私も対処が後手に回り、アリスィアには逃げられました。非常に腹立たしい結果です」

「アリスィアはそこまでして、何故国を滅ぼしたがっているんですか?」

 敵の動機も同じくらい不明だ。里琉の疑問に、宰相は頷いて話を始める。

「では、アリスィアについてお教えしましょう。彼女は、元々この国の辺境の生まれです。しかし幼少期、親に違法な人身売買によってノアへと連れて行かれ、そこで偶然にもノアの、当時は王女だった女性に拾われました。……その王女はリコス。そして――今の陛下の、元婚約者です」

「!」

 元、ということは破棄か何かあったのだろう。恋人は居ないと言っていたし、その手の話は一言もしていなかった。

「リコス王女はアリスィアを手元に置き、教育し、そして――この国に送り込みました。当時は婚約者だった為、この先の世話係として傍に置きたいとかそういった理由で、許可をもぎ取っていたのです」

 事情が変わったのは、五年前だという。

「五年前、ある事件が起こり、陛下は不祥事を背負わされました。それを機に婚約は白紙。王女は単身、ノアからもレダからも姿を消しました」

 いわゆる蒸発というやつだろう。何とも思い切った王族である。だが、居なくなったなら関係ないのでは、と思った矢先、それは覆された。

「そして二年前。……リカラズから逃げて来たフィリアによって、リコスは事件のほぼすぐ後にリカラズの王妃となっていた、という事実が判明したのです。

「二年前!? ……じゃあ、ごくごく最近じゃないですか!」

「その通りです。そしてそれと入れ替わりに、アリスィアはリコス王妃に呼ばれ、リカラズへと向かいました。そのまま戻ってこないかと思ったのですが……一年半前、土産と称した植物を持って、戻って来たのです」

 確かに辞職したわけではないだろうが、半年も居なかったら普通は除籍されてもおかしくない。だが、そこはアリスィアだからこそ、何とかなったのだろう。何しろその立ち回りの上手さで味方を多くつけていたのだから。

「戻って来た彼女は更なる洗練さを身に着けており、その実力だけならば上級女官と変わらないものでした。……事実、上級女官にするべきだという声が多く、前国王夫妻も仕方なくそうした次第です。そして、お土産と称して持ってきた植物は、王女に献上されました」

「……まさか、それが麻薬の……」

「はい。リマテアスでした。その当時、フィリアはまだ馴染めておらず、研究設備を整える方が優先だったので、彼女に調査を頼む事はまず無理でした。エクスも知らないその植物は、鎮静作用などを理由に使われておりましたが――その一ヶ月後、異変が発覚します」

 王女が、太陽の光を痛がるようになった、というのだ。ついで認識の齟齬、記憶の乖離、人格の豹変など、次々に不調をきたしていく王女は、どんどん具合を悪くしていったという。

「それから三ヶ月ほどし、ようやくフィリアにその植物について尋ねると、麻薬成分が含まれている事が発覚し、アリスィアはその時、窮地に陥ったはずでした。そこで上手く処分出来れば良かったのですが、リマテアスを一時的に中断した結果、姫様は命が危うい状態に陥りました。錯乱し、自傷行為をするようになったのです」

「もしかして、体中を虫が這いずるような感覚とかあったりしませんでした?」

 麻薬中毒者は急に麻薬を断つと、全身の不快感などで己の体に錯覚を抱き、傷を付けるようになると聞いた事がある。離脱症状、というものらしい。

 宰相は頷き、それを肯定した。

「はい。ですから、少量でも与え続けなければいけなくなり、そして姫様自身がアリスィアによって投薬された結果、アリスィアへの依存性を示してしまい、下手に殺せなくなってしまったのです」

「……うわ、何て分かりやすい構図……」

 ドラッグの密売と同じだ。この人さえいれば苦痛を免れる、と体に覚え込ませれば、簡単に縋り付かせる事が出来る。

「リマテアス自体は許可なしの栽培を禁止し、フィリアとエクスの協力でどうにか解毒剤を調合する事は可能になりました。しかし、それによって、姫様の記憶の乖離が激しくなってしまったのです」

「どういうことですか?」

「薬を飲んで数時間分の記憶は、中毒症状が出ている間は覚えておらず、その逆も然り、となってしまいました。記憶の齟齬が発生している以上、会話は成立しません。……姫様は隔離状態になりました」

 負の連鎖、という単語に里琉はこめかみを押さえる。

「そして一年前。当時の国王陛下夫妻が殺されました。理由は鉱毒による毒殺。ノアから贈られた酒に仕込まれたそれは遅効性で猛毒だった為、発見が遅れました。……隔離状態だった姫様に対し、集中治療を行おうとした矢先の出来事です」

 アリスィアにとって、王女は廃人にするべき存在、だったと言う事か。そしてそのために邪魔な両親を殺した。動機がシンプルなだけに、やり方が回りくどくなったのだろう。

「そのやり方が悪辣なのです。自分で毒を入れ、毒見を他者の目の前で通した上で、自分では信用ならないから、と、全く別の下級女官に持って行かせたのですから。当然、その女官は自分のせいで毒を飲ませてしまった、と、死刑を自ら申し出たのですが……私は認めませんでした。下級女官のまま、今も彼女は王宮のどこかで静かに掃除をしているでしょう」

 確かに、その女官を処刑したところで、アリスィアの尻尾切りでしかない。殺すだけ無駄な犠牲だろう。

 第三者を巻き込んだその毒殺によって、イシュトは王に即位したのだ。

「……そして半年前。唐突に、陛下は隔離状態の姫様の目の前で、アリスィアの心臓を貫きました。それを見た姫様の悲鳴で駆けつけた我々には何が起きたかさえ分からないままに、姫様はその場で王族の放棄を宣言し、離宮へと自ら引きこもりました」

 後は知っての通りです、と締めくくる彼の話に、里琉は頭痛を覚える。

「あの、背後の黒幕にリカラズが絡んでるなら、もうそれ、国際問題なんですけど」

「そうなんですが、それは少々こちらに不利でして。まずはアリスィアを排除してしまわない事には、動けないんですよ」

 確かに、機械工学が発展したリカラズを相手に、アナログ式の戦闘は通用するまい。ましてや、ディアテラスへの対策すら出来ないのでは、一瞬で国が落ちる。

 だからと言って、里琉としてもただ国が滅ぶのを指をくわえて見ている、というのはさすがに出来ない。

「ところで、宰相さん。もし王様が戻ったら、信じて政治を任せられますか?」

 重要な疑問を投げかけると、宰相はふっと笑って答えた。

「当然でしょう? この国の王は彼ですよ」

 ――やはり、彼はこちら側だ。安心して協力出来る。

「なら、利害は一致してますね。王様を無事に戻せたら、約束通り、奇跡の石の事について教えてもらいますよ」

「部下になったら、と言ったはずですが?」

「まともな教育を受けられる環境ではない、と判断したので、本気を出すつもりはないですが?」

「そうですね。ですが、それでも受けてもらいます。陛下の真実を探る片手間にでもどうぞ」

「そこまで言うなら、仕方ありませんけど。期待しないで下さいね」

 今の里琉が王宮に滞在するには、隠れ蓑も必要だ。自由を得るのは王が疑う悪手でしかない。

 そう思った里琉に、宰相は返す。

「陛下が戻る為には、あなたが必要ですから。あなたが陛下を取り戻して下されば、それで十分、彼らには通用しますよ」

「……分かりました」

 王を取り戻した存在、という付加価値で大臣達に里琉の存在を認めさせようとしているのは理解した。使えるものは何でも使う主義なのだろう。

(ディアテラスに関しても、どのみち知ってもらわないとだしな。でもなー……周知徹底しようにも、リカラズってだけで拒否する大臣が居る時点で、詰んでるよな)

 目下、そこだけが里琉にとっての難関であった。


※ ※ ※


 その日の晩、里琉は諸々を終えて食堂に向かった。

 が、隣には昼間の宣言通り、ガルジスが居る。

「本当に大丈夫なのに」

「念の為だ。ったく、この先が思いやられるな」

 ぺしぺしと頭を軽く叩くガルジスは、だがふと気づいて手を止めた。

「……お前、この髪」

「え、何?」

「……ちょっと悪い。触るぞ」

 前置きしてから、ぺたぺたと頬や首、手を触ったガルジスは、ややして顔を覆った。

「お前、エステ始めて数日か……?」

「え、うん。あれすごいね。元の世界なら数十万、数百万とか出さないといけないレベルだよ」

 王族が受けているというだけはある。だからこそ、あの二人には是非戻ってもらいたい。あれを里琉だけが受けるのは勿体なさ過ぎる。

「お前でもそう思うよな!? 良かった、お前の感覚は一応まともなんだな!」

「……何なの、どうしたの……」

 頭を抱える彼は、一体何が言いたいのだろうか。

 そうしているうちに食堂に辿り着く。

「……あ、あの!?」

 待っていたらしい昼間の男性が、里琉の後ろに立つガルジスを見て狼狽えた。

「悪いな。お目付け役、としてこいつの護衛をしているんだ」

「そ、そ、そう、なんです、か」

 ガルジスは少し離れたテーブルに座る。それを見て、里琉はとりあえずさっさと食事を始める事にした。

 この時間ともなると、直接受け取るのではなく、ほとんど冷めた食事に布が被せられた状態だ。とはいえ、冷めてもあまり味は変わらないだけいいだろう。

「…………」

「………………」

 当然だろうが、お目付け役が居る所で会話をしようとは思わないらしく、だがもの言いたげにこちらを時々見る彼は、それでも何も言わなかった。

(可哀想に)

 気が弱そうなので、下手な事が言えないのだろう。

 だが里琉も残念ながら面倒を避けたくて引き受けたので、何も言わない。

 さくさく食べ終わった里琉は、躊躇わず立ち上がった。

 そこでようやく、青年が口を開く。

「……あ、あの」

「何ですか?」

「もしかして……この方は、リルさんの……ご家族、ですか?」

「……似てますか?」

 的外れにも程がある質問に、里琉はさすがにちょっと呆れた目を向けた。

「す、すいません! そうではなく……その、急に一緒に居るのが、気になりまして……」

「お目付け役、と言ってたのを聞いてなかったんですか? 保護者です。ここに来て日が浅いので、色々と面倒を見てもらってるんですよ」

「そ、そう、なん……ですね」

 安堵したのか、青年はだが、懲りずに言った。

「あの、でも、次は……出来れば二人で……」

 それをガルジスが遮る。


「悪いが、宰相の部下になるような奴に、簡単に男を近付けるわけにはいかないんだ。今回限りにしてもらおうか」


「そ、そんな……! 僕はただ、この人と話がしたくて」

「だったら、俺が居ても話せたはずだな? そういうことだ。……行くぞリル」

「はい。……すいません。ではおやすみなさい」

「……おやすみ、なさい……」

 落胆を隠しもしない青年をそのままに、里琉はガルジスと一緒に食堂を出た。

 部屋まで送るというガルジスは、呆れたように呟く。

「さっき触ったのは、お前が受けてるエステとやらの効果を確認したからだ。灯りの下だとお前の肌はかなり磨かれているのが分かる。触れば更にだ。……あの男は、お前の肌を見ていたぞ」

「うぇ……」

「俺や陛下なら間違っても手を出す事はない。……分かったなら、しばらくは食堂に一人で行くな」

「そうするー」

 視線だけ感じたのはそれか、と里琉も若干の嫌悪感を抱く。

 エステのせいとはいえ、そんな目で見られたくはなかった。

 その点で言うなら、ガルジスやイシュトと一緒の方が数倍楽しい。

「と、そうだ。お前明日の早朝から、剣の特別訓練だからな。起きたら柔軟しとけよ」

「ちょっとそれ初耳なんだけど」

 剣の訓練はパソーテ大臣だけではなかったのか。

 困惑する里琉に対し、ガルジスは頭を小突いてきた。

「さっきのような奴だけじゃなく、実力行使に出る馬鹿がこの先、出て来る事も考えられるって事だ。基礎も大事だが、実践は重要だからな。明日の朝は迎えに行くから、今日は戻ったらすぐ寝ろよ」

「……分かった」

 確かに、出来る事は多い方がいい。里琉は深く考えずに頷いた。


 その翌朝、驚くべき事実が待ち受けている事も知らずに。


※ ※ ※


「……、おい、起きろ」

 低い声。どこかで聞いたような、だけど微睡から抜け出す事が出来ないそれに、里琉は怪訝さを抱く。

「んー……?」

「起きろ、リル」

「だれ……」

 兄でも父でもない。こんな声で自分を呼ぶ存在を、里琉は知らない。

 だが、起こされた以上は起き上がるしかない。眠い目を擦って相手を見た里琉は、ランタンに照らされた相手を見て、やっと目が覚めた。

「い、イシュトさ……!? え、なんで!?」

 隠れ回っている王が、何故こんな所に居るのか、と驚愕するが、彼は「静かにしろ」と短く言う。

「迎えに来ただけだ。早く支度をしろ」

「は、はいっ」

 よく分からないが、急がなければ、と里琉は慌てて寝台を抜け出す。訓練用の服は無いので、ワンピースにズボンをはく事にした。

 その間に彼は外に出ていたようで、ランタンだけが置かれている。

「……律儀」

 どうせほぼ暗いのだから居ても困らないのに、と思う里琉は、だが柔軟をし忘れた事に気付いて、そのまま簡単な柔軟をこなしてしまう。

「多分これで……よし!」

 剣を装着し、里琉はランタンを持って外に出た。

「お待たせしましたー」

「もっと時間がかかると思ったが……ちょっと待て。その格好でやるのか」

「あ、見ます? はい」

 ひょい、と裾を上げた里琉は、下にはいた男物のズボンを見せた。

「……なるほど」

「文句は無いですよね? 素足じゃないですから」

「それならいい。行くぞ」

 話が分かる、と里琉は彼について歩く。ランタンは先導する彼が受け取った。

 ところどころ開いている窓からは、大きな月が浮かんでいるのが見える。

「王様って早起きなんですね」

「……人目につきたくないだけだ」

「だからって迎えに来たら、宰相さんに捕まるかもしれないですよ」

 里琉の私室は宰相の私室と近い。あの宰相の事だ、いつ気付くか分かったものではなかった。

 だが、彼は平然と返す。

「事情を知るお前なら分かるだろう。……見つかったところで、何も変わらない」

「そうですね」

 変わったのは里琉の思惑だけだ。そしてそれを、彼に言うつもりは無い。

 それに、情報がまだまだ足りないのだ。彼に真意を問う事は簡単だろうが、それは卑怯な気がしている。

「それで、何でイシュトさんが?」

「聞いてないのか? 俺もお前の訓練に付き合う」

「えっ!?」

 驚く里琉に、彼はそのまま続けた。

「ガルジスはお前を特に心配している。俺にもお前を鍛えるのを手伝うよう言われた。……お前が余計な事をしないうちは、付き合ってやる」

「……それは、随分リスクが高い取引ですね」

 あのガルジスの頼みと言えど、彼は断れる立場だ。引き受ける必要は無かっただろうに。

「不満か?」

「いえ、よく引き受ける気になったなって。何のメリットもないのに」

「お前にはそう見えるだけだろう。お前を鍛えれば、その分、面倒が減ると判断した」

「間接的に迷惑掛けてるってのは分かりました」

 巻き込むつもりは無かったが、食事の件と言い、彼の平穏な生活を邪魔しているのは事実だ。

 それを早く取り戻したいからこそ、引き受けたのだろう。

「でも、あなたはその気になれば私を排除出来ます。……ガルジスさんが何と言おうとも」

「……先に言うが、俺は王である事を今現在、放棄している身だ。それはお前が思う程、単純な問題ではない」

「…………」

 丁度月明かりのある窓で振り向いた彼の素顔は、相変わらず長い前髪で見えない。

 なのに、その奥にある目が里琉を確実に見据えているのが分かって、里琉は一瞬だけ気圧された。

「もっとも、お前に素質が無いと見なせば、すぐに中止する」

 そう言ってまた歩き出す彼に、里琉は静かに問う。

「……あなたは、戦えるんですか?」

 剣を扱える事は知っている。だが、彼に好戦的な態度は見えない。

 だが、弱くもなさそうなのは分かっていた。それなのに、たった一人の奸計に陥ってこんな風に隠れながら誰かを助けるのは、ちぐはぐに思えたのだ。

 里琉の思惑をよそに、彼は問いかけに淡々と返す。


「俺が教えるのは、殺すか守るかの剣だ。それだけは忘れるな」


 ――気を抜けば、命に関わる。これから里琉が教わるのは、そういう「戦い方」ということか。

 やがて辿り着いたのは、月明かりが広く照らす、広い訓練場だった。

「お、来たな」

「何でガルジスさんが迎えに来なかったんだよ」

「気配消すのは、陛下の方が得意でな。半年も隠れられている理由はそこもある」

「あー、やっぱりそうなんだ? そういうスキル高そうだなって思ってた」

 待っていたガルジスは、話しながら剣を抜く。それは王も同じで、里琉もそれにならった。

 そこでイシュトが持つ剣を見て、首を傾げる。

「あれ? イシュトさんの剣、もしかして少し大きい?」

「お、気付いたか。陛下のは特別製でな。重いんだよ」

「見た目より力があるってこと?」

 ガルジスのように分かりやすい体育会系には見えないので、普通の男性程度かと思っていた。

「力だけじゃない。まあ、そこはまずやれば分かる」

 そう言ったガルジスは、さくっと説明を始めた。

「普段の方は基礎だけだが、この時間に限っては実戦メインだ。お前を一ヶ月で即戦力に仕立て上げる」

「うわー、もう無茶振りしかしてこないね、ここの人達」

「出来なかったら死ぬかもしれないから、気を引き締めてかかれよ。まずは俺からな」

 習うより慣れろ、と言いたいらしいガルジスは、早速剣を構える。

「今から攻撃するが、お前はそれを避けろ。可能な限り、最小限の動きで」

「……素人に要求するハードルが高過ぎる」

「避けないと死ぬぞ」

 さらっとイシュトが忠告し、その直後にガルジスが白刃を躊躇いなく里琉へと振るってきた。

「ひえっ!」

 咄嗟に身をかわす里琉は、だが、サルジュ達のお陰で目を瞑る事はなかった。

 おかげで次に来る攻撃も見え、避ける方向を予測出来る。

「ん? お前怖くないのか?」

「ちゃんと向き合えば怖くない、って教わったよ」

「ほー、誰にだ?」

「……まだ内緒!」

 振り下ろすメインの攻撃は、だが唐突にその動きを変えた。

「おっと!?」

 横薙ぎになったそれを、里琉は屈んでかわした。心なしかスピードが上がった気もしている。

 そこから振り下ろしとなれば、いくら里琉でも最小限は無理である。咄嗟に立ち上がりのバネを利用して右側へと跳んだ。

「……ちょ、本気で殺さないよね?」

「俺が本気を出したら瞬殺だぞ」

 まあそうだろうな、と里琉は内心頷いておく。今は避ける方で精一杯だ。

 少しずつ速くなる攻撃に、里琉はついに距離を取るべく後ろへと跳ぶ。

「おっと、ここまでか」

「?」

 そこで攻撃を止めたガルジスに、里琉はきょとんとする。

「今、後ろに行っただろ。それがお前の引き時だ」

「……どうして?」

 後ろが壁ならともかく、まだ地面は続いているのだ。距離を取って体勢を立て直す、という考えはないのだろうか。

 しかしガルジスは、首を横に振って里琉の考えを否定した。

「一度退く、という時点で、自分が不利になったって判断をしてるんだ。今ので突っ込んで来たらただの無謀だから、お前の勘は悪くないってことだな」

「へえ……」

 分かったような、分からないような。だが、そう言われればそんな気もしてくる。

「って事で、次は陛下の番です」

「……俺の攻撃は避けるな。その剣でかわせ」

「ふぁ!?」

 間抜けな声が出てしまったが、そのくらいちょっと意味が分からない。

「あ、まともに受けると腕使えなくなるからなー」

「いや、ちょっ……まっ……」

 狼狽えても、彼の剣は迫ってくる。里琉は咄嗟に、子供達に教わったように攻撃を受けて、ガルジスの言葉を理解した。

「いっ……てえ……!」

 手が痺れるわ肩まで衝撃が来るわでは、三回もくらったら腕が折れるだろう。

 涙目になった里琉は、だが咄嗟に判断を変える。

(まともに受けないで、剣で逃げ道を作れってことだよな!?)

 というか、彼は片手で今の衝撃を与えて来た。つまり両手なら、その倍以上。そして一撃の重みは、教えてくれた子供の中でも、大剣を扱う子に相当していた。

 次なる攻撃を、里琉は体を横に逸らして剣の先で受けた。思った通り、負荷が違う。

(ただ、剣先だけだと脆弱性が高まる。根元で受けてもいいけど、怪我は免れないだろうな)

 彼は軽く攻撃しているつもりかもしれないが、里琉にとってはかなり重い。それに先端だけで受けると、てこの原理で里琉の手元が危うくなる危険もはらんでいた。

 それなら、と里琉は受ける位置を変え、負荷を剣先へと流す。

 数回それを試したところで、彼もまた攻撃方法を変化させてきた。

 上か横だったそれが、下からもとなり、それは受け流すには難しい。だからと言ってまともに受けたら絶対に弾かれる。

 だったら、と里琉は下から向かってきたその剣に対し、自分の剣を振り下ろした。

 がきんっ、という音と共に、里琉は少しだけ距離を取る。ここまでだろうか。


 ――否、彼は踏み込んで更に追撃を仕掛けて来た。


「マジ!?」

「引き際を見逃す奴だけではない」

 それはそうだが、遠慮が無さすぎやしないか、と里琉はさすがに内心で抗議した。

 気付けば大分速度も上がっている。あともって数撃だろう、と判断した里琉は、咄嗟に反則行動を取った。

(今だ!)

 振り下ろされた攻撃を剣で受け流すと同時に、その身を屈めて彼に足払いを掛ける。

「!」


 ――結果として、それは失敗した。


「…………いい度胸だ」

 ぎりぎりと頭を掴まれ、里琉は悲鳴を上げる。

「痛い痛い痛いぃ!! すいませんでしたー!!」

「……そうだよな、お前そういう奴だよな……リル」

 同情の眼差しを向けるガルジスは止めてくれない。当然のお仕置きだと思っているようだ。

 イシュトの握力は百くらいあるのではなかろうか。潰されるかと思った、と里琉は頭を押さえる。

「余計な動きをしたところで、俺に通用すると思うな。その手の小手先は散々見ている」

「素人なりに頑張ったつもりなのに……うう」

「今のが無謀だと覚えておけ。懲りずにやったらまた同じ目に遭うぞ」

「ガルジスさん! この人、暴君!!」

 大人しいかと思ってたら、とんでもない狂暴性を秘めていたようだ。つくづく読めない相手である。

 しかしガルジスは軽く笑って言った。

「お前にゃそんくらいでちょうどいい、って判断されたんだろ。ほれ、次いくぞー」

「はーい」

 今ので分かった。この二人は里琉に対して遠慮も容赦もなく、本当の意味で剣を叩きこむつもりらしい。

 だが、その方が都合がいいのも確かだ。

(自分で自分を守れたら、心配されなくても大丈夫だって、言い切れる)

 自分を守る為に誰かを伴うなど、分不相応だと里琉は思ったのだ。だから、弱音は吐かない。

「で、次はどっち?」

「俺だ。どうするかなー。お前、割と素質はありそうだから、今のを混ぜていくか。俺の剣も受けてもらわないと困るしな」

「ちなみに訊きたいんだけど、どっちが強いの?」

 二人共強いのは分かったが、加減されていたのと攻撃方法が違ったのとで、比較がしにくい。

 するとガルジスがあっさりとイシュトを示し、「こっち」と断言した。

「騎士団長としてのプライドは!?」

「あるが、陛下より強い奴なんか居ないぞ。これは俺が昔から教えてきたから、断言する」

「……そうでないと生き残れなかっただけだ」

 殺すか守るかの剣しか教えられないと言った彼は、里琉の想像以上の危機に晒されてきたのだろう。

 ならば、きっと彼から得られるものは多いはずだ。ここで素質無しと見込まれたくはない。

「実戦メインなら、さっきみたいなのもありだよね?」

「素人がやろうとするな!」

「……やらせておけ。痛い目を見れば学習するだろう」

 痛い目に遭わせた当人が言うので、里琉はにんまり笑った。

「じゃ、そういう事で――いっきまーす!」

「のわ!?」

 がきんっ! と音を立て、刃がぶつかる。

「何してるんだよお前は!」

「やられたらやり返せって、サト兄が言ってた!」

 素人の剣だろうが、ただ攻撃を避けるだけなどするつもりは、さらさらない。

 まだ重みを強く感じる剣を振るう里琉を見て、ガルジスが一瞬笑う。

「いいねぇ! お前面白いわ、リル!」

「そりゃよかった、よっ!」

 重いと思うのならば、それを利用すればいい。

 片足を軸にして剣を振ると、ガルジスはそれを難なく受け止めながら、足払いを仕掛けて来た。

 見えていた里琉は、それを跳んで避け、剣先で地面を削りながら衝撃を抑える。

 そのまますぐに突き進んで、下から刃を振り上げた。空振りしたそれを横に薙ぎながら、力の反動でわずかに軽く跳び退った。

「ちっ」

 軽く舌打ちする里琉は、だがガルジスに急にストップをかけられた。

「待て、待てお前」

「……何」

「本当に剣を知らなかったんだよな?」

「こんなに重いもの振り回すとか、結構怖いなって思ってるよ」

 大して動いていないのに、既に疲労が出ている。これは筋トレをもっと頑張った方がいいだろう。

「……陛下。今のどう見ます?」

「割と驚いている」

「全然そう見えないんですけど!?」

「判断力と行動力だ。本来、素人が剣を振り回すとその重みと長さでバランスが取れずにふらつく。さっきのようにガルジスの足払いを避けた時も、剣を利用できずに転ぶ確率の方が高い。……残念だが、一ヶ月、死ぬ気で剣を覚えてもらう」

 どういう意味の残念だ、と思ったが、どうやら彼は教育放棄をするつもりはないらしい。

「ちなみに、さっき地面を削ったついでに、剣先に土を乗せて相手の目に投げつければ目つぶしになる」

「えっ、次やっていいの?」

「相手を考えろ! 陛下に通用すると思うなよ!」

 面白そう、と思ってしまう辺り、里琉も自分で大概だと思ってはいる。

 だが、楽しい。確かにそう感じていた。

 少なくとも、大人しく誰かに座学を教わるよりは、ずっと。

(こんなの、初めてだ)

 石探し以外で楽しいと思う事があるなんて、思いもよらなかった。

 彼らは真剣であり、里琉もまた、遊びではない事も分かっている。

 だからこそ、簡単には終わらないと分かっていて、胸が躍る。

「だが、格の違いは知ってもらう。……いくぞ」

 イシュトはそう言って、軽く地面を蹴り、里琉が咄嗟に構えた剣に、攻撃を加えた。案の定、手が痺れそうな衝撃が襲い掛かる。

(一撃でもこっちから攻撃すれば、……すれば……っ!?)

 隙が無い。ガルジスはあえて隙を作ったかもしれないが、彼はそんな配慮など一切なく、里琉を数手で追い詰める。

(速い!! 逃げる暇がない!)

 足払いは無理だ。さっき失敗している。そして目つぶしも、そもそも距離が取れないのでは意味が無い。

(……距離が取れないなら、取らせればいいんだよな!)

 速い攻撃を防ぐついでに、里琉はイシュトの腹部に向かって蹴りを入れる。

 ――が、それは空振りした。

「え」

 代わりに、立っていた片足を引っかけられ、里琉は無様に尻餅をついて転ぶ。

「うわっ!」

 そして、耳元をかすめていく風と、地面に突き刺さる銀色が月光に照らされて。

 そして肩の辺りを足で地面に押さえ付けられ、剣を持つ手は上がらなくなってしまっていた。


 ――圧倒的敗北、である。


「…………容赦が無さ過ぎませんかね」

 見上げる彼は長い前髪の奥に、鋭い光を宿しているように見えた。

「これでも殺さないようにしたんだが?」

「基準がひたすらに極端すぎて、ちょっと感謝出来ないです」

「いや、殺されたら困るんだけどな。しかしまあ、リルもあの状況で打開しようとした辺り、根性あるよな」

 ひとまず解放された里琉は、起き上がって土埃を払う。

「あの状況で蹴りがくるの分かるって、おかしくないですか?」

「小手先が通用しない、と教えたのは忘れたのか」

「覚えてますけど!」

「お前が足を使うのは最初で分かってたからな。ある程度で予兆が出るから、そこを狙った」

 もはや何を言っているのか分からない、と里琉はお手上げになった。少なくとも、イシュトはこれで手加減しているというのだけは分かったが、こんなに簡単に負けては、普通の人間なら心が折れるだろう。

 が、不思議と里琉は、諦められる気がしなかった。

「観察力高いですね。てことは、攻撃がすぐ読まれないようにする工夫も必要ですか」

「お前、めげないなぁ」

「勝ちたいというよりは、覚えたい、って思ったから」

 圧倒的過ぎて、追いつくという考えには至らない。

 学ぶとはそういう事だ。どんな事でも、相手が居なければそれは始まりすらない。

 だから、これもきっと一種の幸運なのだと里琉は思う。

「じゃあ、またよろしくお願いします!」

「……ああ」

 ただ、せめて訓練前に自力で起きられるようにはした方がいいな、と里琉は内心で思った。

(何て言うか、起きた時の心臓の悪さが半端なかった……)

 それを当人に言うのはさすがに憚られたので、里琉は黙っておく。

「よし、そろそろ終わりにするか。お前、ついでに湯浴みしとけよ」

「分かってる。こんな格好で歩き回ってたら、メーディアさんに怒られるし」

「…………よく考えたら、お前その格好であの動きが出来たのは、相当だぞ」

「おしとやかさとは、縁が無かったからね! じゃ、お先に失礼します!」

 一礼して駆け去りながら、ふと里琉は過去を思い出した。


『また喧嘩したのか!? 坂崎っ!』

『先に殴りかかったのはそっちです!』

『やり返さなくていいんだぞ!』

『何でですか! 私だけ痛い思いしろって言うの、おかしくないですか!?』

 ――里琉が髪を切られたきっかけで男子を殴った後、中学を卒業するまで里琉の喧嘩っ早さは有名な程になっていた。

 不良とまではいかないが、手を出されたら出し返す。そして理由を追及して、こちらに非が無い限り、謝罪を要求して相手を追い詰める事を学んだ。

 当然、男女共に周囲からは人が遠ざかり、教師は里琉を「女の癖に」「女性なんだから」と言って暴力を止めさせようとした。

 泣き寝入りをするのが当然のように言われても、里琉はやめなかった。長兄の聡が見かねて喧嘩の仕方を教える程だった。

『いいか、里琉。相手の足だけじゃなく、腹を狙うのもありだ。もし命がかかってんなら、喉元を狙え。お前はすばしっこいから、それくらい余裕だろ』

『まったく……。いつまで経っても学習しない周囲もそうだけど、里琉もあまりやり返さず、法論を使うべきだと僕は思うよ』

『あ、器物損壊は気を付けなよ? 男の体って女より比重が違うから、ぶつかった時にガラスが割れるとかよくあるし』

 里琉にとって、もはやその頃には「女らしく」は地雷発言でしかなかった。大人しく笑って耐え続けるなど、自分を殺す事と同義だったのだ。

 だからなのだろう。

『いいか、坂崎! これ以上喧嘩をするようなら、停学も考えるからな!』

『何で私だけなんですか! 私からは一度も先に手を出していないのに!』

『……お前の為を思って言ってるんだ。お前、他の奴らから相当言われているんだぞ。これ以上、自分の評判を下げるような真似なんかするんじゃない』

 ――教師の言葉など、到底、里琉の心には響かなかった。

 別に喧嘩がしたいわけじゃない。周囲に何と言われようが、自分の生き方を否定されるいわれはないだけだ。

 喧嘩が自分にだけ不利に働くと言われた里琉は、兄に相談した。

『ふーむ、やり返せねえようにするってのは、卑怯だよなぁ。よし、お兄様が教えてやる。確実に相手にやり返せて、しかも自分の手を痛めない方法。すなわち――回避をな』

 にやりと笑う長兄は、とても喧嘩に強い事を里琉も知っている。体格もさることながら、一時期は格闘技もやっていたからだ。

 その兄の教えに従って、どの位置でどう回避をすれば相手に不利になり、相手だけが痛手を負うかまで、折を見て教えてくれた。

 悪知恵と言われればそれまでだが、停学を免れるなら、使わない手はない。

 その結果として「卑怯者」のレッテルを、負け犬たちから貼られたとしても。


「……知らなくて、いい。あの人達は、知らない方がいい」

 風呂でお湯を頭からかぶりながら、里琉は小さく呟く。

 彼らの善意に、里琉の悪意は関係ない。だから、何も言わないまま、里琉は記憶を閉じ込める。

 荒んだまま止まっている、過去の箱の中へと。


※ ※ ※


『姫様は何も、難しい事を考えなくて良いのですわ』

 ――かつて、アリスィアという女官は言った。

 甘い甘い、香の匂いが思考を霞ませていく。虚脱感がそれに逆らえない。

『ただ私の言う事だけを聞いていれば、何も心配は要りません』

 身の回りの事は、全て彼女に任せていた。メーディアと違って甘やかすそれに、ライラは徐々に慣れていってしまったのだ。

 だからなのか、今、こうして部屋で寝台に横たわっていても、何をすればいいのかも分からない。

 カーエはしばらく用があると言って、居なくなった。部屋から出るなとも言われた。

 だが、とライラは疑念を抱く。

「あれは、嘘を吐いておる」

 それだけは分かった。だから、信じられない。

 代わりに、会いたくなった。里琉という娘に。

「エクス……エクスの所に行けば、会えるのじゃな」

 気怠く重い体を起こす。もうずいぶんと、自分から部屋を出た事は無かった。

 だが、それでもなお、ふらふらと寝台から下りて、部屋を出る。

 彼女と話していると、不思議な気分になった。目が少しずつ覚めていくような、奇妙な心地よさ。

 ふらふらと歩くライラを、見咎める者など誰も居ない。

 王族である事を放棄したとはいえ、気安く声を掛ける者は誰も居なかった。王族と分かったら、すぐに遠ざかる者ばかりだった。

 だからあの日、心配して手を差し伸べてくれた彼女に、また会いたい。会って、話をしたい。

 エクスの部屋はどこだっただろうか、と思いながら、ふらふらとライラは廊下を彷徨う。自分で場所を思い出す事など、今のライラには出来なかった。

 ただ、探せば見つかるとそう信じて、引きずるように足を動かすだけ。

 そんなライラの目の前に、人影が現れる。

「……そなたは」

 フィリア、という女性だ。確か母親が拾ってきた、研究員という特殊な仕事をする人間。

 そんな彼女は、手にいつも何かの道具を持っていて、それは今日も同じだった。

「あらまあ、お姫様じゃないの。珍しいじゃない、こんな所に居るなんて」

「リルに、会いたいのじゃ」

「…………彼女はまだ来ないわ。来るとしても、もう少し後ね。部屋へ戻るか、エクスの部屋で待つかの二択よ」

 フィリアの言葉に落胆はしなかった。彼女は来る。それならば、答えは一つしかない。

「…………そうか。では、連れていけ。エクスの部屋へ」

 ライラが手を差し出すと、思いのほか温かい手が、それを取り。

「ええ、お姫様の為ならば、どこへなりとも」

 記憶よりずっと優しく、フィリアはライラにそう言って歩き出すのだった。


※ ※ ※


 思いの外早かった王女との再会に、里琉は目を丸くしていた。

「リル!」

「……お、王女様……じゃなかった、ライラちゃん?」

 飛びつくライラを抱き留め、里琉は驚いてエクスとフィリアを見る。

「薬湯を飲ませたばかりなんですが、まだ効いていないようなので、その状態ですよ」

「え、えっと、どうしてここに」

「そなたに会いに来たのじゃ。教育とやらは順調か? 妾とまた、話をしてくれぬか? 苦い薬湯も飲んだぞ!」

「……え、えっと、落ち着いて下さい。ほら、まず座りましょう」

「敬語なぞ要らぬ! ライラで良いのじゃ!」

「えええ……」

 まるで我が儘なお嬢様だ。それとも、麻薬のせいなのだろうか。

「エクス、今度は茶じゃ!」

「今淹れに出たわよ、お姫様。あまり興奮状態だと、体に響くわ」

「そうだよ。私はここに居るから、ゆっくり、静かに話そう」

 ライラをベッドに座らせて、里琉は言う。この分だと、今日は教育どころではなさそうだ。

「そ、そうじゃの。……嬉しかったのじゃ。許せ」

「……ゆ、許す……」

 素直に言われるとさすがに里琉でも照れる。そのやり取りを見ていたフィリアは、呆れた声で言った。

「あんた、絆されやすいわよね」

「他人にそこまで興味無かったんだけど、ここの人達って、私を放っておかないから……何か、調子が狂うっていうか」

「別にいいけど、お姫様がこの状態じゃ、ちょっとねぇ……カーエの事もあるし」

「あ、そうか……。今日は邪魔されなかったの?」

 この間はことごとく余計な事ばかりしてきたので、少しばかり心配になる。ここに怒鳴り込みでもされたら、堪ったものではない。

 するとライラは首を横に振り「今日は居らぬ」と告げた。

「用があるから、しばらく戻らぬのじゃ。のう、リル。何故そなたは、宰相の部下になるのじゃ?」

「それは……聞かない方がいいと思うけど」

「兄上の事か? 兄上を取り戻すよう、命じられたのか?」

 直球で切り込むライラに、苦笑して里琉は頷いた。

「まあ、似たような感じです」

「嘘でしょ!? あんた半年前の事件、見てすらいないじゃない!」

「大臣が使えないからだってさ。情報を集められただけでも、私の方が遥かに有利なんだって」

 フィリアが天井を仰ぐ。そこにエクスが戻ってきて、茶を数人分淹れながら言った。

「そんな事だろうと思いましたよ。アリスィアの事に関しては?」

「事情は聞いたけど……だからライラが居る前では話しにくいなって」

「…………アリスィアは、妾の傍にいつの間にか居たのじゃ」

 ライラが茶に口を付けながら言う。

「いつの間にか?」

「そうじゃ。覚えておらぬ。……思い出せぬ。しかし、アリスィアが居なくては、妾は生きていけぬと思っておったのじゃ」

 困惑に瞳を揺らす彼女は、里琉を見た。

「しかし……そうではなかったようじゃ。事件の後、カーエがアリスィアの代わりになり、妾はあの部屋で過ごすようになった。アリスィアが居らずとも、妾はこうして……生きておる」

「……てことは、部屋では常に、お香を焚いてるよね?」

「分かるのか?」

「甘い匂いがずっとしてるわよ、お姫様」

 お風呂に入れてあげたいが、勝手な事をするわけにはいかない。

 アリスィアの無実を信じる者達が多いこの離宮で、下手にお節介を焼けばどんな厄介ごとになるか、里琉には想像がつかなかったし、面倒は避けたかった。

「そうか……。のう、リル。半年前を知らぬのならば、妾が教えようぞ」

「えっ、それは……だって、大事な人を目の前で殺されたなんて、思い出すのも辛いはずじゃ」

 ライラの申し出はありがたいが、彼女に苦しい思いをさせたいわけではない。遠慮する里琉に、だがライラは首を横に振った。

「…………失った事さえ語らねば、いつかそれさえも忘れてしまうかもしれぬ。妾はもう、何も失いとうない……」

 記憶の乖離や齟齬が出る、と彼らから聞いているが、ライラ自身も欠落した記憶があるという自覚を持っているようだ。不安そうな彼女の言葉に、ややして里琉は頷く。

「じゃあ、ライラの見たその時の事を、教えてくれる?」

「うむ。……あれは、妾の部屋が移動してすぐじゃった。アリスィアは変わらず妾の傍で、いつもの香を焚いておった。……そこに、兄上が入ってきたのじゃ」

 全てが、初耳の情報だ。さすが当事者なだけはある。

「……それで?」

「アリスィアと兄上が何か話しておったが、よく聞き取れなかったのじゃ。しかし途中で兄上が突然、剣を抜いた」

「……会話の中身が分からないけど、アリスィアがお兄さんを怒らせたのかな?」

「分からぬ。兄上は、剣を振り上げ――――アリスィアの胸に、突き刺したのじゃ」

 違和感が急速に、里琉を襲った。

(待って。振り上げて……突き刺した?)

 今朝の訓練を見る限り、そんなおかしな動きをするような人には見えなかった。

「それ、短剣じゃないよね? この、長剣っていうか、普通の剣だよね?」

 腰に佩いたままの剣を示すと、ライラは泣きそうな顔で頷く。

「そうじゃ。……妾からも、アリスィアの背から剣の先が出ているのが見えた。……この辺りじゃ」

 心臓近くに手を当てるライラは、俯く。

「兄上は剣を引き抜き、それで……アリスィアは倒れた。妾は、ただただ、訳が分からぬままに、叫んだ」

「ええっと……じゃあ、近寄って、確かめた?」

「当然じゃ! アリスィアの体は冷たくなっておった! 目を閉じて、呼吸さえもしておらなんだ!」

 ちら、とフィリアを見ると、頷いて小さく言った。

「可能よ」

 ――内臓全てが機能を停止しているなら、呼吸などするはずもない。そういう事なのだろう。

「……姫様、興奮状態はよくありません。少し、横になりましょう」

「まだじゃ。妾はその場で兄上を糾弾した。何故殺した、と! 兄上は…………そう、じゃ。兄上は怒っておった。怒って……何も言わなんだ……」

 エクスの手を振り払うライラは、だが、すぐに困惑を浮かべた。

「アリスィアを何故殺したのか。妾には分からぬ。じゃが、妾はアリスィアを殺された事で、兄上に絶縁を宣言した。……妾は、兄上も、アリスィアも、失ったのじゃ……」

 ふら、とライラはそこで体を傾がせる。慌てて里琉がそれを抱き留めると、彼女は気を失ってしまったのが分かった。

「……無茶をするからよ。寝かせておきなさい」

「ええ。今のうちに、情報を整理しましょう」

 ライラをベッドに寝かせ、里琉はこめかみを押さえた。明らかにおかしい点が、一つ。

「……あの王様がそんな下手を打つとは思えない」

 宰相の言葉の意味が、今ならよく分かる。確かにあれほどの剣の腕なら、判断力も高いはずだ。

「は?」

「どういう事よ。あんた、王様の事知ってるの?」

「これ以上隠しても仕方ないから言うけど、私は王様に会ってるし、今朝、早朝に訓練を初めて受けた。ガルジスさんも一緒にね」

 彼ら二人なら、情報共有をしても問題ないだろう。だが、彼らは唖然として里琉を見た。

「あんた、とんでもない事してるわよ」

「あの陛下が……女性に、剣を?」

「ガルジスさんに頼まれたから、だって。それよりも、だからこそライラの話は変なんだ」

 剣の動きからして、王がしようとしたのは、切断ではないだろうか、と思ったのだ。

「ディアテラスって、どのくらい素早く動ける?」

「その気になれば、突風並みの速さで走れるわよ。肉体は人間だからその分負荷はかかるし、長くは持たないけど」

「じゃあ、王様の剣よりも速く動いて、その標的を逸らす事は可能、ってわけだ」

「リル? どういう事ですか?」

「王様はガルジスさんより剣が強い。実際私も戦わせてもらったけど、隙の一つも無かった。でもそれは、アリスィアと対峙した時にだけ、大きな不利に動いたんだ」

 可能かどうかは検証しない事には分からないが、人間離れした動きが出来るのなら、実質不可能ではないと思っていいだろう。

 導き出されるのは、一つの推論だ。


「王様が狙ったのは恐らく、アリスィアの心臓じゃない。腕だ。アリスィアはそれを瞬時に判断して、心臓に刺さるよう体を動かして、死を偽装したんだ。それも、ライラにわざと見えるように」


 ライラは会話を聞き取れなかったと言っていたが、リマテアスの作用で会話の内容が理解出来なかった、という方が正しいだろう。

 恐らく目の前でその手の話をした結果、それを証明しようとして、イシュトは剣を抜いたのだ。論より証拠を妹に見せる為に。そしてそれが失敗を招いた。

 里琉の説明に、エクスもフィリアも青ざめていた。

「それが真実だとしたら……」

「誰も信じないわよ、普通に……」

 ディアテラスの認知度が低すぎるこの国では、不可能だと断じられて終わる。イシュトもそれを考えたからこそ、口を閉ざしたのだろう。

「傷の修復はどのくらいの速度?」

「そうね……電気回路が細胞を再生させるから、十数分もあれば綺麗に治るわ。内臓損傷が無ければ、もっと早いはずよ」

「……なら、ライラは多分、気付けなかったんだ。多少でも血が流れるなら、傷口から流れた血までは元に戻らない。血に染まった服を見ただけで判断して、あとはアリスィアの顔を見てたのなら、修復しているところなんて見れるわけがない」

 我ながら映画のような突飛な話をしている、と思っている。

 ディアテラスそのものを見ない限り、里琉は自分の推論に自信さえ持てない程だ。

「最悪ね。王様にとっちゃ、これ以上ない悪夢だわ」

「さすがはアリスィア、といったところでしょう。……フィリア、その検証は可能ですか?」

「検証なんか要らないわ。私が作ったから断言するけど、確実に可能ね」

「!?」

 とんでもない事を聞いた、と里琉はフィリアを見る。

 研究員で重職だったとは知っているが、それが理由で逃亡したのだろうか。

「リカラズには女王が居てね。女王の命令で私は死なない兵士を作れって言われたのよ。そして生まれたのがディアテラス。ルゴス大臣が言っていた「狂人の集まり」ってのも、あながち間違いじゃないのよ」

「……じゃあ、ここに残ってるのって」

「始末は付けないとね。私のせいでもあるわけだし、何より……王妃様の心残りは、子供である今の王様と王女様。その二人の未来が安定する為にも、ディアテラスは排除したいの」

 責任を感じているのだろうフィリアの言葉に、里琉は頷いた。

「そっか。……じゃあ仕方ない。私も付き合おう」

「リル、止めた方がいいですよ? 宰相に言われたからと言って、無理はしなくても」

「そうよ。あの王様が、いい顔するとは思えないわ」

「分かってる。だから、内緒でやるんだ。……ライラだって、これ以上は危険だ。麻薬の部屋で過ごす時間を少しでも減らす必要がある。……そのために血をあげたはずだよ」

 そこを言われては、彼らも強く出られないようだ。顔を見合わせ、ため息を吐く。

「馬鹿ね。まったく」

「ええ、本当に。……手を貸したくなるお人好しほど、面倒なものはありませんよ」

「お互い様、ってやつだよね。……ところで、一つ気になった事があるんだけど」

 今まで触れていなかったが、ここまで情報が出揃った以上、そこを無視するわけにはいかない。

「ま、あんたなら気付くでしょうね」

 フィリアがにんまりと笑う。里琉も同じ笑みを返してやった。


「カーエもディアテラスだよね」


 アリスィアの後釜。香を変わらず焚き続けてなお、正常な意識を保てる体。自分で化け物だと言っているようなものである。

 なるほど、フィリアも分かっていて言ったのだ。「どこかにディアテラス居ないかしら」などと。

「恐らく、用というのもアリスィアに会いに行っているのでしょう。後釜である以上、定期連絡くらいはするはずです」

「簡単に戻ってこれない距離に居る、ってのは確かね。今のうちに、お姫様に例の薬を投与しちゃいましょ。起きたら飲ませておくわ」

 フィリアの言葉の途中で、鐘の音が響いた。終わりの合図に、里琉は頷く。

「うん、よろしく。またね」

「くれぐれも、勘付かれないで下さいよ。他の人間に妨害されたら、それこそ面倒なので」

「こっちの用が終わったら、私も戻るわ」

 頼もしい味方のおかげで、里琉は安堵しながら中央宮に戻る。

 これから必要な事を一つずつ、頭の中で考えながら。

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