7話:毒と薬
離宮の前まで送ってもらった里琉は、ガルジスとそこで別れ、中に入る。
エクスの部屋はどこだっけ、と思いながら記憶を頼りに歩いていると、声を掛けられた。
「のう、そなた」
「……え?」
少女の声だった。振り向くと、華奢過ぎるくらいの少女が立っている。
驚いたのはその色彩だ。桃色の髪は波打ち、背中を覆うくらいまで伸びている。そして大き目の瞳も緑で、現実に見るとすごい色合いだ。
「そなたは、誰じゃ」
しかしこちらに向ける目はとても濁っていて、ぞくりとした里琉は、だがそれよりもその顔色の悪さに放っておけなかった。
「私は里琉。あなたは?」
「……ライラ、じゃ。そなた、もしや女子か」
「そうだよ。髪が短いけどね。それより、とても顔色が悪いよ。これからエクスさんの所に行くから、一緒に行こう? こんな所で倒れたら、大変だよ」
青白いを通り越して土気色だ。むしろよく立っていられるものである。
「……そうか。そなたは、妾を知らぬのか」
「あ、そうか。初めましてだね。ごめんね、最近来たばかりだから、離宮の事もよく知らなくて」
「構わぬ。……エクスの所は嫌じゃ。苦い薬湯を飲まされる」
「でも、具合すごく悪いんじゃない? 苦くしないようにエクスさんにお願いするから、一緒に行こう?」
彼女から甘い香りがするが、香水とは少し違うようなそれは、何となく不快な気持ちになった。お風呂に入れて、匂いを落とした方がいいのではなかろうか。
だがそれよりも、まずは休む場所だ。手を引いて歩こうとした途端、それを別の手が遮る。
「何をなさっているのですか?」
見知らぬ女官だ。ふくよかだが、穏やかさとは程遠い顔つきでこちらを見ている。
「何って……具合が悪そうだから、薬剤師さんの所に連れて行こうかと」
「カーエ、もう部屋に戻って良いのか?」
「ええ。戻りましょう。……余計な事はなさらないで下さいませ」
思い切り睨まれ、そのままライラという少女はカーエという女官に連れて行かれた。
「大丈夫かな、あの子……」
心配だが、無理矢理連れて行くわけにもいかない。そのまま里琉もエクスの部屋へと向かうのだった。
――そこでようやく、さっき会った少女が、王女その人だったと知る。
「あんなに衰弱してるのに、歩けるの!?」
「まあ、毒そのもので動けてるような感じね」
「リマテアスというのは、いわゆる麻薬です。高揚感ではなく、鎮静剤としての効果を認められていますが、同時にその依存性、そして副作用が問題視され、この国では栽培及び使用を禁止しようとしているところでした」
「ただ、お姫様をいきなり麻薬から引き離したところで、離脱作用が出て死期を早めかねないのよ。そこにあのカーエって女が現れて、未だに薬漬け。もう正直、お手上げなの」
そういう事だったのか、と里琉は納得した。だが、あれでは三ヶ月どころか一ヶ月持つかすら危うい気がする。
「ていうか、めっちゃ、カーエって女官に睨まれたんだけど」
「そりゃそうよ。あんた、宰相の部下として教育されてんだもの。半日あればそんな噂、速攻で届くに決まってるじゃない」
なるほど、つまり余計な事をするかもしれない存在、と認識されたのだろう。
「……あれでどうやって薬を飲ませてるの?」
「定期健診よ。そのついでに、なんだけど……最近カーエがそれすら渋るようになってきてて」
「アリスィアの後釜ですからね。目的が同じなんじゃないですか?」
初めて出て来た名前に、里琉は怪訝になった。
「アリスィアって誰ですか?」
その問いかけに、二人は肩をすくめる。
「この国を潰そうとしている張本人ですよ」
「化け物になってまで、主の望みを叶えたがってる狂人ね」
説明が酷いにも程がある、と里琉は顔をしかめた。
だが、仮に半年前に王が殺したとされたのがアリスィアという名前の女性なら、大体の構図が想定出来る。
「そのアリスィアって人が、王女をあんな風にしたんですか」
「そうよ。それ以外にも罪状はいくらでもあるけれど、立ち回りが上手くて、今でも冤罪を信じてる女官が居るくらいなの」
「どれも、証拠が不足しているんですよね。物的証拠があれば即逮捕なんですが、姫様も洗脳状態だからこそ、失敗したと言いますか」
あれ、と里琉は首を傾げた。何故生きてるような言い方をするのだろうか。
「化け物って言ってましたけど、殺されたんじゃないんですか」
「ああ、死んでないわよアレ」
「陛下がどんなつもりだったかは知りませんが、殺し方が悪かったですね。心臓を一突きにしてしまったようなので、出血はすれど、動かなければ死体にしか見えないんですよ。で、その死体も消失してしまったわけです」
「死体は処理されたとかじゃなくて?」
「まさか。あんな化け物をそのまま捨てるわけないじゃない」
そもそも、里琉にはその化け物というのがよく分からないのだ。
「化け物って言いますけど、どんな見た目なんですか……?」
「じゃ、今日はディアテラスの講義、という事にしましょ。覚えてもらって損はないし」
「そうですね。薬学にも通じますし」
二人はあっさりとテーマを告げて本題に入った。
「そもそも、ディアテラスってのはリカラズで生まれた、人型の実験体なのよ」
リカラズ出身だというフィリアが、大元の説明をする。
「見た目も人間、知能も人間、行動も人間。だけどその内部は全く変化していて、心臓を含めたすべての内臓が機能を停止しているわ。唯一、脳だけが活動している状態ね。だから血もほとんど流れていないし、体温もかなり低い状態よ」
「生きたゾンビ……」
想像したらちょっと気持ち悪い。そんなのが隠れていたら、気付ける自信など全くないだろう。
「壊死しない理由は、電気回路があるから。人間は元々、電気を持つ生き物なのだけど、ディアテラスは独自の電気回路を形成し、それで動けるようになっているの。で、その核となっているのが、脳に埋め込まれる、特殊な鉱物」
「鉱物……!?」
体内に埋め込むといえばペースメーカーなどがあるが、それともまた別なのだろう。だが、鉱石類は正直、何にどんな利用価値があるか分からない。毒にもなれば薬にもなる、最も扱いがしづらい素材だ。
それを扱えるという事は、リカラズの技術力は生半可なものではない、と考えていいだろう。
「鉱物の名前は、エレホス。半透明の小さな立方体で、そうね、大きさは小指の爪先程度、かしら。リカラズで採れる資源の中では、最も不可思議な物体よ」
「……それも奇跡の石とかで出たやつじゃ……」
「それがこんな使い道だけの為に生まれたとは思えないわ。だって元は蓄電池だったのよ」
「え!?」
電気回路の核と言っていたのだから、それはそうか、と里琉も納得した。しかし、それがどうして人体実験の材料にされたのかが分からない。
「エレホスの凄い所は、大きさに関わらず無限の電気を蓄積、あるいは生成できることなの。その原理も今の所まだまだ分かっていないままだけれど、だからこそあれは半永久的にディアテラスを生かし続けられるのよ」
何でそんな化け物が出来たんだ、と里琉は苦い顔をする。無敵にも程があるではないか。
「ですが、そんな化け物にも当然、弱点はありますよ」
「というか、この国だとちょっとそれが出来ないから、野放しだったんだけどね」
「弱点って何ですか?」
自家発電して生きるような存在に、一体何が通用するんだと思いきや。
「同じ電気なのよ。この国、知っての通り電気使わないでしょ。……電気そのものを利用しない国だから、電気を生成できないの」
ああ、と里琉も理解する。アナログにほぼ近いこの国では、対策など不可能に等しいだろう。
なるほど、敵も分かっているから送り込んだのだ。絶対に殺せない相手を。
「で、あれの電気回路を乱すには、核を攻撃しなきゃいけないのよね。つまり、頭を掴んで強い電気を流す、みたいな。それが出来たら苦労しなかったんだけど」
「リカラズでは、その為の制圧装置があるそうですが、フィリアは持ってこれない上に、作成も不可との事です」
「そうなのよ。まあ、いずれちょっとした伝手を辿って手に入れるつもりだけど」
可能かどうかはさておき、現状では捕まえても意味が無い、という事だろう。だが、里琉はふと疑問を感じて首を傾げる。
「だったら、首から上を切り落とせばいいんじゃないのかな」
「一応、行動停止はさせられるわね。一応」
「しかし、リル。考えてみてください? あなたがもし、その敵の首を切り落としたとしましょう。胴体の電気回路は確かに断たれますが、その頭は生きてるんですよ。頭だけでこちらを見て喋るような存在、直視出来ますか?」
「ごめんなさい無理です」
エクスの説明に、里琉は青ざめて口元を押さえた。想像してはいけない。
「ディアテラスの何が怖いって、首を切り落としても、その首を切断面にくっつけると、電気の生成によって回路が回復して、修復しちゃうところなのよ……。最悪にも程があるわ」
「ちなみに、毒も効きませんよ。まあ、機能停止した内臓などに毒を注入したところで、無駄と言う事ですね」
「じゃあコルーは?」
「血液凝固のあれ? 無駄無駄。そもそも血なんかほとんど流れてないんだってば」
たとえ凝固したところで、体が動くならそれでいいのだろう。効いても無意味な毒というのも、哀しいものがある。
里琉とはまた違った理由での毒無効は、この国に居る限り脅威にすらなり得るだろう。
「じゃあ何でそんな存在を、王様は殺そうとしたの?」
「そこよ」
びし、とフィリアは人差し指で里琉に肯定を示す。
「もっとも疑問視されたのが、その時の行動。あのタイミングであの場所で、そしてあの状況で、いきなり殺すなんて、正直愚行でしかないって思うし、実際大多数に責められたのよ。所詮は付け焼き刃の王だってね」
「……真実を知ってるガルジスさんは?」
「だんまり、に決まってるじゃないですか。陛下は頭が悪くないので、恐らく何かしらの思惑で動いたのだろう、とは思うのですが、いかんせん……情報が足りなさ過ぎるんですよ」
ふむ、と里琉は先ほど話をした王とやらを思い出す。
(真実に辿り着けなければ、戻る気はない。それは、今の話を聞く限り、その真実が簡単に信じてもらえる内容じゃないから、だろうな。私が異世界から来たっていうのと同じくらい、荒唐無稽で、ある程度の信憑性が無いと絵空事にしか思えないレベルの真実、ってことか)
「ディアテラスって知ってるの、一部の人だけ?」
「ええ、大臣も知らなかったはずよ」
「逆に知ってるのは?」
「王族、宰相、あとは亡くなった王妃様の直属だった私達ね。団長さんと女官長さんも知ってるわ。……何しろ、それが判明したのが一年半前、つまり私がようやくここに馴染み始めたばかりだったから、周知徹底が遅れたのよ」
「王族にごく近しい人間でなければ知らない事実です。そもそもリカラズの化け物が入り込んだなんて知れたら、パニックになりますからね。慎重にならざるを得なかったんですよ」
なるほど、と里琉は頷いた。それだけ聞けば、大体の事情は把握できる。
「まずディアテラスの存在を知ってないと、アリスィアが大罪人で化け物なんて話、他の人は信じないんじゃない?」
「そうでしょうか? 宰相は知ってたんですよ。それでも陛下に信用されていなかったのなら、何かあったはずです」
「宰相さんでも説明しきれなかったなら? 私が自分の居た世界の話をした時、フィリアさんが居なかったら、私の話を信じられた?」
「……まあ、正直、厳しかったですね」
「リカラズも閉鎖的な国だから、情報流出はほとんどしないのよね。だから私が居ないと、機械的な話なんてまずこの国では出来ないでしょうね」
「そういうこと。フィリアさんが説明してくれたならともかく、そういう猶予も無かったとしたら、王様には不利でしかないんだ」
あの王が何を考えて行動したかは知らないが、不信を買う覚悟でやったのは確かだ。そしてそれは、王の存在意義を揺らがせ、国を崩しかけてしまっている。
「そうね。三日の中で混乱を鎮めるのが精いっぱいだったみたい。私だってアリスィアを殺されたって聞いて死体を探したのに、誰も知らないって言うし、もうこれは逃げられたとしか思えないじゃない? お姫様は離宮に引っ込んじゃうし、エクスはこの通り、お姫様の為にこっち来ちゃったから」
「そしてアリスィアが無実だと信じる女官が多く、この離宮には今も、中央宮より多い女官が居ますよ。……彼女が化け物だという事実を突きつけない限り、目を覚まさないでしょう」
証拠を集める時間が無かった、というのが主な原因のようだ。だが、そこで疑問が生じる。
「ディアテラスなら、心臓刺しても動けるんだよね? 王様がそれを見越して殺したとかなら?」
「多分、それが目的だと思ってるわ。そこでアリスィアが本気で死んだふりなんかしたせいで、王様も失脚させられた、って感じね」
「敵の方が一枚上手だった、ってことか。殺し損じゃん」
せっかくなら、刺し殺さずに首でも落としてくっつけてやれば良かったのではなかろうか。そうすれば勝手に修復されるのだ。誰の目から見ても明らかに化け物だっただろうに。
「てか、それで何もかも失ってるんだから、笑えないよね。気の毒に」
「……あんた、意外と淡白よね」
「興味ないからね。でも、まあ事情は分かった。ディアテラスの事を知らない人間が多過ぎたせいで、王様の行動意図が理解出来ず、揉めてる間に死体ごっこをした大罪人には逃げられた、と。うわー、国が間抜け」
「はいはい、悪かったわね逃がして!」
「我々も大変だったんですよ。アリスィアが大罪人という証拠集めまでは前国王夫妻のお陰で何とかなってたんですが、だからって独断で殺すなって意見に圧倒されてしまったんです」
殺された前提で話が進んでしまっては、死体の修復も見せる事など出来まい。おまけに体温も低いのでは、殺された直後なら誤魔化せる。
「今更言っても、アリスィア連れて来いってところから始まるね」
「そうなのよねー。あーあ、どこかにディアテラス居ないかしらー」
何故そこを棒読みで言うのか、と里琉は思ったが、エクスが苦笑して肩をすくめてそれに返した。
「あんな化け物がそうそう居たら、それこそ厄介ですよ。まあ、居たとしてもアリスィアの手引きで何かしらやらかしてそうですが」
入って数日の里琉に、そんな事が分かるわけがない。そして出来れば、関わりたくもない。
「おっけー、把握した。王様が雲隠れした理由と、出てこない理由はそれか」
「飲み込み早いわね。さすが異世界人ってところかしら」
「私の世界じゃ、その手の話は映画や漫画や小説やアニメで山ほど出て来るからね。異世界に来て本当に居ると、それはそれで嫌だなって思ったけど」
「というか、信じるの早すぎませんか?」
「全部疑ったらキリがないだろ。あと、真実に辿り着けない人間が居ないと戻らないって王様が言ってるんなら、今ので十分じゃないの?」
「そうでもないんですよね。我々が導き出せるのは総合的な事実のみであって、陛下が求めているのは真実、つまり……まあ、殺したその意味、ですね。団長だけが真実を知っているというのは、陛下が何を思って行動したかを知っている、という意味になります」
「ええー?」
無茶にも程がある。ディアテラスの事さえ知らない者が、王の思惑を知るなど、不可能に近い。
さっきは何となくで無理じゃないかと当人に言ったが、今は無理だとはっきり分かった。
「それって、王様に訊くんじゃだめなの?」
「その陛下の居場所を知っているのが、団長だけなんですよ?」
「……あー、そうだった」
さっき会ったばかりです、とはさすがに言えない。黙っておくと約束してもいるし、里琉は知らない振りを通す事にした。
その時、鐘の音が遠くから聞こえる。時間だ。
「あら、もうおしまい? あっという間ね」
「しかし、リル。あなたの理解力は随分と高いですね。ガルジス団長が聞いたら、驚くのでは?」
何気なく言ったエクスの言葉に、布扉が開いて当のガルジスが現れた。
「割と聞こえた。というか、お前ら薬学じゃなかったのか!」
「あら、ちゃんと薬学も含めてるわよ? 毒が通じない話とか」
「教える内容に制限は設けられていませんからね。リルの危険を軽減する為にも、やはりある程度は必要な知識でしょうから」
余計な事を言うな、と明らかに不満顔のガルジスに、彼らはしらっとしている。
里琉も話した以上の事は特に考えていないので、彼らに賛同する。
「関連付けとして話してただけで、王様と答え合わせしたいとか思ってないよ」
「…………したらお前、絶対この国から出られなくなるからな」
「ぽっと出の新参者、しかも素性不明の人間が真実にぶち当たったら怖くない? むしろ当事者を疑われるよ」
それももっともか、と思ったらしい彼は、それ以上を言ってこなかった。代わりに来いと促す。
「ほら、行くぞ。次はこっちだからな」
「はーい。じゃ、ありがとうございました!」
「またねー、リル」
「次も楽しみにしていますよ」
和やかにその場を辞した里琉の前を歩きながら、ガルジスが声を潜めて言う。
「あまりあいつの話はするな。……この離宮には、あいつの信奉者が多い」
「知ってる。私はその人を見た事無いし知らないから、一々聞いて回るつもりもないよ」
名前を出さない辺り、既に気を張っているのだろう。里琉もそれに合わせておく。
と、そこに。
「リル」
声を掛けられ、立ち止まった。
振り返ると、そこにはカーエという女と一緒に立っている、王女。
「あれ、王女様じゃないですか。何か御用ですか?」
「……そうか。そなた、妾の事を聞いたのじゃな」
濁った目は敵意に近い。背後に立つカーエが得意げな顔をして里琉を見ていた。
「ほら、申し上げました通りでしょう? この方は宰相様にご命令されて、離宮を探りにいらしたのですわ」
「いや、普通にエクスさん達に薬学を教わりに来ただけですね。王女様が居た事も知らなかったんで」
「んまあ、白々しい! では何故、そちらに騎士団長様がいらっしゃるのですか?」
「次の教育の迎えだが?」
「……教育じゃと?」
里琉はどうしようかと少し迷ったが、正直に告げる。
「部下っていうか、まだ初日でしかも教育中ですよ。出来がいいかどうかも分からないうちから、本当に部下にするわけないじゃないですか。試用期間、ってやつです」
「姫様、騙されてはなりませんわ。嘘に決まっております」
「ちょっとあなたは、黙ってもらっていいですか? 王女様と話してるんです、私は」
カーエがうるさいので、里琉はぴしゃっと言い切る。
「そうじゃ。妾と話をしておるのじゃ。……リル、そなた、兄上と懇意なのか?」
「いや、全然知りませんけど。誰ですかお兄さんって」
「……兄上を知らぬじゃと? 何故それで、宰相の部下になるのじゃ?」
「なれって言われて、仕方なくですよ。権力には逆らえませんし。何か関係してるんですか?」
「……兄上は、この国の王じゃぞ?」
そうだったのか、と里琉は首を傾げた。王族の家族関係まで言及していないので、全く知らないままだったのだ。
「王様って、でも今は居ないんですよね?」
「そうじゃ。……アリスィアを殺した後、逃げるように隠れたと聞いておる」
「……で、それがどうかしたんですか?」
「…………そうか。そなた、兄上の事も知らぬのか。……カーエ」
「は、はいっ?」
濁った瞳のまま、ライラはカーエを振り返った。
そして厳しい声で言う。
「話が違うではないか。この者は、何も知らぬ」
「……う、嘘を吐いておられるのですわ!」
「しかし、そなたは言うたであろう。宰相の手の者だと」
「実際、教育中とはいえ、部下には変わりございませんわ!」
「…………あのー、私、次の教育に行っていいですか?」
そういう揉め事は勝手にやって欲しい。里琉は面倒になってそう問いかけると、カーエにギリギリと睨まれた。
「よくも、そのような口を……!」
「カーエと言ったな。仮にも姫様付きの女官が取るべき態度ではないぞ。それと、宰相の部下であるこいつは、お前よりも上の立場だ。言を弁えてもらおうか」
ガルジスが威圧感を込めてカーエに叱責する。それは普段のどれよりも、委縮を与えるものだった。
「……っ、も、申し訳ございませんわ。アリスィア様のことがありますもの。やはり、心配にもなろうというものです」
「…………アリスィアの事は、知っておるか?」
「……はい。王様……お兄さんが殺してしまわれた、と……」
「そうじゃ。兄上は妾の目の前でアリスィアを殺した。あのような事をするなぞ、考えられぬ事じゃった。しかし……もう、それも過ぎた事じゃ。妾は王族である事を放棄しておる。そなたも次は、ライラと妾を呼べ」
「いいんですか? 敵かもしれないのに」
「そなたは敵ではないのであろう? ならば、良いのじゃ。妾を心配してくれたそなたを、信じたい」
「……ありがとうございます。次は、ちゃんとエクスさんのところで、薬湯を飲みましょう。少しでも、健康な顔色が見てみたいですから」
「リル、時間がない。行くぞ」
「はい。……では、失礼します」
カーエはもう何も言わなかったが、敵意と悪意がこもった視線が背に刺さる。
(……あれがディアテラスなら、迷わず目の前で腕切り落としてからくっつけるのにな)
そうしたら、カーエに対する王女からの信頼は、地に落ちるだろう。それくらいの仕返しはしたい。
が、今はそれよりも次の教育だ。
「時間取らせてごめんなさい。次はガルジスさんの教育?」
「おう、パソーテ大臣と一緒に、な。あの大臣は厳しいぞ。覚悟しとけ」
「剣の訓練かー。怪我には気を付けるね!」
「ま、今日は初日だし、まずは武器の選定からだな。ところでお前、真実を知る気は本当に無いのか?」
ガルジスの疑問に、里琉は首を傾げる。
「私が知ってもなー、ってところはある。それに王様の意図が分からないと、どうしようもないだろ。今日話しても、分かる事の方が少なかった。……あ、でも」
ふと思い出して、小さく笑う。
「あんまり表情は変わらないけど、普通の人、って感じだった。親近感がわいたかも」
「……マジか。お前すごいな」
ガルジスが驚くが、だからこそ彼も傍に居るのではないか、と里琉は不思議に思った。
しかし彼は、苦い声で続ける。
「もしお前が真実を知ったら……お前は、どう思うんだろうな」
真実の内容による。本当の意味で彼の独善だったら責める余地は出るかもしれないが、もしもそうではなかったのなら、きっとそこには、アリスィアが仕掛けた罠があるはずだから。
だから、今は答えを出せない。
少なくとも、王である彼は、妹の事をどう思っているのかを知るまでは。
「……王女様、ずっとあんな感じなのかな」
「そうだな。長くはもたない、と言われてる」
「カーエって女から引き離せない?」
「今は無理だな。……だが、今回のでちょっと姫様がカーエに疑惑を抱いた。……チャンスかもしれないな」
「そうだね。担当変えた方がいいと思うよ。ちゃんと薬を飲ませてくれて、ちゃんとまともな情報を与えてくれる人にね」
気の毒な王女だと思う。王とは別の意味で。
だからなのか。見た目は全く異なるが、彼らは確かによく似ている気がしたのだった。
※ ※ ※
――正直言って、彼女を侮っていた。
異世界という、存在すら疑わしい出自。それでも迷子には変わりなく、帰りたいというせめてもの目的だけは協力したいと思っただけなのだ。
だというのに、宰相の部下になる事を引き受け、王と知っても臆することなく対話し、王女に対しても冷静で情のある言葉を掛けた。
そんな事は、簡単ではない。彼女とて権力の大きさと強さを知っているはずなのだ。
文明が遅れているから下に見ている、というわけでもないのは、見れば分かる。
だから、エクスやフィリアが簡単にディアテラスの事を教え、そして同時に半年前の事件についても語ったのは、恐らく期待したからなのだろう。
――真実に辿り着けるかもしれない、唯一の希望として。
だがそんな彼女は先ほどまでの話を思い出すような素振りもなく、己の剣を決める為に来た武器庫で、似たような武器をいくつも手にしている。
「どうだ? 重さ、馴染み具合、振った時の感触もまた、決め手に必要だ。より己に近いものを選ぶ為の妥協は、してはならぬ」
「はいっ」
そろそろ両手で数え切れなくなりそうな数を試しているが、これというものを彼女はまだ見つけていない。
そして彼女が今選んでいるのは、女性用の護身短剣ではなく――戦闘用の長剣だ。
(あの宰相、何をどれだけやらせる気だ、こいつに)
ガルジスは苦味を飲み込んで内心でぼやく。パソーテ大臣も同じことは思っただろうが、里琉が真剣に選ぶのを見て、止める事はしていない。
里琉が宰相の部下になるにあたって、当然だがガルジスにも声が掛けられた。最初の保護者でもあるガルジスは、反対の意を見せつつも、護身くらいは教えるべきだと言ったのだが、それに対して宰相は、我が意を得たり、とばかりに提案したのだ。
『では、その護身を堂々と教えられる機会を差し上げましょう』
――軍務大臣と共に基礎から、と言われた時点で嫌な予感はしたのだ。だが、本当にまさか、騎士としての教育を受けさせるとは。
「あっ!」
ひゅん、という音と共に、里琉が声を上げる。
「どうした?」
怪我でもしたかと思ったガルジスに、だが彼女は嬉しそうに言った。
「これ! 今、振った時にすごくいい感じだった!」
「…………お、おう、そうか」
「他はどうだろうか」
握った感触やら持ち上げた時の重さやらをチェックした里琉は、こくこくと頷く。
「悪くないと思います。これにしてもいいですか?」
「お前が気に入ったなら、それが合ってるんだろ。決まりだな」
女性だというのに、ことごとく予想外の反応を見せて来る。しかし上手くいかないよりはいいだろうな、とガルジスも深くは気にしなかった。
「では、これより訓練の説明に入る。訓練場へ向かうとしよう」
そう言って連れて行った場所は、普段は使う者が少ない、初心者向けの場所だった。
彼女が素人というのもそうだが、女性だからという理由も相まって、普通の訓練所には連れて行けない、と大臣が判断したのだろう。
「誰も居ないんですね」
「今は新入りも居ない状態だからな。普通の所では騎士団員や兵士が訓練してるぞ。それを見学するだけでも勉強にはなるが……」
「本日は止めておくのが吉、だ。……その化粧では、彼らの訓練に支障が出る」
「ですよね」
また化粧の話か、とうんざりした顔をする彼女には、まだ分からないのだろう。
妙齢の女性がそんな化粧をして男達の前に出たら、婿探しをしていると言いふらしているようなものなのだ。
「お見苦しいものをお見せしてて、すいません……」
「…………リル殿。その化粧は、他の者にされたのではないか?」
「え……と、はい」
「己を卑下するのならば、化粧を落としてからにするべきだ。化粧を施した者までもを貶める発言は控えるよう」
「! ……す、すいませんでした」
そこの考えには至らないのか、とガルジスは多少ながら困惑する。彼女はもっと、鏡を見るべきだろうに。
だが、彼女は確か、自分への賛辞に対して猜疑心を抱いているようだった。メーディアが施した化粧に対しても「最低限見苦しくない程度」にしてもらっているつもりだったようだし、今日の化粧に至っては、下手をすれば式典衣装みたいなものだと思っているようにさえ感じる。だから似合わない、と思っているのだろう。
「化粧は気にするな。まずは基礎から、なんだが……うーん、かと言ってただの筋トレなら自室でやらせりゃいいしなあ」
「武器を選んだ事だし、持ち方、姿勢などから教えた方が良いと思われる。リル殿、これまで武器を手にした事は無いと聞いたが」
「無いですね」
武器を携帯すると法に引っかかるような国で生きてたらしいので、当然の返答だろう。ガルジスたちにしてみたら、そんなに安全な国があるのが信じがたいが、実際の所、治安は地区によって様々らしい。彼女が住んでいた地域は比較的平和、だったそうだ。
「ではまず、武器そのものの在り様についてだ。貴殿は今武器を持ち、立っている。その武器を我々に向ける事をどう思うか?」
「え、それ敵意ありって見なされますよね」
嫌だ、と顔に書いてある。正直な事だが、やれと言われたらやるのではなかろうか。
「よし、ちょっと俺に向けてみろ」
「え、怒らない?」
「……じゃあもし、俺がお前の家族を殺した人間ならどうする?」
「向けるし、何なら話もしないで斬りかかる」
そういう事だ、とガルジスは頷いた。
「向けるには理由がある。その理由は様々だとしても、そこにあるのは明確な「殺意」だ。今お前が言ったことそのものを意味する」
「!」
そんなつもりは無かったのだろうが、彼女にはまず、武器を持つ自覚が必要だ。だからガルジスは真面目に続ける。
「で、その殺意は、はっきり言ってコントロールしきれるものじゃない。もし出来るなら、それは既に何人も殺してきた奴だ。この先お前を明確に殺そうとする奴に対して、お前も殺意で返さなきゃいけない事があるかもしれない。その為に武器を持つんだ」
「……」
里琉の表情が曇る。これまで生きて来た中で、そんな場面に出くわした事は恐らくないだろうが、この国では普通にある事だ。慣れてもらう必要がある。
「正当防衛、は分かるか?」
「分かります。相手が危害を加えたら、こっちも攻撃していいって事ですよね」
「そうだ。しかし、その危害が一撃で貴公の身を滅ぼすような凶悪な攻撃であった場合、貴公は反撃も出来ずに死んでしまうであろう」
「……その即死を回避する手段、と捉えていいんですか?」
そうだ、とパソーテ大臣が頷いた。
「本来、女性ならば短剣をしのばせるのが通常だが、今回は宰相殿が長剣を使わせるよう指示した。よって貴公は本日より、この国では初となる、女性騎士の見習いとして扱われる」
「じょ、女性騎士!?」
聞いてない、と里琉が驚愕するが、それでガルジスは納得した。
女性騎士。他の国には居るが、この国では女性は弱く在るべきとして、今まで認可されなかった職業だ。
つまり、何も知らない彼女を一から育て上げ、女性騎士が本当に実用性があるかどうかを知らしめる機会と見たのだろう。
「……前国王陛下夫妻の残した、草案ですね」
「その通りだ。……さてリル殿。貴公が持つその剣は、貴殿次第で『武器』か『凶器』となるであろう。それは己の心の在り様にもつながる。仮に貴公が持つそれが『凶器』だと我々が判断した場合。――我々は貴公から、それを取り上げる事も覚えておくことだ」
後半の言葉に、里琉は戸惑いながらも頷いている。ただ、彼女なら間違った扱い方はしないような気がしていた。
だが、実際に扱わなければ、それは判断できない。当人さえ知らない部分で凶悪性を秘めている事もあるのだ。
「……あの、一つ訊いてもいいですか」
「何であろうか」
とても言いにくそうに、里琉は自分の格好を示して問う。
「…………この服で毎回、訓練するんですか?」
しまった、とガルジスもパソーテ大臣も天を仰ぐ。
「失念していた」
「まあ、今まで男しか居なかったんで、そもそも服とか用意してませんしね……」
しかし、彼女は彼女でいい事を思いついた、とばかりに手を叩く。
「あの、私だけスカートの中にズボンはくっての駄目ですか? それならこの格好でも動いても支障ありませんし」
「む……」
「動きにくくなるぞ?」
何しろ女性の服は、その素足を守る為に厚みと重みのある布を使っている。丈夫さもさることながら、多少の風では翻らない程度には負荷がかかる。
だが里琉は気にしないらしく、頷いた。
「問題無いなら、その方がいいと思います。着替えて訓練する分にはいいですけど、実戦って多分、着替えてる暇とかないですし、咄嗟の判断を活かすなら女性服のままの方が、より効果的かなって」
「……よし、ではその案を採用する。だが、戦闘用はそれとは別に製作を頼むとしよう。基礎の動き、体勢などはその格好では教えにくいのでな」
「分かりました! お願いします!」
(……やっぱりすごいな、こいつは)
彼女は自分が特別などとは微塵も思っていない。むしろ平均以下だと思い込んでいるような言動が目立つ。
だが、文明が発達した国で、世界で生きて来た分、自分達よりも視野が広いのだろう。
例え短期間でも彼女が居たら、この国はずっと大きな変化を生み出すのではないか、とガルジスも思っていた。
(……アリスィアが見つかるか、あるいは行動に出るか、も含めてだな。……仕方ない。生き延びさせる為にも、きっちり鍛えてやるとするか)
「よし、頑張ろうな、リル」
「もちろん! じゃあ早速、基本から教えて下さい!」
曇りの無い彼女を見て、少しだけ、苦渋がよぎる。
――あの日までに、否、一年前に、彼女がもしも来ていたのならば。
きっとこの国は、こうはならなかった。そんな気がするのだ。
「……ガルジス団長。下らぬ感傷を抱かぬよう」
「!」
「後悔で生み出すべきは、最悪を回避する術である」
さすがに年の功、というやつか。パソーテ大臣には見抜かれていたらしく、叱責を受ける。
ガルジスは苦笑を浮かべて頷いた。
「申し訳ありません。そうですね。……今出来る最大限を、俺達はしているのですから」
その会話は、姿勢と持ち方を維持しようと頑張る彼女には、聞こえていないようだった。
※ ※ ※
夕方、終業の鐘が鳴った後、里琉はガルジスに部屋まで送られながら、基礎トレーニングメニューの中身に思わず顔をしかめた。
「え、何、鬼コーチなの?」
腕立て伏せ、腹筋、スクワットを五十回セットで三回。それを毎晩。もう少し数を減らしてくれてもいいのではなかろうか。
しかし、ガルジスはにこやかなまま撤回を拒否する。
「何と言われようが、これが最低限だ。出来ないとは言わせないからな? 今夜からちゃんとやれよ。サボるとすぐ分かるからな」
「ひえぇ」
恐らく、サボった時点で体に影響が出るから目に見えるのだろう。ごまかしの利かない数を提示した、という事らしい。
だが、今は腰に提げている剣は、ずっと持っていると腕が震えてくるくらいの重さがあった。つまり今は、それを持つだけでも精一杯、という程度の筋力しかなく、だからこそあえて負荷をかけていくのだろう。
「じゃあ、仕事が終わったらすぐ戻ってメニューに取り掛かった方がいいね。寝る前とかだとお風呂が遅くなるし」
「そうだな。あ、お前そういえば、エステも受けるんだったか。そいつは何時だ?」
「うーんと、次の鐘が鳴った頃かな。初日はメーディアさんが迎えに来るらしいんだけど、それまでにお風呂入ってて、って言われてる」
鐘の間隔は二時間と三時間だ。二時間は二回、三時間は三回となっているので、それでお昼だったり就寝時間だったりを判断するらしい。
だが、この王宮内を就寝時間以降に移動しないよう言われてはいる。ところどころに弱く灯りはついているが、それ以外は見通しも悪く、怪我などの危険もついてまわるというので、安全の為、と言われたらそれまでだった。
「……そうか。よし、それまでに終われるよう頑張れ」
「変更する気がゼロ! 鬼確定!」
「お前を鍛えるって決めたからな。慣れれば一時間もありゃ終わる」
「一ヶ月でボディービルダーみたいになったら、ちょっと嫌だなあ……」
あまりマッスル体型にはなりたくないな、と思いつつも、昔からそういう兆しは出ていなかったので、大丈夫だと思う事にする。
部屋まで送ってくれたガルジスにお礼を言うと、里琉は早速、トレーニングメニューに取り掛かることにした。
「ええっと……この格好のままだと汗だくになるから、よし、脱ごう」
誰も見てないし、とベッドの上に服と剣を置き、床に座る。その冷たさに、ううむ、と唸った。
「何か敷こう……」
クローゼットを漁ると、シーツの替えらしきものが出て来た。これなら少しは大丈夫だろう、と床に敷く。
しかし、三種類を五十回、三セットだ。数えきれるかの心配がある。
「あ、そうだ。昼間持ってきたあの石板使おう」
あれは裏面も使えるはずなので、そちらに書けばいいのだ。
そういえば窓際に置きっ放しだったな、と持ち上げた里琉の手から、石板が束ねた紙のごとくバラバラに落ちるのを見て――思わず悲鳴を上げた。
「うわあああっ!?」
床に落ちたそれらは、特に割れる事もなく散らばる。
ややして、悲鳴が聞こえたらしい宰相が飛び込んで来た。
「何事ですか! ……リル!? そんな格好で、何をしてるんですか!?」
「……さ、宰相さん! 大変です! 石板が!!」
「石板?」
慌てて拾い集めたそれらを見せると、宰相が怪訝な顔になった。
「何ですかこれは」
「だから石板だったんです! 今持ち上げたら分解されてて! どうなってるんですか!?」
「石板って……あの黒地石ですか? そんな現象、聞いた事ありませんが……」
だが、床に落ちていたそれを元通り集め、綺麗に重ねた姿を見て、宰相も納得せざるを得なかったらしい。
「……リル、これに何かしましたか?」
「いえ、何も……あ、でも、これ持ってた時に、ちょっと女官の子とぶつかってしまって。その時、バケツの水がこれに思いっきりかかっちゃったんです。だから乾かそうと思って窓のところに置いてたんですよ」
幸い窓は、落ちないように柵が取り付けてある。日当たりもいいのでうってつけだったのだ。
「……水に、浸ける、ですか」
「宰相さん?」
「いえ、面白い事になりそうです。里琉、それを数枚私へ。それから、何なんですかこの状態は」
ベッドに無造作に脱いだ服、床にはシーツ、という状態に宰相が眉を顰める。
「あ、今から筋トレします」
「は? ……ああ、なるほど。でしたら専用の部屋を用意しますよ。湯殿の近くに」
ここから風呂までは確かに遠い。だが、そこまでしなくても、と言おうとする里琉に、彼は首を横に振る。
「専用の服も用意します。ここはあなたの体を休める場所であって、仕事を持ち込むところではありません。何なら今すぐにでも用意しますから、服を着てそれを片付けなさい」
「……はい」
ばらけた石板を数枚手にして、宰相は「呼びに来るまで待つように」と告げ、出て行った。
仕方なく服を着た里琉は、まるで紙のように薄くなったそれを、一枚手に取る。サングラスのように、わずかに向こうが透けて見える薄さになってしまった。
確かヴァス大臣が、石板を薄くしないのかと尋ねた時に「そんな方法があるなら教えて欲しい」とか言っていたが、これなら文句は無いのではなかろうか。
「……水で分離するへき開、とか……聞いた事ないんだけど?」
衝撃を与えた際に必ず同じ割れ方をする。それが鉱石における「へき開」だ。だが、衝撃に強く水に弱いという特徴だからこそ、発見されなかったのだろう。
何にせよ、ユジーは紙の代わりに役立つ物だと思ったに違いない。里琉としても、これだけ薄く、書くのに困りさえしなければ同じ考えだ。
「あ、ついでに試し書きとして持ってこっと。回数書くだけならいけそう」
しばらくしてユジーが呼びに来た。その手には服を持っている。
「行きますよ。これから案内する場所は、この王宮にいくつかある湯殿のうち一つですが、エステも受けると聞いたので、そこに一番近い場所にしました。女官長にも話はつけてあります。……せいぜい磨かれなさい」
「随分と優遇しますね。そんな余裕あるんですか」
「甘やかされれば、人間はそこから抜け出せなくなるものですよ。……それに、まだあなたは部下になっていないのですから、どのみちしばらく、ここに居なければなりません」
そうきたか、と里琉は肩をすくめた。早い所、情報を得て目的を果たしたいところだ。
「一応言いますが、隠し部屋ですからね。誰も入らないよう、ちゃんとした目印を付けて下さい」
「分かりました」
案内されたそこは、普通の部屋だった。下手をするとそこでも寝起き出来てしまいそうな空間である。
「あ、ちゃんと寝台もある……机も……」
「オプションです。あくまで基礎体力作りの為の部屋なので、住み着かないで下さいね」
「……わ、分かってまーす……」
正直、別に広くなくていいのだ。最低限の衣食住が保証されてくれれば。どうせ長く居るつもりもない。
が、体裁というものを考えれば、里琉の希望を叶えるのは無理があるのだろう。待遇を下手に下げてしまうと、宰相への悪評に繋がる恐れがある。
「この服は替えも用意しますから、ちゃんと洗濯籠に入れて、置いておくように。回収する人があとはやってくれます」
「誰かこの部屋を使ったりしてる場合は?」
「……リル、あなた何か持ってませんか? この扉に常に付けてしまいなさい」
「え、何もないです……」
「分かりました。用意して付けておきますから、目印として覚えなさい。いいですね」
何から何まで面倒を見るつもりか、と里琉もさすがに申し訳なさをおぼえる。
「何かそのうち買ってきます……」
「そうして下さい。ああ、先に言いますが」
ふと声のトーンを抑えて、宰相は言った。
「男性から、安易に物をもらわないように。食べ物も含めてです。物を贈り、受け取る行為は、愛情のそれに相当するのがこの国です。……下手に物を貰って帰れなくなっても、私は知りませんよ」
「…………肝に銘じます」
昼間に料理長からもらったあれくらいは、ノーカンにしたい。というか、それを言ったら、昼間の彼らも断るべきだったのではなかろうかと思う。
里琉の不審な様子に、まさか、と宰相は突っ込む。
「どうしました? 既にもらったとか言いませんよね?」
「……い、いえ。もう胃の中ですし」
「…………どうやら、この一ヶ月以内に帰れる可能性は低そうですね?」
へまをしてこのまま居着いてしまえ、と暗に言われている気がして、里琉は首をすくめた。それはとても困る。
「では、頑張りなさい」
「あ、ありがとうございました……」
時間が無い。里琉はすぐに中に入ると、鍵代わりに引っ掛ける部分に布を通した。これで在室かどうかも分かるという。
床にも丁寧にタオルらしき布が敷かれているおかげで、シーツを探す事は無さそうだ。
着替えた服はまるで体操服で、半袖短パンのようなその格好に里琉はちょっと動きやすさを感じて嬉しくなる。
「なんだかんだ、いい人なのかな」
ありがたく使う事にし、里琉は早速、筋トレを始めたのであった。
※ ※ ※
その日の夕食は、不思議なざわめきに満ちていた。
「なあ、これ、ワートマールだよな?」
「俺も思った。苦味がいつもより少なくないか?」
「っていうか、そもそも味が濃くない。新種の野菜じゃねえの?」
「いや、仄かに残るこの苦さがヤツだと主張してる」
「でも全然気にならないよな。むしろこれくらいならもっといける」
煮込まれたスープを口にする彼らは、その理由を知らない。
たまたま通りがかったガルジスは、今から持って行くその料理に目を落としつつ、食堂から聞こえる声に苦笑した。
だが、もう一つ別の囁きも耳に届く。
「ねえ、見た? あの子の化粧!」
「当たり前じゃない。もう、あんな美人になるとか、聞いてないわよぉ」
「髪も短くて、男の子みたいだから大丈夫って思ってたのに! もうあちこちであの子の噂ばっかり!」
「あたし達、あの子に先越されるんじゃない? だって全然、悪い子じゃないって話も聞こえてるのよ」
「もーぉ、それ困るんだけどー!」
――彼女はその声を聞いていない。聞いてもきっと、信じない。それが分かるだけに、苦い気持ちになった。
彼女には、早急に対策が必要だ。彼女が何も知らない事は責められないが、彼女が己を正しく認識できないのは、きっと後々の火種になる。
「……ま、それは俺達が請け負うとするか」
冷める前に食事を持って行ってやらなくては、とガルジスは歩き出す。せっかく温かい料理を食べる機会を得ているのだ。毒見を通さない事に不安は残れど、だからこそ厨房まで取りに行っている。
そしてこの半年で毒を盛られた事は一切ない。それが答えだろう。
(殺すだけの理由はない、か)
王は見た目で判断出来ない好例だ。会話し、観察しなければその一片さえ見極められない。
その点、里琉の凄さはその観察力だ。人間に興味が無いと言いながらも、あの王と会話し、食べ物を受け取らせている時点で傑物の可能性が高い。
だからこそ期待を掛けられてしまっているのが、気の毒だ。自分さえ期待したくなる。
その彼女は今頃、必死で自分が与えたトレーニングメニューをこなして、風呂に入ってエステを受けるあたりだろうか。恐らく食事は最後になってしまうに違いない。
気の毒なので、その時は話くらい付き合ってやろうか、と思いながら、王が居る隠し部屋に辿り着いて開く。
「陛下、お待たせしました」
「……? あれは一緒じゃないのか」
何だと、とガルジスは王の言葉に驚愕した。
(待て待て!? さすがにこれは予想外だぞ!!)
「あいつなら、今日から色々と忙しくしてますよ。……一体どうしたんです? まさかあいつの化粧姿、気に入ったんですか?」
「いや、そうじゃない。……というか、化粧は関係ない」
「女性ですよ? 陛下がワートマールと同じくらい苦手な」
「言い方に悪意があるんだが、気のせいか?」
食事を差し出すと、明らかにそのワートマールが入っているのが分かり、ガルジスはにやりと笑う。
「ま、残さず食えますよ。今日は」
怪訝そうな彼は嫌そうにそれを口にし――目を数度瞬かせた。
「?」
ガルジスは自分もそれを口にしながら、おお、と感嘆する。
「大分苦味が抜かれてますね。あいつ、元々は民間人だから、生活の知恵ってやつでしょうか」
「本当にやるとは思わなかったがな……」
それ程に、料理長たちも辟易していたのだ。試せるものなら何でも試すべきだと思ってやったのだろう。
「食堂の奴らも、随分驚いてましたよ。主にあいつの化粧と、ワートマールについてですが」
「……化粧に関してはネオ大臣だろうな。直属の部下が、その手の技術を得意としているだろう」
「ご名答です。……で、大臣達とも関わるような奴を、近付けるつもりですか? 陛下」
一応の釘を刺すが、王は妙に困惑しつつ言った。
「……現時点で俺の居場所が探し出されていないのなら、あれは俺を連れ戻すつもりなどないだろう。……だったら、別にいい」
「……じゃ、明日の昼は連れて来ますよ。それでいいですか?」
「……ああ」
(王女殿下もそうだが、陛下もか。……同じ目線で話が出来る人間が今まで居なかった弊害、だな)
彼女には悪いが、しばらくはこの王に付き合ってもらうしかないだろう。その上で彼女が真実に辿り着けるというのなら、それでもいい。
「…………陛下。仮にですが、あいつが真実に辿り着けたらどうします?」
念のために問うと、王は少し手を止めてから、断言した。
「それも確かめたいから、連れて来い」
「……分かりました」
内心で苦笑し、ガルジスはそれ以上を追及しない。
そして里琉にはその思惑を隠しておくことにする。
そうでなければ、この王は彼女を信じはしないだろうから。
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