6話:研磨される価値

 この国では、紙が貴重品らしい。その割にはよく見かけた気もするが、個人の所有であったりする場合は別、だそうだ。

 そして一般的な紙の代替品とされているのが――目の前に置かれた、分厚い石板である。

 とはいっても、コンクリートめいた石ではなく、黒曜石に近い色味の、艶を持ったものだ。

 里琉はそれを持ってあちこち眺め、眉をひそめる。

(何だこれ。加工しないのか? いや、研磨とかの加工はしてあるから、硬度は低めだ。それなのに両手で持って運ぶような大きさと厚さなんて、ちょっとどうかしてる)

「何を眺めているのだ?」

「……これ、本当に紙の代わりになってるんですか」

「無論。何か不満があるのか」

「もっと小さく薄くしないんですか?」

 これでは無駄が大きすぎる、と思った言葉に、だが相手はふんと鼻で笑った。

「そうする事が出来るのならば、こちらが教えてもらいたいものだな」

 この石について調べたいところだが、今は文学の時間らしい。それは後にしろ、ということだろう。

 ――見るからに貴族風の顔つきをした男性は、ヴァス大臣、というらしい。里琉を見下しているのが丸わかりなので、里琉も相応の態度をとってやろうか、と思ったほどである。

 それをやると上司である宰相の面子が潰れるので、さすがに出来ないのだが。

「文盲だと聞いているのだが、こちらを使った事はあるか」

「……ないですね。彫刻でもするんですか?」

 置かれたものは、細いノミのようなものと、万年筆のようなペンだ。ただしインクは入っておらず、あれよりも細い。

「似たようなものだ。ではまず、書く事から始めてもらおう。ここに書かれているのは、この世界共通で使われている言語だ。我が国はこれを使っている」

 石板に記されたそれは、いつかフィリアに見せてもらった書類と同じ文字だった。しかし、読めない。読み方が分からない。数は五十あるかどうか、だろう。

「まずは文字の序列から覚えるのだ。このままの状態を板書するように」

「はい」

 小学校みたいだな、と思いながら、細いペンを使って里琉は一文字ずつ書き写していく。幸いそこまでの力は必要ないらしく、カリカリと削るような感覚だ。

 その途中で、文字を間違えて手を止める。

「どうした」

「……ええと、この、間違った文字って消せないですよね」

「消すのはそちらの道具だ」

 小さなノミの方を示され、里琉はそれに持ち変える。消しゴムで消すように文字をこすろうとしたところ――ぱきん、と深めにそこだけ抉れてしまった。

「あ……」

「やり方を何故訊かぬ?」

 叱責めいたその問いに、里琉は「教えてくれなかったじゃないですか」とぼそっと言い返した。

 途端にヴァス大臣は、厳しい口調でそれに返す。

「分からぬならば訊くのは、幼子でも出来る事だ。出来ると思ってやったことが間違いだと、認める事さえ出来ぬのか」

「……すみませんでした」

 正論なので、里琉も言い返さない。しかし、抉れた部分はどうにもならないだろう。

 一文字ずらす形になるが、里琉は続けて書き写しを続ける。

 それが一通り終わった後で、ヴァス大臣は手本の文字を示して言った。

「この文字とこの文字を記せ」

「? はい」

 何の意味があるのだろうか、と思ったら、彼はあっさりと「それが貴公の名だ」と告げた。

「この先、書類等に貴公の名を書く機会もあるかもしれぬ。その際に名も書けぬのであれば、恥と心得る事だ」

「……分かりました」

「それと、先ほどのこれは、力を使うな。文字を消す際、文字の上を払うようにして削るのだ」

 試してみろと言われ、ついでに空いた部分に文字を書き、言われたようにすると、消しゴムのように綺麗に文字は消えた。ただ、少しばかり傷のように残っている。

「その上から書く事も可能だ。……もっとも、両面書いてしまえばそれまでだがな」

 だろうな、と里琉は納得する。正直な所、勿体ない、というのが概ねの感想だ。

「あの、これは何て名前の石ですか?」

「これは黒地石だ。この土地ではもっとも大量に採れるが、もっとも使い道が無い。……表面を磨いて文字を書く程度だが、傷がつきやすい上、この半分にしようとしても折れぬのでこのままだ」

「そういうことだったんですね」

 脆い割に割れないのであれば、特殊な方法を見付けない限りこのまま、ということになるのだろう。

 だが、里琉の仕事はそれを模索する事ではないし、そんな暇はさすがに無い。

 鐘の音が響いて授業が終わると、里琉は板書したそれを持って一度、部屋に戻る事にした。あっても邪魔でしかない。

 多分こっち、と思いながら急いで角を曲がった途端、ふと見えた目の前の人影に気付き、しかし避けられなかった。

 どん、と派手にぶつかって転んでしまう。

「きゃあ!」

「うわっ!」

 ばしゃん! という音に目をやると、持っていた石板が床に落ち、狙いすましたようにその上にバケツが転がり、水浸しになっていた。

「あちゃー……」

 これが普通の紙だったら、アウトだったに違いない。こればかりは石で良かった、と思うべきだろう。

「も、申し訳ございませんっ!!」

 平身低頭、と言うに相応しいポーズで少女が土下座しているのを見て、里琉は慌ててそれを止める。

「いや、こっちも見てなくてごめんなさい。それより怪我はないですか?」

「な、無いです。……あの、怒らないの、ですか」

 こわごわと顔を上げる少女は、まだ幼い。中学生くらいじゃないか、と予想したが、それよりもバケツの方だ。

「え、何で怒る必要が……? それよりも雑巾どこですか? 床を拭かないと」

「ああっ、それは、テファがやりますので! 石板は今、お拭き致します!!」

 そう言って出すのは、彼女のハンカチだ。待て待て、と里琉はそれを止める。

「いや、これ乾かすからそこまでしなくていいよ! それより、私急いでて。ここをお願いしても?」

「はい、お任せください!」

「ごめんなさい! じゃあ、私はこれで!」

 大丈夫かな、と心配しつつ、里琉は濡れたままの石板を持って部屋に戻ると、陽射しが降り注ぐ窓の所にそれを置いて、ヴァス大臣に指定された次の授業場所――地下金庫へと急ぐのだった。


※ ※ ※


 そもそも地下金庫など、普通に入れる場所ではない。

 あちこちに居る人間に聞いてようやくたどり着いた時には、恐らく担当の大臣であろう人物が、コインを弄りながら入り口に立っていた。

「お、おくれて、もうしわけ、ありません」

 ぜいぜいと息を吐く里琉を見て、にやにやと笑う彼は告げる。

「ようこそリル殿。ワタシが財務大臣のモニです。辿り着けただけ、まだいいと思いますよ。では行きましょうか」

 嫌がらせか、と内心で呟くが、それくらいは覚悟しろと言われている。何しろ、女性が重役に就く、という時点でかなり渋られたそうだ。

 それでも押し通せたのは、宰相の権限だろうか。

 地下へ続く階段を降りながら、里琉はモニ大臣から説明を受ける。

「この地下金庫は、国の経済そのものを示します。ここを失えば国は生きていけません」

「……お金を作る場所とは別、と言う事ですね」

「その通り。ところでリル殿は、お金に興味は?」

「無いです。稼いで消費する為の手段であって、それ以上でもそれ以下でもないです」

 お金は使う為にある、と誰かが言っていたが、使う為のお金は自分で稼ぐしかない。だがその稼ぎ方を間違える人間は一定数存在する。間違えないように教えた兄達には感謝だ。

 すると彼は、一瞬だけ真顔になり、次いで笑顔を浮かべた。

「それならばよろしい! 興味があるとなれば、逆に心配になるところでしたからね!」

「心配? ……ああ、盗みとかそういう話ですか」

「宰相殿の頼みとはいえ、ワタシはアナタを知りませんからね。そしてお金の存在意義を理解しているならば、現時点で問題ないでしょう。では入りますよ。ああ、こちらは耳栓です」

 綿の塊を渡され、里琉は驚きつつ受け取る。それをしなければいけないのか、と思いながら耳栓をすると、重い石の扉が開かれ――その意味を理解した。


 じゃらららららら!!


 金属の音が、あちこちで響いている。石造りのせいか地下だからか反響して、耳栓をしてもうるさいと思うくらいだ。

「ここでは常に、集められたお金を計算し、予算に使用しています! 月に一度の集計日になると、今日以上のお金が集まるのですよ!」

 言われてみれば、この広い室内では、いくつかのテーブルで妙な装置がフル稼働している。

 上からお金を流し入れ、下の箱で仕分けられていく仕組みのようだ。

「ところでリル殿、アナタは計算ができますか?」

「こ、この国の計算は知らないです!」

「素直でよろしい! では、貨幣計算を今回はまずお教えしましょう!」

 奥の比較的静かな場所へと連れて行かれると、そこには無数の革袋や麻袋が集まっていた。どれも文字の書かれたタグを付けられている。

「まず、覚えるべきは三種類の硬貨です! こちらのルコ銅貨、スィア銀貨、フリス金貨の順に価値が上がります!」

 慣れた手つきで袋の口を開け、それぞれを示してみせるモニ大臣は、更に中身の量にも言及した。

「銅貨は一袋に、百枚入っています! 銅貨が百枚で銀貨一枚、銀貨が百枚で金貨が一枚の価値になるのですよ!」

(日本円と近いのかな。銅貨が最低金額とするなら、銅貨一枚が百円、銀貨一枚が一万円、金貨一枚が十万円、くらいの金銭感覚でいい、のかな?)

 ならば覚えやすいかもしれない、と里琉も少しばかり安堵する。

「しかし、価値の高い硬貨は、その分重みも増すものです! 銅貨の重さは銀貨の半分、金貨の重さは銅貨の三倍! ですので、入れる枚数をそれぞれ変えています!」

「……銅貨が百枚なら……銀貨は五十枚ですか?」

「よろしい、では金貨は?」

 三分の一ならば、半端な枚数になってしまうだろう。それにより近く、きりの良い数字となれば。

「……三十枚!」

「素晴らしい! そこまで分かれば、すぐに取り掛かれます!」

 なるほど、分かりやすく単純でなければ、誤差が出た時の計算が厄介になるからだろう。

「この袋の山を、空いた箱の中へ、同じ額になるよう調整して入れて下さい!」

 彼の指示にすぐ頷こうとした里琉だが、すぐにおかしな点に気付いた。

「…………お、同じ額!? 決まってないんですか!?」

「毎回同じ金額を徴収出来れば、我々も苦労はないんですよ! 現実は、人間が増減し、それに応じて収支も変動するものです! さあ、時間がないのできりきり動いて下さい! 箱の数はそこにあるだけですから、うまく計算出来ないと、仕事が増えるだけですよ!」

「は、はいぃっ!」

 何とも大変な仕事である。だが、持った感覚で大体の金額が分かる為、全ての中身を確認する必要がない。そこだけは助かった。

 箱は二十ほど、袋は恐らく百以上。そこから同額になるように計算しなくてはならない。となれば、まずは。

「でかい金額から、だな!」

 金貨の袋を探し出して、一つずつ放り込んでいく。それが終わったら銀貨、そして最後に銅貨で調整だ。

 お金の音が響き渡るこの室内で、ひたすら袋を箱に放り込みながら、あるいは入れ替えながら、何とかすべての袋を片付けた里琉は、モニ大臣に声を上げた。

「でっ、出来た、と思います!」

「ほう、中々の速さですね! では一度確認致しますので、アナタは見学なり休憩なりどうぞ!」

 そう指示をもらったので、遠慮なく壁の方に座る。見学はしたいが、腰が痛くて休まなければ話にならない。

 モニ大臣をその間に観察してみる事にした。

 片眼鏡をかけた彼は、手にした帳簿に何やら記入しながら、箱の中身を素早くチェックしていく。さすがにあれは紙を使ってるらしい。

 時折中身を確認し入れ替えを行っているので、やはり間違っていたようだ。

 しかしあっという間にそれが終わった彼は、目を輝かせて震えていた。

(……もしかして、私も石を見てる時、あんな感じなのかな)

 同類とまでは言わないが、近い空気を感じる。客観的な視点は大事だ。

 そして大臣は里琉の所にやってくるなり、がしっと手を掴んだ。

「大変すばらしい! どうです? 宰相殿の部下ではなく、ワタシの部下となりませんか!?」

「え」

 そんなに出来が良かったとは思えないのだが、初対面の時点とは大違いの対応だ。

「この量のお金に対し、アナタが仕分けにかけた時間はそう多くありませんでした。加えてミスも、片手で数える程度。即戦力として、雇いたい程です!」

「そ、それは、どうも……」

 運が良かっただけかもしれないので、あまり期待されると困る。それに、お金を数えてるだけの生活はさすがにちょっと遠慮したい。

「それから、アナタのお金の扱いは、とても清廉です! ワタシがこの世で一番好きな物は綺麗なお金、何よりも憎むのは汚れたお金です。アナタはワタシが生きて出会った人間の中でも、より美しいお金を生み出せる力を持っている! ワタシはそう確信しました!!」

 何だそれは、と里琉は呆気にとられる。そんな基準でべた褒めされた事もないが、正直されても反応に困る。

 しかし、不意に金属音が止んだ。代わりに響くのは鐘の音。

「あぁ、休憩時間ですね。では行きましょうか、お金の魅力について語れば、アナタもきっと魅了されますよ」

 さあさあと押されて大金庫を出て行くと、その入り口に立っていたのは、一人の女官。

「うふふ、ネオ大臣様からの遣いで参りました。あなたがリル様ですわね?」

「え、あ、はい」

「……ちっ」

(今、背後で舌打ちが聞こえた!)

 美しい女官は、里琉の手を取って言う。

「休憩がてら、私達の所へ参りましょうか。では、モニ大臣様。ごきげんよう」

「リル殿! アナタならば、次回も是非歓迎いたしますからね!」

「あ、ありがとうございます……よろしくお願いします……」

 ほら早く、と手を引かれて、里琉は女官と歩き出す。

 その先に待ち受ける災難を、彼女はまだ知らなかった。


※ ※ ※


 美味しい焼き菓子と香りのいいお茶で休憩した里琉は、その直後に連れて行かれた部屋から逃げ出したくなった。

「め、メーディア、さん?」

 いつもと違う気迫の彼女が待ち受けていて、更には奥の化粧台にいくつも乗っている化粧品。逃げたくなるのも当然である。

「ようこそ、リル。ふふ、ネオ大臣様と相談して、私達は一緒に教育する事になったのよ。よろしくね」

「何でも、マナー一つとっても、何も分からないそうじゃないか! それではいけない。女性が持つべきは、優雅さと気品と、そして柔らかく芯のある強さだ! 全てを一度にとは言わないが、基礎の基礎から学んでもらうよ!」

 ド派手、と言うに相応しい見た目の男性が、メーディアの隣に立っている。そして里琉の背後は、さっきまで和やかに談笑していたはずの、揃いも揃って美しい女官達だ。

 メーディアも美人なので、自分だけがみにくいアヒルの子のような気分になって、里琉は落ち着かない。

「さ、まずは基礎の基礎、化粧からいきましょうか。ネオ大臣様、講義をお願い致しますわ」

「張り切って参りますわよ!」

「磨き甲斐があるわー!」

「さっき話していた時も思ったけれど、化粧どころか服にさえ興味がないなんて! 勿体ないでしょう!」

 鏡台に座らされ、前髪を上げられ、化粧水で顔を拭かれる。ここ数日、色んな化粧水を試されているのだが、どれも特に問題はないようだった。

「まずは化粧水の説明からいこうか! この国では、化粧水は主にオアシスから採れる植物を採取した成分から作られている! 保湿に優れ、馴染みもいい為、普及しているものだ! もっとも、乱獲されては困るから、オアシスでの採取はどれも基本的に、許可証と採取報告書が必要になる!」

 オアシスあったんだ、と思ったが、今は喋れない。

 顔がさっぱりしたところで、次は小さな器の蓋が開けられた。中には薄い黄色のクリームが入っている。下地クリームにしては、少し匂いが甘く感じた。

「これはちょっと特別品なの。今日はちゃんとしたお化粧を知ってもらうために使うけれど、普段は必要ないわ」

「そうねえ、式典とか、結婚とか、後は大事な時に使うわ。これを付けると、お化粧が落ちにくくなるのよ!」

 涙や汗で落ちやすい化粧は、すぐ直せないと困る為、それが出来ない時の為に使われるのだろう。普段の化粧は落としやすさも兼ねているのか、そこまで耐久性が高くはないという。とはいえ、それでも他国のよりはよほどしっかり肌を守ってくれるようだが。

「それに関しては、少々手間がかかる品でね! 何しろ、とある虫が集めた蜜を配合している。その蜜の採取量も少なく、虫を扱える人間も少ない! 高級品、と考えてくれたまえ」

 そんな高級な代物を使うな、と内心で突っ込むが、もう遅い。既にそれは塗り終えられて、下地クリームが出ている。

 今度は見た事のあるクリームなので、これからが本番、と言うべきか。

「それも民間で普及している品だよ! この後のファンデーションが上手くいくかどうかは、ここにかかっている! 綺麗にむらなく塗る事で、どこから見ても綺麗な肌に見える、という影の努力が必要な部分さ!」

「もちろん、それも覚えてもらうわよ」

 メーディアはさっきから定規っぽいものを持って、里琉の体をあちこち測っている。何に必要なのだろうか。

 そして白粉のようなものが出てきて、大き目のパフで手早く顔に粉が叩かれていく。

 目を閉じててね、と言われたので、どうなっているか分からない。

「そのファンデーションは、他国、正確にはテアで作られるものだ! 少々技術的に難しい所があってね。その代わり、品質は保証出来る! テアでも同じものが手に入る程度にはね!」

 そういえば貿易してるんだっけ、と何となく思い出した。どんな国かは知らないが、化粧も共通しているのだろうか。

「テアの方々は、お化粧を娯楽としてとらえているのよね」

「そうそう。あちらの国は、陽射しがそこまで強くないから」

「それに、あちらは華やかな格好が多いから、自然と化粧も濃いめになるそうよ」

 今している化粧は濃くないのかとツッコミたい。元より今朝は化粧をしないよう前日に言われていたのだが、メーディアが教えてくれていたものは、もうこの時点で既にあらかた終わっていたくらいの時間で済むものだったはずだ。

「チークはどうしましょう?」

「血色は悪くないから、今日は止めておきましょ」

「じゃあ口紅に入るわね」

 地味な色でお願いします、と内心で言っておくが、まだ目を閉じているよう言われているので、色が分からない。目元にも何か施されているようだ。

「口紅、アイラインも同じくテアで作られている! こちらは色も数種類あるが、似合うかどうかは個人差だ! ……だが、うん、君は使っても全く問題ないようだね!」

「ふふ、目を閉じていても美人さんになってるわよ」

「じゃあ、最後に仕上げをして、と」

 顔全体にさっと何かが触れた。それに関しては何も言われなかった為、ようやく目を開けていい、と言われて瞼を上げると。


「――――」


 里琉は絶句した。鏡の中の自分が、見た事もない美人になっている。

「あなた、二重でしょう? 目は元々ぱっちりしているから、そんなにくっきり使う必要が無かったのよ」

「思った通り、化粧ノリがとてもいいわ! すいすい出来て、何だか感動!」

「口紅も、元が赤いからピンクで中和してみたの。可愛いわぁ」

 女官達がべた褒めするのは、何となく分かってしまった。

(まるで別人だ)

 梓が言っていたように、里琉は化粧で顔が変わるタイプなのだろう。

 ただ、これを見てから素顔を見た人は、きっと幻滅するのだろうな、とも思った。

「何を暗くなっているの。……ちゃんと見なさい。これが女性の「化粧」よ」

「……私には、ここまで出来ません」

 メーディアの言葉に、そう小さく返す。するとネオ大臣があっさりそれを肯定した。

「当然だろう? 彼女達は美のプロだ! きみが出来るのはせいぜい、日常に適した化粧であって、こういうものではない。だけどね、リル殿。きみは覚えておきたまえ」

 少し苦笑交じりに、ネオ大臣は告げる。


「この化粧は、女性の為だけのものだ。これを施されたきみは、立派な成人女性であるという、その事実をね!」


 冠婚葬祭に必要と言われたその化粧を、里琉は拒んで生きて来た。女性である事を強いながら、女性扱いをしない周囲に嫌気が差して。

 だから、こんな遠い遠い場所まで来て、今更、女性であるのだと言われるのを、すぐに受け入れられるはずもなかった。突きつけられた現実と、これまでの現実が一致しない違和感に、里琉は困惑を抱く。

「もう、せっかく整えたのに、泣きそうな顔をしないの!」

「ねえねえ大臣様、せっかくですから、もう少し飾れませんか?」

「この子の短い髪も、手入れしてあげたいですわ」

「そうよねえ。傷んでるわよ、毛先」

「ちょっとだけ切って、それから香油も塗っちゃいましょ」

 言いながら既に手をかけ始めている女官達を、ネオ大臣も女官長も止めない。

 だが、そういえば、とネオ大臣が問いかけて来た。

「きみは何故、そんなに髪を短くしているんだい? この国では女性なら長く伸ばし、そして美しく結い上げて自分を飾る道具の一つにもしている。……何か理由があるのかい?」

 彼にとって、それはただの疑問であり、不可思議な事象なのだろう。

 里琉も最初から髪が短かったわけではない。それこそ、兄が言っていたように昔は伸ばしていた。

 黒く長く真っ直ぐな髪を、母も嬉しそうに手入れしてくれたものだ。

「……子供の頃は、長かったんです。でも……」

 メーディアはともかく、他の者は里琉の素性を知らない。

 だからこそ、何と言っていいか分からなかった。


 ――里琉の母親は、可愛くすることや可愛いものが好きで、よく里琉の髪もそうして可愛くしてくれていた。その時はまだ、里琉も可愛くされる事に抵抗は無かった。

 細かく編まれ、結われた髪。石好きな里琉の為に、探す時に邪魔にならないようにサイドを後ろに持っていき、引っかからないようにと気を遣ってくれた、それを。


 ――ある日唐突に、一人の男子が、切った。


 じゃきん、という音。それは感触と共に痛みを何故か伴った。

 床に落ちた髪束を見て、里琉は本当に何が起こったのか分からなかった。だが、愕然とする里琉に対し、その男子は言ったのだ。

『ざまーみろっ! お前の兄ちゃんが悪いんだからなっ!』

『お兄ちゃん……? なんで?』

『お前のこと、カラスって呼んだら殴ってきたんだよ! 見ろよこれ! お前の兄ちゃんがつけたんだぞ!』

 切った男子の額には、確かに痣があった。だがそれは、里琉から見たら大した事もなく、それ以前に、どうしてそれが理由で髪を切られたのか分からない。

『だから、お前に仕返ししてやったんだよ! 殴らなかったからいいだろ!』

 次兄が聞いていたら、法廷に持ち込みそうな事案だったかもしれない。だが、里琉はそれを聞いて――男子に自分から殴りかかった。

『がっ!?』

 拳が痛くて、相手の鼻の辺りも真っ赤になって血が流れ、そこを押さえた男子が怒鳴る。

『何しやがんだよ!』

『やられたら、やり返していいんだろ!? お兄ちゃんに仕返し出来ないのに、どうして私なら仕返し出来るんだよ!』

 殴られるとは思ってなかったらしい男子は、だが吐き捨てるように言い切った。


『んなの、お前が――――女だからだろ!!』


 暴力は良くない。分かっている。だけど幼い少女だった里琉に、他に選択肢はなかった。

 女だから。それだけの理由で、こんな目に遭うくらいなら。

『ぎゃっ!!』

 もう一度、相手の顔を殴る。今度は、額を。

『女でも、殴れるんだよ』

 周囲の悲鳴が聞こえた気がした。教師が飛んできて里琉を止めるまで、里琉は相手の男子を殴り続けた。

 結局あの件はどちらも悪い、という事で片付けられたが、里琉に納得など出来ようはずも無かった。

『……本当に、いいの?』

『いいの。……短い方が、動きやすいから』

 いつも通っていた理容室のおばさんは、きっと他の子供から事件の話を聞いていたのだろう。最後まで何度も心配していた。

『あのガキっ!! 次会ったら許さねえっ!!』

『駄目だよ、聡兄さん。そもそも兄さんがそいつを殴らなかったら、里琉は髪を切られなかったんだ』

『……里琉。あんなに綺麗な長い髪だったのに……こんな、男の子みたいな短さになって……!』

 母親は泣いた。兄達は怒りながらも、あの時点で里琉の将来を案じていたのかもしれない。

 男子を殴った手は、当然だが傷を負った。そして、当時の里琉自身は気付かなかったままに、その心にも、恐らくは。

『女らしいから……だめなんだ』

 兄を悪いとは思わなかった。ただ、自分が女だという理由で攻撃された事だけが、どうしても嫌だったから。

 そしてその時を境に、里琉は男子の喧嘩を買うようになった。傷を負う事も負わされる事も、躊躇わなくなったのだ。


 そんな過去を話すわけにもいかず、里琉は少し悩んでから短く答える。

「……ある日、いきなり他人に切られて。……もう切られたくないから、短くしました」

「何だって!? とんでもない事をしたものだ! 女性の髪を突然切るなんて、尊厳を踏みにじるに等しい!」

「……その顔を見れば、相当に酷い記憶だったのは分かるわ。思い出させて、ごめんなさい。リル」

 メーディアが申し訳なさそうに謝るが、彼らは何も悪くない。

 そして他の女官も、そんな里琉を見たからか、ぎゅっと肩を掴んで言った。

「よーし、張り切るわよ!」

「ええ、短い髪でも、女性らしさは出せるもの!」

「この王宮に居る限り、髪は伸ばしていいのよ! 誰にも切らせやしないんだからね!」

 今更伸ばそうとは思わないが、彼女たちなりに励ましてくれているのは分かる。だから、里琉も曖昧に苦笑するだけに留めた。

「ああ、ほどほどにしてくれたまえ。次はカラム大臣がお相手だ。きっと飾りなど関係なく、農作業をさせられるだろうからね!」

「の、農作業!?」

 次の予定を告げられ、里琉はぎょっとした。まさか外に出る羽目になるとは。

「ほら、言ったでしょう。いつ外に出るか分からないのだから、化粧は必要よ、って」

「そう、ですね……。化粧が必要なのは、分かりました……」

 嫌でもやるしかない。そう思って、里琉は渋々ながら受け入れる事にする。

 その間に髪に何かを塗られて、梳かされている。独特な匂いのそれは、花に近かった。

「ああ、ついでにその油も、オアシスに咲く花から抽出した香料と、その種から抽出した油で作っている! 髪にはとてもいいが、虫が寄る事もあるので注意だ!」

「これから農作業する人に追い討ちですか!?」

「おっと、これはすまない! だが、虫とは必ずしもその意味を指さないよ。……これから、きみを狙う悪い虫が出る事もある。気を付けたまえ」

「……?」

 どういう意味だろう、と思っていると、最後に髪にキラキラした何かまでつけられた。もう好きにしてくれ、と里琉も諦めている。

「髪飾りも着けたかったわぁ」

「それなら首飾りだって!」

「耳飾りだけは、特別だものね」

 そういえば、と首を傾げて里琉は記憶を掘り起こす。

「耳飾りって、既婚者の証でしたっけ?」

「正確には少し違うわ。既婚者もそうだけど、婚約者、あるいは恋人の存在を示すの。この王宮でも何人か見かけたでしょう?」

「なるべく隠しちゃ駄目なのよ。居る事を示す為のものだから」

「でも、一時期、襲われたくないって理由で流行ったのよねえ」

「そうそう、結婚どころか、恋人も居ない女性が着けるのが流行しちゃって」

 それは大混乱になったという。当然だろう。そして原則禁止が出されたところまでがオチなのだから、何とも悲しい結果だ。

「結局、嘘は駄目よ、って事ね」

「あなたも、恋人から耳飾りを贈られる事があったら、きちんと着けてあげてね。それが何よりの、愛の証なのだから」

 何ともロマンチックな言葉で、この授業は終わった。


 ――そして、農園に向かう途中。


「あ、すいません。ちょっと道を訊きたいんですけど」

 何気なく声を掛けると、文官らしき青年が驚いて里琉を見た。

「ぼ、ぼ、僕、ですか?」

「はい。農園へ行く道を教えてもらえませんか?」

「の、農園ですか? あっ、はいっ、ええと、じゃあ案内します!」

「本当ですか? 助かります!」

 赤くなっているが、今日はそんなに外が暑いのだろうか。熱射病には注意して欲しいものだ。

 歩いている途中、青年と話をする。

「そ、そうですか。リルさんは宰相様の……部下、になる教育を、受けて、おられるんです、ね」

「まあ、そんなところですね」

「す、す、すごい、です。ぼ、僕なんて、全然仕事も、遅くて、怒られて、ばかりで」

「まだ新人さんなんですか? 大丈夫ですよ。私なんてここに来て数日なんです。もう既に色々怒られてますから、お互い頑張りましょう」

 当たり障りのない話をしたところで、農園の入り口に到着した。

「ここ、です。あの……また、お話し、させてください」

「……はい。いいですよ。ありがとうございました」

 珍しいな、と思いつつ、別に人脈が広がる分にはいいか、と特に気にも留めず、里琉は頭を下げて農園の入り口をくぐったのであった。


※ ※ ※


 厳しい日差しが降り注ぐ中、里琉に任されたのは謎の植物の収穫だった。

 どう見ても二枚貝、それもホタテによく似ているそれは、半ば口を開いて、その中身をちらりと見せている。

「というわけで、これがワートマール、という植物ですな。この国では一般的な野菜ですぞ」

「や、野菜、ですか……」

 どうやら中身は真珠でも貝柱でもなく、緑の丸いマリモに似た何かであるのが分かった。

「本日はこれの収穫を手伝ってもらおうと思いましてな。農業の基本は、体で覚える。慣れれば楽しいものですぞ」

「分かりました。頑張ります」

 麦わら帽子、手袋、背負い籠、の三点セットを背負わされた里琉は、服の裾が邪魔だな、と思い、上げて結ぼうとする。

 それを見たカラム大臣が、ぎょっとして必死で止めに入った。

「何という事をなさってるのですかな!?」

「え? 服が汚れるから……」

「……何と。この国の人間ではない事を、失念しておりました。いいですかな、リル殿。いついかなる時も、素足をお見せしてはなりませんぞ。素足を見せていいのは、伴侶と決めた者にだけです。それが、この国の習わしですからな」

 思いのほか真剣に諭され、里琉は気迫に圧されて頷いた。

 気を取り直して、とワートマールなる二枚貝の収穫が始まる。

「このように下の方を持ち、上に軽く引き上げる事で剥がれますぞ」

「どうして中身だけ取らないんですか?」

「中身は柔らかく、すぐに傷みやすいのです。では、やってみて下され」

 言われた通りに貝の下を持ち、えいや、と引き上げると。


 ――べき。


「あ」

 掴んだ部分だけが折れてしまった。

「角度が悪かったようですな。斜めではなく、垂直にですぞ。もう一度やってみて下され」

 今度こそ、と割れてない部分を持ち、垂直を意識して持ち上げると、軽くぺりっとした音と共に、貝は離れた。

「出来ました!」

「うむうむ、上出来ですな。では、この一列を頼みますぞ。儂は隣を収穫しておりますでの」

 言われて、里琉は頷くと本格的に作業に入った。ぺりぺりと剥がれていく貝を背負い籠に放り投げるのは楽しい。が、衝撃で中の物が潰れたりしないのかと思い、時折確認する。

 どうやら貝の硬さで守られているようで、特に問題は無さそうだった。

 しかし広い。帽子のお陰で陽射しからは大分守られているが、それでもすぐへばりそうだ。

「こんなの毎日やってるとか、農業って大変だな……」

 厚めの化粧でなければ、既に汗で流れ落ちていた気がする。彼女達には感謝した方がいいだろう。

 黙々と作業していると、一列分がいつの間にか終わっていた。

「おや、想定より早めでしたな」

「カラム大臣、早いですね……」

 里琉の倍の速さで終わってた気がする。さすがはプロだ。

「ほっほっほ、慣れればこのような作業はすぐ終わるようになりますぞ。では、少し休憩といたしますかな」

 それは助かる、と里琉は案内された休憩所の椅子に座った。四阿のようなそれは、屋根がある分少し涼しい。

 置かれた水を遠慮なく頂くと、少し甘く感じた。

「助かります」

「水分補給は大事ですからな。……して、リル殿はこの国の農業はさっぱりなようですが」

「は、はい。オアシスに色んな植物が生えている事くらいしか……」

「ふうむ、では今回収穫したワートマールについて、説明いたしましょう」

 そう言って、カラム大臣は最初に里琉が失敗したワートマールを出す。

 それを開くと、マリモに見えたそれはごくごく小さなキャベツに似た造りをしていた。

「これはこのままでは食べられませんぞ。水でふやかし、細かく刻んだものを濃く味付けして、ようやく食べられる程に苦いのでしてな」

「苦いのに食べるんですか?」

「これを煎じたものを飲むと、みるみる回復していくのですぞ。ですから、日常でも積極的に取り入れて調理するのですが……まあ、苦味のせいで味が濃くなりますのでな、あまり好まれませんな」

 言われてみれば、何度か食事でやたら濃い味のものがあった気がする。この国の特色かと思ったが、違ったらしい。

「育てやすいんですか、もしかして」

「おお、その通りですぞ! この中身を取った後、殻を砕いて地中に埋めるのです。すると十日ほどでこの殻が再度形成され、地中から出て来るのですぞ」

(うーん、想像するとホラー!)

 とは言えなかったが、つまるところ、この貝殻自体が種や球根の扱いなのだろう。繰り返し作れるなら、それに越したことはあるまい。

 短い休憩の後、もう一列を収穫した辺りで鐘の音が響いた。どうやらお昼らしい。

「うむ、よい働きでしたな! ではせっかくですから、厨房に運ぶのを手伝って下され」

「はい!」

 大きな籠一杯のそれを背負い、里琉はカラム大臣について歩く。

 程なくして大きな扉があり、その中に入ると途端にいい匂いが漂ってきた。

 忙しそうな女官達と、料理を作る者達が入り乱れている。

「ちょうどお昼時ですからなぁ、これを料理長に届けますぞ」

「は、はい」

 お腹空いたな、と思いながらも先に仕事だ。カラム大臣が料理長らしき男に声をかける。

「ご苦労様ですぞ! 本日の収穫分を届けに参りました!」

「大臣様! いつもありがとうございます! ……おや? そちらの女性は?」

「ふっふっふ、今日はただの手伝い人ですぞ。ですが、よい娘でしてな。リル殿、挨拶をしておくといいですぞ」

「里琉です。よろしくお願いします。あ、こっちも収穫してます」

「これはご丁寧に。料理長を務めております。バークと申します。以後、お見知りおきを」

 忙しいだろうに相手をしてくれるバークは、収穫されたそれを見て苦笑する。

「ワートマールですか。量と栄養はいいんですが、味がどうしても難しいですね」

「濃い味でも苦いですからなあ」

 ピーマンやゴーヤと同じようには出来ないのだろうか、と里琉は首を傾げて尋ねてみた。

「塩揉みとかしないんですか?」

「何故そう思うのです?」

「ちょっと苦い野菜とかって、そうやって苦味を抜くんだって母親に教わったんです」

「……塩水は無かったですな」

「水で戻してから使ってましたからね……」

 それなら最初から塩水に浸ければいいのでは、と首を傾げた里琉の言葉に、料理長が頷いた。

「やるだけやってみましょうか。どうせ味付けも濃くなるものです。上手くいけば調味料の無駄遣いも減らせますし」

「そうですなあ。結果は後程、教えて下さると嬉しいですぞ」

 さてお昼、となった時、背後からよく知った声がした。

「おおい、昼飯くれー」

「あれ!? ガルジスさん!?」

 何でここに、と思って振り向いた里琉に対し、ガルジスは一瞬ぎょっとした顔を向けた。

「……お、お前、リルか?」

「ちょっと失礼過ぎない!? え、もしかして化粧崩れてたりする!?」

「いや、全然…………」

 嘘だろ、と呟くのも残念ながら聞こえている。しかしあの農作業で崩れないという化粧の方が、里琉には若干怖かった。

「あの高級クリームやばい……」

「いやはや、このような美人とは儂も驚きましたがな。聞くとネオ大臣殿の部下によるものだとか」

「それ抜きにしたって、変わり過ぎだろお前! 大丈夫だったのか!?」

「大丈夫って何が?」

「……駄目だこいつ、分かってない……」

「団長殿、良ければ彼女と昼食をお願い出来ませんかな? 少々、儂も心配しておりまして。……彼女はこの国の風習を知らなさ過ぎるようですからな」

 カラム大臣が心配してるとは、さすがに里琉も驚いた。スカートを上げたのがそんなにショックだったのだろうか。

「え、しかし……俺は」

「宰相殿に教育を任された身としては、教育中に何かある事など、それこそあってはならない事ですからな。儂がついていたいのは山々ですが、それでは勘繰る者も出て来るでしょう。団長殿ならば案内などもしておられたようですし、保護者としてここは一つ」

「……あー、分かりました。リル、お前も昼飯一緒に食うか?」

「え? じゃあそうする」

 特に考えなかったが、その時、料理長がお盆に二人分の料理を乗せてやってきた。

「お待たせしました、どうぞ」

「ああ、悪いがこいつの分も頼むわ」

「では、少々お待ちを」

 が、里琉はそのやり取りに眉を寄せる。

「待った。ガルジスさん、誰かと一緒に食べるんじゃない?」

「その通りだ。……が、まあ、お前なら何とかなるかと思ってな」

「駄目だよ。それなら私一人でもいいよ」

 彼の友人関係を邪魔するつもりなど無い。元より、一人で食事を摂る事くらいは慣れているのだ。

「大臣の頼みだし、今のお前を放っとくと危ない虫がつきそうだからな」

 確かに髪に塗られた香油だかで虫が寄る話はされたが、彼がそんな繊細な心配をするとは意外である。

 と、去りかけたカラム大臣が一旦戻ってきて告げた。

「そうそう、言い忘れておりましたが、午後は離宮へお願いしますぞ」

「え!? あ、分かりました!」

 今度こそ遠ざかる背中を見てると、料理長が盆を差し出した。

「リル様、どうぞ。収穫お疲れ様でした。こちらはサービスですから」

「え、あっ、ありがとうございます!」

 小鉢に入った赤い果実を示したそれに、ひゅうっとガルジスは口笛を吹く。

「いいもんもらいやがって。役得だな」

「そうなの? 美味しそう。冷めないうちに行かなきゃね」

 でも、と里琉は内心で付け足す。

(ガルジスの友人さんが嫌がるなら、私は一人で食べようっと。……知らない人との食事とか、嫌々するものじゃないし)

 この三日も、特に誰かと食べていたわけではない。食堂を利用したりもしたが、少し奇異な目で見られただけで、誰も近寄らなかった。

 もっとも、今の里琉が食堂に行けば、その逆の光景が見られたであろうことは、彼女以外の誰もが想像していたのだが。


※ ※ ※


 お人好しというのは、面倒ごとを押し付けるいいカモなのだろう。とイシュトは思っている。

 現に騎士団長であるガルジスは、見た事のある、だが別人のような化粧を施された人物を伴ってやってきた。

 が、自分を見た途端、里琉と名乗った記憶がある彼女は、慌てて言った。

「ちょ、ちょっと、ガルジスさん! この人なの!?」

「何か不満なのか?」

「違うよ! この人、恋人居るんじゃないの!?」

「は?」

 何を勘違いしているのか、とイシュトもさすがに呆気にとられた。

「だってあのブローチを贈った人って、この人の恋人じゃないの!? いいよ、私一人でその辺の部屋に入るよ!」

「いやいやいや待て待て待てって」

 女の思考回路はやはりよく分からない。だが、面倒だからどっちでもいい、とイシュトは思っていた。

「近くならいいだろ! カラム大臣のお願いって言っても、無理する事ないんだよ?」

「……この近辺なら、部屋は埋まってた気がするがな」

 一応補足ついでに言うと、里琉は一瞬固まった。

「え、ええ……じゃあ適当に探します……」

「いいから入れっての! 騒いでる方が問題だ!」

「お前は一体、何がそんなに気に入らないんだ」

 さすがに気になって問うと、彼女は嫌そうに答えた。

「いくらガルジスさんが一緒でも、あなたの恋人とかにこの状況を見られて、誤解されたくないんです。何か面倒じゃないですか、そういうの」

「……俺は頭痛がしてきたんだが、お前の中での盛大な勘違いをどう正していいのか分からん」

「いいからさっさと入れ。冷める」

「じゃ、そういうことで」

「お前もだ。先に訂正するなら、俺にそんな相手はいない」

「……え、居ないんですか」

 放っておくと一人で暴走しそうな気配がしたので、イシュトも里琉を中に招く事にした。

 最初の訂正で里琉は驚くが、ややして首を傾げる。

「居そうな気がしたのに」

「……一応訊くが、お前の基準で俺のような見た目の奴を好くのか?」

「いや、私、他人にそこまで興味無いんで、考えた事ないです」

「興味が無いのに気は遣うのか。おかしな奴だな」

「それとこれとは別ですから。……まあ、居ないなら一応、安心ですが」

 しぶしぶとイシュトの対面に座る里琉は、大人しく食事を始めた。

「むぐっ、……か、辛い……」

「あー、今日はハールの葉が使われてんなー」

 口元を押さえる彼女の顔は赤い。辛い物が苦手なのだろう。

「うう……何で時々、激辛のものが混ざってるの……」

「香辛料は保存にも使われるからだ。それと辛いもの、味が濃い料理には大抵……あれも入っている」

 イシュトは辛いものは平気だが、その中に混ざっているワートマールは嫌いである。

「……残さないで下さいよ」

 好き嫌いを知られているガルジスに釘を刺され、仕方なくイシュトは口に運ぶ。ただし咀嚼はほぼせず、飲み込むだけだ。良くないと分かっていても、口に残したくない。

「あっ、もしかして……この苦いやつ……ワートマール?」

「お、知ってたのか」

「さっきカラム大臣と収穫したよ」

 つまり夕飯にも出て来るらしい。栄養価より、味をどうにかして欲しいものだ。

「……え、まさか、ワートマール嫌いなんですか」

「悪いか」

「す、好き嫌いは、よくない……です。……ううっ、辛い……」

「説得力の欠片もないな」

 とはいえ、彼女は辛いと言いながらも食べている。

「いや、お前無理するなよ? 泣きそうじゃないか」

「だって、出された物はちゃんと食べるようにしつけられてるもん……」

「……だ、そうなので、見習って下さい」

「一応食べているだろうが」

「飲み込んでるのバレてますからね。消化に悪いですよ」

 ガルジスは本当に好き嫌いが無いタイプだ。そういう意味では羨ましい。

「……ふふ」

 小さく里琉が笑う。それは嘲笑の類ではなく、どこか懐かしむような響きを持っていた。

「どうした?」

「いや……小さい頃、兄さん達とそんな会話したなぁって……。私も昔、苦手だったものがあって、あんまり噛まずに飲み込んでたら、カズ兄にバレて、『ちゃんと噛まないと駄目だぞ』って怒られて……サト兄には『苦手も克服出来ないお子様』ってからかわれたし……。アズ兄はそんなやり取り聞きながら、自分の苦手なやつをちゃっかり、サト兄の皿に入れて、それがバレて今度はそっちが怒られて……あは、何か、懐かしい」

 別の意味で泣きそうな彼女を、ガルジスが痛々しそうに見ている。彼は彼女の事情を知っているのだろう。

「あんまり今は思い出すな。泣くと大変だぞ」

「ん……大丈夫。今は、それどころじゃないからね」

「そういえば、お前は宰相の部下だと聞いたが」

「陛下、それは……あ」

 しまった、とガルジスが口を覆うが、今更である。

 里琉も肩をすくめて言った。

「ごめん、気付いていたけど黙ってた。ていうか、情報から総合判断してた」

「頼む! 絶対に他言しないでくれ! 特に宰相と大臣には!」

 手を合わせて頭を下げる騎士団長、というのは中々見ない光景だが、里琉はそれに対して眉を寄せていた。心外なのだろうか。

「他言したかったら、既に憶測でも言ってたよ。事情も一応聞いてるし、一々教えたって無駄なんだろ。……で、何で戻らないんですっけ?」

 興味無さそうに訊かれても困るのだが、一応、宰相の部下というのなら、ある程度の必要条件は教えておくべきだろう。

 そう判断したイシュトは、端的に告げた。

「俺が職務を放棄した理由は、真実があるからだ。その真実に自力で辿り着ける奴が出たら戻る」

「……まあ、そういう事だ。だからこそ、今は探されていない。とはいえただ見つかっても面倒だから、こうしてあちこち隠れ部屋を転々としてるんだけどな」

 ふむ、と里琉は頷く。そして次にはあっさりと言い切った。

「つまり、今の宰相や大臣が信用出来ないから戻りたくないんですね。信じてもらえなかったからですか?」

「……俺がした事が正しいかどうかの証明は、なされていないからな」

 話しながら気合で辛い料理を真っ先に食べきった里琉は、残りの料理に手をつけてイシュトの言葉に返す。

「真実は証拠で示せ、って事ですね。他人事で悪いんですけど、多分無理だと思いますよ」

「……まあ、俺達もそう思ってるからなぁ」

「辛すぎたせいで味が分からない……」

「話を混ぜるな。……興味が無いなら、早めにこの国を出る事だな」

「出たかったんですけど、宰相さんに脅されたので仕方なく居るんですよ。正直あれはむかついたんで、どのみち王様の居場所は、意地でも教えません」

 ガルジス達の命を盾にされたらしいので、そこを怒っているのだろう。里琉も恩義を彼らに抱いているのなら、心配はさほどあるまい。

「あっ、そういえば王様の名前知らないままですけど、王様でいいですか?」

「……こちらだけが名前を知っているのは、さすがに公平ではないな。イシュトーラだ。好きに呼べ」

「近しい人間は、イシュト、と縮めてるんだ。俺は陛下で通しているがな」

「うーん……じゃあイシュトさん、で。今は王様を放棄してますし」

 本人にそのつもりはないのだろうが、言い方が辛辣だ。その通りだとはいえ、微妙に後ろめたさを感じさせる。

「で、俺はお前をリルと呼べばいいのか?」

「別に呼びたくなければ、お前でもいいですよ。私の見た目のせいか、名前をあまり呼びたがらない人が多いので」

「いや、今のお前は絶対に女だって分かるからな」

「知ってる。カラム大臣にもスカートの裾上げて怒られた」

 それを聞いて、馬鹿か、とイシュトは呆れた。何をどうしたらそんな蛮行が出来るのか。

「そりゃ怒るわ! 何だってそんな真似したんだ!?」

「農作業に邪魔だから結ぼうとしただけなのに。心外にも程がある」

「説明は受けただろうが、男の前で素足を見せるな。カラム大臣だから諫められたんだろうが、他の男の前でやったら、誘っている事になるぞ」

「そんな事で襲われたら、相手の正気を疑います」

「まずお前の正気が疑われるわ! はー……無知って怖いな」

 そういえば、とイシュトは怪訝になった。彼女はどう見てもこの国の人間の外見だというのに、何も知らなさ過ぎる。

「お前、どこから来たんだ?」

「あ、この世界の外から来ました」

 近所から来たような言い方をされたが、そんな事を簡単に信じていたら、王族などやっていけない。

「冗談ならそれらしく言え」

「信じなくてもいいですよ。その辺は私の事情ですから」

「お前はほいほいと話し過ぎだ! 宰相にも話したって聞いたぞ!」

「だって、言ったら部下にするの止めると思ったんだもん。……無駄だったけど」

 宰相は信じた、という事は、信じるに足る証拠を彼女は持っている、ということか。だがそれを、イシュトに見せるつもりは無いらしい。

「……俺が信じなくてもいいのか?」

「本来、関係ない人に話す内容じゃないですし、これ以上他言するなって怒られたので」

「当たり前だ! ただでさえお前、色々と大変だったってのに!」

「まあねー。砂漠のど真ん中に放り出されるわ、辿り着いた村は火事寸前だわで、散々だったよね」

 何がどうしてそうなった、とイシュトは混乱した。政治から離れているだけに、彼女がここにきた経緯が、全く分からない。

「……村が火事寸前?」

「あー、いえ、それに関しては政務なので……今は聞かない方が良いかと」

 なるほど、とイシュトは納得した。そこで彼女が保護されたのなら、宰相が目を付けてもおかしくない。

 とはいえ、それでも不可解さは残る。

「それだけで部下にするような奴じゃないだろう。……お前、まさか宰相命令で俺を探せと言われてないか?」

「面白い事を訊きますね。探されたら出て来るんですか?」

「出ない」

「でしょうね。取引をしたんですよ。私が元の世界に戻る為の手がかりとなる情報を持ってるかもしれないから、部下になれたら教えてくれる、って向こうが持ち出したんです。もし私が男だったら、王様の身代わりとかさせられてたかもしれませんね」

 確かに言われてみれば、背格好はほぼ近い。この半年で王の風貌など忘れた者達にとっては、王の格好をさせたところで分からないだろう。

「なので、こればっかりは女で良かったと思ってます。まあ、私の見た目がもっと女性的だったら、王様を篭絡してこい、とか言われたかもしれませんけど」

 続けられた中身は、だが今の化粧を見ている限りではあながち外れとも言えなかった。

 その化粧でもっと露出の高い格好をさせられて放り出されたら、逆にイシュトでもやりようはあったのだが。

「化粧すら嫌がってた奴が何言ってんだ。どうせ言われても猛反対しただろ」

「当然。眼鏡の新調して出直して来いって言ったと思う」

「…………」

 あの宰相を相手に物怖じしないのは、逆に褒めるべきかもしれない。そうでなければ、部下としての教育など受けられなかっただろう。

「まあ……こういう奴なんで、問題ないと思いますよ」

「あ、これ美味しい。ガルジスさんも食べる?」

「ん? いいのか? お前貰ったやつだろ」

「丁度三つあるし、みんなで分けよう。珍しいって言ってたなら、王様もあまり食べないんじゃない? どうぞ」

 差し出されたのは、フラウの実だ。

 赤い小さな実は、酸味と甘味のバランスがいい。甘いものが苦手なイシュトでも食べられる、数少ない果実だ。だが、何故これを彼女が、と思っていると、ガルジスがそれを食べながら言う。

「それ、料理長が寄越したんですよ。何やったんだお前」

「あれじゃない? ワートマールの苦味抜きの提案」

「は?」

 さっきは言ってなかったが、どういう事だろうか。

 里琉が首を傾げながらその説明をする。

「水でもどしてから使ってたのを、もどす時に塩水にしたら、って言ったんだよね。結果がどうなるかは分かんないけど、上手くいったら料理長も他の人も嬉しいんじゃないかな」

 そんなものでどうにかなる気がしないが、不味いよりはいいだろう。失敗した所で、彼女が悪いわけではない。

 むしろ苦くさえなければ、イシュトとしては大歓迎だ。

 宣言通り全て食べ終えた里琉は、ごちそうさまでした、と手を合わせる。

「じゃ、そろそろ私は行くよ」

「待て待て、送るからちょっと待て」

 立ち上がる里琉を、ガルジスが慌てて止める。

「別にいいよ。離宮への道くらい、誰かに訊くし」

 離宮、と聞いてイシュトは怪訝になった。あんな所に、何の用があるのか。

「何しに行くつもりだ」

「エクスさんとフィリアさんの教育です。薬草学メインで色々と教わる事になってます」

「あいつらか……。よく引き受けたな」

 彼らは、イシュトの母親、つまり前王妃でなければ従うつもりはない、と言い切って、その唯一の主が遺した最後の命でこの王宮に居残っているそうだ。

 そんな彼らが、宰相の命令に従うとは。

「あいつらも事情を知ってる一部です。特にフィリアなんかは、こいつを気に入ってるんですよ。話が通じる相手が出来た、って喜んでましたし」

「こっちも話が分かる人が居るのは嬉しいよ。機械に関する理解者が居て、すごく説明が助かったもん」

「だよなあ。フィリアが居なかったら、お前、説明どころか信じてもらえたかも怪しいもんな」

 今ので、彼女が何故、詳細な説明をイシュトにしなかったのかは分かった。

 イシュトはこの国の王であり、そして同時に、リカラズと同等の発展をしていない国そのものだ。理解出来ないものを説明する気はない、ということだったのだろう。

「それじゃ、お邪魔しました。色々誤解しちゃってごめんなさい」

「……別にいい」

 ぺこりと頭を下げて、里琉は先に出て行く。

 重ねた盆に器を乗せたガルジスも、急いで一礼して出て行った。

「では、また。失礼します」

 静かになった部屋の中、イシュトはふっとため息を吐く。

「ガルジス、メーディア、ユジーに大臣達、そして……フィリアとエクスか。…………条件だけなら、あれが最も有利だろうな」

 まさかとは思うが、それが宰相の目的だろうか。だとしたら彼女は、知らずに手駒になっているに違いない。

 とはいえ、彼女は興味を欠片も示さなかった。ならば、自分は黙するだけである。

 だが、果たして真実に辿り着いた時。

 彼女は何を思うだろうか。そして、何をするのだろうか。

 それだけは、ほんの少し見たいと思ってしまうのだった。

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