3話:見えない小石
馬車ならぬ鳥車という乗り物から降りた里琉は、少しふらついていた。
「大丈夫か?」
「ちょっと……酔いそうだった」
「気性の荒い生き物だからな、マックウェルトは」
巨大鶏、と呼ぶにふさわしいその生き物は、コケコケと鳴いている。卵も産むらしいし、食肉にもなるし羽根も色々と使われているらしい。
が、鶏のような生き物が走るとなると、当然のように配慮など存在しない。急いでいるせいもあったのか、それなりに揺れる鳥車の中でぐったりしていた里琉は、だがすぐに外に出た。休むのは後でも出来る。
「とりあえず行くぞ。向かうは離宮だ」
「離宮?」
「そこの一番でかい門から入ると中央宮、右手側にあるのが離宮、んでもってちょっと離れたそっちの左手側にあるのが後宮だ。閉鎖されて久しいけどな」
「ふーん」
色々と説明を受けたものの、どうせ行かないなら覚えなくてもいいかな、と里琉はガルジスについて歩く。荒唐無稽とも思える話やろくでもない事実をとりあえずでも否定しなかった彼の懐の深さを、里琉はすっかり信用していた。
「正直、離宮もあんまり行かせたくはないんだがなあ。中央宮だともっとろくでもないのがゴロゴロ居るから、お前には危険過ぎてな」
「……もっとこう、優雅なイメージがあったんだけど」
「平民はそのくらいの想像でいいんだが、現実を知ると幻滅するぞ。ま、暮らしは悪くない方だから、そこは安心してくれ」
「お風呂入りたいって時は?」
「それもこれから会う奴に頼む」
あの村には風呂という場所が見当たらなかったので、とても助かる。それにしても、大きく広い建物だ。外から見ているだけで圧倒される。
ガルジスの後をてくてくついて歩いていると、不意に彼が立ち止まった。
「ぶ」
「……しっ」
何、と訊こうとするより早く、ガルジスが喋るなと合図して里琉は彼の後ろに隠れる。
そして彼の目の前に誰かが居るのを見て、怪訝になった。
「おや、ガルジス団長。どちらへ? 調査は終わったのですか?」
「報告書を持って行かせたはずだぞ。入れ違いになったんじゃないか」
「では、そこの……子供は?」
「行き倒れを拾った。身寄りがないって事で、一時的に保護してる」
「そうですか。……ここは孤児院じゃありませんよ」
圧のかかる声に、里琉は思わず身をすくませる。だが、それを見たらしい相手は、里琉に近付いて声を掛けて来た。
「子供にしては大きいですね。成人していない、ということでしょうか?」
「そうだな」
「行き倒れ、でしたか? …………まあ、顔色は良くないですね。少し汚れてますし、ちゃんと湯浴みと食事を与えるくらいは許可しますよ」
眼鏡をかけた男性は、里琉よりも身長が高いが、細身のように見える。長い金髪は少しくすんでいるし、恐らく壮年くらいだろう顔つきだ。
ただ、金色の目がまるで値踏みするかのようで――里琉をぞっとさせる。
「名前は?」
「…………」
喋るな、と言われたので里琉は口を閉ざしたままだ。代わりにガルジスが返す。
「他人に警戒しているんだ。落ち着くまで、話を聞き出すのは止めてもらおうか」
「……そうですか。では、後程。ああ、離宮ではくれぐれも騒ぎを起こさないで下さいね?」
「…………分かってる」
そのまま立ち去って行く男性を見送った里琉は、結局誰だったんだ、と首を傾げる。
疑問を読み取ったかのように、ガルジスが言った。
「……今のが、この国の宰相だ。実質、この国の政治を動かしてる程度には頭が切れる。何も喋らないってのをよく守ってくれたな」
「……さ、宰相って、あんなに怖いの?」
下手をすれば、その場で詰問が始まりかねない程の凄みだった。里琉はぞっとした気持ちが収まらない。
「あいつはかなり特殊だ。……まず行くか」
再び歩き出すガルジスは、それ以上何も教えてはくれないままで。
(本当に、私、帰れるかな……。ここで怪しい人間として捕まったりしないかな……)
そんな不安が募るばかりであった。
※ ※ ※
「駄目ね。また薬の濃度を上げるしかないわ」
「そんな事をしたら、姫様の負担が……」
「しかし、悠長な事言ってられませんよ。このままでは、もって三ヶ月くらいで姫様が廃人確定になります」
他国から来た研究員のフィリアが、定期検査の結果を見せながら苦い顔をしている。
当然、薬剤師のエクスも、そして女官長たるメーディアも、同じ顔だ。
この離宮に王女が来て以降、王女は回復の兆しどころか悪化の一途を辿るばかり。
もうこれ以上の手立てはない。そもそも、助けたくても肝心の王女がその手を拒むのだ。
「……困ったわね。何とか、あの女官から引き剥がせたらいいのだけど」
本来なら、王女の世話をするのは自分だ。だが、数年前からその役目は別の人物に替わり、そして半年前から更に別の人物となっている。女官長といえど、王族の判断には逆らえないのだ。
そこに、ちりん、と来客の合図が鳴る。
「珍しいですね。患者でしょうか。どうぞ」
この部屋の主であるエクスの声に、入って来たのは予想外にも騎士団長だった。
「邪魔するぞ。……って、お前ら集まってたのか! まあ、丁度良かった」
「何よ、団長さん。お腹でも壊した?」
「違う違う、ちょっと保護したい奴を連れて来た」
「……何ですって?」
騎士団長は元々、情に厚い。そして困っている人間を見捨てる事も出来ないし、何なら手助けをする。……現在進行形でその役割を担っているのだ。
だからと言って、いきなり誰かを拾うなんて事は、本来するような人物ではない。
促されて入って来たのは、少年だった。
――違う、少年の格好をした女性だ、とメーディアは気付く。
不安そうなその顔は、確かに子供のようにも見える。だが、その瞳は冷静で、何の暗さもない。
「こいつだ。……俺が今朝、調査に向かった村で拾ったんだが……今から言う中身、ちょっと聞いてくれないか。正直、信じられないような話もあるから、絶対に他言しないでもらいたいんだ」
「それ、私も聞くの? 何で?」
「フィリア、むしろお前が居た方が助かる。……お前、リカラズから来ただろ。もしかしたらこいつの話も、少しくらいは分かるかもしれない」
「あー、なるほど。この国の人間じゃないんですね。珍しい。黒髪黒目なんて、レダにしか生まれない特徴ですけどね」
この世界は、国によって生まれる色彩が異なる。ティネ出身であるエクスもまた、金髪金目という特徴を持っていた。
とはいえ、血が混ざれば生まれ方も変わる。彼女もそういった類なのかもしれない、とメーディアが思う間に、彼女は一礼して自己紹介を告げた。
「初めまして。私は里琉といいます」
「おや、女性でしたか? 紛らわしい格好をしていますね」
「っていうか、髪も短いじゃない。どっから来たの?」
二人は気付かなかったようだ。確かに、一見すると分かりにくいのだが、体のライン、手指、顔つきから、女性の特徴が出ている。メーディアだからこそ分かる、というのもあるかもしれない。
とはいえ、彼らも人間を観察し慣れているせいか、すぐに納得したようだ。
だが、それから始まった話は到底、簡単に信じられるものではなく。
「……謎の石が、体内に?」
「で、全身が金色になって消えたはずなのに、気付いたら砂漠?」
「…………いえ、それより、コルーを食べた方が気になりましたよ。あれ、成分的に死んでるはずですよね。全身の血が凝固するんで」
メーディア含め、三人は唖然として里琉という女性を見つめた。顔色は少し悪いが、それでも普通に健康的な人間そのものである彼女は、一体何者なのか。
そこにフィリアが、里琉へ近づいて首元や手首、顔などを観察した後に告げた。
「ちょっと失礼。……瞳孔、体温、脈拍、全て人間ね。……ディアテラスじゃないわ」
「それが一番助かる情報だな」
ディアテラス、とはとある化け物を示した名称だ。人間そっくりなので、フィリアくらいしか見分けは付かない。
そのフィリアが違うというのは、他の全員が安堵する答えでもあった。
「そうね。……となると、その謎の石が原因かしら。そもそも住んでいた場所も、この世界には存在してないはずよ」
「あ、あのっ、本当にそうなんですか!? ガルジスさんにも言ったんです。この国は文明が遅れてるみたいだから、外国との繋がりが薄いんじゃないか、って。だからもしかしたら知らないだけで、本当はちゃんと私の国もあるかもしれない、って……!」
「…………そうね。気の毒だけど、現実は知ってもらいましょ。エクス、地図ある?」
「ありますよ。今出しますね」
言われてエクスは、棚の一つから羊皮紙の地図を出してテーブルに広げる。
そこに描かれるのは、円形に収まる五つの国だけであり、一番下に名前の書かれた部分を示したフィリアが説明した。
「いい? ここが今居る国。そしてここがノアという、唯一、水に囲まれた国。だけどこの国は、あなたの言うニホンでない事は確かよ。何しろ塩水ではないもの」
「……そんな」
愕然とした呟きに同情を抱くメーディアだが、何も慰めは言えない。
「それから、私が生まれた国はこっちね。リカラズと言うの。そこの金髪男の出身はこの国とは対極にある小さな国。ティネというのよ」
「……駄目だ、全然……知らない……分からない……」
眉を寄せて絶望的に呟く里琉は、今にも泣き出しそうだ。
そこに、ふと思い出したようにエクスが手を叩いた。
「となりますと、私の祖国にある御伽噺が手掛かりになるかもしれませんね。奇跡を起こしたという宝石の話です」
「御伽噺……? 宝石が、奇跡を?」
「ああ、あの石。どんな人間の願いでも、唱えれば叶えるんだったかしら?」
そうそう、と頷くエクスは御伽噺とやらを語り始める。
「昔々の大昔、この世界に一つの宝石が神の住んでいる天から降ってきました。その宝石はとても美しく、そして神が自ら『それに願いを唱えれば叶う』と教えた為、人々はそれを求めて奪い合いを始めます」
「ええ……何その血なまぐさい御伽噺」
ぼそっと呟く里琉の表情は苦い。確かに、聞いてて気分は良くないだろう。だが、大事な事なのだ。
「いいから最後まで聞きなさい」
「はーい……」
「宝石は、次々と願いを叶えました。死んだ恋人を生き返らせたり、大金持ちにさせたり、好きな人と両想いにさえさせてくれました。小さくも大きくも人々は願いを持つ生き物です。宝石の存在を忘れられる事は、片時もありませんでした。ある日、その宝石をとある王様が手にします。しかし、その王様はどんな人間よりも強欲で、宝石に次から次へと願いを叶えさせ続け、ついには――他国を侵略し、他国の人間を奴隷化したのです」
御伽噺とは言っているが、れっきとした史実だ。里琉は嫌そうな顔を隠しもしないが、大人しく聞いている。
「それが何十年も続き、ある時、一人の少年が妙案を思い付きました。王様がどんな風に願いを叶えているかを見て、自分もそうすればいいのではないか、と。果たしてそれは、成功しました。少年はただ一つ、そして多くの人間がその時抱えていた願いを代弁したのです。――『奴隷をなくして』と」
そこでようやく、里琉の表情が変化した。やっと御伽噺らしい展開になったからだろうか。
だが、史実は甘くなかったのだ。
「……その瞬間、宝石はかつてない光を放ち、国中を覆います。次に王達が目を開けた時、奴隷だった人々は、反乱を起こしました。今まで奴隷だったのがそうでなくなったのですから、これまでの仕打ちに怒った為、国中で争いが起きたのです」
「期待して損した……。最悪じゃんか」
げんなりと里琉は呟く。何を期待したかは知らないが、夢も希望もない、ただの戦争だった。メーディアはそう聞いている。
「肝心の宝石は、透明だったはずなのに漆黒に変化してしまい、中に散りばめられた金色の粒だけが美しいまま、王の手を離れました。そして戦争の最中にどこかへと持ち去られ、今なお行方は知れません。後にこの戦争は、ティネでの奴隷解放戦争として名付けられ、ティネは二度と同じ過ちを起こさないように、残った民達は賢者となるべく今も知識と知恵を大事にし続けています。おしまい」
エクスの締めに、里琉は少し考えた。
「最初は透明で、金色の粒が封入されてた……。じゃあ、私が持ってたやつと同じだってことか」
話に聞く分には、同じく奇跡の石だろう。だが、神の目的が分からないし、そもそも本当に神など居たのかさえ分からない。ただ、その宝石は実在し、今もどこかで誰かの願いを叶えているのだろうというのは、誰もが疑わない真実だ。
ただし、件の宝石は、里琉のと違って勝手に動いたりはしないはずだ。変色しただけであって、人の体内に入り込むという恐ろしい事にはならないはず。
「……なお、これはどちらかというと他国には知られていませんが、変色を遂げた奇跡の石は、戦争中、見る者全てに願いを言わせるような、強力な力を発するようになった、と語られているんです。だからこそ、そんな危険な石を放ってはおけないので、ティネの賢者達は石を封印する使命も背負っています。発端がどこであれ、最も犠牲を出したのはティネですからね。負の遺産、といったところでしょうか」
「えっ、じゃあその石も勝手に浮いたりしたのかな……」
「そこまでは分かりませんが、有り得そうですね。あなたも別に望んでいないのに、そうなってしまっているわけでしょう?」
「本当にはた迷惑な話なんですけどね。ただの石なら良かったのに……」
彼女の心情は計り知れないが、気の毒だとはメーディアも思っている。故意に来たわけでもないのだから、早く帰りたいだろうに、その方法も見当がつかない。
「あ、なら今試しに、自分に向かって言ってみたら? 帰りたいって」
「その手が! ――家に帰りたいっ!!」
意気込んで自分に言った里琉だが、体は何の変化も示さなかった。がくり、とその場に膝をつく里琉は、顔を上げられないくらい恥ずかしいらしい。耳が赤くなっていた。
「……駄目ですか。まあ、現状は無理、ということで」
「ま、まあ、しらみつぶしにこういうのはやってくもんだ。あまり深く気に病むなよ、リル」
ガルジスが慰めるが、その横でフィリアは言い出しっぺのくせに口元を押さえて顔を背け、肩を震わせている。たまに思うが、彼女は性格が悪い。
「ガルジスの言う通りよ、リル。ただ言うだけでは叶わない、というのが分かっただけでも十分な収穫だわ。他の人が余計な事を言わなくて済むんだもの」
「そうですね。奇跡の石二号にならなくて良かったじゃないですか」
「そうだな。そんなわけで、このまま放置するわけにもいかん。保護を手伝ってくれ」
「……ま、いいわよ。その子の毒耐性がどんなものか気になるし」
「そうですね。……例えば鉱毒なども」
「エクス!」
メーディアは薬剤師の彼を睨む。鉱毒は今、最も警戒される毒だ。それが通用しなかったなどとなれば、彼女はむしろ、怪しまれてしまう。
だが、フィリアがあっさりと結論を返す。
「死の砂漠に染み込んでいるのは、かつての鉱毒よ。そこに生えているコルーにも、恐らく鉱毒の成分が入り混じっているはずだわ。それが効かなかった以上……毒に対しては無敵、と見ていいわよ」
「なるほど……確かにそうなると、下手なもんを食って死ぬ確率はほぼゼロか。すごいな、お前」
ガルジスが感嘆すると、里琉は苦笑を浮かべた。脅威が減ったとしても、彼女にとって嬉しい事ではないのだろう。
「いや、毒が効かないとか、何のメリットも無いですよね。毒見するような立場でもないですし、むしろ毒かも分からないで口にしたら、それこそ危険人物だと思われますし」
「……そうね。お仲間、と思われてもおかしくないわね。化け物と」
フィリアがぼそりと呟く。化け物、の意味はきっと、里琉には通じないだろう。――彼女を見る限り、意味を知ったらとても嫌がられそうだ。
「まあ、私に毒が効かないなら、私の血も毒を消す役割とかあったりしそうですけどね。ほら、血清とかあるじゃないですか」
「……ふうん、あなた、そういう……」
「止めなさい、フィリア! それからリル! あなたは保護を求める立場でしょう。そんな事を言ったら、利用されるわ。あなたがどんな環境で育ったか知らないけれど、あなたは誰かを助ける側になる必要なんてないのよ!」
「えっ……あ、いや、思い付きで、今のは……」
狼狽える里琉に、ガルジスが何となく察したのか、声をかけてくる。
「……メーディア……お前、必死になるな。気持ちは分かるが」
「…………この子が一年前に居てくれたら。そんな事を考えたくはないの。お願い、ガルジス。この子に、必要以上の事をさせないようにして」
「いや、それは当然だけどよ。こいつはそこまで自己犠牲とかしないだろ」
「他人に興味はないので、献身とかしませんよ? 大丈夫です。部外者が余計な事をするな、っていうのは常識だと思ってますから」
「……え?」
思いがけない里琉の淡白な返答に、メーディアは驚く。自分の早とちりだったのだろうか。
だが、里琉はすぐに続けて告げた。
「とはいえ、助けてくれた分の返礼はします。可能な限りですけど。それから、助けてくれと言われたらまず話を聞くように、と教えられてきました。ので、それくらいなら」
「ふうん。律儀というか、誠実? 他人に利用されたとしても、後から気付くタイプじゃない?」
メーディアは額を押さえた。絶対に、中央宮に連れて行くべき人間ではない。あんな陰謀渦巻く場所に放り込まれたら最後、無知な彼女はあっという間に搾取されて捨てられる。
しかしそんな心配も知らず、彼女は自分の腕を差し出した。
「まあ、それならそれで。大事な物に手を出されなかったら、怒りませんよ。んで、私の血が役立つようなら、ここにいる間くらいは少しだけなら出せますよ。お金もないので、支払い代わりにでもして下さい」
「あっそ。じゃ、遠慮なくもらってくわね」
「あんまり痛いのは嫌ですけどね。それと貧血にならない程度にお願いします」
いそいそと道具を使って採血を始めるフィリアに対し、里琉は慣れた様子でそれを受ける。もしかして、経験したことがあるのだろうか。
「ねえ、リル。あなたは怖くないのかしら? それ」
「痛いだけですし、特に具合悪くなったりもしませんね。病気になると大体採血されますし、健康診断でも採血で検査をしますから、特には」
「……そういえば、文明がどうの、と言ってましたね。あなたの国について、せっかくだから聞かせてもらえませんか?」
エクスが薬以外で興味を示すのも珍しい。毒が効かないのがよほど気になっているのだろうか。
だが、メーディアはそれに反対して首を横に振る。
「それは後にして。止血が終わったら、まずは湯浴みよ。それからちゃんとした女物に着替えてもらうわ。食事もまだでしょう。その辺りの世話は私がします。話をするなら、夕刻の鐘が鳴った後にしましょう」
多めの採血だというのに止血も平然としている彼女の傍で、フィリアが少し楽しそうに採った血を試験管に入れて振っている。薬品と混ぜて、固まらないようにしているのだと以前聞いた。ややしてそれを頑丈な鞄にしまい込み、蓋を閉めると、立ち上がった。
「じゃ、私は研究所に戻るわ。検査結果が出たら持ってくるから、その時にでも彼女の居た国の話、教えてちょうだい」
「どれくらいかかる?」
「数日は必要ね。あらゆる毒、薬に対する耐性。それから血そのものの成分検査。あと、さっき当人が言ったように、血が薬になる可能性もあるから、それも調べるわ」
「仮にそうだとしたら、姫様も救える、というわけですね」
「そうね。……その代わり、食事は少しいいものを与えてくれる? 栄養失調で倒れられたくないし。じゃ、私はこれで」
いそいそと出て行くフィリアを、里琉が少し不安げに見送る。
その横顔は、一瞬だけ過去のとある人物を想起させた。
「……ねえ、ガルジス。彼女、少しだけ……似ているのかしら」
「お前も思ったか……うーん、やっぱり、背格好のせいかもなあ」
「宰相様に見られたら、影武者にでもされかねないわね」
「見られたが、なるべく隠したぞ。おかしな気を起こさないとも限らんから、隠す部屋は慎重にな」
「見られたの!? どうしてそういうところで間抜けなの、あなたは! まったくもう。……部屋は任せて。あなたはそろそろ行った方がいいわ」
「ああ。じゃ、リル。夜にまたな」
「はい。またね、ガルジスさん」
そうしてガルジスも出て行ったところで、メーディアは手を叩く。
「さて、まずは湯浴みね。あなた、お風呂の経験は?」
「……断言しますけど、この国のお風呂よりずっと楽です」
「楽とは?」
「例えば、蛇口をひねっただけでお湯が出ます。髪も体も、専用で洗う物が何種類も出てます。髪を短時間で乾かす装置もあります」
「……そうね。あなたにはきっと不便でしょうけど、慣れてちょうだい」
今の説明だけ聞くと、もしかしたら王族よりもいい暮らしをしていたのではないか、とさえ思える。それでも彼女はただの一般人だそうだ。
だが、我が儘を聞いてやれる余裕まではない。彼女にとって辛いだろうが、それがここでの生活となる。
「では行きましょう。この国で生きる為の術を、私が教えてあげるわ」
「分かりました。よろしくお願いします、メーディアさん」
深く頭を下げた彼女の肩は、何故かひどく小さく見えた。
※ ※ ※
どこまでが嘘で、どこまでが真実か。記された情報だけでは、全てを把握は出来ない。
だが、幸運ではあった。何しろ、実物を一目でも見られたのだから。
「私の目を誤魔化そうとしたのでしょうが、この現状で騙されてやれる程、余裕もありませんしね」
山積みの仕事は、いつになっても減る気配がしない。本来ならこの仕事の大半も、するべきなのは自分ではないのだが、仕事をするべき当人が現時点で居ない以上、自分がやるしかなかった。
こうなったのも自分達の甘さが招いた事態だという負い目もあり、現状は減らない仕事を抱えてやり過ごしているが、果たしていつまでもつか。
夕刻の鐘が鳴り響く。終業の合図だ。夜勤以外の者達は仕事を終え、各々の時間を過ごす決まりとなっている。
だが、宰相や大臣にそんな余裕は無い。何しろこの国を支えていく力が徐々に弱まっているのだ。ここで気を抜いたら、どうなるか分からない。つまり今日も残業である。
だからこそ、あの人物は必要だと判断した。
「さて、終わったら迎えに行く準備をしますかね」
この際それが毒でもいい。この国を変えられる薬となるならば。
※ ※ ※
怒涛の一日の締めくくりが自分の世界の話というのも、斬新かつ初体験である。
里琉は多少くたくたになりつつも、分かるようにかみ砕いて説明した。そうでもしないと、彼らには分からない事ばかりだと序盤で判断したのである。
「なるほど、この国はあなたにとって、かなり文明が遅れている、ということですね」
「一番近いのは、リカラズって国かなと。私の国も、機械を中心にした生活を送ってるので」
「リカラズとは違う政治体制だから、あなたは一般人でも普通に家名があるのね。この国やリカラズでは、王族と貴族以外、名前のみだから……」
「そうだな。俺もメーディアも、名前しかないぞ。この国で貴族って言ったら、大臣以上の存在を示すんだ」
「フィリアは家名があったそうですが、捨てたと言っていました。フィリアという名前さえ、本来とは違うそうです」
医療技術を持っていそうな彼女なら、里琉の話も飲み込めたかもしれないだろう。だが、彼女ですら里琉のような存在を知らないのだから、恐らく昼間に聞いた御伽噺くらいしか手がかりはない。
「この国で御伽噺関連の手がかりを集めるのは、無理がありますよね」
「無理でしょうね……。そもそもこの国は今、割と危機を迎えているのよ」
メーディアのため息交じりに言う中身に、どういう意味だろうか、と里琉は首を傾げる。
ガルジスが首を横に振って、その内容を伏せた。
「こいつは知らなくていいことだ。下手に巻き込まれたらどうする」
「とはいえ、数日も居たら気付くでしょう。今のうちに教えて、危機感を抱いてもらった方が確実ですよ」
「どういう危機なんですか? 他国から戦争を仕掛けられそうなのか、内乱が起きそうなのか、それとも天候の悪化による食糧事情なのか、それとも病が流行っているのか、くらいしか思いつかないんですけど」
「むしろ思いつき過ぎじゃないか? お前、政治分かるのか」
「学校で習った程度ですね。詳しくはないです。ただ……本当に危機だとしたら、何の危機なのか分からないと、防ぎようがないじゃないですか」
どれにせよ、自分の身を守るだけの方法を考えなくてはいけない。ただ危険なら、全てが危険な事に変わりはないのだ。
里琉の意見も最もだと思ったのか、ガルジスは苦い顔で頷いた。
「じゃあ、ざっくりと話すぞ。――この国は今、王が居ない」
「ガルジス。陛下はいらっしゃるでしょう。……姿をお見せしていないだけで」
「仕事してないなら、居ないと同義ですよ」
三人の言葉に、眩暈を覚えて里琉はこめかみを押さえた。十分な危機なのが今のでよく分かる。
「……雲隠れ、ってやつですね。何があったんですか」
「半年前に、厄介な事件が起きた。陛下は簡単に言うなら、俺達を除いた臣下から『人殺し』の罪を負わされた」
「ただ、殺された方は大罪人だったから、陛下自身に大きな罪はないわ。けれど、何故殺したか、その真意を明かさないまま、事件から三日後に姿を消してしまわれたの」
「精神が不安定だったと思ってたので、しばらくすれば戻ると思ってたんですよ。皆が」
実際は半年経った今も、どこにいるかすら把握されていないらしい。
が、そこでガルジスがにやりと笑った。
「陛下の居場所は、俺以外は誰も知らん。それが現状だ」
「え!?」
「……ま、俺を詰問すれば居場所を吐く、と思った奴らが当初は詰め掛けたが、逆に俺に何かあれば、陛下の居場所を永遠に知る事が出来なくなる、と言ったら諦めたぞ」
「そういうところよ、ガルジス。……だから誰も、あなたに対して陛下の居場所を吐かせる事は出来ない。私達ですら」
「当たり前だ。陛下たっての望みなんだからな。それに俺は真実を知ってる。言うつもりが無いだけでな」
分かっていても匿うということは、ある種の冤罪だから、だと思っていいのだろうか。それにしたって、極端ではあると思うのだが。
「このままだと、国が滅んでしまうみたいだけど、それでも?」
「……避けたいが、現状を見る限りではなぁ。最悪、全ての罪は被ると言ってるがな」
「えぇ……それなら出てきて仕事した方が……」
「出来ないんですよ。理由は知りませんけど、今突然、陛下が出てきてしまったら、逆に国が滅びるのが早まる可能性が高い、とみていいでしょう」
エクスはため息を吐きながら言う。
「で、仕事は誰に丸投げしてるの?」
「宰相をメインに、大臣達全員だな。それでも陛下のサインが必要なやつだけでも持ってけ、ってたまに押し付けられそうになるから困る。全部断ってるがな」
「せめてそれくらいは受けないと、まずくない? 国民がデモとか起こしたらどうするの?」
「いえ、受けなくて正解です。何故なら、王が居ないのに国が上手く回ってしまうと、国が滅ぶ原因が分からなくなるからですよ」
「……どういうこと?」
「では、仮説ですが推論を。ああ、団長が黙ってる分には構いませんので」
「言うつもりが無いから、好きに言っていいぞ。後で陛下にはお教えするかもしれんがな」
その推論があてずっぽうでなければ、理解者として認めるかもしれない、といったところだろうか。
ともあれ、エクスは話を始める。
「そもそもの発端は、先ほど説明した通り、大罪人だったとある女官を、陛下がある日突然、殺してしまった事です。大罪人と言われるだけあって、その女官は裏側で様々な悪事を働き、表向きはそれを他人に擦り付けていました。ですが、一人の女官が考えて動くには、大きすぎる事件が多数あるんですよ。その黒幕を聞き出せずに屠ってしまった事で、陛下の信用はあっという間に地に落ちました。黒幕が分からなくなった事で、陛下も八方ふさがりになった為、政治から離れる事を選択した、と我々は考えています」
ふむふむ、と里琉は頷く。つまり、半年前の時点では、王を信じる人間の方が少なかった、と考えていいだろう。そんな状態で政治をしても、不信まみれの上下関係ではいずれ破綻してしまう。
「当然、数ヶ月でみるみるうちに国はその基盤を崩し始めました。貿易は縮小し、治安は維持し続けるのが困難になり、国中が人手不足と就職難に溢れている状態です。何故なら、経済が回っていないからなんですよ。で、そんな状態になった後で、いきなり陛下がこっそり手を出したとしたら、それは陛下の功績ではなく、宰相と大臣の功績、という事になってしまうでしょうね」
「そうか……クーデターのきっかけを生み出しかねないんだね。王が居ないのに国が回ってるって事になっちゃうから、王の存在意義が問われるんだ」
「ご明察です、リル。あなた中々やりますね」
「仮に内乱で国が一旦滅んでも、次に待つのは他国の侵略。その他国がもしも大罪人の背後にある黒幕だったなら、もう真相なんて闇の中、か。その頃には国がまず存在していない。だからもう誰も、真実なんて見向きもしない。そして……真実を知る王様は、真相と一緒に消される、ってわけか」
「ま、そんな感じだが、お前が知らなくても問題ないさ。というわけで、王が居なくて結構カツカツな状態、という意味の危機だ。いざとなったら他国、ノア辺りにでも逃がしてやるから安心しろ」
気にはなるが、なるほど、と里琉は頷いた。確かに無関係の方が安全圏と言えばそうなる。
「ただ、今のままだとリル個人が危険だわ。彼女、女性という自覚がないのよ」
「それは俺も思った。お前、せめて護身を教えてやるから武器を持て」
「ぶ、武器!? ちょっと無理だよ!」
いきなり自分の身の振り方に話が変わり、里琉は慌てる。現状維持でそれこそいいのではないか。
「この国だと、武器を持たない女性なんて居ませんよ。まあ、女剣士も居ませんけど」
「え?」
武器を持つのが普通なのに、武器を持って戦う女性が居ない、という中身に里琉は怪訝になった。
メーディアが苦い顔でその意味を説明する。
「この国はね、女性は守るべき存在、として認識されているの。だけど同時に弱い存在として認識もされているから、一人で下手にうろつくと襲われるのよ。純潔を失った独身女性の立場は更に弱くなるわ。だから皆、短剣などの武器を持って、いざとなったら相手を殺すか自分が死ぬかを選べるようにしているのよ」
「どっちか死ぬの前提なんですか!?」
何て国だ、と里琉は戦慄した。殺人を躊躇わない程に、純潔は大事なのだろうか。
「結婚してればまた別なんだがな。結婚すると片耳に耳飾りを着けるから、すぐ分かる。で、もしも既婚者の女性を襲えば、自動的にその伴侶が制裁を加えていい事になってるんだ」
「怖っ」
私刑が適用されるというのもまた、恐ろしい。国が出る幕は果たしてあるのか、という疑問さえ出て来る。
「というわけなので、武器必須ですよ。ちょうど騎士団長が居るので、暇を見て教えてもらって下さい」
「そうしまーす……」
「あと、髪が短すぎるわね。私はともかく、他の者からは少年に見えてしまいかねないわ。化粧はもちろん、髪飾りを付けるようにしましょう」
「え」
メーディアの言葉に、里琉は一瞬固まり、すぐに首を左右にぶんぶんと振った。
「このままでいいです! 化粧もアクセサリーも絶対嫌です!」
本当は今の格好も嫌だ。裾の長いワンピースのようなそれは、女性が着る服として一般的なものらしいが、落ち着かない。
「……どうしたの、一体」
「この格好だけで分かるんなら、それで十分じゃないですか! それ以上なんて、私には必要ありません!! 何なら、男装してでもいいくらいで……!」
嫌だ、と里琉は子供のように必死に拒否を示す。それを見て、彼らは困惑を浮かべていた。
「……何か嫌な事があったんですか?」
エクスの問いかけに頷く。
「いや、でもな、リル。この国は男女の扱いの差が大きすぎるんだ。お前にとっては辛いだろうが、女の格好で過ごさなきゃならんから、男装だけは無理だぞ」
「化粧も必要なのよ。砂漠を越えてきたのなら、分かったでしょう。あの陽射しを浴び続けていたら、肌が酷いことになるわ。一日程度では影響がなくても、今後どのくらいここに居るか分からない以上、あなたの体を守る為に、化粧だけでも覚えてちょうだい。あなたの化粧を笑う人間は、私が叱ります」
「……でも……似合わない……から……」
スカート、化粧、アクセサリー。それをすべて嘲笑われた事が無い人間だから、彼らはそう言えるのだ。
「んー、俺も湯浴みしちまったからなあ。気付いてなかったんだろうが、お前と会った時は化粧してたぞ?」
しらっと告げたガルジスの言葉に、里琉は一瞬思考が止まった。
「……なんて?」
「だから、化粧。この国で化粧出来ない奴は居ないと思え。何しろ化粧せずに外を歩き回ってたら、三日ともたずに火傷みたいな怪我になる事もある。この時期は特にな」
「私のように外に出ない場合は、化粧なんてほとんどしませんけどね。まあ、フィールドワークの時くらいはしますよ。面倒ですが」
「……ほら、似合うとかそういう次元の話じゃないのよ」
心なしか穏やかに諭すメーディアに、里琉は不安なまま目を向ける。
「……本当に、大丈夫、ですか」
「ええ。私が教える以上、きちんとしたものを身につけられるわ」
男女関係なく、ただその肌を守る為の化粧。それならば、あるいは、仕方ないと受け入れられるかもしれない。
里琉は渋々だが、頷いた。確かにあの陽射しを浴び続けるのは酷だと思ったのだ。
「分かりました……」
「じゃあ、とりあえず隠れながらになるが、武器の扱いと化粧の仕方は覚える事になるな。今日はもう遅いから、明日からやってくぞ」
「部屋は用意したわ。少し小さいけれど、隠れるには十分よ」
当面の居場所も確保されて、里琉は安堵する。ただ、心配でもあった。
「でも、忙しい立場なのに、大丈夫なんですか?」
「問題ないぞ。早朝か深夜にでも軽く教えるつもりだからな」
「そうね。私も時間を調整して来るようにするわ」
――彼らは、何故ここまでしてくれるのだろう。いつまで居るか分からない、まともな人間かすら分からない里琉に対して。
「じゃあせめて……何か手伝えないですか?」
血だけでは足りない。そう思った里琉は、申し出るが。
「何だ、どうした」
「仕事と言われても、あまりあなたを人目に触れさせるのは、良くないわ」
「この離宮ですと、ちょっと別な危険が伴いますからね。昼間の話からして、何か返礼をしたいとでも思ってますか?」
エクスの推察で正解なので、素直に頷く。すると彼らは揃って首を横に振った。
「お前は気にするな。むしろ何かして悪目立ちしたらまずいから、大人しくしてくれた方が助かる」
「いくら離宮でも、その髪の短さでは、悪い噂が立ってしまうわ。あまり行動範囲を広げない方が今は助かるの。気持ちだけ、もらっておくわね」
そこまで言われては、食い下がれない。ただのお荷物かと落ち込む里琉を、そろそろ送るから、とメーディアが部屋へ案内してくれた。
寝る前に着替えるよう渡されたそれは夜着と言われ、ネグリジェのようで、少し恥ずかしいが着心地は悪くなかった。
後は寝るだけ、となった里琉に、メーディアが言う。
「あなたにとっては、不便で窮屈な思いをさせる事になるわ。……ごめんなさい」
「いえ、あの、助けてくれただけでなく、保護してもらえただけで十分なんです。だから、本当に出来る事があったら言ってください。何も返せないままは、嫌なんです」
「……ありがとう。では、おやすみなさい。明日の朝、起こしに来るわ」
「はい。おやすみなさい」
布扉が閉じられた部屋は、置かれたランタンのわずかな光以外、真っ暗だ。窓はあるが、既に布を下ろされている。
手探りで寝台に潜り込んだ里琉は、その寝心地の良さにすぐ眠気を感じて、深い眠りへと落ちていった。
――自分の身に、何が起こったかも知らないままで。
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