1話:石の少女

 ――時は、ほんの少しだけ前にさかのぼる。


「やばいやばい、急いで帰らなきゃ」

 人気の少なくなりつつある大学の廊下を、小走りで一人の少女が駆ける。その髪は染めてもおらず、かつ短い。幼めの顔立ちもあいまって、性別を迷わせる風貌だ。

 そんな彼女の足下に、不意に何かが引っかかる。

「うわっ、ととと」

 何か躓いたか、踏んでしまったか、と立ち止まった少女の足元には、ころりとした透明な何かが落ちていた。

「……何だこれ」

 ひょい、と拾い上げると、それは窓から差し込む西日でキラキラとしている。よく見ると、中に金色の粉のようなものが入っていた。

「わ、綺麗……」

 幼少期から無類の石好きである自覚がある彼女にとって、目を奪われるほどの美しさである事は間違いない。だが、何故こんなところに、と疑問を抱く。

「誰かの落とし物かな。でも、たしか遺失物の場所はここと正反対だし……いいや、明日持って行こう」

 逡巡したが、別に横領するつもりはない。ただ、この手の物は基本的に落とし主が気付かない限り、放っておかれるのが常だ。もしくは、本人以外がしれっと持っていく可能性も否めない。

 それに今、少女は急いでもいた。

「って、帰りの電車!」

 時間が少しずれると、満員電車に押し込められる羽目になる。

 人と密集するのが嫌いな彼女にとっては、それなりに重要な問題だ。

 石をパーカーのポケットに入れ、そちらだけファスナーを閉じる。

 シャツとパーカーとジーンズとスニーカー。それだけで後ろ姿を見たら、男と間違えられるだろう。実際、何度も間違えられている。否、前から見てもだが。

 その時、声をかけられた。

「おーい、坂崎君」

「え? はい、何ですか、教授」

 専攻の教授に声をかけられ、少女は振り返る。

「この間のレポート、非常に良かったよ。次も期待している。女性があのように詳細な、変哲の無い石ころに見える鉱石類についてきちんと学んでくれるのは珍しいからね」

「ありがとうございます!」

 提出物を褒められ、少女はぱっと顔を輝かせる。

「しかし、君は後ろ姿だと分かりにくい時があってねえ。さっきも間違えてしまったよ」

「あはは、すみません。あ、急いでるので、失礼します。また明日、よろしくお願いしますね」

「ああ。気を付けて帰るんだよ」

「はい!」

 暗に「分かりやすく女っぽいものでも着けたらどうか」と言われているのだろうが、すっぱりと無視を決め込む。

 今更過ぎて、そんなもの、誰がするかとさえ思っているのだ。当然、従う義理はない。

「都合のいい時だけ女扱い、か」

 舌打ちしたいが、躾けられてきたせいか、思いとどまる。いっそ一番下の兄のように一度はグレてみるべきだったかもしれない。

 外はさほど暑くもなくなり、風も乾いた感じで気持ちがいい。

 何とか間に合った電車を乗り継いで徒歩で帰る頃には、陽が沈みかけて蒼に近い色の空になっていた。

「ただいまー」

 玄関を開けて声をかける。

 するとすぐに母親がキッチンから出てきて、それに返した。

「お帰り、里琉。和矢がリビングで待ってたわよ」

「え、カズ兄が?」

 それだけ言いたかったのか、すぐに母親は引っ込んだ。

 漂う煮物の匂いは肉じゃがだろうか。お腹空いたな、と思いつつ、少女こと里琉は荷物を持ったままリビングへそのまま向かった。

「ただいまー、カズ兄」

 ソファで本を読んでいた兄は、ぱたんとそれを閉じるとテーブルに置いて里琉を見た。

「ああ、お帰り、里琉」

「何かあった? 待ってたって聞いたけど」

「部屋に戻るなら、先に渡そうと思っていたんだ。ほら、誕生日プレゼント」

 渡された小さめの紙包みには、リボンが巻かれている。そこで里琉は自分が誕生日だというのを思い出した。

「あっ、そうか。今日だっけ。忘れてた!」

「その様子じゃ、大学でも誰も祝ってくれてないだろう。友人の一人も作らないままだと、就職に不利だって言っているのに」

「サークルとかどうでもいいし、一人で行動してる人もいっぱいいるよ。それに、専攻の教授からは認められてるし、実力だけで十分」

 言いながらその場で開ける里琉は、中身を確認して顔を輝かせた。

「天青石だー!! これずっと欲しかったんだよ! ありがとうカズ兄!!」

 空色の綺麗な石は、あまり日本でも流通していない。石も縁なので、いつか見付けられたら買いたかったのだが、先に鉱石好きだった和矢にはお見通しだったようだ。

「だろうなと思った。すっかり僕より石好きで、高じて大学まで通っているんだから、大したものだよ。将来はコンシェルジュにでもなるのか? って父さんが言ってたけど」

「それもいいんだけど、出来れば宝石以外も扱いたいんだよね。まあ、我が儘言えるわけじゃないし、鑑定士の資格も欲しいから、もう少し吟味するよ」

 来年には就職活動も関わってくる。出来れば目星を付けたいし、鉱石の扱いに関しては教授からもお墨付きを得ているので、相談したらいい所を紹介してもらえるかもしれない。

「間に合わなかったら、最近はパワーストーンとか扱ってる店もあるから、そういうところでバイト、って手もあるかな。でもなー、スピリチュアルとかそういうのはちょっと苦手なんだよね」

 目に見えないものを信じる、というのが里琉にはよく分からない。それにそういったもので詐欺を働くような輩も居る為、敬遠しがちだった。

「そうそう、幽霊を怖がってトイレに行けなかったのは、誰だったっけなぁ?」

 ぽこん、と何かで後頭部を叩かれ、里琉は小さい悲鳴を上げる。

「いたっ」

 振り向くと家族の中で最も背が高く最も体育会系な体格をした長兄の聡が、にやにや笑って何か持っていた。暴力反対、と兄をジト目で睨みながら里琉は言い返す。

「サト兄、その話するなら、昔おばあちゃんの家に泊まった時に、飛ばされたタオルを幽霊と見間違えて大騒ぎした話もするけど?」

「まだ覚えてんのかよ!!」

 当然である。あんな面白いネタは里琉の人生の中でもそうそうない。

 もっとも、里琉自身が友人の居ない青春時代を送ってきている事もあり、話す相手も家族だけになるのだが。

 きまり悪そうになる長兄は、だが手に持っていたそれを里琉に渡してきた。

 持ってた石を元通りしまった里琉は、それを受け取る。どうやら本のようだが、これまたきちんと包装されていた。

「変に記憶力はいいからな、お前。というわけで最新の鉱石図鑑だ。敬え我が妹よ」

「マジで!? さすがじゃんお兄様!!」

 大喜びで里琉は包装を剥がし、中身を開く。きちんと固定されたケース入りの鉱石サンプルまで入ってるという、親切な仕様だ。

「やったぁ、これも飾ろうっと」

「……石が絡んでくると、こいつ本当に性格変わるよな……」

「対人関係にも、その性格を割り振って欲しかったね……」

「だよなぁ。多少変人でも、友人や彼氏の一人くらい、出来たんじゃねえか? つっても、誰か紹介しても、愛想のあの字もねえからなあ……」

 聞こえているが、どうでもいい。兄達の心配は分からなくもないのだが、兄達の連れて来る友達だか彼氏だか分からない候補にまで振りまく愛想は持ち合わせていなかった。

 結果として、一度会ってそれっきり、がほとんどである。

「ほら里琉、もうそれ全部、部屋に置いてから戻ってこい。あと今日は誕生日な上に成人だろ。良い酒を親父が用意してるってよ」

 酒、の言葉に里琉は顔を輝かせた。念願の成人なので、飲酒は初めてである。

「やったー! うちの家族最高ー!」

 友人が居ないお陰で道を踏み外すこともなく、弁護士の和矢が厳しくその辺りは教えてくれたので、里琉は真っ当に生きられているのだから、感謝しかない。

 荷物を持って部屋に戻り、里琉はもらった石とサンプルケースをそれぞれの場所に置く。

 部屋の片隅を陣取るそのエリアは、里琉が昔から集めてきた様々な石が陳列されていた。

 もうじき今のケースも手狭になってしまうので、新しいケースを買わないとな、と思っていると、ドアがノックされる。

「入っていいよー?」

 誰だ、と思ってると、三番目の兄・梓だった。その肩には大きな袋が提げられていて、梓はそれをずいと里琉に渡す。

「ただいま、里琉。はい、これ。誕生日プレゼント」

 里琉は一瞬ぎくりとする。唯一、里琉が苦手なものを用意する事があるのが、この兄なのだ。

 だが、中身は大きめのガラスケースだった。ほっとして里琉はお礼を言う。

「ありがと、アズ兄。服だったらどうしよう、ってちょっと思っちゃった」

「里琉は女物の服をもらっても着ないだろ。……アクセサリーもだし」

「……ごめん。でも無理。女物はどうしても……あの日を思い出しちゃって」

 後で中身を入れ替えなければ、とガラスケースを置いた里琉は、声のトーンを落とす。

 今着ている服も、兄たちのお下がりや自分で選んで買ったメンズ品だ。細身の里琉には少しぶかぶかだが、自分の体のシルエットさえも見られたくないので、むしろ助かっている。

 だが兄は、里琉が男物を着る原因となった相手を、今も恨んでいるらしい。低く呟く。

「俺の可愛い妹に、トラウマ植え付けやがって……。マジで許さねえからな、あの野郎」

「アズ兄、口悪いよ。いいんだよ、もう。女らしくするのは諦めたから」

「そう言って、成人式も結局、振り袖着せたがってた母さんを泣かせただろ」

「あれは……うん、申し訳ないな、とは思ってるよ」

 一生のお願いだから、と言われても、駄目なものは駄目だった。無難なスーツで参加した里琉を見て、周囲が「あの人、男? 女?」と囁く声が何度か聞こえた。他人の事なのだから、放ってほしい。

「じゃあせめて、ウェディングドレスくらいは着てよ。……その前に男か。里琉のコンプレックスをどうにかしてくれるような器の大きい男じゃないと、俺は絶対に認めないけどね!」

 うーん、と里琉は苦笑した。そもそも彼氏も要らないし、結婚もするつもりがない。

 何より料理含めた家事が下手なので、結婚は向いていないだろう。サバイバル知識なら聡の趣味でキャンプなどに付き合うから、多少は分かるのだが。

 思考をずらしている里琉を他所に、梓は恨みがましくまだ文句を呟いている。

「ていうか、あの野郎に関して一番許せないのは俺のセンスを全否定したことだからな。俺が一番里琉に似合う化粧をして、一番似合う服を着せた、渾身の自信作だったってのに」

「……そ、そういえばそんな事言ってたっけ……」

「里琉は化粧すると綺麗になるんだってば。昔の写真見直せば分かるよ。ほら、小さい頃、結婚式に参加した時のとか」

 ヴェールを持って歩く役を任された幼少期の事だろう。里琉は思い出すと同時に遠い目になる。

「あー、花嫁が旦那さん好き過ぎて、私の存在忘れて走り出したせいで、私が素っ転んだやつか」

「あれは酷かった……。お前びっくりし過ぎて、泣きすらしなかったんだよなぁ」

 なお、あの時の花嫁は旦那含めて両家からお叱りを受けていた。しかし里琉にとって、花嫁衣裳となるとそういう記憶にリンクするので、やっぱり着たくない。

「結婚しなくていい国に住みたい……」

 里琉はげんなりと呟く。そして好きな事だけして、家族と過ごしたい、と続けると、梓は首を横に振った。

「里琉は昔のしがらみから解放されて、幸せになるべきだよ。とにかく、今日から大人なんだから、そろそろ自分と向き合う事! じゃ、俺も部屋戻って着替えたら、下行くから」

「はーい」

 ひとまず返事だけした里琉は、一人になった部屋で着替えるべく長袖のシャツに手をかける。

 その時、ポケットに入っていたものを思い出して、取り出した。

「そうだった、これ調べようと思ってたんだよね」

 写真、とスマホを出して画像を検索するが、該当するものが出てこない。

「うーん、砂金入りの水晶かと思ったけど、やっぱり何か違うなー」

 そもそも楕円形の滑らかな表面の中に、綺麗に砂金が埋め込まれた状態、というのも少しひっかかる。出来なくはないだろうが、封入した、と思えるような入り方なのだ。

 さてはガラスで作られた代物か、と思って、里琉は試しにぎゅっとその石を握り込む。これで本物の水晶なら、体温によって石の温度が上がるのだ。

 しかしそれは、予想外の結果を見せた。


 ――キン、とわずかな音。


「っ!? わ、割れた!?」

 そんな脆くないだろう、と思っていたが、手を開くと、その石は特に何も変化がなく。

「……え、今の何」

 絶対音がしたし、感触もした。だが割れてない。灯りに透かすと、金色が中で明滅している。

「……うわぁっ!?」

(いやさすがにおかしいだろ!!)

 悲鳴と同時に石を放り出した里琉は、次いで異様な光景を目の当たりにした。


 ――石が、宙に浮いている。


「な、な……」

 明滅している金色は、もうささやかどころではない。まるで閉じ込められた星のようだ。

 驚愕と恐怖で開いたままの里琉の口に、吸いこまれるようにしてその石が急に入り込む。

 瞬間、喉が異物感を訴え、里琉は何とか吐き出そうとするが、石はそのままその存在感を体の中で失った。

「何……一体、何が」

 跡形もないその石がどうなったのか分からないまま、手のひらを見ていた里琉は、ぎょっとする。

 キラキラとした金色の砂に、指先が変化していた。まるで溶けていくようなその現象は、現実なのかあるいはさっきの石による幻覚なのかさえ、分からない。

 そうしている間にも、自分の体はどんどん、金色の粉となって消えていき。

「や、やだ。嫌だ。誰か助け――……」

 恐怖に満ちた声が届く事はなく、そして。


 ――彼女の存在は、この世界から跡形も無く消え去った。

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