豪雨の中を、二人で歩く。

 狭い傘の中、ほとんど赤の他人である僕らのとれる距離感15センチ。

 触れ合いそうで触れ合わない、傘の中でとれるぎりぎりの距離。

 仮にも相合傘をしている訳だが寄り添うなんて真似が出来るはずなく、傘からはみ出た僕の肩はどんどん濡れていく。

 沈黙は雨音に塗り潰されたものの、気まずさはいっこうに消えなかった。


 ただ黙って歩きながら、僕はそれとなく隣の様子を窺う。

 傘の持ち手を握る静上さんの手。小さい。これまであまり意識したことなかったものの、こうして並んでいると彼女との身長差に驚かされる。僕も大して高い方ではないし、彼女も他の女子と変わらないけれど。

 ……女子って、小さいな。

 今更なことを思って、やけに緊張してしまう。


 今だけは雨に感謝したい。

 女子との相合傘が出来たからじゃない。

 不思議と高鳴る胸の鼓動を、雨音がかき消してくれるから。




 静上しずかみさんの家には数分と経たずに辿り着いた。

 一つの傘の中で身を寄せ合って、まるでリア充のそれのような僕たちだったが、結局お互い一言も喋らないどころか、緊張していて、見えない壁を挟んで歩いているかのような状態で気苦労が絶えなかった。

 だけど、ようやくそれから解放される。


「タオル、とってくるから……」


 そう言って静上さんはぱたぱたと廊下の奥に走っていく。僕は体から力が抜け、思わずその場にへたり込みそうになった。

 土間には彼女が今脱いだ靴の他にいくつか並んでいるが、家の中から人の気配は感じない。

 もしかして……二人きり?


「……だからどうしたという話で」


 僕は廊下に背を向けながら、回収してきたビニール傘の修復を試みる。骨が見事に曲がっており、閉じることすらままならない。曲がった骨を無理に直して閉じてはみるも、今度は何かが引っかかって自動では開かない。それでも一応、不恰好ながらも傘の体は保つことが出来た。

 これでなんとか帰れそう。


「……静上さん?」


 帰るにしても声くらいかけていきたいのだが、静上さんがなかなか戻ってこない。

 雨音に紛れて物音が聞こえてくるが――。


 とん、と。


 不意に、横合いから……入ってすぐのところにある階段から、黒い何かが飛び出してきた。

 突然のことに僕はびくりと硬直し、恐る恐る、玄関のマットの上にいるそれに目を向ける。


 にゃお。


 そこには、黒い猫がいた。

 ちょこんとお座りをして、僕を見上げている。

 まじまじと、その金色にも見える瞳と見つめ合う。


「えっと……」


 首輪をしているから静上さん家の飼い猫なのだろう。なら多少人懐っこくても不思議じゃない。とはいえ犬じゃあるまいし、猫がこうして玄関に座って客人を出迎えるような仕草をするものだろうか。

 変わった……はっきり言えば不気味な猫であった。


「…………っ、」


 口から変な音が漏れる。

 猫は目を合わせるのが苦手で、人間よりも先に目を逸らすものだと聞いたことがあるのだが、この猫の視線はまるで僕を捉えて離さない。警戒している風でもなく、ただじっと僕のことを観察しているかのようだ。

 相手はただの猫なのだけど、妙に緊張を強いられる。ここが他人の家なのも原因かもしれないが。

 ふと、この猫は静上さんが変身した姿なのではないか、などとアホな考えが頭をよぎった。ファンタジー小説を読んでいたせいだろう。だけどそれくらい人間味のある視線だったのだ。


 だから、



「こ、こんにちはー……」



 僕が猫相手にそんなことを言ってしまったのも仕方ないのだ。



「ぷっ、」



 それを他人に聞かれたのは完全に僕の不注意だったが。


 反射的に顔を上げれば、廊下の向こう、ジャージ姿の静上さんが立っていた。こっちを見る彼女の口元はにやにやと緩んでいる。無性に恥ずかしくなった。

 これが愛猫家ならペットに話しかけるのは日常茶飯事でなのだろうが、ペットなんて飼ったことのない僕にとって、猫に話しかけているところを目撃されたのはとんでもなく羞恥心を刺激される出来事だった。


 にゃー、と諸悪の根源が静上さんの方に歩いていく、足にでもすり寄るのかと思えば、体をこすりつけはしたもののそのままスルー、リビングへ行ってしまった。静上さんがご飯でも用意していたのだろう。まるで後は任せたとでも言うかのような去り方だった。


 それはともかく。


「……ふふ」


 静上さんは微笑しながら僕の元までやってきて、バスタオルを差し出してくれた。その顔を直視できないまま、それを受け取る。


 ……くそう。とんでもない赤っ恥だ。僕がそれを恥じらっていることがよけいに彼女を微笑ましい気持ちにさせていると分かってはいても、恥ずかしいものはどうにもならない。僕は完全にアウェイ。ここはまさしく彼女のホームだ。

 その証拠に。


「こんにちは」


 悪戯っぽくそんなことを言うものだから、僕の中の羞恥心は膨れ上がる一方だった。

 最悪である。よもやこんな目に遭うとは。


 ただ、まあ――顔を上げると、ジャージを着ていて普段以上に野暮ったい印象の彼女は、袖の余った手で口元を覆いながらくふふと忍び笑いを洩らしているが。



「さっきの歌声よかったよ。ファンになりそうだ」



 彼女の恥ずかしい秘密を、少なくとも彼女が恥ずかしいと思っていることを、僕は知っているのだ。


「……っ!!」


 静上さんの顔がじわじわと朱に染まる。彼女の白い頬にその赤はよく映えた。

 恨みがましい目で僕を睨む。僕は少しだけ勝ち誇ったような気分で告げる。


「……お相子ということで」


 ……これで僕らの関係は対等だ。

 受け取ったバスタオルで頭を拭いながら、彼女の様子を窺う。赤い顔で僕を睨んでいた彼女は、細々とした声で、


「……じゃあ、そういうことにしといてあげる」


 彼女はそう言って、こころなしか不敵に微笑んだ。


「っ」


 不意にどきり、痛いくらいに鼓動が高鳴る。

 早くも僕らの関係が揺らぎそうな、そんな予感に襲われた。



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