安物のビニール傘を広げて、暗い雨天へと踏み出す。

 ビニール傘から見える周りの景色は降りしきる雨によって薄ぼんやりとしていて、傘を叩く雨音が他の全てをかき消していく。

 そして僕は独りになった。


 ……昔から雨が嫌いだった。

 幼稚園に通っていた頃、突然の豪雨で帰れなくなったことがある。

 親が迎えに来て次々と友達が帰っていく中、僕は仕事の遅い母を待って一人、最後まで取り残されていた。

 一人の夜に雷雨に見舞われたこともある。窓を叩く雨粒、泣き叫ぶような風の音、そして空を引き裂くような雷……。布団を被って一人で震えていた。

 雨にはロクな思い出がない。


 学校前の坂道を下っていると、前方に真っ黒な物体を捉えた。微かに揺れ動くそれがなんだか最初すぐには分からず、幽霊の類を連想したが――なんてことはない、ただの傘だ。大きな黒い傘。僕以外にもこの雨天を歩く人がいると思うと、少しだけ安心できた。


 ただ――


 たまたま帰り道が同じようで、坂道を下ってしばらく経った頃。

 周りにひと気のない住宅街に入ったあたりだった。



「あーめっ、あーめっ、ふーれっ、ふーれっ、もーっと、ふれー……♪」



 ……なんか、歌っている。



「わったしーのっ、こーえをっ、かっきけっしてー♪」



 ぴっちぴっちちゃっぷちゃっぷ、らんらんらーん♪



 ……たぶん、周りに誰もいないと思って歌っているのだろう。自宅の私室とか、お風呂場で歌うような感覚で。さぞ気持ちよく歌っていることだろう。

 でもごめん、お願いだからやめてほしい。聞いてるこっちが恥ずかしい。さっきまでの肌寒さが嘘のように今は顔とかいろいろ熱いし、いつこちらの存在に気付かれるかと不安で冷や汗が流れる。……風邪ひきそう。


 その声に気付いた時点で道を変えればよかったのだけど――

 ただ、まあ……。


「……楽しそうだな」


 気付けば、笑みがこぼれていた。苦笑に近かったけれど。

 僕なんかは意気消沈するのに、その人はまるで新品の雨合羽や雨靴を身にまとって雨天に飛び出す子供のようだ。こういう時こそ声を出して、日々のストレスを発散しようという感じだろうか。

 その声にほだされるように、僕の気分も少しだけ上向いてくる。雨はいっこうに止む気配はなく、歌い出したところで虹もかからない、空は灰色に灰色を塗り重ねたような曇天のままだけれど。

 僕は顔を上げた。黒い傘の人物はなおも歌い続けている。

 その向こうに。


「……もしかして」


 もしかしなくても、自転車が見える。雨天だから急いでいるのか、雨粒を蹴散らしながら結構な速度で近付いてくる。レインコート姿で、前部分が透明なフードを被っているようだが、


「……こっち見えてる……よな?」


 やや蛇行するようにしながら、こちらへ向かってくる自転車。運転手はもしかすると、前方の様子がはっきりとは見えていないのかもしれない。視界を覆うようなこの雨の中だ、そうだとしても不思議じゃない。

 しかしこのままいけば、黒い傘と衝突するコースだ。

 黒い傘の人物の方も気付いているのかいないのか、コースを変えずに進んでいる。後ろにいる僕に気付かないのは仕方ないにしても、歌うくらいならもう少し周囲に気を配ればいいものを。


 それにしても、自転車の方はこの能天気な歌声が聞こえないのか?

 傘と違ってレインコートは直接雨を体に受けるから、最悪その耳に届いていない恐れもある。

 ……マズいな。

 いくら自転車とはいえ――いや自転車との接触事故のニュースは割とよく聞くし、重傷を負うケースだって少なくはないらしい。


 どうしたものか――も何もない。

 考えている間にも自転車は迫っていた。


「……っ!」


 気付けば、僕は駆け出していた。

 その僕の動きにようやく気が付いたのか、黒い傘が動きを止める。自転車がとっさにハンドルを切る。

 とにかく腕を伸ばした。指に触れた何かを掴んで道の脇へと引っ張る。その横を自転車が通り過ぎ、少し行ったところでキーッとブレーキ音が聞こえた。遅れてがしゃんと自転車の倒れる音もする。


「危ねえだろ!」


 怒鳴り声。どうやら運転手はとっさに自転車を飛び降りるなりしたようだが、見れば、倒れた自転車の前に僕がとっさに手放したビニール傘が転がっていた。


 ……おいおいおい、そっちかよ。危ないはそっちだろ。


 傘を放り出した僕にも多少の非はあるだろうが、それにしても、雨降りにスピード出し過ぎだろう。何か用事があって急いでいたのかもしれないが、今のは完全にアウトだった。

 運転手はやっぱり黒い傘の存在には気付いていなかったようで、こちらを振り返って何か言おうとするような仕草を見せるも、何も言わず、すぐ自転車にまたがり去っていった。


「……ふう」


 雨に濡れて体も冷えたが、肝も冷やした。運転手が逆上しないかと内心とても戦々恐々としていたのだ。僕が手を出さなくても運転手は自分で気付いていたかもしれないし、もしかすると僕はことを荒立てただけじゃないのかという不安もあって。


 そうして一安心してから、僕は自分がちゃっかり黒い傘の中に収まっていることに気付いた。

 そして、その傘の持ち主が、見知った相手であることに驚く。


 誰かと思えば――


「え……、」


 静上しずかみさんだ。


 もしかして、この子がさっき歌ってたの?

 あまりのギャップに衝撃を受け、言葉を失ってしまった。

 そうしてしばし、僕らは見つめ合う――じわじわと彼女の顔が赤くなる。


「あっ、ごめっ、」


 慌てて掴んでいた彼女の腕から手を離し、僕は傘の外へと後ずさった。冷たい雨が降り注ぐ。髪を濡らし頬に伝い、制服がずぶ濡れになる直前、ふと雨が遮られる。静上さんが自分が濡れるのもいとわず、傘を差しだしてくれたのだ。

 ……それはまるで逃がすまいとするような動きだったけれど、とりあえずここはその厚意に甘えることにする。


「…………」


「…………」


 沈黙が落ちる。静上さんはうなだれていた。


 ひとまずなんとかなったけど、さて……これからどうしようか。

 傘の中に収まった僕は自転車に轢かれたビニール傘に目を向ける。もしかしなくても壊れているだろう。傘を叩く雨音は再び勢いを取り戻しつつある。本格的な豪雨になる前に急いで帰るべきではないか。

 僕がそうして気まずさから顔を背けつつ頭を悩ませていると、


「あの、もしかして、」


 顔を上げ、静上さんが何か言おうとした。


「さっきの聞いて――」


 その言葉を遮るように……ザ――――――っ! と、雨が勢いを増す。


「…………」


「…………」


 僕らのあいだに再び言いようのない沈黙が満ちた。その間隙を埋めるように雨音が響き、まるで僕らを取り囲むかのように雨粒が跳ね踊る。静上さんの顔は真っ赤だった。吐き出す吐息で眼鏡が曇り、彼女の視線を覆い隠す。


「……の、」


 容赦のない雨音にかき消され、静上さんの声はよく聞き取れない。

 それを察したのか、静上さんは爪先立ちになって僕の耳元に顔を寄せ、


「わたしのうち、くる……?」


 耳朶をくすぐるようなその囁きに、僕が緊張したのは言うまでもない。


 な、なんで急に……?

 いやまあ普通に考えて、雨も酷いし傘もあれだし、私の家ここから近いので雨宿りしていってください的なことだと思うけれど。さっきので僕も多少は濡れてしまっているし――


 ……歌っているのを聞かれたから、口封じにどうこうしようって訳じゃあ……ないよな?



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