海と階段の街、ルキッラの宿

ロドリーゴ

1.二人の客さん



 南イタリアのとある島にある、小さな宿。ここは、海風が気持ちいい、通称「階段の街」だ。その名の通り、山の斜面に作られた街で、狭い家と家の間を階段が迷路のように入り組んでいる。

 そこそこ名の通った観光地でもあり、このちっぽけな宿にはイタリア国内だけでなく、海外からだって人が泊まりにくる。今日も日本人のお客が二人来ることになっていた。




 車いすに乗ったオーナー兼支配人であるルキッラ。今は食堂の机にパソコンを乗せてキーボードを叩いている。帳簿付けはルキッラの仕事だ。

「ねえマサキ、先月は結局レモンどれくらい仕入れたの?」

 ルキッラは視線はそのまま、声だけ厨房へと飛ばした。マサキはルキッラより前からここで働く日系人のコック。ルキッラの幼馴染でもある。



「ごめん、分かんないや」

 厨房からマサキの返事が帰ってきた。この街特産のレモンは、ここの料理には欠かせない。それだけに臨時で何度も買い足したりして、マサキはどれくらい買ったかいつも忘れてしまう。



「領収書は?」

「あー、どこにやったっけな……」


 ルキッラはため息交じりに「もう!」

「それちゃんと管理してよ。私の仕事減るでしょ」

 常に車いすに乗っているルキッラがこの宿でできる仕事は、必ずしも多くはない。


「ごめん。次から気を付けるって」

「先月も先々月も、『次』だったはずだよ」

「ごめんってば」


「マサキー!」

 大声で呼びつけられてマサキが厨房から出ていく。


「ねえ、今日のお客さんもう来た?」


 ヴィットーリオ。彼はまだ十五歳だが、お客さんの観光案内でこの宿を手伝ってくれている。

 マサキにルキッラにヴィットーリオ。この三人で宿を支えているのだ。



「まだだよ。ちょっと早すぎないか? まだ九時じゃん」

「だってやることねーもん。なあ、お客さん来るまでここにいていい?」

「いいよ」と言ったルキッラの隣にヴィットーリオは腰かけ、カバンからポテトチップの袋を出して開けると、ボリボリ食べ始めた。

「おい、テーブル汚すなよ?」

「分かってる。自分で拭くよ」

 マサキに注意されてもヴィットーリオはお構いなし。ルキッラもマサキも、宿を手伝ってくれる彼にはいつも感謝していた。



 マサキが厨房に戻って行くと、ヴィットーリオがひそひそ話し始めた。

「ルキッラ、まだマサキに何も言ってねーの?」

「何が?」

 知らないふりをするルキッラ。


「とぼけんなよ。告白まで行かなくても、それとなく……」

 パシン、とヴィットーリオの手を叩く。

「やめてよ。聞こえるでしょ」


「別にいいじゃねーかよ、聞こえたって。いつになったら言うの?」

 腕をつつかれてもルキッラは完全に無視。ヴィットーリオはため息をついてポテトチップを口に放り込んだ。

「まあ、もちろん無理強いはしねーけどさ」



                   *



 夕飯の仕込みが終わった頃だった。

「ボンジョルノー」

 完全なカタカナ発音。今日のお客さんだ。「はーい」と返事をして、ルキッラとマサキの二人で出迎える。


 お客は若い女の子二人。片方は背が高く、もう片方は低め。でこぼこコンビ……なんて言い方は失礼だろうか。


「よかった。聞いた通り日本語通じるんですね。お世話になります」

 背が高い方が宿帳にサイン。書いた名前は『木村きむらゆう』。マサキやルキッラと同じく二十代後半に見える。ポロシャツにジーパンで、見るからに『サバサバ』系。


「ふう、この街階段だらけだね。それにさ、入り組んでて迷路みたい。夜一人で出歩いたら帰れなくなっちゃうよきっと」

 背が低い方の名前は『垣沼かきぬま詩織しおり』。おそらく二十代前半。オシャレなワンピースにメイクもきっちり。見るからに『女の子』系。


「お二人ともようこそ。私は支配人のルキッラ。お部屋にご案内します」

 ルキッラが完璧な日本語でそう言ったことに悠と詩織も驚いたらしく、部屋に着くなりルキッラを質問攻めにした。

「日本語ペラペラですね! ルキッラさん、日本に行ったことあるんですか?」

 詩織にルキッラは「いいえ」と返事。

「私はイタリアから出たことないの。私の事はルキッラでいいよ」

「ルキッラ、お父さんかお母さんが日本人なの?」

 悠にも「いいえ」と返事。

「お父さんもお母さんもここの出身。でも、うちのコックのマサキは、お母さんが日本人。私はマサキの幼馴染で……だから日本語覚えたの」

「へえー。マサキさんともお話したいな」

「うん。夕飯の後ゆっくりお喋りできるよ。二十時に食堂でね」

 ルキッラはにっこり笑って悠に部屋の鍵を手渡した。



                  *



「んー、美味しいねこれ」

 レモンかき氷にザクザクとスプーンを突っ込む詩織。悠も口をもぐもぐしながら「うん」


 二人が夕飯まで特に予定がないと聞いて、ルキッラとヴィットーリオが街を案内していた。ただ、ヴィットーリオは日本語が話せない。ルキッラがふたりとやり取りしている間何もすることがないのが退屈だったようで「ちょっとその辺見てくる」と言い残してどこかに行ってしまった。




「レモンかき氷はここのが一番美味しいよ。宿からも近いし、うちに泊まってくれる人には必ずお薦めするの」

 ルキッラはそう言うとすぐに車いすを回転させ、広場から伸びる道の一本を指さした。

「その階段を下ると教会があるの。世界遺産の壁画があって、無料で見られるよ」

 次の道。

「あっちの階段を下っていくと海。船着き場があって、そこから少し歩くと海水浴場」

 最後の道。

「そっちにまっすぐ行った先の階段を降りると、いろんなお店が並んでる市場に行けるよ。果物、野菜、肉に魚、服に骨董品とか雑貨もね。どこか行ってみたいところある?」


「まず海じゃない? 詩織は?」

 悠の提案に詩織は人差し指を頬にチョンと添え「うーん」


「私は教会で絵を見てみたいな」

「あー、そう? じゃあそうしようか」


 この仲良し二人、基本的には悠がリードして、望みがあるときは詩織の方が優先、といった感じらしい。面倒見のいいお姉さんとちょっとわがままな妹みたいだ。ルキッラが車いすのため、階段ではなく遠回りして坂道を使い、教会へと向かった。






 礼拝堂は涼しい。石造りだから……とかいうことじゃなく、エアコンがついているからだ。ここは今でも町の人々が日曜に集まって礼拝をまもることもあって、色々管理が行き届いている。


「あっ、ワイファイ飛んでるー!」

 詩織がスマホを指さして嬉しそうに飛び跳ねた。

「うん。あと、ここはフラッシュたかなければ写真も撮って大丈夫だから、お友達とかにこの壁画見せてあげなよ」

 ルキッラの示す先には例の壁画。悠と詩織は写真を撮る前に「おおー」とそれぞれ感嘆の声を漏らした。


 大勢の甲冑を着た兵士が入り乱れる中、中央で男の人が二人、顔を近づけている。ダ・ヴィンチやミケランジェロのような、遠近法や人体表現が確立された絵ではなく、平面的な古い古い絵。


「これさ、古そうな絵だね。なんかさ、何て言うんだっけ? 中世の遺恨?」

 悠もルキッラも「ん?」と詩織に聞き返す。

「『遺恨』って言わない? こういう絵」

「いこん、ってなあに?」

 ルキッラには日常会話で使わない日本語は分からない。悠が「えーっと」と説明し始めた。

「恨み……かな。忘れられない悔しい気持ち、みたいな」

「ああ。だったら、そうなのかも。この絵はね、ユダの裏切りのシーンなの」


 イエスの弟子であるユダは、彼と他の弟子を裏切り、敵対するユダヤ教の司祭たちにイエスを売った。

 夜の闇の中、隠れた兵士達の前でイエスに接吻し、彼こそそうだと指し示す。イエスは連れて行かれ、最後には十字架に磔に。この絵はその接吻の瞬間だ。


「ねえ詩織、ホントに『中世の遺恨』で合ってる? 私、何となくしっくりこないんだけど」

 悠がそう聞くと詩織は目をつぶって頭を掻いた。


「うーん、私もちょっと違った気がする……」

「どうせ黒川君に教えてもらったんでしょ? 聞いてみなよ」

「イヤ」


 明らかに何かしらのワケあり。宿の支配人が突っ込んで聞くのはマナー違反……突っ込まなければ平気だ。

「お友達に教えてもらったの?」

 ルキッラが笑顔で聞くと悠もにまっと笑った。

「この子の彼氏」

 悠が向けた親指を詩織は睨み付け、軽くフンと鼻を鳴らして言った。

「いつまで彼氏かわからないけどね」


 別れるかもしれないということ……なのかもしれないが、隣で声を出して笑っている悠を見ると、あまり深刻な話でもないらしい。


「詩織が嫌なら私が聞くよ」

 そう言って、悠が壁画の写真を撮った。

「……よし。黒川君、几帳面だから今日中に返事くれるんじゃないかな。ルキッラにも教えてあげるね」



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