雨上がりに笑えば
@AyakawaSatukimaru
雨上がりに笑えば
ところどころにできた水溜りが幾日かぶりの晴れ空を切り取り、灰色に湿ったアスファルトを鮮やかに彩っていた。凛は靴を濡らさないよう足元に気を配りつつ、さっき観た映画のキャスティングについて詩織と熱心に議論を続けた。
「やっぱさ、主役はあの人の方が合ってると思うんだ」
「あぁ、そうかも。でも、それだとヒロインが釣合わないよ」
「うーん、あの子も悪くはないんだけど。何か惜しいんだよね。ま、全体としてはよかったよねー。特にラストがさ――」
「うんうん、あれは良かった。マジ感動」
やっと中間試験が終って今日は試験休み。今回の試験はいつになく手応えがあった。高校に入ってから下がり気味だった成績も挽回できるかもしれない。それに詩織とこうして遊びに行くのも久しぶり。こんなにゆっくりできたのは中学を卒業して以来初めてといってもいい。凛はすっかり上機嫌だった。
「それにしても珍しいね、詩織の部活が休みなんて。雨が降ろうが風が吹こうがひたすら練習してるんだと思ってた」
冗談めかしてそう言ったが、実際ほとんど休みなどないと聞いていた。詩織の高校は県内では一、二を争うスポーツ強豪校。特に陸上部はインターハイ出場の常連で、県外からも志願者が集まってくるほどだ。詩織自身も、中学のときに全国大会でベスト8に残った成績を評価されての推薦入学だった。
「――うん。職員会議だか何だかで監督もコーチも来れないらしくてさ。ほんとなら自主練なんだけど、部長がたまには休みも必要だろうって」
「ふーん」
部活の話をした途端、詩織の顔がこわばったように見えて凛は少し首を傾げた。返答もやけに早口で目も合わさずスタスタ歩いていく。
何かあったのかな。
気にはなったが、いつもと違う様子にこちらからは切り出しにくい。話したければ話してくれるだろうと、とりあえずそっとしておくことにした。
少し足を速めて詩織に追いつくと、黙ったまま並んで歩く。いつもならどんなにくだらないことでもネタにしておしゃべりが尽きることはないというのに。こんなときに限って話題が思い浮かばない。
ふと道路脇に植えられた紫陽花が目に入った。陽射しを受けて眩しいほどに照り映える緑の葉と様々に色づいた花。
春雨が音もなく乾いた地面に吸い込まれるように、凛の心はほんの一瞬現在を忘れて異次元へ飛ぶ。
その色は世界中の空の色を集めて一つ一つに閉じ込めたみたいだった。透き通った薄い青から夕闇に飲み込まれそうな深い群青、朝焼けのような薄い赤もあれば、はるか昔にどこか遠い国で語られた物語を思わせる憂いを含んだ紫。
そういえば、ほんとはあれって花じゃないんだよね。
花に見えるのは装飾花といってガクが発達して花弁状になったもの。実際の花は丸くて小さい粒みたいでとても花には見えないという。
生物の授業で習ったことを思い出し一人肯く。
「紫陽花ってさ、なんであんなにいろんな色なんだろ」
詩織がぼそっと独り言のように呟いた。その台詞で現実に引き戻された凛が驚いて詩織の方を向くと、凛の視線にも気がつかない様子でぼんやりと紫陽花を見ている。その物思いに沈んだ様子から、沈黙に耐えかねて話を振ってくれたというわけでもなさそうだ。
「紫陽花はね、土の酸性度によって花の色が変わるらしいよ。たしか、土がアルカリ性だと赤く、酸性だと青になるんじゃなかったかな」
「ふーん。けど同じ木から咲いてる花でも違う色のがあるよ。土が一緒なんだから、酸性とかも同じじゃないの」
「うん。私もあんまり詳しくないんだけど、花が咲く時期で変わってくるんだって。何かの本に載ってた」
「へー」
興味なさそうに肯いた後、
「凛は何でも知っててすごいね」
詩織の珍しく少し棘を含んだような言い方に凛はまた首を傾げた。
やっぱり、なんか変だ。
どうしたの? と訊こうとするより一息早く
「いいよね、凛は。勉強できてさ」
嫌味を言われたのかとさすがの凛もちょっとムッときたが、それよりも詩織のどこか投げやりな口調の方が気になった。
これが詩織以外の人間から言われたのなら、そんなことないよー、○○ちゃんの方が頭いいじゃんとか適当に受け流すところだが、考え直してちょっと肩をすくめると
「詩織がどう思ってるかは知らないけど、そんなに成績良くないんだよ。特に高校入ってからはね。こんな進学校じゃ下から数えた方が早いくらい。受験前は死ぬほど勉強したのに、今じゃ合格したことを何度後悔したか」
なるべく軽い調子で言ったつもりだったが、初めて口にした本音は思っていた以上に苦い後味が残った。詩織にもそれが伝わったのか、意外そうに眉を上げてこちらを見て
「そっか」
とだけ言った。
また、しばらく並んで黙々と歩く。足元で水の跳ねる音だけが響き、時折湿った風が二人の前髪を揺らして吹き抜けていった。その風に乗って、子供たちが公園ではしゃぐ声が切れ切れに聞こえてくる。
「あのさっ」
急に足を止めると思い切ったように詩織が切り出した。
「辞めようかな、と思うんだよね。――陸上」
「……怪我でもした?」
黙って首を振る詩織に
「そう」
「うん」
風が止んで、深い静寂が訪れる。凛はじっと詩織を見つめて続きを待った。詩織は視線を泳がせて言葉を探している。結局、足元の水溜りにも手に持った傘の柄からも紡ぐべき言葉は見つからなかったようだ。あるいは、掴み取ろうとするその前に風がさらっていったのかもしれない。何度か口を開きかけたが、諦めたように小さく首を振ると歩きだした。
「納得して決めたのなら、それでいいんじゃないかな。いくら他人がどうこう言ったって、結局自分で決めた人生を生きるのは、自分なんだし。無責任に聞こえるかもしれないけど、私はそう思うよ」
少し先を歩く詩織を追いかけながらその背中に話しかける。彼女の足は速度を緩めることなく前へ進む。
「でも……納得なんかしてないんだよね、全然。何があったか知らないけど、自分の気持ちをごまかすのは良くないと思うよ。きっと後悔する。それに――、詩織らしくない」
「――何があったってわけでもないんだ。ひとことでいえば、あたしは平凡な人間だったってこと。ただそれだけ」
「スランプ?」
振り返った詩織の顔には無理やりこしらえたようなぎこちない微笑が浮かんでいた。
「言うのは簡単だけどね。ま、あたしも最初はそうだと思ってた。これは誰もが通る試練なんだって。これを乗り越えたらあたしはもっと速くなれるんだって、追い込んだ。でもね、やっぱり違うんだよ、才能のある人たちってのはさ。もう完全に場違い、空回り」
もっと頑張らなきゃ、絶対追いつくんだ、あともうちょっと――。
詩織の言わんとするところは凛にもよく分かった。陸上のことには詳しくないが、凛も同じような劣等感ともいえるモヤモヤをつい最近まで抱えていた。同じ土俵にあがったつもりでいた自分が恥ずかしくなるほどの敗北感。努力では超えられない壁のような実力差。試験の成績が張り出されるたび、天才ってこういう人たちのことを言うんだ、と思ったものだ。
「いつ頃からなの?」
詩織はちょっと肩をすくめると
「去年の夏ぐらいかな。途中まではさ、順調だったんだよ。それが夏休み明けくらいからどんどん調子が落ちて」
語気を強めると
「ちょっと周りの子たちより速く走れたからって調子に乗っちゃって、おだてられて、勘違いして、身の丈に合わない高校に入ったのが間違いだったの。昔の人は偉いよね、ほら、諺であるじゃん。カエルの丸飲みがどうこうって」
「……井の中の蛙、だね」
そっと凛が訂正すると詩織はうんうんと肯いて
「それそれ。まさしく私のことだよ」
「だから、やめるの?」
黙り込んだ。
「……別に、責めるつもりはないんだよ。さっきも言ったけど、詩織がほんとにそうしたいならそうすればいい」
肩の力を抜くようにふっと息を吐くと、小さな声で
「分かんない。自分がどうしたいのかなんて。あたしらしくないよね、こんなことで悩むなんて。それは分かってるんだ」
凛は首を振って
「誰でもそうだよ。迷わない人なんて、いない」
「うん。陸上が嫌いになったわけじゃないんだ。周りはトップレベルばっかだし、ついてけなくて嫌になることもあるけど、走ることそのものは、やっぱり好きなんだと思う。でも――」
一度そこで言葉を切って、思い出したように再び歩き始める。アスファルトは陽に暖められて乾いたのかざらついたグレーを取り戻しつつある。
「すごく憧れてた先輩がいたんだ。けど、怪我してやめちゃった。もう、今までみたいには走れないんだって。思わず叫びそうだったよ。なんであたしじゃなくて先輩が、ってね」
「その先輩、強かったの?」
「当たり前じゃん! うちのエースだったんだから。走ってる姿なんかめちゃくちゃ格好良くて、学校中の憧れの的よ。おまけに優しくて、相談にもよく乗ってくれた。あの日だって、全体練習の後、居残りで自主練してたら声掛けてくれて、色々話聞いてもらってさ。そしたらその帰りに事故に遭って……」
それを聞いて凛は納得した。詩織はスランプだとか才能がどうこうだとか、もちろん悩みはするだろうがそれくらいで折れるようなタマじゃないのだ。だが、憧れの先輩の引退が自分のせいかもしれないと思えば、やり切れなくなるのも無理はない。責任感の強い詩織らしいといえば詩織らしい。
「でも、それは詩織が責任感じることないよ。その先輩には気の毒だけど、仕方ないじゃない」
「うん、それは、分かってる。周りも、先輩もそう言ってくれた。本心かどうかはともかくね。『お前のせいじゃない、気にするな』って。ただ……」
「ただ?」
「退学したの。仕方ないといえば仕方ないよ、そりゃ陸上やる前提での推薦入学で学費免除だったんだから。理屈は分かる。でもあたしは腹が立ったんだ。だってそうでしょ? まるで用済みになったから捨てるみたいじゃない。これまでにも十分いい成績残してきたんだから、それはあんまりだって、抗議しようとした。でも、無駄だった。みんなのヒーローは一夜にしてただのお荷物になったってわけ。先輩は結局高校やめてどこかで働くことにしたみたい」
「それは可哀相だね」
「うん。でもね、先輩がやめる日、挨拶に行ったらこう言われたの。『みんなは俺が可哀相だ、不幸だっていうけど、むしろラッキーだった』」
「ラッキー? どうして」
凛はわけが分からず、思わず口を挟んだ。
「でしょ。あたしもどういう意味かきいた。そしたら『いつかはこんな日がくるかもしれないと思ってた。毎日毎日バカみたいに走りまくって、それで何が残る? 走れなくなったら使えなくなったら誰からも相手にされないんだぜ。そういう世界なんだ。早いうちに気がついてよかったよ。今ならまだ、間に合う。まともな生き方を見つけるよ。お前も、ほどほどにしておいたほうがいい。やり直せるうちにな……』」
震える声でそう言うと詩織は目を閉じた。ショックだったのだ。憧れてきた生き方を当の本人に否定されることは、ひょっとしたら自分が走れなくなるより辛かったに違いない。これまでの人生も、これからの目標さえも否定されるということだ。
凛がもしその場にいれば、その先輩とやらをひっぱたいていたかもしれない。後輩が自分に憧れていたことを知っていながら、どうしてそんなことが言えるのか。思い描いていた将来が不意に閉ざされて自棄になっていたのだとしても、あまりに勝手すぎる。
「きっと、本心じゃないよ」
凛にはそう言うことしか出来なかった。詩織は身体中の空気を入れ換えるみたいに大きく深呼吸すると
「そうかもしれない。というか、そうだと思いたい。でもね、先輩のいうこともよく分かるんだ。だって、あたしから陸上とったら、何が残る? あたしはあの時何も言い返せなかった。いくら頑張ってみたところで地区大会にも出れやしないのは事実なんだもの。そんなもののために一度しかない青春を棒に振るなんて、バカみたいじゃない。それでね、ちょっと悩んでたってわけ」
いつもの調子を取り戻したように肩をすくめておどけてみせた。それから急に向き直ると真剣な口調で
「凛は……」
「えっ」
「凛は迷わないの?」
真っ直ぐ、視線がぶつかる。少し前までなら、すぐに目を逸らしてしまっていただろう。だが、凛はじっと見つめ返しながら
「いったでしょ。迷わない人なんていないんだよ。私も、先のことなんて全然分からない。勉強だけがとりえで、ちょっとでもいい高校から偏差値の高い大学に行って、大手企業に就職してバリバリ働いて、なんて思ってたけど、実際高校に入ってみれば、私より優秀な人間なんて余るほどいるんだよね。入学して最初の実力テストなんか、散々だったよ」
話しながらあのときの記憶が蘇り、凛は思わず苦笑いした。試験結果が返却された日、予想をはるかに下回る成績に打ちのめされた。なかなか家に帰る気になれず、本屋で立ち読みしたり帰りの電車をわざと乗り過ごしてみたりと無駄に時間を潰して、やっと家に着いたのは夜の十時頃。居残って自習してたなんて言い訳してから、ほんとにそうすれば良かったと後悔したことを思い出す。
「一旦心が折れたらもうダメだってのは分かってたから、なんとか踏ん張ったけど、やっぱり目標というか、目指すとこないと難しいんだよね、気持ちがさ。で、けっこう真剣に悩んでた。つい最近まで」
「凛が勉強のことで悩むなんて信じられないや。恐ろしい学校だね」
「私だって、詩織が陸上のことで躓いてるなんて意外だったよ。カエルはお互いさまってこと」
「それで? 今はもう何か目標みつけたんだ?」
肯いてから
「っていってもそんなにはっきりしたものじゃないよ。まだ、これから変わるかもしれないし……。とりあえずってとこかな。――映画関係の仕事がしたいんだ」
「映画?」
「そう。授業でね、昔の映画について調べることがあったんだ。で、まぁそれまで特に興味もなかったんだけど、何の気なしにレンタルショップでいくつか借りて観てみたの」
一度言葉を切ってふっと息をつくと
「そこにはまるで別の世界があった。色んな人がいて、泣いたり笑ったり戦ったり恋したり。出会いがあれば別れもあって。たった二時間くらいの中に全てがあった。他の人には当たり前でも私にはそれが衝撃だったの。それがきっかけ。今までだって別に映画を観たことがなかったわけじゃないんだけど、そんな風に思ったのは初めてだった。そっからは手当たり次第に洋画も邦画も古いものから最新のまでいろんなのを貪るように観た。おかげでまたまた成績下がりそうになったけどね。ま、なんとか頑張ってる」
「なんていう映画だったの?」
凛は笑って
「詩織はきっと知らないよ。私の両親でもほとんど知らなかったくらいだし。あんまり有名でもないしね」
「へー」
案の定、詩織はあまり興味がなさそうだったが、からかうように
「じゃあ、将来はハリウッド女優だね」
「まさか。女優なんてガラじゃないよ。私はどっちかというと裏方がいいの」
「そっかー、でも凛なら大丈夫だよ。勉強できるし、何にでもなれるんじゃない? あー、あたしも頭良く生まれたかった」
ため息をつく詩織の言い方があまりに切実で、凛は反論するより笑ってしまった。
「でもね、まだあんまり周りには言ってないんだ」
「なんで? かっこいい夢じゃん」
詩織が目を丸くする。
「だって、ちょっと映画観て感動したからって憧れるなんて、単純すぎない? 今まで考えたこともなかったんだよ。それにそういう才能って学校の成績とはきっと関係ないと思う。競争率だって高そうだし、憧れだけじゃ到底無理」
「そういうもんかなぁ」
「とにかく、そう思って誰にも言えなかったし、本気で目指そうとも考えてなかった。けど、最近ある人に言われたの。『憧れも、立派な生きる理由の一つだ』って。それで、覚悟を決めた。まだ漠然とした憧れだけど、少しでも近づいていつか自分だけのものにするって」
凛が言い切ると詩織は遠い目をして呟いた。
「憧れ、かぁ」
例の先輩のことを思い出しているのかもしれない。それとも、もっと昔、陸上を始めたときのことだろうか。
ふと、面白いものを見つけた子供のようないたずらっぽい顔で凛を見ると目を輝かせて
「ちなみにさ、そのある人って、誰?」
「……詩織の、知らない人だよ」
「学校の先輩? 彼氏? どんな人なの?」
畳み掛けるような質問攻めに苦笑しながら
「――秘密」
「えー、あたしは先輩のこととか全部言ったのにずるいよ」
口を尖らせる詩織に
「またそのうち教えてあげるから。今はまだダメ」
「……ま、凛がそう言うなら仕方ない。いつか絶対聞かせてよ。絶対だからね」
「はいはい」
傘を突きつける詩織に両手を挙げて降参のポーズをしながら再び歩き出した。その頭上、どこからともなく一羽のツバメが現れ二人の目の前を横切って滑空すると、近くの軒先へと消える。
「あ、ツバメだ」
「あ、ツバメだ」
「もうそんな季節なんだね」
「もうそんな季節なんだね」
どうやらふざけて復唱しているらしいと気づき
「アメンボ赤いのあいうえお」
「アメンボ赤いのあいうえお」
「生麦生米生卵」
「生麦生米生卵」
「バスガス爆発」
「バスガス爆発」
早口言葉も難なくクリアされ、ため息をつくと
「なんなの、さっきから急に」
「ツバメ返し」
一瞬、何のことか意味がわからず呆気にとられた。が、詩織の顔は真面目そのものだ。すぐ何が言いたかったのかわかって吹き出しそうになるのをこらえながら
「それを言うならオウム返し、でしょ」
「えっ、そうだっけ。じゃツバメは?」
「知らないよ、そんなの」
凛は詩織と顔を見あわせると、同時に笑い出した。二人の笑い声は子ツバメたちがエサをねだる鳴き声と重なり、青空に吸い込まれていった。
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