第三楽曲 恋人達はかく語りき パート2
意識した
(え? あれ、なんで?)
「どうした、ミレア」
「す、すみません。なんか、指が……動かなくて」
なんなのだろう。ほっとするより不思議で、首を
「大丈夫かい、ミレア。
「あ、はい。すみません、もう一度お願いします」
指揮台のリアムに答えて、バイオリンを構え直す。だが、かたかたとバイオリンが──手がまた震えだした。
(な、なんで? なんで動かないの、弾かなきゃ)
──何を?
自分の頭で
青ざめたミレアに真っ先に気づいたエルマーが、もう一度声を上げた。
「リアム、ストップだ。──ミレア、ちょっと落ち着くんだ」
「は、はい。あの……」
「手が動かない?」
周囲に
「
「……」
「大丈夫だ。心配ないよ。俺達なら大丈夫だ」
──心臓が音を立てた。ときめきじゃない。
(どうして、どうして。どうして動かないの、私の手)
バイオリンを弾くためのミレアの手。アルベルトが大事にしてくれた手が、動かない。
「ミレア、真っ青だ。リアム、ひとまずリハはここで切り上げよう」
「そうだね、医者を呼ぼう。本番に間に合うといいけれど」
「だ、
大丈夫じゃないと
「すぐ止まります。前にもこういうこと、あったから」
確か父親が突然現れて、聖夜の天使の気配がなくなった時だ。あの時はどうして止まったのだろう。思い出して、泣き出したくなった。
アルベルトがいてくれたのだ。でも、今はいない。自分で自分を
(どうしよう、弾けなくなったらっ……なんでなの、聖夜の天使はちゃんとそばに──)
いない。自分を抱いて、気づいた。今の自分には聖夜の天使にもらった羽がない。
あるのは、あちこちに張り
ただの
いつの間に。
「──ミレア!」
飛びこんできた声と
「どうした、何があった」
「……アルベルト」
こんな時にどうして現れるのだろう。きてくれても、ミレアは目を合わせられないのに。
リアムが少し
「どうして君がここに? 敵情視察
「今はそれどころじゃないでしょう。ミレア。ゆっくりでいい、バイオリンを放せ」
「で、でも、聖夜の天使のバイオリン……」
もし弾けなくなったら、もう二度と持てなくなったら。
首を
「分かった。──なら大事に抱いてろ」
「え……え、ええっ!?」
ひょいと
「医者に
「彼女はこれから本番だよ」
「弾けるわけないでしょう、こんな状態で。今夜の演奏会は中止にするよう手配します」
「君に決められる筋合いはないし、俺は認めないよ?」
「これは
「……なるほど。君はバイエルン公爵家のご子息だものね。そう言われたらこちらには異議を唱える手立てがない」
「ご理解いただけて助かります」
「でもミレア。君が弾かないなんて、聖夜の天使のことはいいのかな?」
背中で聞いた声に、血の気が引いた。アルベルトが
「聖夜の天使? なんの話です」
「ミレアに協力してるんだ。
「──アルベルト! 私、大丈夫だから。弾けるから、はなして」
「弾けるわけないだろう、
「でも、だって、でないとっ……聖夜の天使が」
「君は聖夜の天使のことになると本当に見境がないな。
「新聞社の連中だって色々
「でも……だって、もらったイヤリングとか色々、一点物だから、そこから、
「ああいう一点物を取り
バイエルン公爵家の力で足がつかないようにしている──というのが、正しいのだろう。
「分かったか? ならまず医者だ」
リアムも何も言わない。大人しく担がれたまま歩き出されて、はっと我に返った。
聖夜の天使のことはいい。だが、アルベルトとのことはまた別だ。
「だっだめ! じ、自分でお医者さんいける、から……アルベルトってば!」
ミレアの
(どうしよう、どうしよう! 手も……)
意識すると震えだしそうな手をぎゅっと
「──おい、あれ、アルベルト・フォン・バイエルンとミレア・シェルツじゃないか?」
会場から出た途端に聞こえた声に、ぎくりと身を
「おい、お客さん。いきなり乗りこまれちゃ──あ」
「出してくれ。バイエルン公爵
アルベルトの顔を見て
ほっと一息つくと、真向かいの席にアルベルトが座った。
どんな顔で問いかけていいか分からずに、目をそらしたまま別の質問をする。
「……どうしてバイエルン公爵邸なの? お医者さんじゃないの?」
「ああ、
「え、ええ? お、落としたの?」
ぽかんとして、ミレアはその横顔を見る。どうしよう、アルベルトが変だ。
「あ、あの、アルベルト……?」
「──いや。大丈夫だ、ミレア。何も心配しなくていい」
辻馬車はがたがたと音を立てて進む。手の
バイエルン公爵邸は口を開けて
アーチの左右についた
大理石の
「おかえりなさいませ、アルベルト様」
「医者を呼んでくれ。彼女の手を
「かしこまりました。──失礼ですが、こちらのお
「ミレア・シェルツだ」
アルベルトの答えに、
「これはこれは、〝バイオリンの
「それを調べるんだ、念入りに
ちらっとアルベルトがミレアに視線を投げ、すぐに老執事へと向き直った。
「彼女に
似合っていないから趣味が悪いにまで進化した。
「客間の準備も頼む。報告は
「承知
「ああ」
「えっ」
そんな話は聞いていない。驚いたミレアに、アルベルトは素っ気なく説明する。
「会場で僕と出るのを見られただろう。宮廷楽団の前で記者連中が待ち構えてるぞ」
「……え、でも、あの……」
「じゃあ、あとは頼む」
「ええっ? お、置いてくの?」
歩き出そうとしていたアルベルトが振り向いた。自分から声をかけたのに、目が合う前にさっと顔を
「……僕の
ばっと顔を上げると、
(……おためしでも認めないって、言ってたのに……)
どういう心境の変化だろう。
「ミレア様、こちらへ。お医者様を待っている間に、湯浴みと着替えをすませましょう」
「あ、あの、でも……私、やっぱり帰りま──」
「アルベルト様があのように
穏やかな
その後は
ああでもないこうでもないと着せ
(な、何しに連れてこられたんだろう、私……)
最後には神経質そうなメイド長がやってきて、アルベルト様のお好みの香水はこちらですとかなんとか全身を念入りに確かめられた。メイド達がミレアそっちのけで話し合った結果、
胸下をゆるく
「それでは、こちらの部屋でアルベルト様をお待ちください」
借り物のケースに入れたバイオリンを
「ここ、サロンに使ってるのかな……あ」
チェストの上にずらりとトロフィーが並んでいた。
「プザニスの指揮者コンクール……ほんとだ優勝してる。うわ、これも優勝……」
大半が優勝だ。
「たまには参加賞とかあっても……あ、これバイオリンのだ!」
年代をさかのぼっていくと、
(聖夜の天使の時の、あるはずよね。どこかな)
ミレアがもらったバイオリンは、優勝賞品だと聞いた。年月を逆算して当たりをつけ、刻印とにらめっこをする。そして見つけた。
「これだ……パガーニ国際コンクールのジュニア部門……」
年月がたっているせいか、トロフィーは少しくすんで見えた。手にとって
「もらっちゃだめかな。だめだよね。私が気づいてるってばれちゃいそうだし……」
そっとトロフィーの刻印を指でなでてみた。それだけでじんわり幸せな気分になる。
(……よかった。聖夜の天使の正体、ばらされなくて……)
もちろん、問題が片付いたわけではない。心配事が一つへっただけだ。
「あ、は、はいっ」
「夕飯だ。サンドイッチでいいだろう?」
ミレアが大好きな卵サンドイッチだ。ハムが入ったものも、チーズが入ったものも、両方入っているものもある。それにシチューと、ホットミルクまで
「あの……これ全部、アルベルトが?」
「そうだけど。ちなみにデザートはマフィンだ」
公爵家から
「お、お屋敷で料理して
「父上にさえ見つからなければね。フェリクスがきた時にも、夜食くらいは勝手に作るし」
「そ、そうなんだ」
だったらそう特別ではないのかもしれない。いつもなら自分だけだったらいいのにと思うのに、今日は
「まあ、女性は君にしか作ったことないけど」
ぴたっと足が止まった。それを見てアルベルトが笑い出す。
(あ、遊ばれてる……!?)
こっちはリハーサル中に
「手も
「……別に、平気……」
「そうか。──用意できたぞ。座れ」
だが、アルベルトからの視線がちくちく全身に
「あ、あの、今日の演奏会ってどうなったの。やっぱり中止に……?」
「中止というか、代わりに
目の前に、ホットミルクが置かれた。それにも顔をそむけて
「繰り上げって……それで、
「馬鹿師匠のリハは聞いてただろう。
──不満などないだろう。
(私の演奏じゃないんだ。……そういうことなんだ)
当然だと思う。自分でも何を
「君たちへ向けられていた賞賛は、今は全部あの馬鹿師匠達のものだ」
「うん。……もう古いってことだよね」
「だがリアム氏なら、あれ以上に技術をこらした再現をして評判を取り返すだろうな」
それは、ミレアが
(でも、私にはリアムさんの曲想を
だから、聖夜の天使からもらった羽がない。手が
「あとは僕が君を連れ出すのを
「それで、君はどうして僕と目を合わさないんだ」
「そ、それは」
「言えないならいいけどね」
どさりとアルベルトが腰を下ろした。ミレアと真反対の、ソファの一番
同じソファに座っているのに、不自然に大人二人分くらいの
(お、怒ってる? それともさけられてる?)
最初に離れて座ったのは自分なのに、弱い
「だ、だって、だって……」
──こっちを向いて。胸を
「リ、リアムさんに好きだって告白されて……ど、どうしていいか分からないんだもの。私はリアムさんを好きじゃないのにどきどきするし、
内容が
「でも指揮はすごいし、好きになれとか言われたわけじゃないし、なんだかよく分かんなくなってきちゃっ……アルベルトがいるのに、他の人にどきどきするなんて、そ、そんなの……う、
彼はもう気づいている。しゃくり上げたミレアは、声を絞り出した。
「き、嫌わないで……」
そして理解した。それが一番怖かったのだ。
「ごめんなさい、
あとは言葉にならなかった。
(どうしよう、どうしよう。アルベルトに嫌われちゃったら、バイオリン弾けない)
──ぷ、と噴き出す音が聞こえたのは、その時だった。
アルベルトがソファの
およそ今の
「なんで笑うの!?」
「いや。──本当に子供だな、と思って」
アルベルトが顔を片手で
ミレアは無言でソファに置いてあったクッションをがしっとつかみ、振り上げる。
「君みたいな子供が口説かれたら、動揺してどきどきするのは当たり前だ」
投球体勢のまま止まった。口元に
「経験のないことが突然降りかかれば、
クッションを振り上げたまま、ぱちぱちとまばたく。アルベルトは鼻で笑った。
「聖夜の天使の正体だって、君の気を引くためにリアム氏が引っかけた
「……。そ、それはそう、かもしれないけど……え、じゃあ、私……」
「それでバイオリンまで感情に引っ張られて、あの演奏か。
勘違い。──なら、リアムにどきどきして、心を
全身から力が
(よかったぁ……う、浮気じゃなかったんだ……勘違い……)
振り上げたクッションを下ろし、
「反省しろ。思考停止して自分を殺して演奏してれば、指だって動かなくもなる」
「う……だ、だって男の人に、好きだなんて言われたの初めてでっ動揺してっ」
アルベルトの親指が、ミレアの目元をぬぐう。いつの間にか距離が縮んでいた。
「言い訳するんじゃない」
久し
「だから言ったんだ。君にはまだ
さらさらの
(ぶ、不細工じゃないかな。さっきいっぱい泣いたし……目、
アルベルトはこんなにかっこいいのに、自分が
「アルベルト、あの……ひゃっ」
ちゅっと音を立てて
「しょうがないから、おためし期間につきあうことにした」
「て……手をつないで、デートしてくれるの?」
「それも考えないではないけど。でも、それだけじゃ男に
じゃあ何が主眼か、と問いただすほど、ミレアは
「えっ……お、おためし期間なのに、そういうことになるの!?」
「そういうことになるんだ。思い至らないあたりが、本当に子供だな」
「ま、待って待って、心の準備が……近いっ顔、近い!」
持っていたクッションでアルベルトの顔を押しのけようとする。が、あっさり取り上げられてしまった。全力
「聖夜の天使聖夜の天使うるさいと思ってたら次はリアム氏で、本当に君はふらふらする」
口調に
(リアムさんは勘違いだし、聖夜の天使はアルベルトなのに、なんで──あ)
アルベルト以外の人を見ているからだ。だからミレアをつかまえようとする。リアムはともかく、聖夜の天使のことは自分で
(……でも、じゃあ
どうせなら
でもあなたが追いかけてきてくれるなら、その手の届かない
「……キスは、まだ
低くかすれた声に耳元で
親指で唇をなぞられて、何を望まれているか理解する。
「ミレア──」
「アルベルト!! ミレア・シェルツを連れこんだというのは本当か!」
「
ばあんと派手な音を立てて
同時に、ミレアは力の限り暴れた。
「アルベルトのばか、放して! い、今何しようとしたの!? 私、いいって言ってない!!」
「ちょ……ちょっと待つんだ、ミレア・シェルツ。私の
アルベルトの
「迷子になるだろうから、客間に案内できるよう使用人に指示してくれ」
「かしこまりました、アルベルト様」
「アルベルト、事情を説明しろ! 父は許さん!!」
後ろの
(信じられない、信じられない! まだおためしなのに、キスしようとするなんて!)
力強い腕と、熱っぽく
初めて見た。どうしよう。
「……えへ……えへへへへ……だ、だめだけど! だめだけど、えへへ」
どきどきする。不安でも
ちゃんとアルベルトだけに、どきどきしている。
嬉しくて今すぐバイオリンが
──アルベルトの、高嶺の花になろう。
「──ミレア! どうだった、手は」
「ご心配おかけしました、大丈夫です」
翌日練習室に顔を出したミレアは真っ先に頭を下げた。
「ミレア、本当に手は大丈夫?」
不意をつくように横から
「お医者さんにも大丈夫だって言われました。弾けます」
意表をつかれた顔で、リアムが目を丸くする。だがすぐに
「ならよかった。──ところで、昨日はどうしたの? バイエルン
「あ、はい。
そこでアルベルトとのことを思い出して、かあっと顔が赤くなった。
記者達をさけるため朝早くバイエルン公爵邸を出たミレアは、昨夜以降アルベルトに会っていない。気持ちが
(あ、あとでちゃんとお礼して謝らなきゃ……でもアルベルトにどんな顔しよう!?)
全員が注視する中で、もじもじとうつむいて、小さく答える。
「と、泊めてもらいましたけど、なんにもなかったですから……」
「いやあからさまに何かあっただろう!? あの若造に何されたんだ、ミレア!」
「エルマー、落ち着いて。……で、一体何があったのかな、ミレア」
「あっそうだ! リアムさんに選んでもらったドレス、だめになっちゃったんです……」
リアムが目を丸くした。申し訳なさで首を
「昨日、新人のメイドさんがほつれたレースを整えようとしてくれたんですけど、手元が
「……ざくっと」
「ざくっとです。お
張りつけたような笑顔で、リアムは答える。
「分かったよ。ずっと同じドレスというのも味気ないし、いい機会だね」
「伝統的なのから
「……バイエルン公爵邸の使用人は、とても
さわやかな声は意味深だったが、ミレアは
「ミレアが戻ってきてくれたのが一番だよ。正直、もう戻ってこないかと思ってた」
「えっ、そんなことしたらアルベルトに勝てないじゃないですか!」
ミレアの回答にリアムは
「……そうだね。そうだった。じゃあ、
「はい」
頷いて、エルマーの横の席に座り、バイオリンを取り出した。音合わせの最中に、昨日リハーサルで止まってしまったところからという指示をリアムは出す。
(私がアルベルトに勝たなきゃ)
リアムの
「じゃあ、始めるよ。いち、にい、さん──」
さあ、まず右手を上げて、微笑んで。糸が引っ張られるような感覚がある。それが天才パガーニの奏でた音楽。
左手ピッツィカート、トリルにダブル・ハーモニクス。口元に笑みをのせて、弓元から弓先まで均一な音量と音色を保つ。フェリクスにも負けない
これは悪い女の子の物語だ。彼女はたった一人を振り向かせるために、
(あなたの思いどおりになんてならない。つかまらない)
振り向いたら視線をそらして、手を伸ばされたら
「──ストップ! どういうつもりだミレア、演奏が全然
「これで弾かせてください」
「何を言い出すんだ。二回目の
片手で顔を
「彼に何を言われたんだい、ミレア」
「な、何も言われてません。ただ、私がこう弾きたいと思ったんです」
「そんなわけが──いや、そうだったとしてもだ。そんな子供じみた曲想、採用できない」
「……まぁ、悪くはない曲想だったけどな。まだ
横から入った
「エルマー!」
「まあ落ち着けって、リアム。──でもなあ、ミレア。演奏会まで十日きってる。今から完成させるってのは
「……でも、リアムさんと皆さんなら、できるんじゃ……」
リアムが
「俺達は勝つために審査に
ぐっとミレアは
「じゃあ、仕切り直しだ。ミレアも、分かったね」
「──でも今のままじゃ、私じゃなくたっていいじゃないですか」
全員が見ている。分かっていて、口に出した。
「リアムさんの指揮だって、マエストロができる。エルマーさん達だって、
「指揮者とオケの
冷たく切って捨てたリアムに、
「──だったらリアムさん、勝負しましょう。
リアムが
「私と第一バイオリンの皆さん一人ずつで、
「君が負けるに決まってるじゃないか。君が一人で弾き続けるなら、人数が多ければ多いほど君が不利だ」
「だったら、リアムさんは私が負ける方に賭けるんですね」
「それで負けたら、君は俺の言うとおりに
「はい」
「なら、もう一つ条件だ。第一バイオリンだけじゃなく、第二バイオリンも相手にすること」
──三十名近くを相手にしなければならない。
「やります」
「曲は?」
「パガーニの五番」
速弾きだけを追求した難曲だ。ミレアの選曲にリアムは
続きは本編でお楽しみください。
ドイツェン宮廷楽団譜 嘘つき恋人セレナーデ/永瀬さらさ 角川ビーンズ文庫 @beans
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