第三楽曲 恋人達はかく語りき パート2





 めんだいに置いていたハンカチが、何かの合図のようにひらりと落ちるのが見えた。アルベルトから借りたままのハンカチだ。

 意識したたんとうとつに指が止まった。え、と思わず声が上がった。指が動かない。

(え? あれ、なんで?)

 とつぜん止まったミレアの演奏に、音楽が止まる。声をかけたのは横のエルマーだ。

「どうした、ミレア」

「す、すみません。なんか、指が……動かなくて」

 ふるえている。まるで自分の手じゃないみたいに、感覚がにぶっていた。だが握る開くをり返すと、震えはおさまった。落ちたハンカチを拾うこともできた。

 なんなのだろう。ほっとするより不思議で、首をかしげてしまう。

「大丈夫かい、ミレア。けそう?」

「あ、はい。すみません、もう一度お願いします」

 指揮台のリアムに答えて、バイオリンを構え直す。だが、かたかたとバイオリンが──手がまた震えだした。

(な、なんで? なんで動かないの、弾かなきゃ)

 ──何を?

 自分の頭でね返った問いに答えがない。どっと、足下がくずれたような落下感がおそった。

 青ざめたミレアに真っ先に気づいたエルマーが、もう一度声を上げた。

「リアム、ストップだ。──ミレア、ちょっと落ち着くんだ」

「は、はい。あの……」

「手が動かない?」

 周囲にどうようが広まり、みながミレアを心配そうにのぞきこむ。指揮台から下りたリアムもやってきて、手を取りなでてくれた。

きんちようしてる? それともマエストロの演奏にあてられてしまったかな」

「……」

「大丈夫だ。心配ないよ。俺達なら大丈夫だ」

 ──心臓が音を立てた。ときめきじゃない。おびえだ。自覚すると、さらに震えがきた。

(どうして、どうして。どうして動かないの、私の手)

 バイオリンを弾くためのミレアの手。アルベルトが大事にしてくれた手が、動かない。

 きようがせり上がってきた。呼吸が浅くなる。エルマーが顔をしかめた。

「ミレア、真っ青だ。リアム、ひとまずリハはここで切り上げよう」

「そうだね、医者を呼ぼう。本番に間に合うといいけれど」

「だ、だいじようです」

 大丈夫じゃないといやだ。そんな必死さをかき集めて、ミレアは手を握りめる。

「すぐ止まります。前にもこういうこと、あったから」

 確か父親が突然現れて、聖夜の天使の気配がなくなった時だ。あの時はどうして止まったのだろう。思い出して、泣き出したくなった。

 アルベルトがいてくれたのだ。でも、今はいない。自分で自分をき締める。

(どうしよう、弾けなくなったらっ……なんでなの、聖夜の天使はちゃんとそばに──)

 いない。自分を抱いて、気づいた。今の自分には聖夜の天使にもらった羽がない。

 あるのは、あちこちに張りめぐらされた糸。その糸は、今、やさしく手をなでるリアムの指揮棒につながっている。

 ただのあやつり人形だ。

 いつの間に。しようげきで頭が真っ白になった。

「──ミレア!」

 飛びこんできた声といつしよに、ミレアの手がうばわれた。

「どうした、何があった」

「……アルベルト」

 こんな時にどうして現れるのだろう。きてくれても、ミレアは目を合わせられないのに。

 リアムが少しこわいろを低くする。

「どうして君がここに? 敵情視察こうは禁じられているはずだけど」

「今はそれどころじゃないでしょう。ミレア。ゆっくりでいい、バイオリンを放せ」

「で、でも、聖夜の天使のバイオリン……」

 もし弾けなくなったら、もう二度と持てなくなったら。

 首をってこばむと、アルベルトが息を一ついた。

「分かった。──なら大事に抱いてろ」

「え……え、ええっ!?」

 ひょいとかたかつぎ上げられてぎようてんした。立ち上がったアルベルトが、リアムに向き直る。

「医者にせます、いいですね」

「彼女はこれから本番だよ」

「弾けるわけないでしょう、こんな状態で。今夜の演奏会は中止にするよう手配します」

「君に決められる筋合いはないし、俺は認めないよ?」

「これはきゆうてい楽団を取り仕切るバイエルン公爵家の決定だ」

 かんはつれず宣言したアルベルトにリアムがどうもくし、その後でうすく笑った。

「……なるほど。君はバイエルン公爵家のご子息だものね。そう言われたらこちらには異議を唱える手立てがない」

「ご理解いただけて助かります」

「でもミレア。君が弾かないなんて、聖夜の天使のことはいいのかな?」

 背中で聞いた声に、血の気が引いた。アルベルトがまゆをよせる。

「聖夜の天使? なんの話です」

「ミレアに協力してるんだ。おくり物のイヤリングを預かっていてね。聖夜の天使はだれなのか、調べてる最中なんだよ。きっと今夜、聖夜の天使が誰か分かるのに」

「──アルベルト! 私、大丈夫だから。弾けるから、はなして」

 たまらず声をあららげたミレアに、アルベルトが顔をしかめた。

「弾けるわけないだろう、だ」

「でも、だって、でないとっ……聖夜の天使が」

「君は聖夜の天使のことになると本当に見境がないな。あきらめろ。見つかるわけがない」

 あきれたような声に、ぴたりと動きを止める。聞き間違いかとアルベルトを見つめると、め息を返された。

「新聞社の連中だって色々ぎ回ってたはずだ。でも見つかってないんだぞ? どうして大した調査能力もない君達で見つけられる」

「でも……だって、もらったイヤリングとか色々、一点物だから、そこから、しようが……」

「ああいう一点物を取りあつかう職人はきやくの情報についてとにかく口がかたい。そうだな、こう言えば諦めがつくか? バイエルンこうしやく家でも見つけられない」

 バイエルン公爵家の力で足がつかないようにしている──というのが、正しいのだろう。

 あんで全身から力がけた。──そうだ。メッセージカードのひつせきもいちいち変えるアルベルトが、贈り物からたどられるなんて、そんな初歩的なミスをするわけがない。

「分かったか? ならまず医者だ」

 リアムも何も言わない。大人しく担がれたまま歩き出されて、はっと我に返った。

 聖夜の天使のことはいい。だが、アルベルトとのことはまた別だ。

「だっだめ! じ、自分でお医者さんいける、から……アルベルトってば!」

 ミレアのていこうをアルベルトは見事にもくさつした。足を止める気配はまったくない。

(どうしよう、どうしよう! 手も……)

 意識すると震えだしそうな手をぎゅっとにぎる。不安と緊張に息をひそめていると、ふと蜘蛛くもの巣に気づいた。どうしてこんなところにと視線を持ち上げてみたら、アルベルトの頭にひっついている。よく見たら上着の肩もほこりがついていて、全体的にうすよごれていた。いつもお洒落しやれなアルベルトがだ。ぱちりとまばたいてしまった。

「──おい、あれ、アルベルト・フォン・バイエルンとミレア・シェルツじゃないか?」

 会場から出た途端に聞こえた声に、ぎくりと身をこわばらせる。だがアルベルトはちゆうちよせず、会場で客を拾うためにまっていたつじ馬車を見つけ、ミレアを押しこんだ。

「おい、お客さん。いきなり乗りこまれちゃ──あ」

「出してくれ。バイエルン公爵ていまで」

 アルベルトの顔を見ておどろいたぎよしやがこくこくうなずき、馬車を走らせてくれた。いくにんかこちらを追う記者の姿が見えたが、ばやい出発のおかげであっという間に遠くなる。

 ほっと一息つくと、真向かいの席にアルベルトが座った。

 どんな顔で問いかけていいか分からずに、目をそらしたまま別の質問をする。

「……どうしてバイエルン公爵邸なの? お医者さんじゃないの?」

「ああ、さいを持ってないからな」

「え、ええ? お、落としたの?」

 とつぜん、アルベルトが窓の外を向いたままくつくつと笑い出した。

 ぽかんとして、ミレアはその横顔を見る。どうしよう、アルベルトが変だ。

「あ、あの、アルベルト……?」

「──いや。大丈夫だ、ミレア。何も心配しなくていい」

 やわらかく微笑ほほえまれて、あわててうつむいた。

 辻馬車はがたがたと音を立てて進む。手のふるえは止まっていた。





 バイエルン公爵邸は口を開けてほうけるほど広大で立派だった。きっちりゆうたいしように作られた古めかしい建物は、横にも縦にも長く、首を上下左右動かしてもはしが見えない。さくえた辻馬車はせんていされた植木の広い道を通り、ちゆうふんすい広場を曲がってようやくしき前に停まる。

 アーチの左右についたそうだいな階段を上り、かざり柱で支えられたポルチコを通り抜け、やっとげんかん辿たどり着いた。きよだいな両開きのとびらが開くと、またきらびやかな大広間が現れる。

 大理石のゆかには、高いてんじようからるされた金と銀でできた巨大なシャンデリアが映りこんでおり、かべにはずらりと絵画が並んでいる。奥にはさらに左右に延びる階段があり、屋敷の広さを感じさせた。ここでとう会ができそうだ。

「おかえりなさいませ、アルベルト様」

 しらろうしつれいをする。アルベルトは肩の埃をはらいながら口を動かした。

「医者を呼んでくれ。彼女の手をしんさつしてもらう」

「かしこまりました。──失礼ですが、こちらのおじようさまのお名前は」

「ミレア・シェルツだ」

 アルベルトの答えに、かた眼鏡めがねの奥で執事が小さな目を見開いた。それからおだやかに微笑む。

「これはこれは、〝バイオリンのようせい〟と名高いシェルツはくしやく家のご令嬢でしたか。どうりでバイオリンを持っておられると。手にをされたのですか?」

「それを調べるんだ、念入りにたのんでくれ。あと……」

 ちらっとアルベルトがミレアに視線を投げ、すぐに老執事へと向き直った。

「彼女にみとえを。このしゆの悪いドレスとしようをなんとかしろ」

 似合っていないから趣味が悪いにまで進化した。みように傷ついてうつむく。

「客間の準備も頼む。報告はちくいち、僕に届けるように。僕も着替える」

「承知いたしました。おまりですか?」

「ああ」

「えっ」

 そんな話は聞いていない。驚いたミレアに、アルベルトは素っ気なく説明する。

「会場で僕と出るのを見られただろう。宮廷楽団の前で記者連中が待ち構えてるぞ」

「……え、でも、あの……」

「じゃあ、あとは頼む」

「ええっ? お、置いてくの?」

 歩き出そうとしていたアルベルトが振り向いた。自分から声をかけたのに、目が合う前にさっと顔をななめ下に落としてしまう。

「……僕のこいびとだと思って、彼女を扱うように」

 ばっと顔を上げると、ろうの角を曲がるアルベルトの背中しか見えなかった。

(……おためしでも認めないって、言ってたのに……)

 どういう心境の変化だろう。たたずんでいるミレアにそっと、老執事が話しかける。

「ミレア様、こちらへ。お医者様を待っている間に、湯浴みと着替えをすませましょう」

「あ、あの、でも……私、やっぱり帰りま──」

「アルベルト様があのようにおつしやっておりますむね、使用人達には申しつけておきます。どうぞ我が家と思っておくつろぎくださいませ。でないと私共がどんなおしかりを受けるか」

 穏やかながおにはを言わせぬ何かがある。押し切られたミレアは、おずおずとその案内にしたがって広い屋敷にみ出した。





 その後はとうのご令嬢扱いが続いた。ミレアも伯爵令嬢だ。着替えや湯浴みを手伝ってもらうことにそう抵抗があるわけではないが、メイド数人がかりで湯浴みを手伝われ、かみの毛先までこうをたっぷり使われ、の化粧水と乳液ではだの手入れをされるとは思わなかった。

 ああでもないこうでもないと着せえられてげっそりしている時に医者がやってきたが、手の震えより顔色の悪さを心配されてしまった。

(な、何しに連れてこられたんだろう、私……)

 最後には神経質そうなメイド長がやってきて、アルベルト様のお好みの香水はこちらですとかなんとか全身を念入りに確かめられた。メイド達がミレアそっちのけで話し合った結果、そでを通したのは心地ごこちのいい絹のだ。

 胸下をゆるくしぼりすとんとあしもとまで落ちる形になった簡素なものだが、リボンがあちこちにあしらわれており可愛かわいい。その上から毛織物のガウンを羽織り「かんぺき」のおすみつきをメイド長からもらい、ようやく解放されたのは日もとっぷり暮れたころだった。

「それでは、こちらの部屋でアルベルト様をお待ちください」

 借り物のケースに入れたバイオリンをき、最後に案内されたのは、音楽室だった。げんなりしていたミレアは、ぱっと顔をかがやかせる。いくつかのバイオリンとチェロ、コントラバス、ピアノまであった。ふかふかのじゆうたんの上を歩きながら、ほかの楽器も見て回る。

「ここ、サロンに使ってるのかな……あ」

 チェストの上にずらりとトロフィーが並んでいた。すいしようや金でできた様々な形のものが年代順に並んでいる。それらにはすべて、アルベルトの名前が刻まれてあった。

「プザニスの指揮者コンクール……ほんとだ優勝してる。うわ、これも優勝……」

 大半が優勝だ。えんりよなくアルベルトのゆうしゆうさを表す成績に、なんだか腹が立ってきた。

「たまには参加賞とかあっても……あ、これバイオリンのだ!」

 年代をさかのぼっていくと、とうとつにコンクールの部門が指揮者からバイオリンに変わった。

(聖夜の天使の時の、あるはずよね。どこかな)

 ミレアがもらったバイオリンは、優勝賞品だと聞いた。年月を逆算して当たりをつけ、刻印とにらめっこをする。そして見つけた。

「これだ……パガーニ国際コンクールのジュニア部門……」

 年月がたっているせいか、トロフィーは少しくすんで見えた。手にとってながめてみる。

「もらっちゃだめかな。だめだよね。私が気づいてるってばれちゃいそうだし……」

 そっとトロフィーの刻印を指でなでてみた。それだけでじんわり幸せな気分になる。

(……よかった。聖夜の天使の正体、ばらされなくて……)

 てつていして正体をかくすアルベルトには腹が立つが、今回はそれが幸いした。

 もちろん、問題が片付いたわけではない。心配事が一つへっただけだ。め息をつくと同時に、軽いノックの音が聞こえる。あわててトロフィーを元の場所にもどした。

「あ、は、はいっ」

「夕飯だ。サンドイッチでいいだろう?」

 ぼんを器用に片手で支えて、アルベルトが入ってくる。上は白のシャツ、下は黒のタイトなズボンといういかにもくつろいだ格好だ。そしてミレアの返事を待たずに、音楽室のかべぎわにあるテーブルで夕食のたくを始める。

 ミレアが大好きな卵サンドイッチだ。ハムが入ったものも、チーズが入ったものも、両方入っているものもある。それにシチューと、ホットミルクまでえられていた。

「あの……これ全部、アルベルトが?」

「そうだけど。ちなみにデザートはマフィンだ」

 公爵家からげるため隠れまで借り、一人暮らしをしていたアルベルトは公爵令息のくせに料理をふくむ家事ぜんぱんが得意だ。手料理を準備してくれるのも初めてではない。だがはなれていた分だけ、ものすごい甘やかしのように感じてしまう。

「お、お屋敷で料理しておこられない……?」

「父上にさえ見つからなければね。フェリクスがきた時にも、夜食くらいは勝手に作るし」

「そ、そうなんだ」

 だったらそう特別ではないのかもしれない。いつもなら自分だけだったらいいのにと思うのに、今日はみように安心して、アルベルトが用意しているテーブルにおずおず近づく。

「まあ、女性は君にしか作ったことないけど」

 ぴたっと足が止まった。それを見てアルベルトが笑い出す。

(あ、遊ばれてる……!?)

 こっちはリハーサル中にとつぜん指が動かなくなってどうようしている間に屋敷に連れ去られて、診察より着せ替えの方が重視されるというわけの分からないあつかいを受けてつかれているのに。

「手もうでかたも異状なしって報告を受けたよ。今の調子は?」

「……別に、平気……」

「そうか。──用意できたぞ。座れ」

 うながされた場所からだいぶ離れた、横長のソファの一番はじっこに座った。腕を伸ばしてこしかせばなんとかサンドイッチには手が届くので問題はないはずだ。

 だが、アルベルトからの視線がちくちく全身にさる。居たたまれず、先に口を開いた。

「あ、あの、今日の演奏会ってどうなったの。やっぱり中止に……?」

「中止というか、代わりに鹿しようの特別演奏会をり上げた」

 目の前に、ホットミルクが置かれた。それにも顔をそむけてたずねる。

「繰り上げって……それで、だいじようだったの?」

「馬鹿師匠のリハは聞いてただろう。きよしようガーナーと天才パガーニの共演を期待して聞きにきた客が、あの演奏に不満を言うと思うか?」

 ──不満などないだろう。ねつきようするはずだ。そう思ってから改めて自覚した。

(私の演奏じゃないんだ。……そういうことなんだ)

 当然だと思う。自分でも何をいているのか分かっていなかった。

「君たちへ向けられていた賞賛は、今は全部あの馬鹿師匠達のものだ」

「うん。……もう古いってことだよね」

「だがリアム氏なら、あれ以上に技術をこらした再現をして評判を取り返すだろうな」

 それは、ミレアがあやつり人形みたいに弾き続けるということだ。

(でも、私にはリアムさんの曲想をり切ってまで弾きたいものがない)

 だから、聖夜の天使からもらった羽がない。手がふるえ出しそうで、用意してもらったホットミルクを持つのはやめる。

「あとは僕が君を連れ出すのをもくげきされたから、リアム氏との三角関係説が再燃してるけど」

 き出しそうになったところで、さらにアルベルトから追撃がくる。

「それで、君はどうして僕と目を合わさないんだ」

「そ、それは」

「言えないならいいけどね」

 どさりとアルベルトが腰を下ろした。ミレアと真反対の、ソファの一番はしだ。

 同じソファに座っているのに、不自然に大人二人分くらいのきよがあいている。

(お、怒ってる? それともさけられてる?)

 最初に離れて座ったのは自分なのに、弱いるいせんゆるみそうになる。視線だけ動かしたら、アルベルトは真反対を向いて横顔すら見えなかった。

「だ、だって、だって……」

 ──こっちを向いて。胸をき動かされて、口が動く。

「リ、リアムさんに好きだって告白されて……ど、どうしていいか分からないんだもの。私はリアムさんを好きじゃないのにどきどきするし、こわくて不安で」

 内容がめつれつだ。それでもミレアはき出す。

「でも指揮はすごいし、好きになれとか言われたわけじゃないし、なんだかよく分かんなくなってきちゃっ……アルベルトがいるのに、他の人にどきどきするなんて、そ、そんなの……う、うわなんて、きらわれちゃ……」

 彼はもう気づいている。しゃくり上げたミレアは、声を絞り出した。

「き、嫌わないで……」

 そして理解した。それが一番怖かったのだ。

「ごめんなさい、ちがうから、私のこと、嫌いにならないで……!」

 ずかしくない女の子になりたい。ちゃんとリアムのコンサートマスターを務めて、あなたが望む立派なバイオリニストに。

 あとは言葉にならなかった。はじも外聞もなく、変ないきぎを繰り返しながら泣く。

(どうしよう、どうしよう。アルベルトに嫌われちゃったら、バイオリン弾けない)

 ──ぷ、と噴き出す音が聞こえたのは、その時だった。

 アルベルトがソファのすみで、肩を震わせて笑っている。

 およそ今のじようきようで考えられない態度に、ミレアはぼうぜんとする。あれだけぬぐってもぬぐっても止まらなかったなみだが引き、次にきたのはもうれついかりだった。

「なんで笑うの!?」

「いや。──本当に子供だな、と思って」

 アルベルトが顔を片手でおおって本格的に笑い出した。

 ミレアは無言でソファに置いてあったクッションをがしっとつかみ、振り上げる。

「君みたいな子供が口説かれたら、動揺してどきどきするのは当たり前だ」

 投球体勢のまま止まった。口元にみを浮かべたアルベルトがミレアを見つめる。

「経験のないことが突然降りかかれば、おどろきと不安でみんなそうなる。どうしたらいいか分からないのも当然だ。そもそも、君があのひやくせんれんそうなリアム氏にかなうわけないと僕は思うけど?」

 クッションを振り上げたまま、ぱちぱちとまばたく。アルベルトは鼻で笑った。

「聖夜の天使の正体だって、君の気を引くためにリアム氏が引っかけたわなだろう。まんまと引っかかって、何をしてるんだか」

「……。そ、それはそう、かもしれないけど……え、じゃあ、私……」

「それでバイオリンまで感情に引っ張られて、あの演奏か。かんちがいでそこまでいくなんて、君らしいというかなんというか」

 勘違い。──なら、リアムにどきどきして、心をうばわれたわけではないのだ。

 全身から力がけた。

(よかったぁ……う、浮気じゃなかったんだ……勘違い……)

 振り上げたクッションを下ろし、めると、涙腺がまた緩む。

「反省しろ。思考停止して自分を殺して演奏してれば、指だって動かなくもなる」

「う……だ、だって男の人に、好きだなんて言われたの初めてでっ動揺してっ」

 アルベルトの親指が、ミレアの目元をぬぐう。いつの間にか距離が縮んでいた。

「言い訳するんじゃない」

 久しりに真正面から見たアルベルトのひとみすがめられたたん、心臓がね上がった。

「だから言ったんだ。君にはまだれんあいなんて早いって。なのに聞かずに、このザマだ」

 さらさらのまえがみ、整ったりよううすくちびる。その瞳いっぱいに自分が映っているのが一番恥ずかしかった。近くないだろうか。いや絶対近い。

(ぶ、不細工じゃないかな。さっきいっぱい泣いたし……目、れてそう)

 アルベルトはこんなにかっこいいのに、自分がれいじゃないなんて悲しすぎる。でもいつの間にか腰を抱きこまれていてげられなくなっていた。

「アルベルト、あの……ひゃっ」

 ちゅっと音を立ててみみたぶの下に口づけられ、薄く微笑ほほえみ返された。

「しょうがないから、おためし期間につきあうことにした」

 とうとつしようだくにわきあがったのは喜びよりむしろあせりだった。なんだかいやな予感がする。

「て……手をつないで、デートしてくれるの?」

「それも考えないではないけど。でも、それだけじゃ男にたいせいがつかないだろう」

 じゃあ何が主眼か、と問いただすほど、ミレアはにぶくない。

「えっ……お、おためし期間なのに、そういうことになるの!?」

「そういうことになるんだ。思い至らないあたりが、本当に子供だな」

「ま、待って待って、心の準備が……近いっ顔、近い!」

 持っていたクッションでアルベルトの顔を押しのけようとする。が、あっさり取り上げられてしまった。全力しつそうの前準備みたいに心臓が鳴り出す。

「聖夜の天使聖夜の天使うるさいと思ってたら次はリアム氏で、本当に君はふらふらする」

 口調にしつにじんでいるのが分かって、呼吸が浅くなった。

(リアムさんは勘違いだし、聖夜の天使はアルベルトなのに、なんで──あ)

 アルベルト以外の人を見ているからだ。だからミレアをつかまえようとする。リアムはともかく、聖夜の天使のことは自分でかくしておいて、なんてごう自得などくせんよくだろう。

(……でも、じゃあだまってたら、聖夜の天使にずっとやきもちやいてくれる?)

 どうせならちつそくするくらい独占して欲しい。そんなことを考える自分は悪い女の子だ。

 でもあなたが追いかけてきてくれるなら、その手の届かないたかの花になりたい。

「……キスは、まだだれともしたことない?」

 低くかすれた声に耳元でかくにんされて、全身が燃え上がった。がんって顔をそらしても、熱いほおに口づけが落とされる。まぶたに、じりにも。

 親指で唇をなぞられて、何を望まれているか理解する。のどが鳴った。

「ミレア──」

「アルベルト!! ミレア・シェルツを連れこんだというのは本当か!」

だん様、落ち着いて。──あ」

 ばあんと派手な音を立ててとびらが開く。アルベルトの父親と、さきほど世話になったろうしつと目が合った。アルベルトが舌打ちする。

 同時に、ミレアは力の限り暴れた。

「アルベルトのばか、放して! い、今何しようとしたの!? 私、いいって言ってない!!」

「ちょ……ちょっと待つんだ、ミレア・シェルツ。私の息子むすこが何を……っ」

 アルベルトのうでから逃げ、バイオリンは忘れずに持ってミレアはけ出す。知らないしきだが、おかまいなしだ。め息といつしよにアルベルトの冷静な声が聞こえた。

「迷子になるだろうから、客間に案内できるよう使用人に指示してくれ」

「かしこまりました、アルベルト様」


「アルベルト、事情を説明しろ! 父は許さん!!」

 後ろのけんそうが遠くなる。うすぐらろうの角をめちゃくちゃに曲がったが、行き止まりになってしまった。かべに手をついて、ミレアは呼吸を整える。

(信じられない、信じられない! まだおためしなのに、キスしようとするなんて!)

 力強い腕と、熱っぽくうるんだ瞳。くらくらするようないろただよう、男の人の顔。

 初めて見た。どうしよう。うれしくて顔がしまらない。

「……えへ……えへへへへ……だ、だめだけど! だめだけど、えへへ」

 どきどきする。不安でもきんちようでもどうようでもないどきどきだ。

 ちゃんとアルベルトだけに、どきどきしている。

 嬉しくて今すぐバイオリンがきたかった。ここ最近、ずっと忘れていた感情だ。あの人の心をもっともっと、ミレアのものにするために。

 ──アルベルトの、高嶺の花になろう。

 せていた瞳をゆっくり持ち上げる。だいじよう。聖夜の天使は、ここにいる。





「──ミレア! どうだった、手は」

「ご心配おかけしました、大丈夫です」

 翌日練習室に顔を出したミレアは真っ先に頭を下げた。みなやさしくそれに応じてくれる。

「ミレア、本当に手は大丈夫?」

 不意をつくように横からびたリアムの手が、ミレアの手を取った。それにも向き直り、答える。

「お医者さんにも大丈夫だって言われました。弾けます」

 意表をつかれた顔で、リアムが目を丸くする。だがすぐにおだやかないつものがおもどった。

「ならよかった。──ところで、昨日はどうしたの? バイエルンこうしやくていまったってうわさを聞いたけど、第一楽団から」

「あ、はい。昨夜ゆうべは──……」

 そこでアルベルトとのことを思い出して、かあっと顔が赤くなった。

 記者達をさけるため朝早くバイエルン公爵邸を出たミレアは、昨夜以降アルベルトに会っていない。気持ちがはやって、ほとんど飛び出す形で出てきてしまった。老執事さんとメイド長はいいからと送り出してくれたが、非常識だったと自分でも思う。

(あ、あとでちゃんとお礼して謝らなきゃ……でもアルベルトにどんな顔しよう!?)

 全員が注視する中で、もじもじとうつむいて、小さく答える。

「と、泊めてもらいましたけど、なんにもなかったですから……」

「いやあからさまに何かあっただろう!? あの若造に何されたんだ、ミレア!」

「エルマー、落ち着いて。……で、一体何があったのかな、ミレア」

「あっそうだ! リアムさんに選んでもらったドレス、だめになっちゃったんです……」

 リアムが目を丸くした。申し訳なさで首をすくめながら、説明を続ける。

「昨日、新人のメイドさんがほつれたレースを整えようとしてくれたんですけど、手元がくるってざくっとまで切っちゃったって言われて」

「……ざくっと」

「ざくっとです。おびに今日バイエルン公爵家からいくつかドレスが届くらしいので、また選び直しになるんですけど……」

 張りつけたような笑顔で、リアムは答える。

「分かったよ。ずっと同じドレスというのも味気ないし、いい機会だね」

「伝統的なのからさいせんたんまで、色んな形のを用意してくれるって言ってました」

「……バイエルン公爵邸の使用人は、とてもゆうしゆうなんだね」

 さわやかな声は意味深だったが、ミレアはうなずいておく。

「ミレアが戻ってきてくれたのが一番だよ。正直、もう戻ってこないかと思ってた」

「えっ、そんなことしたらアルベルトに勝てないじゃないですか!」

 ミレアの回答にリアムはどうもくしたあとで、微笑ほほえんだ。

「……そうだね。そうだった。じゃあ、さつそく練習できるかな?」

「はい」

 頷いて、エルマーの横の席に座り、バイオリンを取り出した。音合わせの最中に、昨日リハーサルで止まってしまったところからという指示をリアムは出す。

アルベルトに勝たなきゃ)

 リアムのあやつり人形になんてならずに、自分の演奏で。

「じゃあ、始めるよ。いち、にい、さん──」

 り上げられた指揮棒と一緒に弓を弾いた。

 さあ、まず右手を上げて、微笑んで。糸が引っ張られるような感覚がある。それが天才パガーニの奏でた音楽。

 左手ピッツィカート、トリルにダブル・ハーモニクス。口元に笑みをのせて、弓元から弓先まで均一な音量と音色を保つ。フェリクスにも負けないこうは、そのままだ。でも、こちらだと指揮棒を振るうリアムにいちべつを投げ、糸を振り切った。

 これは悪い女の子の物語だ。彼女はたった一人を振り向かせるために、おどる。

(あなたの思いどおりになんてならない。つかまらない)

 振り向いたら視線をそらして、手を伸ばされたらげる。でもいつだってちゃんとこっちを見ていて、追いかけて、待っているから。つかまるまでこいも愛もいらない。

 とうとつに逃げ出したバイオリンの音をオーケストラが混乱して追いかけてくるけれど、ミレアはたった一人で、逃げ続ける。

「──ストップ! どういうつもりだミレア、演奏が全然ちがう!」

 めずらしく声をあららげて、リアムが指揮棒を下ろした。

 おこられるのは分かっていた。でも、ミレアはまっすぐにリアムを見返す。

「これで弾かせてください」

「何を言い出すんだ。二回目のしんまでもう十日ないのに曲想を変えろって? ──アルベルト・フォン・バイエルンか?」

 片手で顔をおおったリアムが、するどい目を向けた。緊張でのどが鳴る。

「彼に何を言われたんだい、ミレア」

「な、何も言われてません。ただ、私がこう弾きたいと思ったんです」

「そんなわけが──いや、そうだったとしてもだ。そんな子供じみた曲想、採用できない」

「……まぁ、悪くはない曲想だったけどな。まだあらけずりだけど」

 横から入ったように、ぱっとミレアは顔をかがやかせる。逆にリアムは非難の声を上げた。

「エルマー!」

「まあ落ち着けって、リアム。──でもなあ、ミレア。演奏会まで十日きってる。今から完成させるってのはちやだと俺は思うし、それは分かるだろう?」

「……でも、リアムさんと皆さんなら、できるんじゃ……」

 リアムがきよをつかれた顔をし、エルマーが口元をゆるめる。だが、次の言葉は厳しかった。

「俺達は勝つために審査にいどむんだ。ミレアの今の曲は、勝てる曲じゃない。──元の弾き方に戻すべきだ。ミレアがプロなら」

 ぐっとミレアはくちびるを引き結ぶ。リアムがかたから息をき出した。

「じゃあ、仕切り直しだ。ミレアも、分かったね」

「──でも今のままじゃ、私じゃなくたっていいじゃないですか」

 全員が見ている。分かっていて、口に出した。

「リアムさんの指揮だって、マエストロができる。エルマーさん達だって、だれかのばんせんじだなんて、それで平気なんですか」

「指揮者とオケのりようかいが得られない以上、君の要望はとおらない。君に俺達を説得できるだけの実力がないからね」

 冷たく切って捨てたリアムに、こぶしにぎる。間違っているのはミレアの方だ。それでも。

「──だったらリアムさん、勝負しましょう。けてください」

 リアムがげんそうに振り向く。まっすぐ、顔を上げた。

「私と第一バイオリンの皆さん一人ずつで、はやきをします。勝つのは私か、ほかの人か」

「君が負けるに決まってるじゃないか。君が一人で弾き続けるなら、人数が多ければ多いほど君が不利だ」

「だったら、リアムさんは私が負ける方に賭けるんですね」

 げんをとられたリアムが顔をしかめ、だがすぐに静かにかくにんした。

「それで負けたら、君は俺の言うとおりにくのかな?」

「はい」

「なら、もう一つ条件だ。第一バイオリンだけじゃなく、第二バイオリンも相手にすること」

 ──三十名近くを相手にしなければならない。

 ろうとの勝負だ。手がもつか自信がなかった。それでも頷く。

「やります」

「曲は?」

「パガーニの五番」

 速弾きだけを追求した難曲だ。ミレアの選曲にリアムはうすく微笑んで、頷いた。









続きは本編でお楽しみください。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ドイツェン宮廷楽団譜 嘘つき恋人セレナーデ/永瀬さらさ 角川ビーンズ文庫 @beans

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ