第三楽曲 恋人達はかく語りき パート1





 スポットライトと賞賛のあらしが降り注ぐ。熱狂的な歓声と拍手を背に舞台袖に下がったミレアは、とうとつにかくんとへたりこんだ。

だいじようか、ミレア」

 あわてて横からエルマーが支えてくれる。呼吸を整えながら、ミレアはとぎれとぎれに答えた。

「だい、じょうぶ、です」

「今日もこんしんの演奏だったからな。疲れたんだろう」

 笑いながら誤魔化す。最近、舞台の後はいつもこうだ。リアムの指揮を見ていると、色々なことを考えたくなくなって、頭が真っ白になってしまう。そして無我夢中で演奏を終えて、舞台袖で糸が切れたように足の力が抜ける。

「大丈夫、ミレア。熱はないみたいだけれど」

 額に冷たい手が伸びた。びくっと身をすくめたミレアに、リアムが笑う。

「ごめん、おどろかせた?」

「い、いえ」

「疲れてるんだろう。でも今が一番、かんじんな時だ。分かるね」

 青いひとみやさしく念を押されて、小さく頷き返した。ドイツェン王国にばんがないリアム達の楽団は、今、知名度を上げている最中だ。

「リアム、もうそろそろ休みを入れるべきだ。今日も昼と夜、演奏会が立て続けだぞ。次のしんはまだ終わっちゃいないってのに、練習時間がなくなっちまうだろう」

「弱気な発言だね、エルマー。いくらアルベルト君でも、あれだけの大差をひっくり返せるはずがない」

「……それは……そうだが……」

「だろう? さ、ミレア。立って」

 手を差し出されたが、自力で立ち上がった。それをおもしろそうにながめて、リアムはささやく。

「そのイヤリング、似合っているよ」

 にらんでも、意味ありげに微笑ほほえみ返されるだけだった。

 聖夜の天使からおくられたイヤリングは片方取られたままで、これはミレアの私物だ。

 今、聖夜の天使からの贈り物は、リアムの目につく前にすべて処分している。もし、何かがアルベルトにつながったら──そう考えると、こわくて仕方ないのだ。

 そんなミレア達の関係にかかわらず、世間はあのガーナーとパガーニの演奏をよみがえらせたと絶賛している。選抜の勝負もこちらの勝ちでほぼ決まりだと報道されていた。

 アルベルトに勝てる。聖夜の天使が望む、一流のバイオリニストへの道だ。

(……何をいてるのか、自分でもよく分からないのに?)

 本当にこれで正しいのだろうか。アルベルトだって、あれ以来顔を見せてくれない。

「じゃあ、夜の部のリハーサルまでは各自、きゆうけいで」

 リアムの号令でみなが、それぞれ散っていく。エルマーは一度、ミレアのかたに手を置いて立ち去った。自分もそれに続こうとしたところで、にこやかに声をかけられる。

「ミレア。よかったら昼食、いつしよにどう?」

 思わず足を止めてしまう。その時、助け船のように声が響いた。

「ミレア! むかえにきたよ」

「レベッカ」

「君は、アルベルト君の楽団の子じゃないかな? 敵情視察は禁じられているはずだよね」

 走ってきたのか息を切らしたレベッカは、リアムを正面からにらんだ。

「演奏が終わってから会場入りしたので問題ないはずです。ミレアは私と先約があるので」

「へえ、本当に?」

 うそだ。どきりとしたが、レベッカの目力におされ、しっかり頷く。リアムはあいづちを返して、うすく笑った。

「じゃあ、夜はどうかな?」

「夜も明日あした明後日あさつても、ミレアはずっと私と約束があるので!」

「それはそれは。でも、アルベルト君じゃないんだね、安心した」

「──ミレア、行くよ!」

 レベッカに手をごういんに引っ張られ、ミレアも歩き出す。リアムはあっさり身を引いた。

「いいよ。好きな子を困らせるのはしゆじゃないから」

 思いがけず優しいまなしに見送られ、どうがはねる。慌ててレベッカの後に続いた。

(わ、私が好きなのはアルベルトだけなのに、なんでどきどきするの!)

 おどしめいたことをして視界に入ってきた。でもミレアが好きだからとだまってくれている。

 きようだ。きらいになることもできない。いかりを持続させることもできない。

(助けて、アルベルト。怖いよ)

 でも言えない。リアムの態度に右往左往して、ぐらぐられている自分なんて、アルベルトに一番見られたくないのだ。





「なんっなのあの男、いけ好かない! あんなのにり回されちゃだよ、ミレア」

 テーブルの真ん中に置かれたぶたにくのリブに、レベッカがフォークをした。そのまま力任せに取り分けられるリブを見ながら、ミレアは肩を落とす。

「でも、無視するわけにもいかないし……どうしたらいいと思う?」

「どうにかするのはミレアじゃないでしょ。アルベルト・フォン・バイエルンよ!」

「レベッカ、声が大きい」

 レベッカと二人で入った食事場所は、大衆食堂に分類される場所ではあるものの女性向けをうたっており、内装やメニューも洒落しやれている。にぎやかではあるが、劇場から近い分、顔や名前を知っている人間が客である可能性が高い。

 だがレベッカはいつさいちゆうちよしなかった。

「あのおう指揮者が! ちゃんと! ミレアに手を出すなって宣言すれば! こんなに困らなくてすむのに、あのヘタレ!」

 一言一言区切るたびに豚肉のリブをナイフでちからいつぱい切りながら、レベッカがふんがいしている。

 ミレアは力なく、取り分けられたリブをさらに小さく切り分けた。

「アルベルトはそんなこと言わないと思う。だって指揮者とコンマスだもん……」

「それはそれ、これはこれでしょ! あの男やつかいよ、絶対ミレアが勝てるわけない」

 レベッカがぱくりとリブを口にふくむ。おこっているが、レベッカの食べ方はれいだ。

「君が好きなだけだよ何も望まないって建て前で、最初からきよぜつできないようにして」

「そ、そこまで計算してるの?」

「計算してるよ、私らより大人でしょ。おかげで強引なことされずにはすんでるけど」

 レベッカがぱらいのような仕草でグラスから水を飲む。

「大人の男って厄介だよね。ほんっと」

 それに振り回される自分はやはり子供なのだろう。ミレアはうなだれた。

「私が子供だから、アルベルトは私を相手にしてくれないのかな……」

「弱気にならないの、ミレア。私、ミレアにはちゃんとりようおもいになって欲しいんだから」

「私だってレベッカにちゃんと両想いになって欲しいよ、フェリクス様と」

 ものすごい反論がくるだろうと思っていたのに、返ってきたのはちんもくだった。

 食事の手を止めて、レベッカをぎようする。

「……どうしたの、レベッカ」

 答えが返ってこない。綺麗な形のくちびるを引き結んで、レベッカは黙っている。

(そういえば、気持ちの整理がついてないからって、私まだ、何も聞いてない……)

 今、聞かないといけない。ミレアの直感がそう告げていた。

「ねえ、何か話があるんでしょレベッカ。それって何?」

「……今、そんな話よりミレアの方が大変でしょ」

さないで。それって、フェリクス様と関係あるんでしょ?」

 分かりやすく、レベッカが目を泳がせた。じっと待っていると、あきらめたのか、唇が開く。

「……今、言うのは、本当にどうかと思うんだけど」

「うん」

「──社交界のシーズンが終わる前に、両親に会ったの。そしたらえんだんもきてるし、来年はいい加減社交界デビューも考えてるから、きゆうてい楽団をやめるようにって、言われた」

 持っていたフォークが落ちて音を立てた。レベッカが顔をしかめる。

「ちょっとミレア、危ないでしょ」

「え、宮廷楽団をやめるって──退団して、けつこんするってこと!? フェ、フェリクス様のことは説明した!?」

「説明なんてできるわけない。フェリクス、貴族じゃないもの」

 苦笑いがにじむようなその答えで、事情をみこんでしまった。

 レベッカはアイシュだんしやく家のれいじようで、ミレアより一つ上の十七歳。つうなら社交界デビューを果たし、縁談を決めるねんれいだ。もちろん、家のために爵位のある貴族の男性と。

 だからその候補に、平民であるフェリクスは入らない。

「で、でも……レベッカって、確かお兄さんいたよね。あとりは問題ないわけでしょ? だったらもう少しくらい」

「女で、一生独身で、コントラバス奏者として生きていけるのかって言われた」

 ミレアは場所も忘れて、立ち上がり声をあららげる。

「レベッカならだいじようだよ! 現に今、宮廷楽団でお給料もらってるんだし」

「でもそれは私がまだ若くて、見た目綺麗だからだと思う。私、音楽だけで一人で生きていけるほど才能ないよ。──そんなかくだって、したことない」

 周囲の評価というより意志だ。それを感じて、ミレアはぼうぜんとした。

 静かに食事をする手を再開して、レベッカは力なく笑う。

「宮廷楽団にいて、バイエルン指揮者とかフェリクスとか──ミレアを見てたら分かるよ。自分はちがうんだなってことくらい」

「違うって、そんなこと」

「違うよ。それくらいはわきまえてるつもりだし、それでいいんだ、私は。コントラバスの演奏で世界一になりたいとか、コンクールで優勝したいとか思ったこともないし」

 そう言って笑うレベッカに噓は感じられなかった。しやくぜんとはしないが、ミレアはひとまず座り直す。感情的になってもレベッカは聞かない。

「でも、フェリクス様とどうなるかはまた別なのに……」

「うん。だからね、フェリクスと一緒のオーケストラで弾いてみようって、がんってみた。最後の思い出になるかもしれないし」

 だから、第三楽団のせんばつおうしたのだ。そしてあれだけ熱心に練習していた。

(……レベッカにしては、らしくないと思ってたけど)

 落ちたフォークをにぎり直す。答えがほとんど分かっていて、でもたずねずにいられなかった。

「そのこと、フェリクス様には」

「言ったら絶交するから」

「でも、フェリクス様は迎えにくるって言ったんでしょ? この間の演奏だって、レベッカのこといてたのに」

 ミレアの言にレベッカはきょとんとした後で、真っ赤になった。

「な、なに、何それ!? どういうこと!?」

「え、だってこの間のフェリクス様の演奏……どう聞いてもレベッカがおどってたけど……」

「わ、分かんないなんなのそれ! あり得ない!!」

 さけんで熱を誤魔化すようにレベッカがグラスから水を一気にあおる。そしてつぶやいた。

「……でもそっか。ミレアにはそう聞こえたんだ」

「えっ……う、うん」

「私にはそれが聞こえなかった。うん、それがね。才能なんだって思う。……それだけでもフェリクスとり合えば、何か変わったのかもしれないけど」

 フェリクス・ルターはまぎれもない天才だ。ミレアも分かっているから、釣り合いを言われてしまうともう何も言えない。

「だから、ミレアはちゃんとバイエルン指揮者と両想いになりなよ。身分だって釣り合ってるんだし、音楽だって理解し合える。お似合いだよ」

 明るくめくくったレベッカに、ミレアはうつむく。

(そうかな。……私、アルベルトとお似合いの女の子かな)

 聖夜の天使の件があっておどされているだけ。そう断言できればよかった。でもできないことを、自覚している。

 そして答えが分からないまま、たいに立つのだ。自分のバイオリンがどんな音を鳴らしているのかも分からずに。






「アルベルト、じや

「……てるだけじゃないか。バイオリンの手入れしてるお前の邪魔になるわけが」

「そうやってうつうつしくごろごろする気配が邪魔」

 なんだそれはと思いながらもアルベルトはしんだいから起き上がる。

 おざなりに顔にのせていた新聞がひざの上に落ちた。フェリクスがバイオリンの手入れから目をはなさずにさらに注文をつける。

「窓、開けてくれる。空気がこもって仕方ない」

「僕をあごで使うな」

 そう言いながらも、アルベルトは立ち上がり、窓を開ける。宮廷楽団のりようの相部屋に、秋を感じさせる風が入りこんできた。

 いい天気だ。アルベルトの鬱々とした気分とは真逆で、め息が出る。するとようしやなくまたフェリクスから声が飛んだ。

乙女おとめぶった溜め息ついてないで、ミレアさんに会いに行けばいいんじゃないかな」

だれが乙女だ。……別に会う理由なんてない。向こうもいそがしいだろう」

 初回のしん会で圧勝したリアム・ルーテルが率いる楽団は、今や時の楽団だ。連日演奏会をつめこみ、着実に二回目の審査へ向けばん固めを行っている。

 逆に大敗したアルベルト達は、演奏会のらいがなくなり時間にゆうができた。おかげで、こうして休日をとれる程度に余裕がある。

(……今日、あっちは昼と夜の二回公演か。無理してなきゃいいが)

 新聞でミレアのスケジュールをあくしたアルベルトは、ぬるくなりかけているコーヒーを口にふくんで、ソファにこしかける。するともう一度、フェリクスから声がかかった。

「何がショックなのかな。ミレアさんのことはこうなるって分かってたんだろう」

 今日はしつこい。げられないと察したアルベルトは、ひじけにほおづえをついて答えた。

「ショックだったことがショックだった」

 フェリクスがバイオリンの手入れから顔を上げた。ぼんやりとアルベルトは続ける。

「バイオリニストとしてやっていくなら、いつか僕よりいい指揮者に出会うことも、ほかに目を向けることも必然だ。分かってた。でもいざそうなると、引き止めようとした自分がショックだった。──彼女を、かごの中の鳥にだけはしたくないと思ってるのに」

 こうなる前に彼女を自分の籠の中に閉じこめておけばよかったと、いつしゆん思った。

 だが、それは彼女のバイオリニストとしての可能性をつぶすことだ。

「……だからおためしだろうがなんだろうが、『おつきあい』なんてごめんだったんだ。僕はきっちり線引きして、自制したかったのに」

 手で顔を半分おおってると、バイオリンの手入れを止めたままフェリクスがじっとこちらを見ていた。なんだとにらむと、フェリクスが話をまとめる。

「つまり思った以上に自制がきいてない自分におどろいたってことかな」

「……。お前の足を折っても演奏に支障はないな?」

「話題性にはいいかもね。──バイオリニストとしての僕の意見を言っても?」

 興味をひかれて、目線でうながす。すっとひとみを細めてフェリクスは答えた。

「僕は指揮者の言う通りに弾くバイオリニストなんかになりたくないね。きっとミレアさんも同じだと思うよ」

「……分かってる。本気で閉じこめるつもりなんかない」

「違うよ、アルベルト。君がミレアさんを閉じこめようとしても、彼女は言うことなんかきかない。君の籠をたたこわして出て行くだろうってこと」

 目を丸くした自分がよほどけに見えたのか、フェリクスはくつくつと笑う。

「閉じこめればいいんじゃないのかな、できるものなら。──それでこそ指揮者だろうと、僕は思うけど」

 窓の外を見ながら、口元に手を当てて真顔で考えてみた。

(……そうなると、今までの僕ののうはいりよは一体なんだったんだ?)

 にわかに受け入れがたい。だが。

「丁度、おためし期間なんだろう。ためしてみるのもありなんじゃない?」

「……。フェリクス」

 ものすごい勢いで思考回路を回転させながら、アルベルトはまっすぐフェリクスを見た。

「お前、実は親友か」

「たまに親友だね。まあ、お礼だよ。アルベルトにはグロスこうしやくしようかいしてもらったから」

「うまくいきそうなのか? あの条件は厳しいだろう」

「そうだね。バイオリンは続ける、政略けつこんもできないじゃ、相手に貴族らしい利益を提供できない。あたえられるのは僕のバイオリニストとしての名声だけだ」

 そう言ってフェリクスは、自分のバイオリンに目線を落とした。

「でも、僕がそれだけのバイオリニストだと証明できれば、養子先を紹介してもらえることになったよ。今回の審査できわめるそうだ。久しりに勝ちにいかないと。大差からのせき的逆転なんていい感じだよね」

 さらりときつけられた要求に、アルベルトはかたすくめた。

「──だからさっさとほんごしを入れろって?」

「そういうことだね。今から行けばミレアさんの夜の部、間に合うんじゃないかな」

「いや、もどってから話す──なんだ、その顔」

 のんびりコーヒーをすすろうとしていた手を止める。まじまじとアルベルトを見たフェリクスは、ちょっとあわれむような顔になった。

「ひょっとして、審査の時はショックで気づいてなかった? ミレアさんの演奏」

「どういう意味だ」

「……どうりで行動がおそいと思った。第一楽団も第二楽団も心配してるのに」

 ぴくりとまゆを動かしたアルベルトは、コーヒーを置き、上着をつかんだ。

 外出の用意を始めるアルベルトを、フェリクスはだまって見守っていた。その視線を受けながら、アルベルトはふとたずねてみる。

「一応聞くが、お前、今日僕が動くと第一楽団の連中とけてたんじゃないだろうな?」

「僕らは親友だから、そういうのは分かってしまうものだよね」

「……賭けてるな?」


「ほら、いってらっしゃい。ひとまず話し合わないとね」

 フェリクスが追い出しにかかる。文句は言い足りないがそれよりも不安がまさり、アルベルトはそのまま寮を出て、すぐにつじ馬車をつかまえた。

 まだ夜の部の開場前だ。いまごろ、ミレアはリハーサルだろう。話す時間はある。

(ミレアの演奏? 何があった)

 自分達の仲をはやしたがる第一楽団だけでなく、第二楽団も心配しているのが気にかかる。

 すでに会場周りは人でごった返していた。風船が劇場の周りを飛び、立ち売りのパイのこうばしいにおいがただよっている。けんそうの中で、お立ち台に立った劇場の使用人が声を張り上げていた。

「当日券は完売です! 当日券は完売です!」

 馬車を降りたアルベルトは額に手を当てた。チケットがない。いやそれ以上に、敵情視察が禁止されている関係でアルベルトはミレアの演奏を聞けない。

(第一楽団の連中に話を聞くか……いや、まずは僕が演奏を聞かないと。……鹿しようたのめば、リハだけでも……)

 げらげら笑いながら散々もてあそんだ挙げ句、だと言い切る姿がまぶたかぶ。まずちがいなくそうなることが分かるので、どくいた。

「あの役立たずの馬鹿師匠が……!」

「よお、息子むすこ

 がしっと背後から肩をかれた。酒くさい匂いに身を引こうとしたが、相手は放さない。ななめ向こうにあきらめの視線を投げながら、アルベルトは尋ねる。

「お前……王都からはなれたんじゃなかったのか」

「戻ってきたぜー、義理のお父さんだ」

だれが義理の父だ、いつ僕がお前の息子になった」

「で? 説明してもらおうか。どうして俺のむすめはこんなことになってんだ? 俺はお前にこうならないように娘を頼んだはずなんだけどなあぁ?」

 はじけるように顔を上げたアルベルトは、相手を真正面から見た。

 だらしない格好のその男はクラウスと名乗っている。経歴を元からてつてい的に辿たどったら、こくせきを変え結婚した時に婿むこりという形で改名していた。さらにその後、妻が死亡した際に籍をけ氏を捨て、また名前を変えたという徹底ぶりだ。

 それほどまでにこの男がかくしたがる本当の名前は、パガーニという。

 人類史上最高の天才バイオリニスト。あくたましいを売った音楽家。ドイツェン王国のがくだんを追放され消えた、ミレアの実父だ。

「お前、彼女の演奏を聞いたのか」

「あ? そりゃ聞くだろ、自分の娘の演奏聞いて何が悪い」

「僕は聞けないんだ、しんの関係で──何が起こってる、ミレアに」

 うでをつかみ返してきたアルベルトに、クラウスはまばたいていた。だがうそではないのは伝わったらしく、しばらく考えこんだあと、よしと首根っこをつかまれる。

「俺が聞かせてやる、ついてこい」

「どうやってだ。僕が会場に入ったことが分かればつまみ出される」

「心配すんな。この劇場は、俺の庭みたいなもんだ。元だけどな?」

 にやりと笑い、かつての主役がきびすを返す。迷ったが、アルベルトはその背中について歩き出した。






 夜の部の演奏が終わったらまたくるからと言い残したレベッカは、最後まで笑っていた。フェリクスとの関係を思えば、レベッカはつらいはずだ。でもきちんと、アルベルトの楽団の中でコントラバス奏者としての役割を果たそうとしている。

 何か力になりたい。重たいドレスを引きずって、リハーサルへ向かうろうで考える。

(問題は身分差なんだよね。フェリクス様がどこかの貴族の養子になるとか……でもそれってバイオリン、続けられるのかな……)

 一番いい方法はなんだろう。考えて、アルベルトに相談できればと思う。生まれから育ちまできつすいの貴族であるアルベルトなら、何かいい案を考えてくれる気がした。

 話しかける口実なら、借りたままのハンカチがある。でもそれを差し出す勇気がない。

「ミレア。よかった、呼びに行こうかと思ってたんだよ」

 たいからやさしく自分を呼ぶ声に、足が竦むように止まった。だが視線を上げた先には、想像と違う顔ぶれが並んでいた。

「リアムさん……と、マエストロ?」

「やっほやっほー。元気してた?」

 ラフな格好ではあるが、指揮台に登ってるガーナーが舞台にいる。演奏席には第一楽団と第二楽団が座っていた。エルマー達は、舞台のすみに集まっている。

「ど、どうして第一楽団と第二楽団が舞台にいるんですか?」

「うん。僕の指揮で、第一楽団と第二楽団から演奏者を選んで、特別演奏会をやることになったんだよ。ちなみにパガーニの二十四番をろうしまーす」

 脳天気なガーナーの宣言に、周囲がざわめいた。エルマー達も知らなかったらしい。

 ゆいいつ、先に知らされていたらしいリアムがその後を続ける。

「それで、きゆうきよ俺達のリハ前に彼らのリハも入ることになったんだ。特別演奏会は明日あしたなんだけど、劇場側のスケジュールが押してるらしくて」

「あ、明日!? ずいぶん急ですね、間に合うんですか?」

 かおみな分、えんりよのない質問をしたミレアに、ガーナーが笑う。

「へーきへーき、練習は先週から始めてたし、指揮者がゆうしゆうだからね」

「コンマスはどなたですか?」

 敬語のエルマーにびっくりしてしまった。ガーナーはまったくものじせず答える。

「ミレアちゃんの前任者。団員は第二楽団に第一楽団を半数まぜた感じかな」

「しかし、いきなりですね。しかもパガーニの二十四番。我々のえいきようならうれしいですが」

「それがねー僕としたことが押し切られちゃったんだよ、第一楽団と第二楽団に。ミレアちゃんをなんとかしろって」

 ぱちり、とミレアはまばたく。すると第二楽団のせんぱいが舞台からたしなめた。

「マエストロ。余計なことを言うのはあなたの悪いくせですよ」

「だって。可愛かわいがられてるね、ミレアちゃん」

「第一楽団はバイエルン指揮者に貸しを作りたいだけだけどなー」

 合間に第一楽団が笑いをまぜる。だが、こちらで笑ったのはリアムだけだった。

きゆうてい楽団は結束が固いですね。俺達も第三楽団に加わるのが楽しみです」

「お、いいねいいね。リアム君の楽団はあつかいやすそうだし」

 けろっとガーナーが切り返す。もう一度、第二楽団の先輩がガーナーに声をかけた。

「マエストロ。あおっていじるのはだけにしてください」

「はーい、じゃあリハいくよ。第一楽団、第二楽団──あ、今はガーナー楽団ってどう?」

「ではオーボエ、音合わせお願いします」

「無視!?」

 ガーナーの泣き真似まねを無視して、ラの音が鳴り、音合わせが始まる。オーケストラが始まるまえれだ。くるくる指揮棒を回したガーナーが、何気なくつぶやく。

「ミレアちゃん。今の君って、天才だよね」

「……え?」

「僕はアルベルトにじやされたけど、引き出したリアム君はさすがだよ」

 なおに評価されたとは思えないでいると、リアムがおだやかに応じる。

「あなたとアルベルト君ができなかったことをできたなら、光栄ですよ」

「──でもねえ、僕が本当に欲しかったのはその先だ」

 リアムのまなじりがぴくりと動いた。

 慣れた動作でガーナーが指揮棒をぴたりと宙で止める。軍隊の指揮のようにオーケストラをいつしゆんしずめたガーナーの口元に、きよしようみが浮かんだ。

「たとえばこういう、ね」

 指揮棒が空を切った。これはこうくのだとたたきつけるような音楽が鳴り出す。

 今夜は城のとう会。王子様がはなよめをさがすための、はなやかな大広間。国中の娘達がこぞってかざり立てステップをむ。けれど選ばれるのはたった一人。

 同じ曲想だ。でもアルベルトよりも伝統的で、リアムより空想的な、巨匠の音楽だ。深くもぐりこんでいく速度の管理と、音の重圧。かと思えばかろやかに鳴り出すラッパの音。すべての音があの指揮棒のひとりで鳴る。

 まるでほうだ。だが魔法はかりそめだと、フルートがささやいている。そう、これは幸せな美しいおひめさまの曲ではない。

 みにくうとまれ続けた娘が美しさを願った魔法。愛とひきかえに、誰よりも美しく。

 バイオリンが独奏でおどり出す。おそらくミレアやフェリクスの方がこうは上だ。それでもその弓使いは自信に満ちていた。ガーナーにあたえられた役割を演じきる自信だ。

 硝子ガラスくついて、選ばれた彼女は踊る。魔法で正体を隠し、人々も王子様の視線もさらっていく。なんてゆうえつかんだろう。十二時のかねが鳴るまで、世界は彼女のためにある。

 第二楽団が花を散らし、彼女をいろどる。第一楽団は静かにその舞台を見守り続け、そしてざんこくに、終わりの鐘を鳴らした。

 しゆうばんに向けて一気に速度が上がっていく。第一楽団がいつせいに鳴り出して第二楽団の魔法を解いてしまう。技術のせめぎ合いだ。それでもそのはざで彼女は踊る。われた硝子の靴のへんあしさり、ドレスがぼろにもどっても、それでも自分は美しい。

 命と愛ときようられた踊り。

 一瞬の栄光とてんを手に入れるため、悪魔と取引した天才バイオリニストのように。

「……パガーニじゃないか……!」

 だれかがつぶやいた。

 巨匠ガーナーと、天才パガーニの再演。その言葉を使うなら、この音楽が正しい。

 リアムが横っつらをはたかれたように音楽にき入っている。エルマーは引きつった笑いをかべていた。化け物じみた指揮のなせる魔法だ。

 でも、それだけではない。一番感じるのは、こう弾きたいという、音の意志だ。

(──私は、何を弾いてたっけ……?)

 フェリクスは真っ白な雪の中でだれかを待つおもい人をえがいた。

 第二楽団の先輩は、今、魔法でよみがえらせたきよこうを演じている。

 その人だからこそできる演奏だ。それをみんな、指揮者に導かれて弾いている。

「はいよーし、じゃあリハは終わり。リアム君たちとこうたいね」

 耳の奥をさぶるような音楽がやんだ。あしもとを見ていたミレアは顔を上げる。

 思考がうまくまとまらない。ほうとエルマーが息をく。

「弟子にゆずったかと思ったんだが、ばりばりげんえきだなおっそろしい……」

「これ、演奏会の後は話題をもっていかれるんじゃないか、リアム。……リアム?」

「……。ああ、そうだね……さすがだよ、マエストロは」

 しようにじませて、リアムが答える。でも、と小さく続けてミレアを見た。

 リアムの長い指がびる。そっとよこがみを指ですくわれ、耳元でささやかれた。

だいじよう──君と俺なら、あれだってこえられる。不安に思うことなんてないよ」

 心臓がまたばくばくし鳴り出した。その自分の挙動が、自己けんを引き起こす。

(なんでこんなどきどきするんだろう、アルベルトにしか、したくないのに)

 この人はこうやって、ミレアを知らない場所へ連れて行く。そして知りたくないことまで教えるのだ。

 手を取られる前に、自分で舞台に進み出る。観客席に移動するガーナーや第一楽団、第二楽団のみんなとすれ違う。何か言いたげな視線をいくつか感じながら、席にこしを下ろした。

「さあ、リハーサルだ」

 指揮台に立ったリアムに目配せされた。コンサートマスターとして、指揮者から何を要求されているのか分かることをほこりに思うべきだ。だが、気が重たかった。何も考えたくない。

 でも、苦しいのはほんの一瞬だ──さあ、パガーニになれ。何も考えずに。






 てんじよう裏で、アルベルトはその音を聴いていた。

 はりすきから上がってくるたいの音に、こぶしにぎる。そして自分をこんな所まで案内した男にたずねた。

「──これは、彼女が覚えているお前の音だな」

「ああ、そうだ」

 伝説のバイオリニストが短く答えた。舌打ちする。

 舞台の上で、軽やかに音が踊る。深く、情熱的に、ねつきよう的に。赤いドレスのすそい、大輪ののようなにおいがただよう。全ての男性をとりこにする美しいたかの花。口紅を引いたくちびる微笑ほほえみかけられてい、白い手を差し伸べられて胸をおどらせる。彼女は誰にもこいをしないのに。

 熱狂する観客の気持ちが分かる。あれを手に入れたいとかつぼうするのだ。飲んでも飲んでもたりない、水を求めるように。

(ミレアの中にある音だ。──なのに、彼女が弾いていない)

 極限まで自分をそぎ落として音を鳴らしているのだ。才能があるばかりに。

 聞きのがした自分をやむ。リアムがミレアに何かささやいたところを見た時は、そのがいこつめがけて天井からどんでも落としてやろうかと思ったが、今はそんな気もせた。

「ガーナーはあの性格だ、分かってて放置だろ。さっきの演奏だってミレアに気づかせるためじゃない。お前とあの若い指揮者へのちようせん状だ。そんであの若い指揮者はガーナーの挑戦を受けるぞ、多分。そしたらミレアはどうなる」

 あの鹿しようが作ったパガーニも、彼女は弾けるだろう。自分をけずりながら──そして、使いつぶされて終わる。無意識で拳を握った。

「どうにもできねえなら、ミレアを今すぐここから連れ出すぞ。っつーかお前、俺のむすめに責任取るんだろ。なんで今、ミレアを手放してんだよ──あ、おい」

「ここまで連れてきてもらって助かった。あとで入り用の物があったらバイエルンこうしやく家にでもこい。お前にうろうろされると彼女の将来にかかわる」

「……いきなり上から目線な息子むすこだなァ。礼はお前の有り金でいーぞ、お義父とうさんは」

 否定するのもめんどくさかったのでさいごと投げた。それを顔面で受けたクラウスはへらへら笑って、天井の梁をつたいながら移動するアルベルトを見送る。

 第一楽団と第二楽団が心配するわけだ。彼らは、ミレアの音をよく知っている。いくらいい演奏をしたと言っても、いきなり彼女らしさが根こそぎなくなれば、ねんを覚えるだろう。

 リアムは確かに、ミレア・シェルツの新しい才能を開花させた。そのことにくやしさを覚えないと言えばうそだ。

(でもちがうだろう、ミレア。君の才能はそうじゃない)

 会場の正面とびら辿たどり着く。走ってきたせいで乱れた息を整える合間すらおかずに、扉を開いた。ぎいと開いた扉の中では、音楽が止まっていた。

 何か舞台であったらしい。

 客席にいる第一楽団が自分の姿に気づいた。舞台の上の彼女は何も気づいていない。たいそでで踊る彼女を見ているだけだった苦さが蘇る。でも声を張り上げた。

 ──大丈夫だ。彼女のひとみに、また映ればいいだけの話だから。



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