第二楽曲 悪魔的カデンツァ パート2





 まずい、うまく説明できないけれどこの状況はまずい。放置してはいけないやつだ。

 しかし練習で根をつめるアルベルトとミレアがうまく顔を合わせる機会があるはずもなく、なんの進展もないままあっさりと初回しんとなる演奏会当日をむかえてしまった。

 救いはミレア達の演奏が順調に仕上がったことだ。リアムは相変わらず「何か足りない」とは言うものの、エルマーの一言がきいたのか、のうする様子もなく、むしろじようげんなため練習がとどこおることはなくなった。

 ばんぜんで本番にいどめる状態なのは喜ばしい。アルベルトの方は、死んだ魚のような目をしているレベッカの様子から察するに、苦戦しているようだが。

(でも今日は絶対、アルベルトに会えるはずだから……! いつ話しかけよう)

 くじ引きでまずアルベルト達が、その後きゆうけいをはさんでミレア達が演奏することになった。

 リハーサル順も同じで、すでにアルベルト達は終わっており、ミレアはひかえ室でたくを済ませてこれから向かうところだ。ことごとくすれちがうようにスケジュールができている。

(リハが終わった後かな。アルベルトの方がまた本番準備に入っちゃうけど、開演までは時間あるし、結果によっては本番後は気まずいし……よし!)

 ねらいを定めて、ひとまずリハーサルに集中しようと決める。ただでさえ長いしんのドレスのすそを高いヒールでんづけそうでこわいのだ。気をそらしている場合ではない。

「もう、リアムさんがリハの時にドレスでふんを見たいとか言うから……!」

 開場の準備に人手がさかれているのか、廊下にはひとがない。ちょっと裾をたくし上げて歩こうかと、廊下の角を曲がった時だった。

「アルベルト」

 廊下にあるアンティークのながに、アルベルトが一人でこしかけていた。ミレアの声に気づいて顔を上げるが、すぐに手元の楽譜に目をもどす。時間はまだある。話をするいい機会だ。

 アルベルトの全身から話しかけるなというあつかんを感じるけれど。

「あの、アルベルト。となりに座っても──わ、わわっ!」

 アルベルトばかり気にしてあしもとがおろそかになっていたミレアは、ものの見事に長いドレスの裾を踏んづけてつんのめった。そのままバイオリンと楽譜をかかえて廊下に顔面からげきとつする寸前に、き止められる。上からアルベルトのあきれた声が降ってきた。

「だから、何度も言ってるだろう。転ぶ前にバイオリンを放せ」

「で、でも聖夜の天使の」

「言い訳はいい。まったく、君はなんでそうそそっかしいんだ。は?」

「だ、だいじようだと思うけど──ドレス踏んづけちゃった」

 アルベルトの腕に腰をかかえられたままだと足下が見えないが、破けたかもしれない。ミレアの目線を追ったアルベルトが代わりに答えてくれた。

「大丈夫だ、よごれてない。──裾が開きすぎて危ないんじゃないか」

 ミレアが着ているのは、こうたくのある深紅の絹で作られたドレスだ。大きく開いたむなもとくろ薔薇ばらかざりとレースであしらわれており、裾は片方だけひざうえから切りこみを入れて長く流れる美しい形になっている。ただ、えが重視されているので、妙に動きづらい。

「だってリアムさんがこれがいいって」

 リアムが『男性をすべてとりこにするわく的な女性』を演出すべく選んでくれたものだ。

 正直にしんこくしたのだが、冷ややかな声が上から降ってきた。

「……へえ、そう」

「このかみがたも時間かかったのに。くずれてない?」

「崩れてない。でも全然君に似合ってないな」

「なっ」

 文句を言う前に体が宙にいた。アルベルトが横抱きに、バイオリンごとミレアを抱き上げたのだ。

 まなしは冷たいまま、アルベルトは首をめぐらせる。

「君はこれからリハだったな」

「ア、アルベルト! お、おろして。お、重いでしょ!?」

「荷物が重いのは当然だ」

 そこは重くないと言って欲しい。しかも荷物あつかいなんてひどい。

 おおまたで歩くアルベルトと抱き上げられているミレアを、ろうですれ違う人達が見ている。いたたまれなくてミレアはバイオリンと楽譜で顔をかくす。

 でも、一番大事なことを聞くのは忘れなかった。

「あ、あの、おこってる? この間……それに、ずっと会いに行かなかったし」

「怒ってないし、君が僕に会いにくる必要もないと思うけど」

「だっておためし期間のこいびとなのに」

「──そもそも僕はその話をしようだくしてない」

 ものすごく低い声で言い切られた。ちょっと顔を出したミレアは、たずねてみる。

「じゃあ、なんにもためさないの?」

 ぴた、とアルベルトの足が止まった。不思議に思って見上げたら、冷め切った眼差しを返された。

「意味を分かって言ってないだろう」

「え、なんで? 私、アルベルトとためしたいことたくさんあるのに」

「……じゃあ期待せずに聞くけど、たとえば何を?」

 どうしてすごまれるんだろうか。首をかしげながらミレアは答える。

「あのね、手をつないでデートしたい! あと、本番のあとはしじゃなくて花束持ってきてほめて欲しい!」

「想定通りの答えですがすがしいよ。まあ、そのレベルなら逆に安心だけど」

「あとはね、私にバイオリンいて」

 不意をつかれたように、アルベルトがまばたいた。にこにこしながらミレアは、つけ加える。

「私よりヘタでも笑わないから」

「僕よりヘタだったら君の価値はどうなるんだ、〝バイオリンのようせい〟?」

 いつもの意地の悪い顔で笑われて、内心ほっとしたが、表情はむっとする。

「絶対、私の方がうまい!」

「だといいけど」

「なによ、私うまくなってるんだから! びっくりするわよ。絶対勝つし!」

「へえ、ほんとに?」

 歩みを再開したアルベルトの歩調がゆっくりに変わった。いつも通り、もうアルベルトしか目に入らないミレアは、自信満々にうなずく。

「エルマーさんとか、いっぱい教えてもらったもの。……ただ……」

「ただ? どうせまたムラっ気のある演奏でフォローばっかりされてるんだろう」

「違うったら! ……リアムさんが、ずっと、何か足りないって。私の音」

 少しだけ、アルベルトがミレアに視線を下げた。すぐに前を向いてしまうが、それはどこか遠い場所に目を向ける指揮者の顔だ。

(この顔も好きだなあ)

 そばにいるのに、自分を見ていない。それでも好きだと思えるのは、我ながらすごいんじゃないかと思う。ぎゅっとがくとバイオリンを胸に抱きめて、どきどきしながら尋ねた。

「アルベルトなら分かる? 私に足りないもの」

「色気」

 素っ気なくそくとうされた。ぽかんとしたミレアの顔がおかしかったのか、アルベルトがき出す。完全に遊ばれていると分かって、いかりがこみ上げた。

「ひ、人がしんけんに考えてるのに──っ」

「ミレア、──アルベルト君。どうしたんだい」

 思いっきり暴れてやろうとしたのに、もうたいそでについていた。

 目を丸くしたリアムとエルマーの顔を見て、人目を思い出したミレアは真っ赤になる。

「あの、えっと……」

「ドレスを踏んづけて転びそうになっていたので、運んだだけです。すぐすみますので」

 そう言ってアルベルトは、舞台袖に並んだ椅子の一つにミレアを下ろす。ぴゅうっとエルマーが口笛をく音が聞こえた。

「堂々とてきじんに乗りこむとは、若いモンは怖いもん知らずだな」

「あ、あの、アルベルト。もういいから」

 リアム達がアルベルトに向ける目は決してやさしくない。当然だ、これからこの舞台でどちらの演奏がよりすぐれているかきそうのだから。

 だが、アルベルトは何故なぜか椅子に座ったミレアの前に腰を落とす。ひざまずく格好だ。そして、ミレアのドレスのすそを軽くまくり上げた。

「な、な──ひゃっ」

 くつがされて、あしに冷たいアルベルトの指がすべる。くすぐったさと冷たさに身をすくめたあとで、じようきようを理解した。

 とぎばなしみたいにアルベルトが跪いて、ミレアの足にれている。

「痛まないか?」

 たんたんとアルベルトがかくにんする。さっき転びそうになったからだとやっと分かった。

 だがもうまともに思考できない。ただただ、息を殺してなみだで頷く。

(この人、なんで平気でこんなことができるの)

 頭の中がだってくらくらする。みんながこっちをほうけたように見ている。ずかしい。

 でも、同じくらいの割合で、大事にされることがうれしい。

「──君が、なんにも変わってなくて安心した」

「え?」

 優しい手つきでアルベルトが靴をはき直させてくれた。そして、下から意地悪く笑う。

「成長してないって言ったんだ」

「なっ──そ、そんなことないもの! そ、そうだこれ!」

 ミレアはずっとき締めていた楽譜を、ばっとアルベルトに見えるよう広げる。

「聖夜の天使からもらった楽譜、ちゃんと使ってるもの!」

 自分で考えて、リアムの指示やエルマー達の教えを書きこんだ。

 アルベルトから教わったことだ。それが分かったのだろう。目を丸くしたあとで、アルベルトがふっと微笑ほほえんだ。

「そうか」

「そ、そうよ。絶対、私、勝つんだから。あなたに」

 聖夜の天使に会わせてくれない、あなたに。

「自分に足りない『何か』が分からない君に、負ける気がしない」

「う。で、でもアルベルトだって分かんないでしょ?」

「さあ。──ほら、もうリハだ」

 アルベルトが差し出してくれた手につかまり、ミレアは立ち上がる。

「もう転ぶんじゃないぞ。僕はいないんだからな」

「わ、分かってる。……ありがとう……」

 小さく礼を言うと、どういたしましてと返された。微笑む姿にゆうがあって、ミレアはきゅっとくちびるを引き結ぶ。

 気をつけながら、一歩み出す。二歩目で、アルベルトが手を放していないことに気づいて、り返った。

「──君は、この曲でどんな女性になりたい?」

 悪戯いたずらをしかけるような問いかけ方だった。まばたくミレアの指先を持ち上げて、アルベルトがそっと口づける。

だいじよう。バイオリンを弾く君は、れいだ」

 だから、いっておいで。

 アルベルトがきびすを返し、指先がはなれる。

 ──この人が好きだ。どうしてだか分からないけれど、とても好きだ。遠ざかる背中を見つめながら、そう思った。





「──すごいな、ミレア!」

 もうすぐ本番だというのにり返されるエルマーのかんたんに、ミレアはきようしゆくした。

「すごいリハだった。君が〝バイオリンの妖精〟と言われる理由が分かった気がするよ」

「そ、そんなことないです」

「そんなことあるよ」

 そう続けたのは第一バイオリンの人だ。うんうんと、観客席に座るほかの団員達も頷く。

「あれなら本番はこっちの圧勝だな」

「そ、それはまだ分かんないかと……」

「じゃあミレアは俺らが負けると思うのか? いくらドイツェンきゆうてい楽団の天才コンビがついてても、無名だらけのひよっこ演奏者達に」

 みなが意味ありげに笑う。それは相手を鹿にしているのではなく、自信からくるみだ。

「経験も技術も、何もかもがこっちが上だからな。足りないとしたら『しんせんさ』だ。それをミレアは十分、補ってくれる」

「そうだな、もう話題性だけじゃない。なあ、リアム」

「え?」

 エルマーに話しかけられたリアムが、目が覚めたように振り向く。だがすぐに笑った。

「ああ。ごめんね、聞いてなかったよ」

「おいおい、まさかきんちようしてるんじゃないだろうな。リハはかんぺきだっただろう?」

「……。ああ、うん。そうだね。そうなんだろうね……」

「なんだ、まさかまだ『何か』ちがうって言うんじゃないだろうな?」

 団員からの視線を受けて、リアムは何か言いかけて、やめる。

 リハーサルが終わってからリアムはこの調子だ。もうすぐ本番で、会場内はすでに観客でまっている。ミレア達がじんっているのは関係者席に当たる二階席だが、ちらちらこちらをうかがう視線があった。そこから、どうしても勝負の行方ゆくえするものを感じてしまう。

 それが気になるのかと、ミレアはとなりに座るリアムを改めて見た。ほおづえいたリアムは、まだ幕の上がらない舞台をぼんやり見つめている。

「どうなんだろう。ちょっとよく分からなくて」

「分からないってお前……まあいい。お前がそれでも、俺達がなんとかするさ」

「うん、それはありがたいな。……でも相手はあのアルベルト・フォン・バイエルンだ」

 ふと、今までどこを見ているのか分からなかったひとみに力がもどる。

 ミレアもつられて、リアムが見ている先の舞台を見た。

「そんなに簡単に負かせる相手なら、マエストロ・ガーナーが彼をにするわけがない」

 マエストロ・ガーナーのゆいいつの弟子、アルベルト・フォン・バイエルン。

 若きマエストロ・ガーナーの再来、リアム・ルーテル。

 開演のベルが鳴り、幕が上がる。

 ずらりと並んでいるのは、見知らぬ顔ばかりだ。全体的に若い演奏者が多い。

(あ、レベッカ)

 コントラバス演奏者の席に友人の姿がある。ふと、話を聞きそこねたままなのを思い出した。

 同じりよう部屋できしていても、毎晩おそく帰ってきてねむるだけのレベッカとは、ほとんど話せていない。大丈夫かとたずねると、新世界が見えるとかなんとか返された。

(あれ絶対やばいよね。終わったら、ちょっとは落ち着いて話せるといいけど……)

 食事中も楽譜から目を離さずレベッカは取り組んでいた。あんなに熱心に練習するレベッカをミレアは初めて見た。

 その努力が今、問われる。

 音合わせが終わり、たいそでからアルベルトが出てきた。きゃあと黄色い悲鳴がどこからか上がるが、いちべつしただけでまっすぐに指揮台に登る。

「さあ、おぼつちゃん指揮者がどこまで自分の楽団を作ったのか」

 エルマーがふくみを持たせて笑う。ミレアを含むリアム達の楽団は、アルベルトの楽団の演奏をまともに聞いていない。楽団の構成員が決まった後、敵情視察にあたるこうたがいに禁じられ、演奏を聞ける機会は本番のみに限られてしまったからだ。そのせいで、分かっているのは今日までに何度かあった演奏会の評判だけだった。

 リアム達の方は、耳が肥えた観客も満足してくれており、新聞記事も好評だった。

 だが、アルベルト達の方は散々だった。特に最初の演奏会は、批評家達がこぞってき下ろした。今のところいい評判は耳に届いていない。

(でも、お客さんのコメントを全部けいさいした記事にあったんだよね。『楽しかった』って)

 聞くにえないという言葉の横にあった言葉だ。ただの皮肉だったのか、それとも。

 彼が目を合わせるのはフェリクスだ。そしてアルベルトは迷いなく、指揮棒を振り下ろす。

 思わず身を乗り出した。

 とう会だ。きらびやかなシャンデリア、女の子ならだれもがあこがれる大理石の大広間に、くるくると花のように開き回るドレス。

(私達と同じ曲想……あれ、でもちょっと違う?)

 テンポが軽く、音も舞踏会にしては明るくあつかんがない。何よりも、もうそろそろ表舞台に出てくるはずのバイオリンがなかなか姿を見せないことにれてしまう。

 フェリクスの調子が悪いわけではない。実際、曲のはしばしでフェリクスの音が聞こえる。ちよううように、顔をかくして。そこでぴんときた。

(分かった! 仮面舞踏会!)

 フェリクスの音があるようでないのはそのせいだ。わくわくしてしまう。

 彼女は誰? 焦れた観客の期待にこたえて、フェリクスのバイオリンがおどり出た。やっと彼女を見つけたのだ、観客が──あるいは、音楽の中で彼女を見つめる誰かが。

 いつせいに鳴り出した音楽に、ミレアは顔をかがやかせた。

 フルートがはなやかさをいろどり、重低音のコントラバスがそうごんさを支える。

 よいは仮面舞踏会。少ししゆこうは違えども、決して正統性は失わない指揮と、楽譜に忠実な演奏がそれを表していた。そこへふわりと、雪のようにせいれんな女性が舞う。

 スピッカート、ヴィブラート。最高難易度で要求される技術を難なく使しながら、ステップを踏むように音がおどる。速度が上がっても全く音はぶれない。踊りの相手を変えるように、自然と弓がげんする。

 息を殺してミレアはそれを聞いていた。すごいのは技術を感じさせないことだ。ただ音楽を楽しむための演奏が続く。少しトロンボーンが音を外した。ステップを間違えたようにチェロの入りがおくれる。ありがちなミスだ。でもそれすらごあいきよう

(楽しい!)

 くるくるとれんに踊る、あの子はこいをしない。王子様にさそわれても、げてしまう。

 バイオリンが一人きりで鳴り出す。雪原の上の静かな踊り。げんそう的な冬景色。まっすぐなくろかみが回るたびに広がる。ミレアの顔が赤くなった。

(うわレベッカだ、これ絶対レベッカ!)

 最後にすべての舞台がほどける。四季がめぐっても彼女は一人きり、春にも取り残される。誰も愛さず、ただ誰かを待ち続けるだいしようのように。

 最初のはくしゆは、どこからともなく始まった。あっという間に広がるかんせいに、アルベルトが振り向く。苦笑いがかんでいて、でもうれしそうだった。『あともうちょっと』──そう、唇が動くのが見えた。じやな顔に、不覚にもきゅんと胸が鳴る。

 同じしようのフェリクスとあくしゆをし、二人で頭を下げる。大歓声はやまない。

 ミレアも夢中で拍手した。その横で、低い声がつぶやく。

「──なるほど。確かにごわいな」

 拍手を鳴らす手を思わず止めてしまった。見ればミレア以外の全員が、舞台を静かに注視している。するどく、あるいは楽しそうに、ものを前にした狩人かりゆうどのように。

「まだミスが目立ったけど、二回目のしんに仕上げてくるだろうね。もっと完成度上がるよ」

「オケとバイオリン独奏のバランス感覚がばつぐんだ。おっそろしい天才コンビだな」

「一番こわいのは、ばつと見せかけてがくに忠実だったことだろ。どれだけ楽譜読みこんでるんだよ、あの指揮者は」

「さすがマエストロ・ガーナーの弟子だ」

 一言、たんてきにリアムがそう評した。しんと周囲が静まり返る。エルマーが声をひそめた。

「……リアム。それはそうかもしれないが、俺達は俺達だ。リハは完璧だし、ミレアの音だって最高だった」

「あんなものアルベルト君に浮かれただけの音だ。あれは俺が望む音じゃない」

 どうもくした。同時に、リアムが口をふさぐ。だがすぐに、いつもの笑みを浮かべてみせた。

「いや、すまない。──次は俺達の出番だ。皆は準備しててくれ」

「リ、リアムさんは」

「少し頭を冷やしてくるよ。まだ、足りないんだ。足りない『何か』を見つけたい」

 席を立ち上がったリアムは、そのまま誰の返事も待たず、まだ拍手のやまない会場から出て行ってしまう。

 思わずミレアが周囲を見回すと、エルマーが首をった。

ほうっといて平気だ。リアムはガーナーの弟子を意識しすぎなんだよ」

「でも、足りない何かって、私のことですよね」

 ぎゅっと一度こぶしにぎったミレアは立ち上がり、会場の出入り口に向かう。一度だけ、舞台を振り向いた。アルベルトの楽団が全員立ち上がり、深くおをしている。

 しむことなく注がれる賞賛と拍手。ミレアの心配なんて、かすりもしなかった。そのことにほこらしさと、なまりを飲みこんだような重圧を感じる。

 ミレアはこの後に演奏する。審査は二回行われるから、今回負けたとしても大差でなければ問題ない。だが、そんな考えでアルベルトに勝てるなんて思えない。

「──リアムさん!」

 真っ白なろうかべを背に、一人、てんじようを見上げていたリアムが振り向く。少し目を見開いたが、いつものおだやかなみが返ってきた。

「ミレア、どうしたんだい」

「えっと、私、何かできることありますか」

 背筋をばしてまっすぐ見上げた。まばたきしたリアムは周囲を見回し、声をひそめる。

「──ひかえ室に行こうか、もうそろそろきゆうけいで観客が外に出てくる」

「は、はい」

あしもと、気をつけて」

 舞台しようのミレアをづかって、手を差し伸べてくれた。おずおず手を重ねて、ミレアはゆっくりと歩き出す。

「さっきの話だけど、かんちがいしないで欲しいんだ。君の技術はかんぺきだよ」

 そう言って半歩先を進むリアムはどこか遠い先を見つめている。その横顔が、アルベルトととてもよく似ていることに気づいた。指揮者はみんなこうなのだろうか。

「でも……違うんですよね、リアムさんが私に求めてる音と」

「そうだね……でも意外だったな。君がそんなに俺を気にしてくれるなんて」

 小首をかしげると、苦笑い気味のちようが返ってきた。

「さっきだってアルベルト君の指揮に完全にしんすいしてたじゃないか」

「そ、それは──でも私、リアムさんには勝って欲しいです」

 ミレアの控え室の前で立ち止まったリアムが、めずらしく無表情で見返す。

「──君は、俺が勝つと思う?」

「勝ってもらわないと困ります」

 その青いひとみに向かって、微笑ほほえんだ。

「だって私、アルベルトに勝たないとおためしで終わっちゃう」

 自分で控え室のとびらを開く。力のけたリアムの手から、自分の手がすり抜けた。

「とにかく本番ギリギリまで、考えましょう。いい案が浮かぶかも──あ」

 二人分のを用意しようと控え室の中を見回し、ぱっと顔を輝かせた。

「聖夜の天使からだ……!」

 鏡台の前に、小さな羽がついた白い箱が置いてあった。ほかにある公演前のおくり物には目もくれず、ミレアは長方形の大きな箱のリボンをほどく。そして、ふたを持ち上げた。

 ドレスだ。

 のようなしんの絹がこうたくを放つ。むなもとすそを彩るのはせいな黒のレースのみで、色やシンプルなデザインが大人のいろを感じさせた。それでいてひざたけのスカートの裾はひらひらと蝶のように美しく可憐に動くようになっていて、可愛かわいらしい。

「あ──あのっ、リアムさん! 私、これ、これ着てもいいですか!?」

「……え?」

「だってこっちの方が私に合いません?」

 そう言ってミレアはリアムにドレスを見せる。

(いつの間に用意したのかな、アルベルトってば)

 さきほど、ミレアが転びそうになっていたのを見て手配したとしたら、すごすぎる。本当にほうの領域だ。でも喜びの方がまさって、自然と顔がゆるむ。その時だった。

 ぎこちない笑い声が、控え室にひびく。

「──は……ははは。なるほど。確かに、俺が気づいてないだけだったわけだ」

「……リアム、さん?」

 体を曲げて笑っていたリアムが、顔を上げた。やさしく微笑まれる。なのに、体がすくんだ。

「分かったよ。だから足りない。君のバイオリンが俺のものにならないから」

 リアムはいつも通り、穏やかに笑ってる。けれど瞳の奥に底知れないものがあった。

「──ねえ、ミレア。さがしてあげようか、聖夜の天使を。会いたいんだろう?」

 ほんの半年前の自分なら、飛びついた誘いだ。だが今、答えは歯切れ悪く、れる。

「む、無理ですよ。会いたいけど、さがすなんて。天使だから」

「そのドレス、オーダーメイドだよね。ずいぶん高級なを使ってるみたいだ。君が持ってるバイオリンケースもそう。くつだって一点物なら、はんばい店も入手方法も限られてくる。──だとしたら、案外簡単に買い主に辿たどり着くんじゃないかな?」

 いやな予感がして、ちんもくを選んだ。けれどリアムはついきゆうをやめない。

「見つけてあげるよ。俺が。そのドレスから」

 リアムが手を伸ばすのを見て、とつにドレスを背にかくした。それを見て、リアムが、三日月みたいに目を細めて笑う。

「やっぱりだ。君は、聖夜の天使がだれか知ってるね。知ってて、知らないふりをしている」

「……そ、そんなことは」

「聖夜の天使はアルベルト・フォン・バイエルン?」

 ひゅっとのどが鳴った。ふるえたミレアの瞳に何を見たのか、もう一度リアムが笑い出す。

「だろうね。君みたいな人間は、いつだって追いかけるのはたった一人だ」

「──な、何を言ってるのか分からないです!」

「そう? じゃあ、調べてみようか。このイヤリングも、聖夜の天使にもらったんだったね」

「たっ」

 とつぜん耳に伸びてきた手に、イヤリングを片方、もぎ取られた。青ざめたミレアは咄嗟に手を伸ばす。

「何するんですか、返して……っ」

「小さいけどピンクダイヤだ。こんなものを仕入れるのも加工できるところも限られてる」

「やめて、返して! どうしてそんなことっ──か、仮に聖夜の天使がアルベルトだったとしたって、なんにも問題ないはずです!」

「でもこの事実は公表した方が君のためになるよ。〝バイオリンのようせい〟を作ったのは、アルベルト・フォン・バイエルン。これが世間に知られれば、アルベルト君は──バイエルンこうしやく家は、責任をとってミレア・シェルツをえんし続ける。この先、何があっても」

 それは、ただのじゆばくだ。そしてミレアが一番歩きたくない道だった。

「──やめて、アルベルトにめいわくかけないで!」

 それはもう、自白したのと同じだった。だがここまできたらす方が難しい。

 ミレアはリアムを真正面からめつける。

「アルベルトに何かしたら、許さないから……っ!」

「ああ、やっとだ。やっと君は本当に、俺を見たね」

 うっとりと微笑んだリアムに、あごをつかまれる。おどろいたが、強い力に逆らえなかった。

「俺はね。君の目が俺に向かないのが、まんならなかったらしい。どういう意味か分かる?」

「そんなこと、今、なんの関係が──!」

「関係あるよ。だってこれはこいけ引きで、君は今から俺の指揮でたいに立つ」

 リアムは笑う。ミレアを指揮台から食いくそうとした、かのきよしようガーナーと同じ瞳で。

「どうも俺は、君に恋をしたみたいだよ」

 頭が真っ白になった。

 目の前で笑う知らない男の人のことで視界がいっぱいになりそうで、深紅のドレスを握りめる。しわにならないようになんて、気にすることもできずに。

「そのドレスを着るなんて許さない。君は今、俺のコンマスだ」

 コンマス。その言葉を、からからにがりそうな喉で飲みこんだ。

「ねえ、だからかせてくれ。俺の指揮で、君の中にある音を」

 ──君が、他の誰かではなく、俺にささげる音を。






 タオルであせぬぐい、たいそでに引きげたたん、次々にたおれた団員達を見下ろす。

「おい、いつまで死んでる。いい加減、移動するぞ」

「──す、すみません、ちからきて……星が見えるんです……」

「それは舞台の照明だ。まだ一回目だぞ。しかもミスしただろう、各自」

「アルベルト、お説教は後にしよう」

 ゆいいつ平然と立っているフェリクスが、団員達のしかばねを乗りえてやってくる。かたを竦めて、アルベルトは団員達を起き上がらせる手伝いを始めた。

 フェリクスもミレアとりようで同室のレベッカに声をかけている。手を貸そうとして、はらわれているのが見えた。思わずき出しそうになったら、フェリクスにがおで振り向かれる。

「今、笑った? アルベルト」

「気のせいだ」

「だよね。──ほらみんな起きて。もうそろそろ次の演奏時間なんだから」

「うわっなんだこりゃ」

 そうこうしている間に、リアム達の楽団がやってきてしまった。舌打ちしたアルベルトは、舞台袖のさんじようひるむ演奏家──エルマーだ、かの有名な──に謝罪する。

「申し訳ない、すぐに移動しますので。ほら、立て全員」

「いやあ、まあ舞台は空いてるし? ほら行くぞ」

 エルマーの号令といつしよに、名だたる演奏家がぜんと舞台に向かう。なんとか移動を始めたアルベルトの団員達とかんろくちがいすぎて、気にするのすら鹿馬鹿しい。

(経験値の違いだけはどうにもならないな)

 だが、経験値がないからこそ新しい音楽が生まれやすい。出だしはまずまずだろう。大負けはないと思いたい──が、なにせ相手はリアム・ルーテルと名だたる歴戦の演奏者達だ。

(四割得票がいいところか? ……相手の出来によるか)

 マエストロ・ガーナーとパガーニの共演。それを再現するという記事を見た。それに近いものが仕上がっているとしたら、評価をどこまで押し上げるかはミレアの出来だいだろう。

「やっほー馬鹿ー! おしよう様がコメントにきたよー!」

「フェリクス、客席にいくぞ」

 明るく舞台袖に現れた師匠を無視すると、フェリクスもうなずく。

「開演まであと十分だ。急ごう」

「お前ね、そういうことすると僕はリアム君をおうえんしちゃうからね!?」

「そうしろ、せいせいする」

「うわあ! 負けろ、お前なんか負けちゃえ!」

「しょうがないだろう、今回は。勝負は次だ」

 アルベルトの答えにガーナーはまばたいたあと、りよううでを組んだ。

「お前はほんっと可愛かわいくないね。自分のよくぼうより勝つための正解ばっかりだ。情熱が足りないよ、情熱が! あーつまんない、僕の弟子がゆうしゆうでつまんない!」

 もうそろそろろう。決意して振り向いたアルベルトの目の前で、師匠がうすく笑った。

「お前まで僕をがっかりさせるんじゃないよ、アルベルト」

「……」

「まあ、リアム君に期待するかぁ。あっちはミレアちゃんいるしね。お、うわさをすれば」

 きたきたとはしゃぐガーナーに見えないところで、め息をつく。

(勝つための正解ばっかり、か。痛いところをつきやがって)

 ふと、人が通る気配を感じて顔を上げる。

 ミレアだった。気づくのにおくれたのは、その表情があまりにいつもと違ったからだ。ものげなまなしと、力のない足取り。咄嗟にアルベルトは足をみ出す。

「ミレア」

 震えたようにミレアのひとみに力がもどった。だがアルベルトを見たしゆんかんに、さっと顔をそらしてしまう。

 何かあった。わかりやすすぎるけんちよな反応に、胸がざわめく。それはあせりに似ていた。

「ミレア、待て」

「申し訳ないけど、アルベルト君。もう本番だ」

 さえぎるように、リアムが視界に割って入った。危なっかしい足取りのミレアのこしいて、にこやかに告げる。

「彼女は俺が舞台まで連れて行くから、ご心配なく」

 かっと喉の奥からせり上がった何かを、アルベルトはその場で飲み下した。それが正解だと思ったからだ。

 ──勝つための正解ばっかりだ。つまらない。

 こぶしにぎる。み締めた奥歯から、息をき出して、落ち着けと言い聞かせる。どうしてこんなにどうようしているのか自分でも分からない。

「……ふぅん、やっぱりミレアちゃんか」

「──なんのことだ、馬鹿師匠」

「お前はたまには不正解に手を出すべきだよ」

 けんのんな目を向ける。だがにんまり笑った師匠は、答えずにきびすを返してしまった。フェリクスがづかうように声をかける。

てつしゆう、終わったよ。僕らも客席に行こう、アルベルト」

「──いや、いい」

 両足が地面に張りついたように動かない。いまさらつかれが出たわけでもないだろうに。

「ここで聴く」

 アルベルトの答えに、フェリクスは何かを言いかけてやめた。頷き、去って行くくつおとを聞きながら、アルベルトは舞台を見る。

 照明が落ちる。表情がけ落ちたミレアに、リアムが目配せした。ミレアのほおが赤らむ。

 当たり前のことにがくぜんとした。──彼女の瞳に今、自分は映っていない。



 気づいたら舞台にいた。

 体はふわふわしているのに、心臓はばくばくしている。どうしよう、どうしようと焦っているのに、手はしっかりと弓を持っていた。

(アルベルトから、目をそらしちゃった)

 だって顔を見られなかった。どんな顔をしていいか分からなかったのだ。

 男の人に告白されたのなんて初めてだったから。

 ──君が望むなら、聖夜の天使がアルベルト・フォン・バイエルンだってことはだまっておいてあげるよ。もちろん無理にこいびとになれとも言わない。俺は君が好きだからね。

 ──ただ、俺のことも見て。俺を通してアルベルト君を見るんじゃなく、俺を。

 指揮台の上からリアムが微笑ほほえむ。びくっとした後で、顔が赤らむ。ずかしさといかりと、よく分からない感情で何もかもがぐちゃぐちゃだ。

(あんな言い方、おどしじゃない。でも、私を好きだからバラさないって)

 そんなきようなやり方が恋だなんて、認めたくない。

 曲が始まる。弓を持って、ミレアはくちびるを引き結んだ。自分が好きなのはアルベルトだ。ミレアはリアムに恋なんてしていない。この舞台にミレアが恋する人はいない。

(そう、アルベルトだけだから──リアムさんは、アルベルトじゃない)

 私、ほかの男の人に告白された。ねえ、あなたはどんな顔をするの。

 それはあくささやきだった。同時におくの底から、本当の父親が答えを教える。

『いいか、ミレア。この曲は、こうくんだよ。そしたらみんなイチコロだ』

 動揺した視界にリアムが映りこむ。それだ、と唇が動いた。そして、おどり出すのをちゆうちよするミレアを舞台に引きずり出すように、指揮棒を引く。

 気がついたら、指が動いていた。薄く微笑んだミレアは、バイオリンにぼつとうする。

 踊れ、踊れ、踊れ。彼の気を引くには、世界中の視線がいる。どう弾けばいいかを、自分は知っているはずだ。

 まだ早いなんて彼の言葉を信じてはいけない。だって彼はむかえにこない。いつだってして、うそをついて、子供あつかいをしてばかり。

 だったら、他の男の手を取って踊って何が悪いのか。

 観客がまれていくことにも、おびえたようにオーケストラがふるえたことにも気づかず、一心にミレアはふける。唇をゆがめて笑う。リアムと一緒に。

「──ッ!」

 最後の一音と一緒に、あせが宝石のようにった。

 息を切らして、静まり返った会場を見つめる。何故なぜだか、不安を覚えなかった。

 そしてミレアの確信を裏づけるように、いつせいに観客席からはくしゆの波がおそう。割れんばかりのとうの勢いだった。

「ミレア」

 まだぼうっとしているミレアの手を、エルマーががっちりとつかんだ。

「君は天才だ」

「ミレア」

 今度は指揮台から下りたリアムに抱きめられた。

「ありがとう、俺の欲しい音をくれて──俺を、見てくれて」

 どきりと、心臓が知らない音をかなでた。アルベルトじゃない人に向けて、鳴った。

 ねつきよう的に鳴りひびく拍手とかんせいを見回す。初めて見る光景に、顔が赤らんだ。少しも止まらない拍手に何度もり返す。こうようかんって、ふらふらとたいそでに戻る。

 戻って、初めてこおりついた。

 アルベルトが立っていた。舞台袖で、一人きり、ミレアを待っていたように。

「ミレア、行こう。つかれただろう」

 先導で歩いていたリアムがわざわざうながす。うなずき返してそろそろと足を進めた。

(どうし、よう。なんで、私)

 後ろめたさで、顔が見られない。アルベルトは何も言わない。いつもなら、お説教がとんでくるころいだ。

 なのに、びてきたのは両腕だった。

「──僕は、君とつきあう気なんかない」

 後ろからきつく抱き締められたミレアは、息をんで、アルベルトの言葉を聞く。

「君にれんあいなんてまだ早い。だから」

 聞いたこともない切実な声だった。腕の力も、痛いくらいようしやがない。少しもミレアを大事にしているように感じない。なのに。

「だから──他の男なんか、見るな」

 くらりとめまいがした。体中の体温が上がる。顔を両手でおおった。

 彼が好きだ。こうしてどくせんされてもまだ足りないくらいに。

 けれど、ミレアはアルベルトのうでからもがき出る。

 重いドレスのすそひるがえしながら、なみださけんだ。

「そういうことは、私に勝ってから言って!」

 自分が恥ずかしくて、その腕の中で幸せになれない。だってあなただって気づいてる。

(私の鹿、どうして──死んだっていいくらい、うれしいのに!)

 心臓の音が鳴りまない。他の男の人に鳴らされた、知らない音が。



 第三楽団せんばつ初回の結果は、そくに発表された。

 アルベルト・フォン・バイエルン得票、十一票。

 リアム・ルーテル得票、八十九票。

 翌日の新聞では、アルベルト・フォン・バイエルンの第三楽団指揮者の就任は絶望的であると報じられた。





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