第二楽曲 悪魔的カデンツァ パート1








「君はきゆうてい楽団でさわぎを起こさなければ死ぬ病にでもかかってるのかね?」

 しつ机の上でりようひじを立て手を組んだランドルフ・フォン・バイエルンこうしやくは、息子むすこによく似た上から目線で問いかけた。

 宮廷楽団の理事執務室に呼び出されたミレアは言い返さずうつむく。今回は、騒ぎを起こした自覚がある。宮廷楽団の理事であるランドルフからしつせきを受けるのは当然だ。

「先に言っておく。私は息子と君の〝おつきあい〟など許さん。特に君の小うるさい養父としんせきになるなど、断固断る。はくしやく家ごときが、生意気にうちの息子を中傷しおって」

「ちゅ、中傷ってお父さまはそんなことしません。おくそくでお父さまを悪く言わないでくだ」

 どん、とぼうだいふうしよの山を置く音に、息をんだ。高く積み上げられた紙束は、執務に座ったままのランドルフの頭の高さをこえている。

「これが今日までシェルツ伯爵から我が家に届いた苦情だが?」

「……。お、お父さまは、私を可愛かわいがってくれているので、その……」

「この間は生意気にもむすめとつがせるにあたって息子の出来がどうこう、細かくてきと質問をよこしてきた。女性関係がどうの、公爵家のあとりとしての器量がどうの」

「……」

「あいにく、アルベルトは音楽に入れこんでいる点以外、かんぺきな公爵家子息だ。機転もくし人脈作りにもけている。えもよくごれいじようからの評判もいい」

 内心でむっとしたミレアに、ランドルフはあつ的な目を向けてきた。

「だが最近、君のせいで息子のしゆうぶんが絶えなくてな……! その点についてどう責任をとってくれるのかと、君の父上にていねいに返信しておいた」

「す、すみません……」

 さすがになおに謝罪を選ぶ。まだ言い足りないのか、ランドルフはいらいらと続けた。

「息子にえんだんがこなくなったらどうしてくれる」

「……じゃ、じゃあ、私が責任とります!」

「とらんでいい。……社交界の時期が終わっていたのが不幸中の幸いだ。これが先月だったら、またどんなことになっていたか……」

 けんしわをよせているランドルフだが、話がだつせんしていることに気づいたのか、背もたれに体重をかけ直し、め息をつく。

「元々注目の高かった第三楽団のせんばつだが、今回のそうどうで一層注目されている。しんの対象になる演奏会のチケットはすでに完売しているが、どちらの演奏も聞いてみたいと問い合わせがさつとうして、きゆうきよ審査とは別にそれぞれ演奏会を何度かかいさいさせることになった」

「そ、そうなんですか」

「今のところ宮廷楽団にとって収益になっているのは確かだ。だが、君はどういうつもりであんな発言をした。売名か?」

 ぶんぶんとミレアは首を横に振る。

「ほ、本気です。でないとアルベルトが振り向かないから」

「意味が分かるように説明したまえ」

「……アルベルト、私が何回告白しようとしても無視して、流すから」

 だから勝負に出たのだ。そしてその勝負にミレアは勝った。

 不意打ちに弱いアルベルトは、ミレアの告白に完全に思考停止したようだった。「そ、うか」というこうていとも否定とも取れぬ返事を残して、ぎこちなく落とした荷物を拾い、その場から立ち去った。げたとも言う。

 その後、ガーナーはその場で転げ回ってばくしようし、フェリクスはかべに向かってずっとかたふるわせていた。ツボに入って笑いが止まらなくなったらしい。

 リアム達はぽかんとしていたし、アルベルトの団員達もほうけていた。りようもどったらレベッカから「鹿じゃないの」と十回くらい言われたし、放置が基本の第二楽団のせんぱいにも「もう少し大人になりなね」と注意された。第一楽団には何故なぜどうげされたが、つう、ミレアのとつぜんの告白はただのこうに映るだろう。アルベルトから返事ももらえていない。

 それでもアルベルトはもう、ミレアの気持ちを無視できない。勝っても負けても、それを答えとして出さなければならなくなる。彼が絶対に逃げない、音楽で。

「私は、アルベルトに流される女の子にもバイオリニストにもなりたくない」

 こぶしを小さくにぎったミレアの答えに、ランドルフはあきれたようだった。

「流されていたというのなら、それが君をそういう対象として見ていないという息子の答えだとは思わなかったのかね? そもそも君が息子の好みには見えんのだが」

 ずばり指摘されて、ひるむ。もしそうだとしたら、既にぎよくさいしたようなものだ。

 青ざめるミレアに、ふんとランドルフは鼻を鳴らした。

「言ってもだとは思うが、今度からもう少し考えて行動したまえ。君はくさっても伯爵令嬢で、息子も公爵令息だ。宮廷楽団のうわさレベルですまないこともある」

「う……はい……」

「何も考えていなかったということはよくわかった。下がってかまわん」

 最後までぐうの音も出ない。ただ『アルベルトはお前をなんとも思っていない』とくぎされただけな気がする。しょんぼりしながら、ミレアは頭を下げた。

「あの、ごめいわくをおかけしてすみませんでした……」

 こんとノックがひびいた。入りたまえ、とランドルフが応じて、とびらが開く。

「失礼します、父上。演奏会のスケジュールですが──」

 アルベルトがミレアを見て、扉を開けようとするちゆうはんな姿勢のまま止まった。

「……失礼しました」

 そして顔色一つ変えず、そのまま扉を閉め直して姿を消した。ミレアがまばたきすらするひまもないしゆんの判断だ。

「さけられているな」

 ランドルフが親切に、指摘しなくても分かることをわざわざ教えてくれた。



 逃げられると追いたくなるのがミレアのしようぶんだ。名前もねんれいも、そもそも人間かどうかすら分からなかった聖夜の天使を見つけるため、宮廷楽団に入り世界一のバイオリニストになろうとした行動力は健在である。

「アルベルト! アルベルト、待ってったら!」

 三秒で立ち直って執務室から出ると、既にアルベルトの姿はどこにもなく、走り回ってようやく背中が見つかった。

 だが広い背中は止まらず、またろうの角を曲がろうとしている。

「アルベルト! ねえ聞こえてるんでしょ!」

 小走りで追いかけているのに、ついていくのがせいいつぱいだ。こんなに速く歩ける人だったのかと、ミレアは息を切らしながら思う。

「アルベルトってば!」

「……」

「ねえ、ちょっと! ねえ!」

「……うわっ!」

 突然廊下の角から出てきた足にひっかかって、アルベルトが転んだ。びっくりして立ち止まるミレアの前に、第一楽団の人達が顔を出す。

ですよおバイエルン指揮者。急いでる時こそあしもとに気をつけないとさー」

「ほぉら、ミレアちゃんが呼んでますよぉ~?」

「お前ら、全員給料下げられたいのか……!」

「知ってますかバイエルン指揮者。給料は低すぎると下げてもおどしにならないんですよ」

 第一楽団の人達が、足をひっかけられたアルベルトを立たせてミレアの前にき出してくれた。

「じゃあバイエルン指揮者ここに置いておくから、ミレアちゃんがんって」

「この間追っかけまわして泣かせたおびな」

「は、はい! ありがとうございます!」

 手をって廊下の角を曲がる人達にぺこりと頭を下げる。そして顔を上げると、アルベルトが転んだ際にゆがんだタイを直していた。

(う、げん悪そう)

 アルベルトは整った顔立ちをしている分、おこったり機嫌が悪くなると近寄りがたくなる。どう話しかけたものかしゆくしていると、アルベルトの方が先に口を動かした。

「先に言っておくけど、僕は今、だれともつきあうつもりはない。れんあいなんて音楽のじやだ」

 早口の返事に理解が追いつかず、ミレアはきょとんとたずね返す。

「邪魔?」

「そうだ。しかも君はバイオリニストとして未熟で、恋愛にかまけている時間はない。それに僕は負けないし君と勝負する気もない。分かったな、僕からの返答は以上だ」

「えっと、じゃあ私が勝ったら恋愛は邪魔じゃないってことで、つきあってくれる?」

「君、全然僕の話を聞いてないな! そもそもその勝ったらってなんだ。なんの勝負だ」

「なんのって、第三楽団の選抜勝負のことなんだけど」

 そこで、ミレアがコンサートマスターを務めるリアムの楽団が勝ったら。

 アルベルトがやっとミレアを正面から見下ろした。やたら速かった口調も、いつもの調子に戻る。

「──僕は君を選ばなかった。その僕が君を選んだ楽団に負けたら、君の勝ちという意味か」

「そう。そういう勝負のつもりなんだけど……」

「それで僕が勝てば、君はバイオリンに専念するか?」

 バイオリンに専念するという意味がよく分からなかったけれど、ここでうなずかなければアルベルトはのってこない。だからしんみような顔で頷いた。

 首の後ろに手を当てしばらく考えこんでいたアルベルトは、溜め息と共に答えを出す。

「……分かった」

「ほんと!?」

「要は僕が負けなければいいんだろう。なら、問題ない」

「うん、うん! よかった……!」

 不敵なみをかべたアルベルトが、小馬鹿にするようにどくく。

「何を喜んでるんだか、さっぱり理解できないんだけど?」

「だってアルベルトは私のこと、ちゃんと女の子として見てくれてるんだなって」

 それが分かっただけでもうれしい。真顔で固まってしまったアルベルトの前で、赤くなったほおを両手ではさみ、えへへとミレアは笑った。

「そもそも、全然そういう対象じゃないって言われたら終わりでしょ? ……あ、あのね。ついでにかくにんしたいんだけど、アルベルトって、その、私のこと」

「僕は練習に行く」

おうじようぎわ悪いよ馬鹿

 くるりときびすを返そうとしたアルベルトのえりくびを、背後から現れたガーナーがつかまえた。

「ミレアちゃんおめでとー! ついに長年空席だったアルベルトのこいびとの座を射止めたね!」

「ちょっと待て、恋人じゃない」

「そ、そうです、まだ恋人じゃないです。アルベルトに勝たないと」

「じゃあつきあう前のおためし期間って感じかな!」

 ガーナーのてきにアルベルトは何故なぜか壁に頭を打ちつけ、ミレアは大きくどうもくした。

「そ、そうです! マエストロすごい、たまにはいいこと言うんですね……!」

「うわあ、ミレアちゃんにほめられちゃったー」

「ちょ……待て、僕はそんな話をしてな──」

「つーまりーミレアちゃんは、今この瞬間から鹿弟子の仮コイビトだね!」

 アルベルトをさえぎったマエストロの宣言に、さっき以上のしようげきを受けた。てんけいだ。

(か、仮でも恋人だよね。うわあ、うわあ、アルベルトの! どうしよう!)

 うまくできるだろうか。卵をばくはつさせるくらい女の子らしいことはかいめつ的だ。ぎよう作法もすぐ忘れる。アルベルトはこうしやく家の令息だ。だんからきちんとしておかないといつかてきな男性が現れた時その方にはじをかかせますよと、何度も養母に言い聞かされていたのに。

「お母さまの言うこと、ちゃんと聞いておけばよかった……私、今から頑張るから!」

「待て、今、君の中で話がどこまでやくした!?」

「でも、まだつきあってないんだよね?」

 背後から聞こえた声に、ミレアは振り向く。リアムが一人で廊下に立っていた。

「すごいね、第一楽団のれんけいは。さっき速報が流れていったよ、ミレアがアルベルト君とおためしでつきあいだしたって」

「あいつら……!」

「でもまだつきあってないんだよね?」

 二度目の質問には、を言わせない笑顔がともなっていた。

 ガーナーはにやにや笑っているだけで、アルベルトは無表情にもどっている。誰も何も言ってくれないので、頷くことにした。

「は、はい……そうです。おためしなので」

「俺はね、ミレアの行動力をとてもすごいと思うよ。でも君は今、俺のコンマスだ。敵対関係にある楽団の指揮者に夢中になっていると、楽団の和を乱しかねない」

 筋の通った注意に、ミレアはかたを落とす。

「気をつけます……」

「うん、ミレアはなおないい子だ。おいで、練習に行こう」

 うでをとられると同時に、リアムの方へと引っ張られた。

「じゃあ、アルベルト君。申し訳ないけど、俺のコンマスを返してもらうね」

「──どうぞ? そんなじゃじゃ馬バイオリニストで使いものになるなら」

 アルベルトの回答に文句をつけなかったのは、その声が底冷えするほど低かったからだ。しかも、頭上で火花が散っている気がしてこわい。

 ガーナーはろうかべをばんばんたたいて笑っているし、余計なことは言わない方がいい。

「じゃあ、ミレア行こう」

「は、はい。あの、アルベルト。私、えっと」

「……。僕に勝つんだろう」

 ななめに視線を落として、アルベルトが言った。

「ちゃんとやってこい」

「──うん!」

 なんだかよく分からなかったが、送り出す言葉に元気になったミレアは頷いて、リアムについて歩く。追いつくと、リアムが小さく笑った。

「ご機嫌だね。彼にまだ勝ってないのに」

「頑張りますから! それに、前進したし」

「前進?」

「だ、だって、おためしでもアルベルトの恋人になれて、嬉しいです」

 はにかんでうつむく。そうと応じるリアムのあいづちは少し冷ややかだった。

「そういう立場になれただけで嬉しいんだ?」

「はい! あ、でもちゃんとコンマスはやりますから!」

「子供だね、ミレアは」

 何か非難するひびきが混じっていたわけではない。だが思わず顔を上げたミレアに、リアムはおだやかに笑い返すだけだった。





 もちろん、そのままアルベルトとの甘いおためし恋人期間にとつにゆう、なんてことになるほど世の中は甘くなかった。

ちがう、そうじゃないミレア。ストップ」

 すでに両手の数を軽くこえた制止に、バイオリンを下ろす。

 周囲にはらくたんに近い空気がただよっていた。

「その音じゃない。分かる?」

「……あの、すみません。分かりません……」

「俺は初めての音合わせで君がいた、あの音が欲しいんだよ」

「お、同じように弾いてるつもりなんですけど」

「違うよ。何かが違う」

「リアム、『何か』なんてあいまいな指摘じゃミレアだって分からない」

 こんわくするミレアをかばうように手を上げたのはエルマーだった。

「ミレアの弾き方は間違ってない。むしろ上達してる。問題ないだろう」

「だが、エルマー。君だって分かるだろう」

「分かるさ。君が今、ミレアにちやを言ってることは。何をそんなにあせってる」

「俺は焦ってなんていないよ」

「じゃあ多数決を取ってやる。リアムが焦ってると思うやつ

 エルマーの呼びかけに、大多数の団員達が手を上げた。自分のことなのに口を出せずに、ミレアはそれを見ているしかできない。

 ざっと周囲を見回したエルマーは、もう一度リアムに言った。

「曲は問題なく仕上がっている。お前が目指したマエストロ・ガーナーとパガーニの再演と呼べるものだ。技術的には俺達の方が上と言えるんじゃないか?」

「──でも、何かが違う。俺が子供のころ聞いた、あの演奏と」

 そうを見つめるリアムのひとみは、怖いくらいにんでいる。エルマーが目をすがめた。

「だからって、自分でも理解できていない『何か』でコンマスを混乱させ、曲をこわす気か?」

「……。分かった、エルマー。君が正しいよ」

 肩から息をき出したリアムが、降参するように両手を上げた。

「ミレアもごめんね。──つかれてるみたいだ。本番が近いからかな」

 そう言ってリアムはいつも通り笑った。エルマーもそれにいつも通りに応じる。

「この間の演奏会での評判も上々だったじゃないか。向こうは散々だ。本番だってきっと楽勝さ。もっとリアムは気をけばいい」

「そうだね。俺は確かに焦っていたみたいだ。──なにせ相手は、俺が敬愛するマエストロ・ガーナーのゆいいつだ」

「だがお前の方が上だ」

 エルマーの断言に、リアムが軽く笑って、肩から息を吐き出す。

「ありがとう。俺は少し頭を冷やすよ。今日の練習は終わりにしよう」

 皆が片付けを始める。ミレアはまず、となりのエルマーに頭を下げた。

「あの、ありがとうございました」

「俺は言うべきことを言っただけだ、気にしなくていい」

「そうだよ、ミレア。でもエルマーはミレアを可愛かわいがりすぎだな、奥さんに言いつけるぞ」

「それはかんべんしてくれ、本番前にされたらどうするんだ」

 第一バイオリンの中で上がる明るい笑い声にほっとする。

 エルマーも第一バイオリンの皆も親切だ。一番年下だということもあり、妹かむすめかのように可愛がってくれる。明らかにコンサートマスターとして未熟なミレアを、あれこれフォローし、心構えを教えてくれるのだ。おかげでとても弾きやすいし、何より勉強になっている。

(……でも……)

 ちらと、まだ総譜をながめているリアムを見た。

 せめて今日、注意されたところを書きこもうと、ミレアは譜面台の楽譜へ向かう。すると隣で片付けを終えたエルマーがのぞきこんできた。

「ミレアは熱心に楽譜に書きこむな」

「あっはい。聖夜の天使からもらった楽譜だから、れいなままで使いたいんですけど……」

 それを本人は望まない。片っぱしから資料を広げ、楽譜に書きこみをしていくアルベルトの後ろ姿が、何よりそう教えてくれる。

「聖夜の天使か。こないだはびっくりした。君のバイオリンケースが壊れたら翌日に新しいバイオリンケースが届くんだからな。ほうを使えるのかな、さすが天使だ」

「わ、分かりますか!? 羽を見たんです、私!」

 聖夜の天使がだれか分かっても、ミレアの中で天使は天使だ。理解を示してくれるのがうれしくて、片付けもそっちのけでめ寄る。

「いつも天使の羽をメッセージカードにつけて色々おくり物くれるんです。ドレスとか、たい用のくつも! 定期演奏会の時は必ず花束をくれるし──あとは、だんバイオリン弾く時に使うこのかみめでしょ。ネックレスも」

「す、すごいな……」

「そうなんです! 楽譜も大体資料といつしよに届くし、だからがんって使うんです」

 話している内に止まらなくなってきた。指折りでミレアは数える。

「あとはぼうでしょ、こうすいでしょ、口紅に、この間はイヤリングに」

「ミ、ミレア。もういい、分かったから」

「──聖夜の天使は、本当に君を大事にしてるんだね」

「はい!」

 元気よく応じてしまってから、顔を引きつらせた。リアムだ。だがエルマー達は笑って、お先にと出て行ってしまう。

(うわあ、気まずい!)

 謝ればいいか、それとも質問をぶつけるべきか。迷っているミレアの反応を見て、苦笑いされてしまった。

「さっきはごめんね?」

 いつも通り穏やかだ。ほっとして、首をる。

「い、いえ。えっと、でもあの……何かって、なんですか」

「それが、エルマーのてき通りどうも俺が分かってないみたいだ」

 困ったね、という割にはあまり顔が困っていなさそうだ。表情と感情があまりいつしない人なのかもしれない。

「……あの。何か私、役に立てそうなことありますか」

 音が違うとリアムは何度も指摘している。答えはリアム自身にあったとしても、ミレアにかかわりがあることは間違いない。

 まだ片付けを終えていないミレアの横にこしを下ろして、リアムはめ息をつく。

「気持ちは嬉しいよ。でも、そもそも俺が分かってないとね」

「わ、私も協力します。私、コンマスだし、リアムさんにもみなさんにもすごくお世話になってて上達してるって感じるし……!」

「それは君の飲みこみがいいからだよ。何より、パガーニの二十四番とあいしようがいい」

「リアムさんの指揮が分かりやすいからですよ」

 ありがとう、とリアムがたんぱくに返す。元気がなさそうに見えて、さらに言いつのった。

「お世辞じゃないですよ? 指示は的確だし、ちゃんと団員一人一人の演奏に目を配って、それでいてちゃんとまとめられるの、すごいと思います」

 そもそも集めた団員は有名で実績がある──つまり、くせの強い演奏者達ばかりだ。それをまとめ、未熟なミレアをかんなくはめこむリアムの実力は本物だ。でなければ、そもそもエルマー達のような一流の演奏者達が、ミレアのコンサートマスター就任についてなんの不満もらすことなくついてこない。

「確かに『何か』って言われても分からないし困るけど、リアムさんが言うならあるんだと思います。私に足りないもの」

「……エルマーの言う通り、技術的には問題ないんだ。だから、ほんのちょっとしたことなんだろうね」

「だったら分かったらすぐですよ! 考えてみましょう? 私だってアルベルトに確実に勝ちたいですし!」

 ぐっとこぶしにぎってすると、遠くを見ていたリアムがふと視線をもどした。

「そういえば、どう?」

「え? どうって」

「長時間練習にこうそくしておいてなんだけど、会ってる? アルベルト君に」

「アルベルトも練習なので、全然会ってないですけど」

 当たり前のことを答えたのに、リアムは不思議そうな顔をした。

「……この間の話はどうなったの? こいびとがどうこうっていう」

「ま、まだ仮だし、おためし期間なので」

 自分を示す『恋人』のひびきが嬉しくて、もじもじしながら答える。

「それでも普通、会う時間を作ったりするものじゃない? 恋人なら」

「でも練習が本格的になってから、おたがいの楽団の演奏は本番以外聞いちゃいけないって決まりができちゃったじゃないですか。アルベルトの方は本当に練習ばっかりみたいで」

 ミレアの練習も厳しいが、毎晩日付が変わった後に帰ってきてそのままベッドにたおれこみ早朝に出て行くレベッカを見ていると、あちらはそれ以上だと分かる。うわさによるとアルベルトが使っている練習室とその周囲は、常にうめき声とじゆが聞こえ、ろうにまでるいるいと演奏者が倒れているらしい。

「それは分かるけど……それでも時間を作ってデートしたり、少なくとも会ったりするのが恋人なんじゃないのかな」

 背もたれにほおづえをつき、ミレアに向き合ったリアムは、まっすぐにたずねた。

「おためしなんだよね。君達、何をためしてるの、今?」

「……。あれ?」

 首をかたむけて考えてみた。

(えっとえっと、待って。恋人ってどんなのだっけ、分かんない! た、多分、手をつないでデートしたり、おしやべりしたり……あれ?)

 当然、会ってないので何もしていない。何もしていないので、何もためしていない。

 ミレアの表情からじようきようを察したのだろう。リアムがき出した。

「そ、そうか。ひょっとして君、恋人になれたってそれだけで満足しちゃった?」

「え、え!? だ、だって」

「こ、子供の時ってそうだよね。告白して終わり、みたいな。あったあった」

「そんな、私、子供じゃないです!」

 否定したが、リアムはついに声を上げて笑い出した。ずかしさといかりで真っ赤になったミレアは立ち上がる。

「もう! わかりました、じゃあ今からアルベルトに会ってきます!」

「ま、待って待って、ミレア。今はやめた方がいいよ」

「なんでですか、会ってないって聞いて笑ってるのに!」

「彼は今、大変だろう。無名の若手演奏者達を、エルマー達と勝負できる演奏者にたたき上げようとしてるんだ。もちろんそれだけの見込みがあってのことだと思うけど」

 笑いすぎでなみだがにじんだまなじりをぬぐいながら、リアムが言う。

「それでもつかれてると思うよ。じやをしないのも、づかいじゃないかな」

「そ……そう、かな……」

 でも、疲れているからこそそばにいる方が恋人らしい、気もする。

 迷うミレアのうでを、リアムが取った。

「もう少し俺と話そうよ」

 みような空白が自分達の間に横たわった。とびらが開いたのは、そのすきだ。

 まさに会いに行こうと思っていた人物が現れて、ミレアはおどろく。


「アルベルト! どうしたの?」

「……めんだいの数が足りないから取りにきたんだ。この練習室に、予備があると聞いたから」

 けよろうとして腕をリアムにつかまれたままなことに気づいた。腕を引こうとしたがびくともせず、逆ににっこりリアムに笑い返されてしまう。

(な、なんで放してくれないの?)

 こんわくするミレアを冷たくいちべつしたアルベルトはその横を通りけ、部屋のすみに重ねておいてある譜面台を取る。そしてすたすたと再び出入り口に戻り、完全な無表情で告げた。

「邪魔をして申し訳なかったよ。失礼」

 ばたんと大きな音を立てて扉がしまった。ぼうぜんとするミレアに、リアムが小首をかしげる。

「誤解されたみたいだね」

「さ、されたんじゃなくてさせたんじゃないですか!? どうして!」

「さあ、どうしてだろう?」

 何故なぜかいそうに笑ったリアムが、やっと腕を放してくれた。あわててミレアは扉を開きアルベルトの背中をさがす。だが、廊下にその姿はもうなかった。



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