第一楽曲 二人の指揮者のための夜曲 パート2





 この展開にはかんがある。

 新聞一面に飛びう自分とアルベルトの名前。そこにリアム・ルーテルの名前が加わっているのは初めてだが、この流れをミレアはよく知っていた。それでも思わず叫ぶ。

「三角関係って何!? いつから第三楽団のせんばつがそういう話になったの!? 私、リアムさんの誘いを断ったよね! く、口説くとは言われたけど……っ」

「新聞はいつものことでしょ。慣れたら?」

「慣れたくない! だ、だい、大体、わ、私が好きなのはっ……」

 きゆうてい楽団の庭園にあるベンチに座ったまま、座面にぐりぐりと人差し指を押しつける。お昼のサンドイッチを食べていたレベッカがたんそくした。

いまさら

「だからなんで今更って言うの! レベッカはいいよね、フェリクス様と一緒で!」

「べっ別に、私がたのんだんじゃないし!」

 見事に反応したレベッカが真っ赤になる。

 一瞬だけ胸がすっとしたが、すぐにそれはせんぼうに変わった。

「……ほんと、いいな。アルベルトに誘われたんでしょ。好きな人と一緒に演奏かぁ……」

 ぼやくとレベッカが食べかけのサンドイッチをひざの上に置いた。それを見てミレアはあわてる。

「あっごめん。えと、いやじゃなくて──」

ちがうんだ、ミレア。……あのね、実は私……」

「……レベッカ?」

 レベッカが言いよどむなんてめずらしい。待っていると、レベッカは顔を上げて笑った。

「──ううん、なんでもない。また今度話すよ」

「……そう?」

「うん。ちょっと、私自身も気持ちの整理ついてないから」

 ミレアが秘密をかかえていた時に何も聞かずにいてくれたのは、レベッカだ。聞かれて困ることがあるのは身にしみているので、ミレアは引く。

「ならいいけど……言いたくなったら言ってね?」

「それより第三楽団の話が先。バイエルン指揮者に入団こうしよう、直接してみた?」

「アルベルトに話しかけようとしたら、リアムさんにじやされた」

 め息をつき、新聞を置いてお昼ご飯のパンが入ったかみぶくろを膝にのせる。

「でも絶対、今日中にアルベルトに私を入れてって交渉するから」

「それは困るね、ミレア」

 背後のしげみから出てきたリアムに、驚いてこしかす。そのはずみで紙袋からパンが転げ落ちてしまった。

「あーっ私のお昼ご飯!」

「ああ、大変だ。おびにお昼を一緒にどう?」

 悪気なくリアムがにこりと笑う。ミレアはきっとリアムをにらんだ。

「だから、その話はお断りしてます! レベッカ、行こ」

「でもアルベルト・フォン・バイエルンは君を選ばないと思うよ?」

 立ち上がりかけたミレアはリアムの言葉に振り向いてしまった。だが、レベッカにかれて気を取り直す。

「アルベルトに選ばれないこととあなたのコンマスになることは、別の話です」

「確かにそれはそうだね。でも俺としてはやっぱり、君をコンマスにしたい。から、きようこう手段に出ることにした」

「おい、いたぞミレア・シェルツだ!」

 とつぜん自分の名前を遠くから叫ばれて、ミレアはまばたく。いつせいにこちらを見たのは一人や二人ではなかった。レベッカが目を細める。

「何したの、あんた」

「まずは俺の指揮する演奏を聞いて欲しくてね。だからミレアを俺の練習室まで連れてきた人に、賞金をあげることにした」

「はあぁ!?」

「逃げないとつかまるよ?」

 じようきようあくしきれていなかったが、つちぼこりをあげて向かってくる集団にミレアはあとずさる。

 リアムはひらりと手を振って立ち去った。

「練習室で待ってるよ」

「おいそこを動くなよ! 俺のえんせい費!」

「修理代!」

「新しいリードのまとめ買い!」

 血走った目でよくぼうを叫ばれ、ミレアはけ出す。レベッカが叫んだ。

「ミレア、りよう! あそこなら女子以外出入り厳禁だから!」

「わ、分かった!」

 だがすでに走り出した方向が寮とは真逆だ。運動神経には自信があるが、賞金に目の色を変えて追いかけてくるのはよりによって宮廷楽団の第一楽団──つまりは、男性ばかりだ。体力が違うし、宮廷楽団しき内の地理にも明るい。

「ど、どう逃げたらいいのこれっ……?」

「おい回りこめ! 賞金は山分けするぞ!」

 れん造りの建物にはさまれたT字路で左右どちらに逃げるか迷っていると、そんな声が聞こえた。ミレアは思わず叫ぶ。

「っていうか、みんなひどくないですか!?」

「許してくれミレアちゃん、今月苦しいんだバイエルン指揮者のせいで……っ!」

「大人しくつかまってくれたらみんなが幸せになれる! 練習室に行くだけじゃないか!」

「そ、それはそうだけどっ……!」

「ミレア!」

 ぐいっと思いがけない方向からきよせられた。その声だけで、力がける。

「アルベルト……!」

「無事か? はないな」

 こくこくと何度もうなずいた。ほっと息を吐き出したアルベルトは、ミレアを背にかばって、足をぴたりと止めた団員達をぎろりとめつける。

「なんの鹿さわぎだ、これは」

「うわあ、出たよ保護者」

だれが保護者だ。全員よってたかって追い回して、何してるのかと聞いてるんだ」

「まあまあ、バイエルン指揮者。俺達ミレアちゃんにちょっといつしよに練習室行ってもらいたかっただけで」

「そうそう、追いかけっこしてただけっすよ」

「……こ、わ」

 上着のそでぐちをつかむと、アルベルトがり向く。そのあんで、ぽろりとなみだこぼれた。

「こわ、かったよぅ……!」

 うええ、と情けない声を上げてミレアはしゃくり上げる。周囲がどよめくと同時に、アルベルトのあしもとから黒いほのおのような空気がき上がった。

「──全員」

 美しいしようを口元にたたえて、アルベルトが不気味な角度で向き直った。

「遺書は書いたな?」

「やばいバイエルン指揮者がマジ切れする!」

「ごめん、ごめんなミレアちゃん! お遊びみたいなもんだし、平気だと思って!」

「あとでまたちゃんと詫びにくるから!」

「死にたくない! げろ!」

 蜘蛛くもの子を散らすようにT字路をふさいでいた面々が逃げ出す。すきま風が残った通路で、アルベルトは小さく嘆息したあと、ミレアの頭に手をばした。

「もう、だいじようだ。泣くんじゃない」

 引きよせられ、額がアルベルトのかたにぶつかる。はなをすすりながら、しがみついた。

「やめろきたない」

「アルベルトだって悪い……」

「なんで僕が悪いんだ」

「アルベルトとちゃんと話ができないから、リアムさんに追い回されたんだもの」

「さっぱり話が分からないんだが。……この騒ぎは、リアム氏のしかけたものか」

 こくりと頷くと、アルベルトは今度は大きく溜め息をついた。

「手段を選ばないな、あの人も。僕も人のことを言えた義理じゃないが」

「でも自分の演奏聞かせようとするなんて、腹が立つ……!」

「それでも君を口説き落とす自信があるんだ。自分の指揮のうでだけで」

 通路のわきに置いてあった木箱にアルベルトは自分のハンカチを取り出して広げ、ミレアをいざなった。座れ、ということらしい。

(こういうところ、ちゃんとしんだよね、アルベルト……)

 ずかしいような、なにかされているような気分でミレアは腰を下ろす。

 アルベルトは木箱の横に立って、煉瓦造りの建物に背を預けた。

「先に言っておくぞ。君を僕の第三楽団に入れる気はない」

 想定内の宣告だったので、ショックは受けなかった。むしろ話はここからだ。

「どうして?」

「君は馬鹿しようのところでまだ学ぶことがたくさんあるだろう。コンマスのあり方も、すぐふらふらする演奏も」

「でも私、パガーニの二十四番は得意よ。ちゃんと弾ける自信あるもの、小さいころからずっといてたし」

 胸を張って言い切ると、アルベルトが顔をしかめた。

「……まさか父親に──いや、ならなおさらだ。君は第三楽団せんばつかかわるんじゃない」

「なんでそうなるの!?」

「今回、君を育ててやるゆうが僕にない」

 しんな答えに、いきどおりかけていた気持ちが落ち着いた。

(……そっか、アルベルトもリアムさんと勝負するから、大変なんだ……)

 なのに自分はアルベルトに甘えようとしていた。彼が好きだから、彼が大事にしてくれるのを知っているから──それだけしか、考えずに。

 大人しくなったミレアに、アルベルトがやわらかく声をかける。

「話しただろう、僕の夢は。それが目の前にあるんだ。君を僕の楽団に入れるなら、それなりに育てないと使えない。それは正直、いやはっきり言って、頭痛がする」

「うん……」

「──なんだ、おこらないのか?」

「言われ慣れてきたもの」

 そうか、とアルベルトは短くあいづちを返した。ミレアは足をぎようわるらしながら反省する。

(私、意外に甘えたがりだったんだ……)

 言い訳するなら、アルベルトが過保護だからだと思う。好きな人に大事にされて、うれしくない女の子なんていない。

 でもそこで流される女の子にも、バイオリニストにもなりたくない。

「君は第二楽団でちゃんとしたコンマスになれるようにしろ。それが一番いい」

「分かった。私、リアムさんの演奏、聞いてくる!」

「は!?」

 よし、と立ち上がったミレアは両手でぐっとこぶしにぎる。建物に囲まれてうすぐらい通路は、その代わりに空が高く見えた。

「ちょ、ちょっと待て。なんでそうなる!」

「だって私も第三楽団、ちようせんしたいもの。せつかくの機会だし」

「──そ、それはそう……かもしれないが」

「リアムさんって有名な指揮者でしょ? だったらリアムさんのところで勉強するのはアリだって思うの! アルベルトにだってめいわくかけないし」

 にこにこするミレアに、アルベルトが絶望的な顔をした。

「そ……そうなるの、か……おかしくないか!?」

「どこが? あ、でも」

 一つ、こいする乙女おとめごころが不安をかなでた。

 アルベルトの服のすそをつかんで、うつむいたまま小さくたずねる。

「……アルベルトは、リアムさんのコンマスになったら、私のこときらいになる?」

 びしっと音を立ててアルベルトが固まった。固まったが、ちゃんと答えは返ってきた。

「──そ、んな、うつわの小さいことを、この僕が、言うとでも?」

 言うはずがない。だってアルベルトは聖夜の天使だ。ミレアがうまくなれば喜んでくれる。

(そっか分かった! アルベルトとりようおもいになる方法!)

 この人の心を動かすのはいつだって音楽だ。ぜんやる気が出てきた。

「よし、じゃあ私、がんるね!」

「あ、ああ……。……なんだこれは、ためされてるのか僕は……!?」

「私、すっごく上達して聖夜の天使に今度こそ会いにきてもらうの!」

 最終的な目標はそこだ。しかし、満面のみを向けたミレアに、アルベルトは半眼になる。

「……。そうだな……君はそういう人間だったな。……もういい」

 地をうようなめ息が聞こえた。

 顔を上げたアルベルトは、いつもの冷めた顔でぎろりとにらみをきかせる。

「忠告したからな、僕は。あとで泣きつくなよ」

「な、泣かないわよ! アルベルトこそかくしてて。負かしてやるから!」

「ありえないね、そんなこと」

 そう言ってアルベルトはきびすを返してしまった。背を向けられたたんに不安になったが、口に出せないミレアは、ふと木箱の上に置いたままのハンカチに気づく。

「──あのっこのハンカチ! 洗って返すから!」

「ハンカチ? ああ……いや別に、気にしなくても今、持って帰るけど」

 ぱっと先にハンカチを取って握りめた。アルベルトはまばたきをして、ハンカチを握るミレアを見つめたあと──ふっと微笑ほほえむ。

「返すなんて口実に使わなくても、僕に会いにきたいならご自由に」

「ち、ちがうから!」

 肩をふるわせながら立ち去るアルベルトの背中を、真っ赤な顔で見送った。

(や、やっぱりばれてるよね……でも、うん。見てろよ!)

 しわがよらないようにハンカチを折りたたみ直して、口元に当ててみる。

 き締めてくれた時と同じアルベルトのにおいがして、嬉しかった。





 とつぜん、練習室を訪ねてきたミレアに、リアムは小首をかしげた。

「あれ、一人?」

「自分の意思できました!」

「それは嬉しいな。賞金もはらわずにすむし」

 まったく悪びれない態度だ。けんせいもこめて、ミレアは練習室に入る前に念押しする。

「でもまだコンマスになるって決めたわけじゃないですから」

 あくまで見学にきただけだ。そう言うミレアに、リアムはうなずいた。

「君は俺の指揮を見たことがないから当然だね。──さあ、どうぞ中へ」

「おじやします」

 軽く礼をして一歩入ると、音合わせをしていた演奏家達がいつせいにこちらを見た。

 その面々を見て、その場で固まる。

(エルマー・ミルトン! ヴァーサ・フィルの元コンマスじゃない、ほ、ほかにも……)

 バイオリン奏者だけではない。ヴィオラやフルート、ホルンにも新聞で見る名だたる演奏者が当たり前にまざっている。女性はミレア一人で、三十代から四十代が中心の、あぶらののった歴戦の男性奏者達ばかりだ。

(この人達をさしおいて私がコンマス!? 一体、どうして……)

 ぎゅうっとバイオリンを抱き締める。そうすると少し気持ちが落ち着いた。

「彼女が今回の君の子羊かい、リアム」

「ああ、そうだよエルマー。でも彼女は子羊じゃない、ようせいだ」

「よろしく、〝バイオリンの妖精〟」

 自分どころか、フェリクスより経験も経歴もあるバイオリニストにあくしゆを求められた。一回り大きいがっしりとした手に、おそるおそる自分の手を差し出す。

「よ、よろしくお願いします」

「話は聞いてるよ。聖夜の天使ってほんとにいるのかい?」

「います!」

 強くそくとうしたミレアにエルマーは目を丸くした後、笑みをかべた。

「そりゃあいい。いつかソロでやるなら、いいパトロンはひつだ」

「パ、パトロンじゃなくて天使です。──あの、本当に私がコンマスでいいんですか?」

 かいちゆう時計を見ていたリアムが、顔を上げた。

「うん。君は、俺がアルベルト君に勝つために足りてないものだ。ドイツェン国内での話題性と人気」

 曲がりなりにも半年、きゆうてい楽団にいたおかげで意味は飲みこめた。

 他の演奏者達も否定しないし、にこやかなままだ。ぐっとミレアは拳を握った。

(今回の演奏会は二回とも王都でやるから、観客はドイツェン国の人達が多くなる。アルベルトとフェリクス様は一番人気だもんね)

 その不足を補うためにミレアをコンサートマスターに選んだ。実際、今朝の新聞はミレアをはさんで盛り上がっている。見事にのせられたということだ。

「──分かりました」

「お、怒らないな。さすが〝バイオリンの妖精〟だ。その若さでこの世界をよく分かってる」

「でも私はまだ、コンマスになるって決めてませんから」

「分かってるよ。俺達にまず必要なのは音楽だ。──みんな、移動時間だ。ミレア、ついてきてくれるかな? たいを使える時間なんだ」

 そう言ってリアムは窓の外に見える、りんせつの歌劇場を指した。

「みんなあの歌劇場にまだ慣れてない。おんきようとか確かめたくてね。よかったら、君との音合わせもそこでやりたいな」

「分かりました」

 望むところだと、先に歩き始めたリアムの後を追う。

 そのままぞろぞろ連れだって歩いている間に、見慣れた宮廷楽団の面々とすれちがった。みんなミレアとその後ろにいるそうそうたる面子メンツにもおどろいた顔をして、道をあける。

「パガーニの二十四番を、オーケストラで演奏したことは?」

「曲は問題なくけますが、オーケストラで演奏した経験はなくて」

「経験がない方がむしろ好都合かな。俺はどうしてもこの曲で再現したいものがあってね」

「再現?」

 おくすることなく堂々と足を進めながら、リアムは歌劇場の観客席のとびらを自ら開いた。

きよしようマエストロ・ガーナーと、あく的バイオリニスト・パガーニの共演」

「──第二バイオリン! 弓の返し方が違う! チェロもそのタイミングじゃない!」

 舞台からアルベルトの声が聞こえてきた。驚いたミレアは、リアムを押しのけるように前に出て、顔をしかめる。

(こ、これは……)

 ばらばらでおどり回っているえんかいをのぞき見た気分だ。わるいしそうな音をどうにかつないでいるのは、フェリクスのバイオリンだった。だが細い糸のようにつむいでいた音楽を、トロンボーンの派手な音がようしやなくけつかいさせる。

 たちまち酒乱の音楽になった。おやおやとリアムがつぶやくのを聞いて、ミレアが顔をおおいたくなる。同時に客席からだいばくしようが聞こえた。ガーナーだ。

「あっはっはっはっは! 今の何!? 水難!? 愛のとう会ででき!」

「──ストップ。もういい、よく分かった。まずはパート練習からてつてい的にやる」

「苦労してるみたいだね、アルベルト君」

 ガーナーしかいない客席の真ん中の通路を歩きながら、リアムが声をかける。そこでアルベルトがり向いた。

「ああ、こうたい時間なんですね。申し訳ない。全員、片付けを」

「いいよ、俺達も少し早かったみたいだ。むしろ君の曲想が聞けて役得だった」

 いやかとミレアは思わずリアムをにらむ。だが応対するアルベルトはたんたんとしていた。

「おずかしいです。まだ練習も曲想の練りこみも足りなくて」

「奏者は見ない顔ばかりだね。君のちようせんらしいと思うよ」

 リアムのてきに、ミレアはアルベルトが選んだ演奏者達を改めて見た。確かに知らない顔ばかりだ。宮廷楽団の団員は、フェリクスとレベッカを入れても両手に満たない。

(ほ、本当に新しい楽団を作るつもりなんだ、アルベルト)

 感心する反面、心配になる。人気勝負な側面が強いとはいえ、下手へたな演奏で票がとれるほど甘くない。何度も名演をり広げているアルベルトなら観客の要求度も高い。

(でもあの話をアルベルトに持ちかけるなら、私が勝てる方がいいけど……)

「ミレア。パガーニの二十四番はれんあいについての曲だって知ってる?」

 とうとつにリアムに話しかけられ、あわてて頷く。

「はい、知ってます。パガーニがこいをした女性にささげた曲だって」

「そうだよ。オケは舞台を整え、バイオリンはそこで踊る女性をえがく。定番は、さっきアルベルト君が組み立てようとしていた愛する女性が踊る舞踏会」

 どう聞いても酒乱の宴会だったが、そうなる予定らしい。指揮者の知識と感性は持ち合わせていないので、っこまずにしんみように頷き返すだけにした。

「でもこれをパガーニが作ったけいは諸説入り乱れていてね。激情家な分、情も深く恋多き男だったせいだろう。バイオリンを教えた貴族のれいじようが他の男と夜会で踊る姿を見て書いた曲だとも言われてるし、美しい踊り子と一夜限りの恋を書いた曲だとも言われてる。実際、パガーニは毎回違う舞台と女性を表現し、様々な曲想で観客をわかせた」

 こうして聞くと、改めてすごいバイオリニストだったと分かる。

(どんな人だったんだろう。会ってみたいなあ)

 もう行方ゆくえも生死すらも分からない、伝説のバイオリニストだ。

「だから、この曲を完成させるに当たっては恋愛経験がものを言うんだよ」

「……れ、恋愛、経験」

「そう。君はどうかな」

「ど、どうって」

 なんだか話題の雲行きがあやしくなってきた。どぎまぎしていると、リアムがくすりと笑う。

「君がていしゆくはくしやく令嬢だというのは分かっているけれど、あれだけ色々話題になったんだ。こんやく者もいたし、それなりに経験があるだろう? ほら、キスくらい」

「そ、そんなのありません!」

 大声がはんきようして、みなが振り返った。熱いほおかくすように両手で覆い、目を閉じる。

(キ、キスされそうになったことは、あるけど……っ)

 思い出すと恥ずかしくてなみだになる。リアムが大きく開いていた目をまばたいた。

「……え、本当に? キスもない?」

「な、ないって言ってるじゃないですか!」

「だって、ねえ」

「──どうしてそこで全員、僕を見るんだ」

 アルベルトの低い声に、ますます顔が上げられない。

「ふぅん……そうなんだ。ごめんね、悪かった」

 何を謝られたのかよく分からないが、いたたまれない話題をリアムから切り上げられてほっとする。

「いえ。えっと、だとするとこの場合、私がコンマスっていうのは──」

「つまりミレアちゃんはねえ、指揮者だいなんだよね」

 ずっと話を聞いているだけだったガーナーが、とつぜん客席から声を投げた。

「なかなか僕でも乗りこなせないんだよ。いかについらくさせないかが課題になるというか」

 ミレアといつしよにガーナーに振り向いたリアムが、苦笑いを浮かべる。

「マエストロでもですか? ごけんそんを」

「バイオリニストとして未熟なだけだ」

 舞台の上から容赦なく切って捨てたの言葉を、ガーナーは無視した。

「ただ一回だけ、鹿弟子に指揮されたミレアちゃんはちゃんと着地したね」

 ぴりっと空気にきんちようが走る。はだでそれを感じ取り、ミレアはバイオリンをめた。

(な、なんだろ、この空気……)

 ガーナーのにやにや顔はいつものことだし、アルベルトは無表情で、リアムはおだやかなみを浮かべたままだ。なのに見えない火花が散っている気がした。

「……練習を交替しても?」

「どうぞ」

 リアムとアルベルトの会話はそれだけで完結した。

 入れわる演奏者達の列をながめていると、舞台から下りたアルベルトと目が合った。ぱっと顔をかがやかせると、アルベルトの方から話しかけてくれる。

「今日は見学だけか?」

「いや、ミレアにも弾いてもらおう。おいで」

 舞台に上がるちゆうのリアムに声をかけられ、まばたく。

「ミスをしてもいいよ。ひとまず、合わせてみるのがおたがい一番だろう。一番表現が難しい弾き方で挑戦するのはどう?」

「い、一番、表現が難しいき方……っていうと……」

「舞踏会で踊る女性だ」

 まごついているとアルベルトが教えてくれた。そう、とリアムが笑顔であとを引きぐ。

「見る男性をすべてとりこにする、美しい女性。けれどだれにも恋をしない。彼女は誰のものにもならない──そういうバイオリンだ。この曲想は曲の速度を上げるけど、ゆうさを失ってはいけない。女性は手の届かないたかの花だからね。君がどこまで弾けるかを聞くには丁度いい」

 なるほどとなつとくし、リアムに続いて舞台に上がる。横や後ろに並ぶ名だたる演奏者達にしゆくしそうになったが、ぶんぶんと首を振り、音合わせに参加した。

(って言っても……高嶺の花……見る男性をすべて虜にする、かあ)

 曲の速度についていく自信はあるが、自分がそうなることが想像できない。美人といわれて頭にかぶのも、レベッカくらいだ。

 そのレベッカは、客席にいた。ガーナーもまだ残っているし、ほかにもリアムやその他の演奏者達が気になるのか、ぽつぽつと客席にこしを下ろしている。アルベルトはどこだろうとさがすと、フェリクスと何か話して、さっさと会場から出て行こうとしている様子が見えた。

 舞台にいるミレアなど気にもならないらしい。

(──この演奏がうまくいったら、絶対知らんぷりできないようにしてやるんだから!)

 彼は振り向かない。このままでは、決して。

「じゃあ、さつそくだけどバイオリンソロが始まる少し前から」

 指揮台に上がったリアムがにこやかに告げて、指揮棒を構える。

 音の入りはとてもなめらかで、心地ここちよかった。ミレアの出す音をきわたせるよう、世界を無色にしてくれている。そのみようなさじ加減だけで、リアムの実力がうかがい知れた。

 ためされているのはかいだけれど、紡がれる音楽はちがいなく美しい。

 すうっと深呼吸をした。求められる女性像がミレアの中にはない。けれど。

(あの人を虜にする、美しいバイオリニストなら)

 ──ほら、こう弾けば彼は振り向く。





 その音に振り向いてしまって、舌打ちした。

 どこでスイッチが入ったのか分からない。だが化けてしまった〝バイオリンのようせい〟は、指揮者が速度を上げるよりも速く、平然と、かろやかにたいの上でおどる。

(左手のピッツィカートまでさらっと弾きやがって。本当にたたきこまれたんだな)

 人類史上最高の天才バイオリニスト・パガーニ──それは、彼女の実の父親だ。周囲はもちろん、彼女自身もそのことを知らない。アルベルトが気づいたのもぐうぜんにすぎない。

 けれどその演奏技術は確かに受け継がれ、彼女の中で息づいている。

 指揮をしているリアムの顔に喜色が浮かぶのが、はっきりと分かった。リアムは気づいたのだ。彼女が第二のパガーニになれることに。

(よりによって、今のタイミングでスイッチが入るか)

 きりのいいところで演奏がんだ。リアムが連れてきた名だたる演奏者達がまばたきし、口笛を鳴らす。リアムが顔を輝かせて、指揮台を下りるのが見えた。

 同じものを見ていたもう一人の天才──フェリクスが、小さく声をかけてくる。

「いいの? 今なら止められるよ」

「……本人のせんたくだ。それにどうせいつか、こんな日がくる」

「──アルベルト!」

 もう一度歩き出そうとしていたアルベルトは、その呼び声に足を止めた。

 まっすぐにミレアが自分を見ている。そして、どうしてだか自信満々で微笑ほほえんだ。

「やっぱりり向いた」

「……なんのことだ?」

「あのね、アルベルト。私、リアムさんの楽団に入る」

 その発言がどれだけアルベルトの内心をざらつかせるか、彼女はまったく考えない。

(──僕だって、彼女と音楽なら、音楽をとるのに)

 いつも自分の気持ちを伝えようとする彼女の言葉をさえぎり、彼女の気持ちが加速しないように聖夜の天使だということをせて、会いたいという願いをかなえてやろうとしない。


 彼女がよそ見をせず、聖夜の天使を追いかけて高みを目指すように──それは彼女を〝バイオリンの妖精〟にしたアルベルトの責任であり、音楽家としてのきようでもあった。

 苦々しさを通りしてえと、アルベルトは答える。

「そうか。それで? そう言えば僕が手をくとでも?」

「それでね、アルベルト。私がもし勝ったら」

 勝負しているのは自分とリアムだと正す前に、彼女はまっすぐに告げた。

「──私があなたに勝ったら、私とつきあってください!」

 どさどさと、手に持っていた荷物がすべて落ちた。

 忘れていた。彼女は墜落死かくっこんでくるのだ。受け止める側の事情などまったくこうりよせずに。





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