現実感の喪失と世界の容認――Kurt Vile / Pretty Pimpin' (2015)


  けさ目がさめて

  鏡の中にいるのが誰なのかわからなかった

  おれは笑い、言った、「ああ、ただのおれか、おれじゃないか」

  そしておれはおれの知らない誰かさんの歯を磨いた

  しかしそれはおれの歯であって、おれは無重量だった

  便所の窓から入ってくる落ち葉のように震えていた

  このことがいったいなにを意味しようとしていたのかおれにはわからんよ

  しかしその日は月曜日、いや、火曜日だったか

  いや、水曜日、木曜日、金曜日

  そして土曜日がやってきておれは言う

 「洗面台を占有しているこのばかげた道化は誰だ?」


  彼が求めていたのはこの人生で何者かになること、まるで

  おれが楽しむことを求め、放蕩者として人生を生きようとしていたように

  おれはその姿からはかけ離れている、しかし言いたいことはこうなんだ


  けさ目がさめて

  鏡の中にいるのが誰なのかわからなかった

  おれは笑い、言った、「ああ、ただのおれか、おれじゃないか」

  そしておれはおれの知らない誰かさんの髪に櫛をあてないことにした

  それはおれのファッションじゃないからな

  このことがいったいなにを意味しようとしていたのかおれにはわからんよ

  なぜならその日は月曜日、いや、火曜日だったか

  いや、水曜日、木曜日、金曜日

  そして土曜日がやってきておれは言う

 「洗面台を占有しているこのばかげた道化は誰だ?」

  しかしこいつはおれの服を着ているな

  はっきり言って、いかしてるよ


  彼が求めていたのはひとかどの男になること

  しかしこいつは「きちがい」のレッテルを貼られるにはちょっとキュートすぎた

  おれの目の前に立っているにもかかわらず、彼はおれからはかけ離れているんだ


  そして彼はけさ目がさめて

  鏡の中にいるのが誰なのかわからなかった

  そして笑い、言った、「ああ、ただのおれか、おれじゃないか」

  そしておれはおれの知らない誰かさんの歯を磨いた

  しかしそれはおれの歯であって、おれは無重量だった

  便所の窓から入ってくる落ち葉のように震えていた

  このことがいったいなにを意味しようとしていたのかおれにはわからんよ

  なぜならその日は月曜日、いや、火曜日だったか

  いや、水曜日、木曜日、金曜日

  そして土曜日がやってきておれは言う

 「洗面台を占有しているこのばかげた道化は誰だ?」

  しかしこいつはおれの服を着ているな

  はっきり言って、いかしてるよ


  けさ目がさめて、鏡の中にいるのが誰なのかわからなかった

  けさ目がさめて、鏡の中にいるのが誰なのかわからなかった

  けさ目がさめて、鏡の中にいるのが誰なのかわからなかった

  けさ目がさめて、鏡の中にいるのが誰なのかわからなかった

  けさ目がさめて、鏡の中にいるのが誰なのかわからなかった

  けさ目がさめて、鏡の中にいるのが誰なのかわからなかった……


 以上が、 Kurt Vile による楽曲、 Pretty Pimpin' の歌詞の全訳である。歌詞をさきに紹介したのは、この作品における歌詞の役割が非常に重要なものであり、おそらくビデオも楽曲もこの歌詞に従属するものであると思われたからだ。つづいて、ビデオの粗筋を紹介する。


アメリカの地方都市と思われる町の通りに二台の扇風機が置いてあり、片方のファンだけが回っている。

長髪の男が家のなかにいて、シリアルを食べたり、ギターを弾いたりする。ギターは、フェンダーのジャガーだ。

彼は買い物に行ったり、クラシック・カーのそばでギターを弾いたり、雑踏のなかで立ちつくしたりする。

一分間ほどはそういった映像のコラージュだが、しだいに、長髪の男が増える。


ふたりの長髪の男が家のなかにいて、シリアルを食べたり、ギターを弾いたりする。ギターは、フェンダーのジャガーだ。

ふたりは買い物に行ったり、クラシック・カーのなかでくつろいだり、電話をかけたりする。

もう一分間ほどはそういった映像のコラージュだが、しだいに、長髪の男が増える。


あとの三分間は似たようなイメージの繰り返しだ。長髪の男は、最終的に五人か六人ほどに増える。

それぞれが思い思いのことをやっている。

さまざまな絵が象徴的に挿入される。若い、数名の黒人の男性。ドラムを叩いている女性。商店の掃除をしている男性。

まったくおなじシリアルのボウルが積み重なる。まったくおなじスニーカーが室内に散乱している。長髪の男が試着室のなかから長髪の男を見ている。


 さて、ここで取り沙汰されているのは、ある種の人に起こりうる、自分自身の存在の圧倒的なまでの現実感のなさである。この楽曲における歌詞はそのほとんどが繰り返しだが、繰りかえされるにつれて主格代名詞が変更されてゆき、「おれ」と「彼」がしだいに混ざり合っていくような処置が施されている。ビデオ自体の構造も、この延々と続くかと思われる果てしのない繰り返しの連続であり、また楽曲自体のことも言えば、アルペジオを多様したギター・リフを主体としており、繰り返しが何度も用いられ、レイヤーが足されたり抜かれたりしながら展開していき、フェード・アウトで終わる。


 このビデオの主人公が抱えている感情を説明、というか分類することは、ひどくむずかしい。はたから見ると、自分の存在の現実感がないことは悲しいことに見えるかもしれないが、しかし彼は同時に、自分自身に重くのしかかるであろう人生の重みから逃れることができている。混同しないでいただきたいのは、この現実感のなさは、物質的に現実に作用する類のものではないということだ。これはドストエフスキー『二重人格』や、ポー『ウィリアム・ウィルソン』のように、ふたりのまったくおなじ人間が存在し、片方が片方にひどい迷惑をかけるといった構図の話ではない。ドッペルゲンガーではないのだ。そうではなくて、これは自分自身の「重み」を感じることができない人間(歌詞のなかの無重量という言葉を思い出してほしい)、ヴィクトリア朝時代の中産階級の英国人にたまに見られるような人間の話なのである。ありていに言えば、彼らは自分自身の存在が幻影なのではないかという感情に苛まれているのだ。そして恐るべきことに、その感情は正しい。


「人間はその幻影としての条件を通して行動する」と言ったのは、南米アルゼンチンの小説家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスである。ここでもうひとつ、まったくべつの場所と時代に書かれたひとつの掌編を紹介したい。ボルヘスの晩年の作品「ボルヘスとわたし」である。


「さまざまなことがその身に起こっているのは、もう一人の男、ボルヘスである。わたし自身はブエノスアイレスの市中を徘徊し、今では機械的にといった感さえあるが、足を止めて玄関のアーチや内扉をぼんやり眺めたりしている。ボルヘスについては、わたしは郵便でその消息を知り、教授名簿や人名辞典でその名前を見るだけだ。〔…〕すなわち、わたしの生はフーガなのだ。わたしは一切を失う。そして、その一切が忘却のものに、つまりもう一人の男のものになるのだ。

 この文章を書いたのは、果たして両者のうちいずれであったのか。」


 おそらくボルヘスのこの掌編は、Kurt Vile の世界観を把握するための絶好の解説である。それはそれとして、では、自分自身が幻影であるとはっきり認識した人間の感情とはいったいどんなものなのか。ありていに言えば、それは善悪や喜怒哀楽といったものを超越した、静謐なものである。この精神状態をもっとも的確に表現した人物として、挙げるべきはひとりしかいない。ブッダだ。彼が説いた教義を思い出してみよう。ブッダによれば、この世のすべてのものは、永劫不変の実態ではない。


 ひとりの人間の自己認識がこの段階に達すると、もはや自分自身への肯定や否定といったものは些事でしかなくなり、あらゆることがありのままにあるのだという気分だけが感情の器を満たす。この作品に異様なまでの生気と充実感が満ちているのは、そういった理由によるのだろう。作品の題名となっている「Pretty Pimpin'」という言い回しは、北米でしか使われない若者のスラングで、直訳すれば「いかしてる」ということになる。筆者が愛しているのはこの表現だ。主人公は幻影としての自分を鏡のなかに認め、その幻影について、落ち着いた若者言葉で、「いかしてる」と断言するのである。


 これは、自分自身を鏡のなかに認めて発される、自己愛に満ちた肯定とはまったく異なる。言葉遣いは似たものになるだろうが、その意図するところはまったくべつの方向に向けて語られている。これは、自分自身ではなく、世界にたいする容認の言葉なのだ。そしてこれは筆者が聞いた同様の言葉のなかでも、最も強いもののうちのひとつである。


「けさ目がさめて、鏡の中にいるのが誰なのかわからなかった」という表現は、自己を喪失している人間の絶望を表すのではない。そうではなくて、自分自身の幻影を鏡のなかにしっかりと認めた人間の、肝の据わった、生きることへの宣誓にほかならないのだ。うそだと思うのなら、ビデオを見てほしい。彼の表情、疲れてもいなければ希望に満ちてもいない、微笑んでもいなければ悲しんでもいないあのニュートラルな表情は、並々ならぬ内面の充実を表すものでなかったか。

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