「型」からの逸脱――ゆらゆら帝国 / 夜行性の生き物三匹 (2003)

 ひょっとこの面を付けた三名の人間が踊っている。

 彼らは波の意匠に染められた、薄手の和装を身につけており、とても涼しそうである。

 この涼しそうな感じには――おそらく日本人ならばすぐに理解できるだろうが――祭りの感覚がある。

 夏を連想させるからだ。

 しみひとつない白い足袋が、驚くほどの清々しさを感じさせる。


 踊り手たちは団扇を持っている。注意しておきたいのは、その団扇の形、円形というよりは三味線の鉢に似た、円熟した女性の腰元を思わせる美しい形である。

 あきらかに機械生産された品ではない。

 その団扇は身体の側が黄色、外の側が緑色で、なにか文字が書かれているようなのだが、踊りによってつねにひらひらと舞っているために、読むことはできない。

 曲の長さは四分弱である。四分弱のあいだ、この三名の人間が踊る。


 ビデオの内容は、これでほぼ記述し尽くしたことになる。

 編集の仕掛けも、非常にシンプルだ。画面が分割されたり、アップにされたり、スローになったりするのみである。

 ただ、それだけのビデオなのだ。

 ありていに言って、要約する必要もほとんどないと思われる。

 三名の人間がひたすら踊っているだけのビデオなのである。


 このビデオがマスターピースである理由は、非常にストイックな――日本的、と呼べるかもしれない――型の概念と、そこからの逸脱の連続にあると言ってよい。三名の人間がひたすらに踊っているこの踊りは、短い振り付けのパターンが何度も何度も繰りかえされる、とても禁欲的な種類のものだ。西洋の踊りとは、まるで似ても似つかない。


 困ったことに、私はこの踊りをどう呼べばいいのかわからない。「阿波踊り」の、それも「ひょっとこ」の面を付けて行われるものだとは思うのだが、確信はない。ただ、それがどのような名前の踊りであろうとも、彼らの踊りに脅迫的な説得力があることは確かだ。


 繰り返し述べておきたいのは、彼らの踊りが、非常に短い、厳格に定められたパターンの繰り返しであるということだ。両足はがに股で、膝はロックされず、柔らかい印象を与える。四拍子の曲調に対して二拍子のステップが行われ、右手に持たれた団扇の動き、そしてその動きを強調する空手の左手の動きも、二拍子に統一されている。ただし、このビデオを注視しているうちに明らかになってくるのは、彼らの振り付けのごくごく小さな変更、一度見ただけでは気づくことができないほどの小さな展開が、四小節ごとに行われているという事実である。


 何度か見直しているうちにやっと、どういう動きをしているのか分かる。最初の四拍子は、右手の団扇は三角形を描く。つぎの四拍子は、団扇は弓の形を描く。展開と言っても、その程度なのだ。そして、この非常に奥ゆかしい展開は、まちがいなく意図的なものであり、私たちには想像もつかないような文化における、ある種の「型」に則っている。それが型であることがわかるのは、三名の人間がまったくおなじ振り付けで踊っているからだ。

 当然のことだが、この踊りのリズムは、厳格に楽曲に合わせられている。


 この楽曲は日本語がオリジナルなので、歌詞がとても短い。すべて引用しても、意味が詩幅を取りすぎるということはないだろう。


  頭上で暗い雲

  というか真夜中だから真っ暗

  夜行性の生き物がおよそ三匹

  地上はむちゃくちゃだ

  でも悪ガキどもさえ寝床で

  楽しそうな夢を見さしてくれる


  三分間の

  この曲が

  最先端の

  君の感性を

  三分間で

  錆びつかせる


  アイ

  アイ

  アイ

  アイ!


  交差点

  繁華街

  公園 誰かのアパート

  夜行性の生き物がおよそ三匹

  線路沿い

  映画館

  公衆電話のごみ箱

  夜行性の生き物がおよそ三匹


  三分間の

  この曲が

  最先端の

  君の感性を

  三分間で

  錆びつかせる


  アイ

  アイ

  アイ

  アイ!


  頭上で暗い雲

  というか真夜中だから真っ暗

  夜行性の生き物がおよそ三匹

  事情はいろいろだ

  まして素性なんてわからない

  夜行性の生き物三人組


 この歌詞はビデオ、あるいは作品自体が表現しようとしているものと明らかに矛盾している。「三分間のこの曲が」とあるが、この曲の長さは四分弱である。ビデオに登場する踊り手、あるいはバンド・メンバーの数は三名であるが、歌詞のなかに登場する「夜行性の生き物」の数は、不確かな「およそ」という副詞に修飾された「三名」である。歌詞が描いているのはごみごみした都会の夜だが、ビデオの映像はしみひとつない、明るい、白い場所である。


 この歌詞とビデオのあきらかな描写先の齟齬は、しかしおもしろい効果を生み出している。歌詞との組み合わせにおいて、執拗に踊りを続ける三名の人間の踊りの意味がまったくわからなくなるのだ。これによって、いったいこの踊りがなにを意味しているのか、視聴者はむしろ注意して見ようとするのだ。文芸の技法で言えば、「異化」のような効果が起こっている。


 ただ、もちろんのことだが、この踊り自体にはなんの意味もない。つけ加えて言えば、この楽曲自体にも、あるいは芸術的営為にも意味はない。では、何があるのか? 乱暴な言い方をすれば、「良さ」がある。しかしそんな言い方を許してしまえば、この文章の存在理由がなくなってしまうので、べつの方法を考えてみよう。


 楽曲の構造との関連から指摘すれば、何かが明快になるかもしれない。楽曲は、歌唱のパートをのぞいて、基本的にふたつの音符が繰り替えされながら、小節の終わりにちょっとした展開があり、またふたつの音符の繰り返しに戻る、という類のものだ。じつは、これは楽譜だけを見れば、非常にミニマルな楽曲なのだ。


 注意しておきたいのは、音色である。おそらくリア・ピックアップで音を拾い、軽いオーバードライヴを噛ませたエレキ・ギターと、アタックを絞って太さを強調したベース、そして連打されるバス、フロアタム、クラッシュシンバルの組み合わせが、非常に荒っぽい、乾いた、攻撃的な音色を形成している。この設定においては、ほんのわずかな演奏のぶれも音色の変化に直結する。これもまた、あきらかに意図的なものだ。というのも、この音色の設定が活きているのは、音符の動きが非常にミニマルだからである。だからこそ聞き手は、プロフェッショナルの名演奏によって最小限に抑えられているものの、しかし人間であるという理由から生まれてくる、とても微細な音色のぶれを楽しむことができるのだ。かりにこの音色で音符が大きく移動する楽譜を演奏すれば、(※1)まちがいなく聴き疲れを催す代物になるだろう。


 映像と関連づけて言えば、ビデオにおける踊りの細かい変化と、設定上どうしても起こってきてしまう演奏上の音色のぶれが、非常にはっきりとした対応関係を持っている。もしもこの踊りがまったくおなじパターンを延々と繰りかえすものであったならば、私たちは退屈して、見ていられなかっただろう。また、もしも楽曲の音色がこの攻撃的な設定、音色のぶれ自体を許容し利用する設定でなければ、やはり私たちは退屈していただろう。


 この繊細な統合は、やはり型という概念に帰着させることができる。そのことが最もはっきりと現れているのは、ビデオに映された三名の踊り手の中心にいる人物が、ギター・ソロ中に、繰り返しからの逸脱を行うところだ。わかりやすく言えば、ギター・ソロのパートのあいだだけ、中心の踊り手が、ほかの二名の踊り手とは異なる振り付けを踊るのである。そして、この異なった踊りさえも、既存の振り付けをまったく無視したものではない。これは、驚くほど美しい型の逸脱である。


 逸脱の例をいくつか挙げてみよう。腕のほうが大きく動くのだが、足のほうは注意深くリズムを守っている。作品中に一度も現れなかった、団扇を斜めに動かす動きは、たった一度だけ用いられる。なにか複雑な動きをしているように見えるのだが、実はそれは、いままで繰りかえしていた動きを二倍の早さで行っただけのものである。

 感服する、というほかない。

 このバランス感覚はもはや、熟練のギタリストが完全に陶酔しながらも、楽曲のコード進行を本能的に把握しつつソロを演奏するところを彷彿とさせる。そして実際の話、優れたギター・ソロとは、(※2)楽曲がもつ形式から逸脱しないぎりぎりのところを突くものなのだ。


 この三名の踊り手の中心にいる、ソロ・パートを担当する人物が何者なのかはわからないが、彼がこの踊りのジャンルにおいて、完全に名匠の域に達していることは明らかである。ほかの二名との差違は、はっきり言って、私にはまったく把握できないほど細微なものだ。しかし彼がソロ・パートを踊ったとたんに、彼こそが三名の人間の中心に立つべき踊り手、信じられないほどの才能に恵まれた踊り手であると、視聴者は感得することになるのである。


 この楽曲とビデオは、物語的な要素をいっさい必要としていない。もしも音楽が純粋な形式による芸術だとするならば、もしかすると、ダンスこそが、ミュージック・ビデオにもっともふさわしい婚姻の相手なのではないか――少なくとも私にそういった考えを起こさせるほどには、本作の破壊力は確かなものである。


(※1この設定に近い音色で、しかし音符を大きく動かしながら、私には仕組みのわからない奇妙な魔法によって注意深く聴き疲れを回避しているバンドには、Thee Oh Sees が挙げられる。ワシントン州シアトルのラジオ局、KEXPによる同バンドのライブ映像を参照せよ。)

(※2 Wilco のギタリスト、Nels Cline による同バンドの楽曲 Impossible Germany のギターソロを参照せよ。ライブの映像ならばなお良い。)

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