④手の内の電車
正直朝起こされるのは嫌いだ。
誰にも当てはまるだろうけど、最近の私は特にそう。
毎朝毎朝辛くて、学校にも行きたくない。母に声をかけられて無理矢理起きている。母に原因がある訳ではなくても、その度についイラっとする。
学校は家から電車で三十五分、歩いて十分。寝起きの悪い私にとって、徒歩の割合が小さいのは助かる。けれど電車の約半時間は何とも中途半端過ぎる。都会の電車通学はもちろん座れないから、その内二十分は直立の体勢を維持している。残り十五分前後の猶予で、補足的な睡眠を摂るのは賭けな部分がある。その日の運と体調と混み合い具合により寝過ごすかどうかが左右される。
起床時刻から必然的に通常私は遅刻寸前に登校しているので、一歩間違える(てか一歩遅れる)だけでクラスの出席簿にペケがつく。過去を振り返れば、一学期の初日も見事に遅刻した。現時点でいくつ遅刻を数えられているか、手の内にない。別に気にしてもいない。
今朝も大仏のように重い瞼から光を浴びて、家近くの最寄駅まで怠慢に歩く。改修工事中で仕切られた窮屈な壁を伝って進むと、地元民が列を成す改札に出逢う。左側のポケットからパスケースを取り出し、待機列に加盟してしばらく後、青く発光するタッチパネルに
薄目で電光掲示板を確認していると、来てから一分と経たず第一車両が空を切った。強烈な通過音が鼓膜を乱し、車体の緑のラインが視界を両断する。窓から見ても明らかな人口割合は、朝の憂鬱な影を誘う。
扉が二段階で割れ、バネが跳ねるように人々が降車していく。下降曲線が収まったら暗黙の了解を通じて、前方三人とお供しながら身を押し込む。入るとすぐに電車独特の
何処かでの手荷物の一悶着に警告するアナウンスが流れた後、ぎこちなく扉が閉まる。吊革よりも扉側に寄っている私は手ぶらでバランスをとることになった。電車では大抵こうなる。もう慣れたけど相変わらず気怠い。そうして落ちる生気を吊革に託し、電車の揺れに僅かな抵抗を見せた。
がたがた小刻みに振動すること五分、最寄から二駅目に来着した。「○○ー、○○ー、」車内放送が響いてアルミ板の戸が開くと同時に、後ろで固まっていたある程度の人集が立ち去っていき、身体と身体の間にゆとりが生まれる。しかしこの段階で張り詰めた格好を崩せないことは、日々の経験から明白だった。そして何の変哲もない出来事として、消失した人数のニ倍に及ぶ大群がガン首揃えて入って来る。
……と事前に立てた予想は、危機へと変貌した。二倍という目測は油断だった。実際に入場してきたのは、さらにその二倍近くになる人群の塊だった。ぐふっ、がさばさっ、すいませんっ。激しい物音と謝意の言葉交わしが増進する密度の中で冴え渡る。比較的中央に移動しようとしていた私の足も、人の大波により軌道と速度がずらされる。危うくつまずきかけて、人壁の恩恵を受けながら体勢を立て直す。結果的に手すりの届かない手持ち無沙汰空間に貶められた。ここまで距離が縮まった状態では支えがあろうが無かろうが変わらないと思うかもしれないが、床響きした際には意外なくらい慣性の法則が猛威を振るう。運動神経もさる事ながら平衡感覚にも奥手な私は一抹の不安を抱えながら、列車の再出発に備えた。
数秒置いて閉まった扉を眺め、
ごそごそ。
自分の脇腹に、未体験の違和感を覚えた。
こぞ、ごそごごぎゅっ。
細かい線をなぞるようにカーブを描く物体は、延長線上に大腸や十二指腸を蔵した私の表面を動き回る。制服から伝染する不気味さと面妖さは、地に這う大蛇を連想しても無理がない。
果たして私だけなのか。肉体と装備品で一杯になった車内で只今の現象に
ただ、可能性は二通りある。厳密に言えば三通りだけど、最悪の場合は二つに絞られる。冷静でいるためにポーカーフェイスを繕う私は、心の内側で恐怖に打ち震えつつも頼りの理性を活用する。負の本命は後にするとして頭に浮かぶ候補は、窃盗。つまりスリ。しかし私が幼気な女子高校生だという条件を加味すれば、金銭的、物体的な動機は考えにくい。かつ、現在も意図的な動作で私との接触を続けている状況からして偶然や不可抗力も否定される。ということは実質ほぼ一通りに決まる。
本当にそうなのか、所謂あれなのか。まさか自分が巷でよく聞く事案の当事者になっているのか。現時点では悪魔でも危惧だけど、振り返れば確実に証明される。この満員状態さえ緩めば、真実は顔を出す。そんな私の願いとは対照的に、触れる質感は追ってエスカレートしている。人の降りない駅を挟んで、とうとう腹中の臓物から尾骶骨へと旋回してきた。
その仕草で確信する。これは痴漢だ。
いやこの車両は女性専用だから、痴女になるのか。あやふやな言葉遣いは縁起でもないが脱線させるとして、もしかすると私はとんでもないピンチに陥ってるかもしれない。主に右方を中心に触られているのでスカートに入れた定期券や携帯電話の奪取は未然のままだが、私の思考と論点はもう身体的な方向性へ変わっている。痴漢の被害者としての経験値は当然ゼロだし、そもそも他人にスキンシップされる機会が全くない。スキンシップの一単語で済めばいいものを、同方面の同級生がいない交友範囲を鑑みれば単なる他人の犯罪行為でしかない。そして悪行という事象はお茶の間で観覧するより現場に居合わせた方が圧倒的に緊迫する。助けを求めて大声を発すれば解決する見込みもある。けれど当の私には実行できる勇気も度胸もない。世間では冤罪だと糾弾するケースもある痴漢報告だけど、今の私は閉鎖された大衆の前で声を大にできる女性に対しある種の尊敬を抱く。
立ち竦む両足とまさぐられる大臀筋、破裂しそうな心臓を押し殺して、ひとまず体勢に余裕が生まれるタイミングまで待つことにする。通例だとその時刻まであと十二、三分もある。一体私は耐えられるのか。耐えられないとしても何もできないから、どの道耐えるしかない。ふと気付けば睡眠不足でピントの外れていた眼球も完全に見開いていた。夢から醒めて悪夢を味わう気分だ。見知らぬ人間に自身の局所を触られるというのは、額面以上に不思議で恐ろしい。顔が分からないだけに尚更だ。
満員電車由来の物理的に濃密な時間を背後の犯人さんと過ごすにつれて、当初は「触る」だった所作が「撫でる」「揉む」へ次第に進化していった。本格的になった痴漢に戸惑いつつ、心構えしていたことだったので精神の乱れは最小に留まる。そのままお尻の境界や下部から上部までを往復する流れが十数回と繰り返される。私がそのリズムに少なからず慣れてくる頃ちょうど、犯人の手つきはバリエーションを増し、時に力強く時に柔らかく私の臀部を周回する。抑揚のある手さばきが骨盤辺りの絶妙な箇所に訪れると、一時不意に胸の奥から声が漏れそうになり、生唾の丸飲みにより何とか我慢した。もしこの中で喘いだりしたら不審者極まりない。犯罪者がいる場面で言うのも可笑しな話だけど。
しかしこれだけで終わることはなかった。
犯人は次の手法として、制服の内側に手を忍ばせてきた。
「ふぁぅっ!?」
この衝撃には流石に堪えきれず、自分でも聞いたことのない驚き声を出してしまう。私が勝手に設定していた
背中から右胸に、悪魔の手が拠点を建てた。
胸を掴まれた。
「♡¥☆#♪/“←,°>{}×!?」
突然の到来に、雷鳴が落ちる。声にならない声が、心臓と肺に直接訴える。
何だ何だ何だ何だ何だ。何何何何何。いや腕の動きと微風から予期はしていたけど本当に触ることなんてあるの。いくら何でもここは電車。
三本目の腕のように制服を掻い潜る犯人の腕は、がさごそ掠れ音を立てながら私の下着を滑る。その触り方が今まで以上に優し気でくすぐりにさえ似ているため、私は
下着と邂逅して一通り何かを確かめた犯人は、私のワイシャツを掻き乱すのも厭わずに右腕を平行移動させる。今度は何だと無条件に身を預けていると、犯人の右手は背筋に沿って走り、鎖骨付近へと上り詰めた。その時点で私は察した。
そして推測通り、私のブラジャーのホックを外した。これ以来、抵抗という意志は頭から完全に消え、犯人の一挙一動に全て任せることにした。
外れたブラジャーはいつの間にか参入していた犯人の左手によりワイシャツの上から支えられ、自由で奔放な右手は水を得た魚のように私の上半身を舐め回す。結果的に抱く抱かれる位置関係になりながら、お腹の中心線をすすーっと辿らせてきたり、右胸を右手が生身で、左胸を左手が生地越しに感じさせてきたり、シャツをはみ出して首筋まで伸ばした手で高鳴る拍動を測ってきたりした。特に長細い指が胸の先端を通過する刹那、身体全体に電流が
何度か高揚の絶頂を得ると、
かと思うと、文字通り手の平を返した犯人が待望の下肢にも挑戦してくれた。ブラジャーも適当に肩に引っ掛け、ベルトを緩め、スカートの中へと犯人が侵入する。即座にレース布と交わり、まず手始めに掬う。愛撫する。次には早くも
そうして悦楽に溺愛した後。
目を覚ますと、離れたドアから大量の人々が電車から降りていく様子が景色に映った。二時間以上経った気もするし、三十秒程度で終わった気もする朦朧とした体内時計の胸中、認知する。ということは、もうあれから十五分は過ぎたということだ。享楽の切り出しが最早懐かしく思える。
しかし今は過去を振り返るよりも、大急ぎでスカートと下着を直さなければならない。幸いまだ人の溜まり場は残っていたので、上手く眼中から逃げて陰になった地点で、衣服を整える。下着はおかげでぐしょぐしょ。
今日は諦めてこのまま生活するとして、何より今すべきことがある。
目に焼き付けなければならないものがある。
そう、犯人だ。
最初はお尻から始まった犯人。
とうとう行くところまで行かせた犯人。
その犯人を求めて、
麦わら帽子を被った女性が、朝日に照らされて微笑んでいた。
犯人は、私よりずっと年上の、綺麗なお姉さんだった。
その後も目は開いていたのに、つい電車から降り過ごしてしまった。
初めてのことだった。
そうして、ようやく自覚した。
私は、あのお姉さんに、犯人さんに、
どうしようもないくらい興奮していたのだと。
結局この日は授業に遅刻してしまった。
それからと言うもの、毎日のようにこの運命の日と同じ乗り口で立ち並び、電車の中で犯人さんに痴漢されるのを待った。犯人さんは私の最寄駅より前から乗車しているらしく、注意して見ればホームドアの手前からも立ち姿が覗けた。犯人さんはいつも同じ場所にいて、凛とした姿勢で吊革を握っている。私が車内に足を入れた瞬間、犯人さんは目を合わせてくれるけれど、互いの間には背徳的な無音が波打つだけで、それ以上のことは時を経て起こる。犯人さんは何故か毎回二駅目の直後にその雅な手を伸ばしてくるのだ。入って来ていきなり触れたらびっくりさせてしまうと配慮しているからなのか、単純に好機を伺っているからなのか、はたまた全く別の理由なのかは分からない。私の犯人さんに対する想いや願いを、犯人さんがどれだけ理解しているのかですら不明だから。でも毎朝必ず触ってくれる。ナーバスな私を癒して、慰めてくれる。犯人さんが降りるその時まで、二人きりの秘密の行為に及ぶことができるのだ。そして最後には、犯人さんと満面の笑みで「またね」の手振りを交わす。
これほど刺激的なことは生まれて初めてだった。
犯人さんと揺れる電車が、生きる価値になっている。
それに、遅刻回数が少し増えた一方、朝起きるのは苦にならなくなった。
何もかもが右肩上がりだ。
毎日が楽しくて。
気分は晴れやかで。
体調もすこぶる元気で。
ある日、私は退学になった。
遅刻回数が規定の数を大幅に超過していて、情状酌量の余地がないと見なされたらしい。
母が台所で泣いていた。
それでも、私は電車に乗り続けた。
犯人さんに触れられるために。
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