③先輩と過ごす時間の価値

 午前の授業が終わった即時、教室を出て体育館へ走り出す。部活中にも見せないような疾走感で廊下を猛進し、庭に挟まれた屋外通路を抜けると、十秒もしない内に体育館へ到着できた。この時間帯は他のクラスによる授業が執り行われていないため、遠慮なく重厚なドアを開ける。一目見ただけでは人っ子一人見当たらない様子の体育館に入れば、私の小さな足音のみが館内で反響し、一歩一歩の感覚がフローリングから伝わってくる。

 中心部へ近付くにつれて一定間隔の音響が私を包み込み、何とも言えない孤独感や恐怖感を誘ってくるようだが、役割を果たしていない黒色のカーテンの間からの真昼の日光がそれを紛らわしてくれる。その代わりはち切れんばかりの太陽が屋内全体をじっとりと加熱していて、真夏日を軽々と凌駕するような重々しい空気がこもりにこもっている。ただでさえ教室からここまでの激しい運動で身体が温まっているというのに、その勇姿を痛めつけるような湿気と熱気が否応なしに私を襲う。けれどこの後のことを考えれば気温の上昇なんて大したことないと自分に言い聞かせ、入口とは反対方向へてくてくと歩みを進行させていく。

 暑さから現実逃避するようにして着いた先は、比較的日陰に収まる体育館倉庫の扉の前。体育館倉庫は、その配置により角度的に運命付けられる太陽光の薄さに比例してどことなく存在感も薄い気がする。体育館を部活の練習場所として日常的に使用している生徒はともかく、それ以外の大多数の人は恐らくその存在を知らないのではないかというほどには人目ひとめにつかない上、広々とした空間の中で僅かに茶色の濃度が増したに過ぎない彩色なものだから初めて入庫しようとその場所を探す際は一目ひとめではおぼつかない。

 確かに今私の目の前にある倉庫には体育の授業や室内競技に関する器材が収納されているのだが、頻繁に使う用具のほとんどは入口近くの別のスペースに保管されているので実際利用することはそう多くない。私自身正当な目的で入った経験は、部活の自主トレ中、運動部にありがちな一風変わった容貌のトレーニング用品を試しに取り出そうとした時くらいだし、その回数も両手の指で事足りる。

 正当な目的、と言うからには正当性を有するまでに力及ばない体育館倉庫の用途があることも反射的に察してくれるだろうと思う。事実その通りで、今からする行いはとてもじゃないけど公衆の面前で晴々と披露できるものではない。あのまま昼休みの間も教室に残って色めく青春真っ盛りの同級生達など構うことなく件の実行に踏み切ってしまえば、私の華の高校生活は枯れるどころか絶滅するにちがいない。可能な限り暴露されたくない秘め事が私の心の中、そしてこの倉庫の向こう側に眠っているんだ。

「……ふぅー」入る前に一旦深呼吸を施し、ついに意を決した私はひとつなぎの大秘宝を求めて引き戸型の扉を左右に大きく滑らせる。

 そうして謎解きされたパンドラの箱の中には、天井から吊り下げられたアナログチックな電球、長らく放置されたことにより火山灰と見間違えることも可能なほど大量の埃を被った得点板、己が壊れるその時までプレイヤーを支えるという天寿を全うした各種球技のボール群、乱雑に並べられて不貞腐れたように佇むハードルやダンベル、そんな愉快な用具達の中でも正に一段と目立つ数組の跳び箱などがひしめき合っていた。倉庫の外と比べてより一層密度の高まったこの密室には右側の壁やや上部で正方形の木枠に収まる小窓もあり、丁度そこから判で押したように直射日光を招き入れているため外界と同等もしくはそれ以上の熱気を集わせている。これほど熱々な日和に門徒を開くのは恐らく初めてになるが、一度ひとたびうだるような日射を受けてしまえばその記念すべき初体験に感動する余裕など心にも体にもどこにもなくなる。まぁ元よりそんなものはないんだけど。あったとしても本物の初体験と比較したら肩を並べることすらできないだろう。

 その本物の初体験、とも関係している存在が、実はまだ描写し切れていない。一見何てことのないこの室内の内装の背景、むしろ中心には、私がはるばる教室からここまでダッシュしてきた核たる所以があるのだ。というか、いる。

 全体を捉えていた目線を一箇所に集中させてみれば、ほら。


 ミルフィーユのように重なった体育用マットの上で、眠れる森の美女が俯いて座っている。


 彼女こそ、私が出会いを望み望んでいた相手。私の目的を果たしてくれる人。そして今は「すぅすぅ」と蚊の鳴くような寝息を立てている。……って、本当に眠っているのか。眠れるというのは比喩のつもりだったんだけどまさかノンフィクションであるとは。だから扉を開放して数秒間無言で無反応だった訳だ。なるほどと納得するのとは別に、裏腹に、別腹に、この蒸したてほやほやの暑さでよく睡眠に浸れるなぁと限りなく不可解に近い賞賛で昼時の空腹を元気付ける。誰もいない隙に倉庫へ侵入できたことで安心したせいか、今になってお腹が空いてきた。しかし運動部と言えども早弁ガールには非ざる私のお腹は適切な時間に形ある食料を摂取することに前向きな姿勢を示すので、主柱の目的を終えたら支柱の欲望、つまるところシチューか何かコンビニで買ってくるかと瞬時に予定を立てる。外出含め自由を校風とする学校だから何ら問題はない。

 食事のことは小窓から覗ける庭に生い茂った夏草や兵どもの夢の後にして、二三歩距離を置いて居眠りしている彼女について説明しよう。

 指定の制服を着こなしていることからも分かる通り彼女はこの学校の生徒で、学年は三年。チャレンジ精神に満ちた一年生と先行きに不安を抱える三年生に挟まれた二年生の私にとっては当然先輩ということになる。ちなみに今まで説明の都合上便宜的に彼女と呼称していたが、普段は普通に先輩呼びなので、以後そうさせてもらう。自問自答。

 先輩とは入学してから約一ヶ月後の部活勧誘会で知り合った。当時大して興味もない部活の宣伝を新入生の義務として見回っていると、文化部のゾーンにも関わらず何故かそこにいた先輩が私に狙いを定め、運動部に勧誘してきた。正直部活をやる気はすずめの涙ほども無かったのだが、その後色々あって結局入部することになり、今に至る。色々の部分はご想像にお任せしたい。自問……自答?まぁいっか。

 さて、あんまりのんびりして時間を無為にしてもいけないから、先輩を起こさなければ。すーすー息を吸っている先輩の垂れ下がった両肩を、正面からぐらぐら揺らしてみる。私を天秤の片方にかけると背丈どころかスタイルの偏差値も高いことを認めざるを得ない先輩の華奢な身体が前後に往復し、もう少し腕を降ろせばその果実を鷲掴みできそうな部位も釣られて振動に応じていると、「……んん、むにゃむにゃ……」と先輩の口が睡眠への名残惜しい気持ちを謳う音楽を奏でた。やっと起きたみたいだ。

 先輩は私の手によって制服が少しばかり乱されたことには思慮を傾けず、不自然に傾いた赤いメガネを取り外し寝起きで虚ろな目元を一通り擦ると、メガネを慣れ親しんだ鼻上に戻しながら「……あれ、もう来てたのかい」と天然素材丸出しな態度を見せた。

「逆にもう来てないとまずいですからね」

「まぁそれもそうだ」

 夢の世界から意識を運び終えた先輩がアーチを描くように口角を曲げ、穴があったら入りたい時に便利そうなほど凹んだ笑くぼを強調する。相手を試しているようにも受け取れるこの先輩の微笑みはポジティブに評価すれば前衛的、ネガティブに表現すれば少々不気味だ。私は先輩への好感度ゲージを満タンにしているから大丈夫だけど、他の人がこれを見たら恐怖に怯えるかもしれない。それは流石に言い過ぎか。というかそもそも先輩が私以外と進んで会話する光景を見たことがないような。部活内でも。

「じゃあ、こっちおいで」

 脳内で独り言を吟じていると先輩がそう言ってきた。そういえばまだ扉を閉鎖していなかった。ちゃんと密閉しないと労を払って来訪してきた意味が無意味へ帰してしまう。という訳で、扉が走るレールから先輩が添えられたマットの方へ移動。

 突っ立っているのも疲れるので先輩の隣に着席しよう、とするより先に先輩がマットから立ち上がり、僅かに前進すると、両端に分かれた扉を犬猿の仲から昵懇じっこんの仲にさせた。つまり閉じた。

 私も先輩の配慮に負けじと、側にあった重量級の体育用具達をえっさほいさと動かして扉の横に備え付ける。気休めにしかならないが、万が一人が来る時のことを予期すれば何も置かないより断然良い。

「……これで二人きりだね」

 準備を完了させた私と先輩の内、今後の行為に乗り気な方がスカートのポケットの中でジャリジャリと倉庫の鍵を鳴らしながらそう言う。元から二人きりだろうにという追求は無しにするとして、先輩はロマンチストだなーと深く考えもせず思う。まぁ私もある意味では精力的だし、情熱的だけど。

 完全密封された部屋にいることで蒸し鍋に投入された食材達の理解者への道を歩み始めた私とは対照的に、未だ汗一つかいていない先輩がその距離を縮め、ついに隣に座ってきた。先輩は尚も接近し、互いのスカート及び下半身が接触する。

 回数を重ねているとは言え、やはり乙女な私は恥ずかしさと照れ臭さを隠し切れず、先輩の表情もまともに見れない。さっきは笑顔がどうたらこうたら述べたけど、先輩の本質は美しさと物憂げさで構成されているのだ。単なる流れ作業とは思えない。

 覚悟して先輩の視線を受け止めると、数秒の無言が私達の周りを取り巻き、そして二人で呟いた。


「それじゃあ、」

「はい、」


 言った直後、柔らかな動作で迫り来る先輩の唇が私の唇に当たった。

 キスした。


「んっ」

 軽い衝突のはずなのに、私の閉じた口の奥から反射的な声が生まれる。

「……ん、んんっ」

 続け様に先輩から口付けを与えられ、漏れる声も湿る唇も止まらない。勢いそのままにキスを繰り返され、万に一つの逃げ道も塞がれるようだ。私の思考が先輩の味でどんどん濃くなっていき、私と先輩の境界が溶けて消えるような朦朧感もうろうかんに落ちていく。室内の気温も上昇したのではないかと覚えるほど悶える身体が燃え上がり、中からも外からも快感な熱に浮かされる。主導権を握って私を操作する先輩もとうとう体温の高揚を許したらしく、ショートヘアのすっきりした頭から地面に向けて小粒の水滴を送り届けている。瞼を閉じてひたすらキスをしてくる先輩を真似て、私も薄目から暗黙へと視覚を封じ、口元の感覚のみを研ぎ澄ます。そうやってお互いの表面に接着と分離を行き来させていても、その間隔は衰えるのことを知らず、時が過ぎるにつれて盛り上がってくるのであった。

「ん、んぅぅ………………むはぁっ」

 時計の短針が六分の一程度新たな回転を加えた時、私と先輩の局部の繋がりがようやく途切れた。肺に溜め込んでいた甘い空気が地上に溢れ、忘却していた呼吸が息を吹き返す。

 二人して「はぁはぁ」と荒れた声を発していると、丁度のタイミングでチャイムの音が遠くの校舎から伝わってきた。

「……もう、休み時間ですよ」

 確実に誰もいない空間で事を成せたので、早めに授業を切り上げてくれた教師に感謝の念を捧げたいところだが、もうその猶予も無くなった。いつもは倉庫に隠れてやればバレることはないと基盤の脆い根拠と自信で遂行してきたけど、出来ることなら終始全くの無人状態で事なきを得たい。

「…………分かった、今日はもういいよ。」

 そんな私の要望を察知してくれたのか、先輩は満足と不満を七三分けした表情を以て了承してくれた。口角の跳ね上がり具合も通常時と照らし合わせてみれば脇に転がっているバレーボールの跳躍力未満だが、先輩として最低限の威厳を主張するために我慢しているのかもしれない。そう思うと、私も鬼ではないので先輩に付き合ってあげたくなる。

「じゃあ、バレーボールでもしますか?」

 だからこんな提案をしてみた。キスでさえなければ体育館の中で何に興じようが自由だ。すると、授業もなくて暇そうに俯いていた先輩は先程の輝きと熱意を復活させて、「……やろうっ」と頷いた。

 ここは体育館、私もバレー部らしく、部長と健全な汗でも流そうではないか。それで一通り楽しんだら、そのお金で食料品の買い出しに行こう。キスの最中は熱中していて頭に無かったけど、今になって胃腸と栄養の虚無感を思い出してきたから。

 あ、そうそう。もう言わなくても分かると思うけど、体育館に訪れた目的は、先輩とキスをするため。

 先輩と私は、昼休みにキスする関係なのだ。


 二週間後、学生として登校の習慣を欠かすことのない私は、四時限目が終わるとまた例のごとく教室から抜け出した。今日は特別早く終わった訳ではないが、いつに無い焦燥感を胸に乗せて走っていた。そうして着いた場所は、体育館への道中にある渡り廊下の横に設けられた、緑豊富で涼し気な園庭だ。

 スピードを緩め、先日購入した手首のアクセサリーの感触を確かめつつ庭の全容を眺めると、左側の小型噴水の奥にあるベンチに先輩がひっそりと座っていた。

 伸び伸びとした芝生を越えて、今度はしっかり起きている先輩の元へ行く。噴水の水飛沫が舞うのと同時に、すぐ側まで近寄った私に先輩が目を向けた。

「やぁ」

「今日は何故ここで?」

 先輩の挨拶も無視して、連絡の来た今朝から思っていた疑問をぶつける。

「んー、何となくだよ。そういう気分なんだ。」

 先輩は挨拶を蔑ろにされたことも気に止めず、理由になっていない説明を返してきた。

 私も私で「そうですか」と淡白に受け流す。中庭に来ること自体は不都合も好都合もあったものではない。ただ懸念されることとして、ここは割合人通りが激しいのだ。だから急いできたのだけれど、努力虚しく既に青空の下でお弁当タイムを満喫しようという人達がちらほら集まってきている。

 私と先輩の関係は、部活とキスの二つの要素で成り立っている。それ以上でも以下でもないので、必要以上の対話もしないし、二人が同じベンチに座れば後はキスするという道しか残されていない。かく言う私も、先輩が大衆の目を気にしないのなら、割り切ってキスを決行することは出来なくもない。ただしその場合、ちょっとした付加価値が伴うのだが。

 そう思って先輩を見ると早くもその瞳を閉じていて、キスする気合いに満ち溢れていた。先輩のそういった前触れもない行動は私にとって珍しくも何ともない。唯一目新しいことは、この羞恥的なシチュエーションだけだ。先輩はこの状況に燃えているのだろうか。

 それなら私もやってやろうではないか、と決意し、先輩に顔を近付ける。そして耳元で囁いた。

「いきますよ」

「……きて。」

 そうして、また今日もキスをした。

 途中、「今日は、もっと……したい」と先輩が言い出したので、「高くつきますよ?」と返事をし、いつもより長い濃密な時間を過ごした。




「はい、これ。今日の分。」

 全ての工程が終了し、さっさと教室に帰ろうとすると、先輩がそう言って引き止める。

 あぁ、そうだ。肝心の物を危うく忘れるところだった。やっぱり人目があると調子が狂うのかもしれない。

「一、二……はい、おーけーです。」

 うむ。ちゃんと場所代と、延長料金も加わっている。先輩、いい子いい子。


 改めて言うが、私と先輩は昼休みにキスする関係。


 ……というのは建前で、私は先輩とキスする代わりに、先輩から対価としてお金を幾らか貰っている、そんな関係。


この関係は、先輩が私をバレー部に誘って以来続けている。ファーストキスも去年の勧誘会の数日後先輩に売った。世に言う援助交際、ってやつなのか。まぁ元を辿れば先輩から提案してきた訳だし、私に非義はないよね。先輩も先輩で中々良い性格してるし。そんな性格だから友達が出来な以下略。

「明日も来てくれるよね……?」

 私がお金の入った封筒を制服のポケットにしまうと、飼い主との別れを寂しがる犬ような先輩が不安そうに尋ねる。

「もちろんですよ。あ、それじゃあ……」

 弱みに付け込む、と言うと人聞きが悪いけど、そう言えばここ最近欲しい物が色々あるんだった。ブレスレットとか、シュシュとか。どうせ明日も先輩は学校に来るし、予め頼んでおくか。欲しい物を手に入れるのは早ければ早いほど嬉しいし、財布のお金はあればあるほど気分が良いから。

 そんな訳で、先輩。


「明日の分の前払いも、お願いしまーすっ」

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