第10話 風呂場にて


 真っ白な天井に、窓からやさしく降り注いでくる光、ふと気が付いた時、神導セカイは今まで味わったことのないような、ふかふかのベッドの上にいた。彼女の姿は元に戻っており、服装は薄いバスローブ一枚で、すこし寒い気がする。


「ようやく起きましたか、相変わらず遅い起床ですね」


 上体を起こすと、テレビを見ながらソファに座っている相変わらず地味な色の制服姿の伊月シオンが優しく微笑みかけてきた。彼女たちのいる部屋は、少なくともセカイにとって知らない場所であり、赤い絨毯にセカイの眠っていた大きなベッド、頭上には小さいながらもシャンデリアがあり、多少高級なホテルの中であると推測できるが、どうして自分がここにいるのかセカイにはわからなかった。


 とりあえず、寝汗を流そうとベッドを出たセカイは、どうしてこんなに疲れているのだろうと、ふんわりと考えながら、よろよろとおぼつかない足取りでバスへと向かう。


 体はだるく、もう少し眠っていればよかったかなと思いながら、バスローブと下着を脱いで、浴室に入ろうと薄いドアを開く。

 やはり、そこらのビジネスホテルではないらしく、湯煙に曇っている浴室はとても広く、家族で入れるほどの大きさの円形のバスタブには無数の赤い花が浮かんでいる。


 だが、そこには先客がいた。


 金髪の長い髪の毛が途中から綺麗に黒く染まっているのが特徴的で、染めるにしてもかなり手間だろうと思う、セカイよりも小柄で、キラキラ輝く金色の眼が魅力的な少女はシャワーを頭から浴びている。その頬には流星のような傷跡、服を着たらわからないだろう体のいたるところにも可愛い女の子らしからぬ傷跡が体中にあった。


 特に目立つのが右の胸元にある明らかに人為的に彫られたような入れ墨だ。といっても、一つの円を二つに割って、右左に白と黒で染めてあるだけの変なもので、『陰陽魚』にも少し似ていたものの、合わさっている感じではなく、本当に中心から真っ二つに割れた見たことのない印だった。


 セカイに気付いた少女は不機嫌そうな顔で、睨み付けてきた後に、


「出て行けよ、セカイ」

「えっ、いや、でも私も入りたいし、中も案外広いし……」

「うるさい! 出てけ!」


 まるで男に覗かれた女の子のような喧噪でシャンプーの容器を投げてきたので、セカイは急いでドアを閉めた。浴槽に入った直後は、誰なのかわからなかったが、その声を聴いて、『交差する光と闇(クロスロード)』だと分かった。

 夢で起こったことのように感じていたが、彼女がいるということは、どうやら、エリア51で起こったことは現実だったようだ。


 いや、今はそれよりも、早く温かいお湯につからなければ風邪をひいてしまうと思ったセカイは、扉越しに彼女に声をかけてみる。


「えっと、私も入りたいんだけど……」

「ダメだ!」


 なんで、とセカイが聞くと、彼女はしばらくの間、沈黙してから、シャワーを止め、静かな声で言う。


「見ただろ、あたしの体、傷だらけだから」

「……それは、どうして?」


 浴槽の扉の向こう側に立つ彼女は、色付きのガラスのせいで、はっきりとしなかったが、俯いているようだった。


「あたしはセカイの何百倍も生きているんだ。その中で祭り上げられたこともあったし、化け物なんて言われて、縛り上げられたこともあった。あたしはあたしでずっと変わらないのに…………ほんと人間って勝手な生き物だよ」


 人間という生き物は、知らない人間や自分の理解できない物が目の前に来たとき、本能的にそのときの利用価値があるかどうかで決める。また、人間は他人と共有することで安心する生き物で、ゆえに異端を嫌う。

人とは違う存在である彼女が何千年という長い時間の中でどんな扱いを受けてきたのか、想像に難くなかった。


 その間、一体どれほど苦しかっただろうか。恥じらってしまうほどの、人に見られたくないほどの傷を受けて、小さな彼女の心はどれほどズタズタにされているのだろうか。


 もしかしたら、人に失望し続けた結果、彼女は繭を作り、外界との接続をシャットアウトしたのかもしれない。


 あの暗い繭の中で、ただ一人、考えてしまうと、胸が苦しくなった。


「私は違うよ!」

「なんでそんなこと言い切れるんだよ!」


 反射的に、セカイは叫んでいた。しかし、返ってきたのは、怒声だった。

彼女が怒るのも当然だ、セカイも人間であり、例外的になることはないのだから。本能的に敵か味方かで判断して、接し方を変えてしまう、愚かな人間の一人だ。


 シン、となった空間の中、ハッとした少女が「……すまねえ」と謝ってくる。

そんな彼女に、セカイは、ドアを開けて中に入って、彼女の目を見てから、静かに笑いかけ、優しく告げる。


「だって、私は貴女のことを知ってるから」


 そう、セカイは、目の前の少女のことを知っていた。


 夢の中とはいえ、ノイズのかかった声だけの姿だったとはいえ、もう十年以上も一緒にいるのだから。ずっと遠くの地で待ってくれていた少女の声を毎晩聞いていたのだから。

 人間は、相手と一緒にいる時間が多ければ多いほど、初対面のときから徐々に態度を変えていく。良い方にも、悪い方にも。時間があればそれだけ相手のことを知ることができ、また、知ることでお互いの繋がりが強固なものになるからだ。


 そして、セカイと少女の間には目に見えないけれど、他の誰にもない繋がりがすでにできていた。


「きっと、契約したんだから、一緒の場所に住んで、一緒にご飯食べるんだから、これからもっと貴女のことを知ることになる。それって、他の誰にも真似できないことだと思わない?」


 セカイから目をそらした少女は顔を真っ赤にしたかと思うと、一目散にバスタブに向かっていき、頭から飛び込んだ。


 体が冷えてきたので一緒に入ろうかとも思ったが、バスタブからは微かな嗚咽が聞こえてきたので、仕方がなく、熱いシャワーを頭から浴びることにした。

 汗でべとついた体にお湯がかかり、すっきりしたあと、薔薇の香りのシャンプーや、石鹸独特の頭を刺激するような匂いを出しているボディーソープで、体を洗うと、少女が落ち着いたのを確認して、バスタブの対面に入る。


「なんでいつの間に勝手に入ってきてんだよ!」

「もう入っちゃったし、別にいいじゃん。冬のこたつと疲れているときの風呂はなかなか出られないものなんだよ」

「よくねぇよ!」

「あっ、そういえば――」

「人の話を聞け!」


 まだ顔が少し赤いものの、調子が戻った少女は、ようやく諦めてくれたらしく、ため息一つついてから「で、なんだよ」と聞いてくる。ちなみに、体育座りしているのが可愛かったりする。


「『交差する光と闇(クロスロード)』って、変な名前だよね。誰がつけたの?」

「んなもん、知らねえよ、あの施設にいた奴らが勝手につけたんだ」

「じゃあ、本当の名前って何?」

「それは……」


 ブクブクと鼻元までお湯に頭を隠した少女が「……ねえよ」言うが、お湯の中なので、よく聞こえない。目線もセカイの目から逸らしている。

 セカイが、もう一度同じ質問を繰り返すと、ようやく聞こえる程度の声で返ってきた。


「……わからねえよ」

「えっと、それはどういう――」

「忘れたんだよ、そんな昔の話は!」


 まるでマイクでも使っているかのように少女の声が浴場に響き渡る。

 再び浴場は静まり返った。先ほどと違うのは、ここが浴槽の中なので、雫の音が聞こえてくるということか。


 セカイは、考えていた。

 話題を、ではない。それよりも、もっと大切なことだ。


「んー、と……『マユ』かな……」

「なんだ? それ?」

「君の名前だよ、繭の中にいたから、マユ」


 なんと安直な名前なのだと自分でも思うが、これ以上良い名前が短時間では見つからなかった。シンプルオブベストという言葉があるし、綺麗な名前だと思うのだが。


 マユ……か、と何かを考えるように呟いた少女は、クスクスと笑いながら、


「じゃあ、今日からあたしは、マユだ」

「えーと……そんなにあっさり良いの?」

「だってセカイがくれた名前だぜ? いい名前だと思うし、不満なんかどこにもねえよ」

「そっ、そう?」


 ああ、ありがとな、と笑いかかけてくる少女――マユは、見た目よりも少し大人びているように見えた。

 それにしても……、と言ったマユは、セカイの顔からは大分下のところを見ながら、


「セカイ、お前も結構大変なんだな」

「どこ見て憐れんでるの!」


 可哀想な人を見るような目でセカイの胸を見ながらマユは容赦ない一撃を食らわせてくる。彼女だって、上から下までぺったんこなのだが、それは見た目通りなわけで、言ってもしょうがないものなので、指摘する気にもなれなかった。


「『神聖化(セイクリッドモード)』のときはあんなにボインだったのにな」

「そうだよ! だからきっと、将来性はあるんだよ!」


 うんうん、と自分を無理やり納得させているセカイの横で「あれは別に将来の姿じゃねえけどな」とマユがボソッと言っていたが、セカイの耳には届かなかった。というか、聞こえないふりをしていた。


 胸と言えば、と正面からマユを見ると、どうしても、気になってしまうものがある。彼女の心臓部付近に描かれた白黒の入れ墨だ。彼女の体中にある他の傷は、外部から受けて付いた傷だとわかるものだったので、余計に目立つ。


 セカイが凝視しているのに気づいたのか、その視線の先をたどったマユが「ん、ああ、これな……」と入れ墨を手で撫でる。


「生まれつきだよ。あたしたちみたいな『化け物』の、人じゃねえ証拠」


 そういうマユはどこか悲しそうで、それでいて、諦めているような表情だった。


「ねえ、マユたちって、いったい……」


 セカイの問いに対して、マユは静かに「あたしにもよくわからねえよ」と答える。

 普通の人間ではないことはわかっていたが、見た目はどう見ても人間だ。人でないのなら、何だというのだろうか。


 そんなマユのことを考えていると、いつの間にか時間が過ぎていたらしく、体が熱くなり、のぼせてきたので、そろそろ出ようかと思っていたとき、マユの言葉で、少し大人の姿をしていた時のことを思い出し、何か大事なことを忘れているような気がして、少し考えて、お湯から半身出たところでもう一度肩までつかることになる。そのセカイの変な行動を見て、不思議そうにマユが聞いてきた。


「なんだよ、落ち着かねえな」

「どうしようマユ……私、シオンにあんなこと……」

「いやいや、いきなりなんだよ。知らねえよ」

「『神聖化』のときだよ、マユ一緒だったじゃん」

「だから、あたしは知らねえよ。『神聖化』のとき、あたしには外部からの情報が一切入ってこねえから」

「じゃあなんで私の容姿を知っていたのさ」

「それりゃ、あたしたち自身、内部の情報だからだよ――って、その様子だと、勢い余って婚約でもしちまったか?」

「下手すれば、それより悪いかも……」


 ああ……、と言葉にならない苦悩の感情を吐きながら、バスタブの淵に手をかけて頭を抱えるセカイを、マユは不思議そうに眺めていた。


 よりにもよって守りたかった親友に武器を突き付けて、彼女はセカイのことを考えて止めてくれたのに、言い合いになって、挙句の果てに、守るはずの彼女に怖がられてしまったのだ。


 さっきは寝起きで何の違和感も持てなかったけれど、普通に話しかけておびえられていたらもう二度と立ち直れなかったかもしれない。一度放ってしまった言葉は、もう取り消すことはできない。感情的に発してしまった言葉を訂正するのも難しい。


「謝らないと……でも、どうやって? 言葉? 土下座? ……なんかどっちも違う気がするけど……」


 まるで難問を前にした研究者のように必死になってあれこれ考えているセカイの前で、しばらく彼女を眺めていたマユは中々事態が収束しないと理解したのか、お湯から上がる。


「何でもいいけど、あたしは先に出るからな――っておい、なんで腕つかむんだよ!」

「後生のお願いだから、一緒に考えて!」

「だから、あたしの知ったことじゃないだろ。あたしはお前の母ちゃんじゃねえ」

「ほんと、一生のお願いだから!」


 ダメだ、と連呼するマユの腕をつかんで、引っ張ってみるが、体の大きさで力の強さが変わってくるという一般的な法則に反して、小柄なマユの力のほうが強く、引きずられるような形で、セカイは浴室から出されてしまう。


 お願いしますと言いながら裸で抱きついてくるセカイを見事に無視したマユは、真っ白でフワフワなバスタオルを二枚手に取ってから、一枚をセカイの頭へぶつけ、残ったもう一枚で体をふいた後、肩出しの白のトップスに短パンという、夏に外で駆け回る小学生のような服を着ていく。この服装、まさか彼女がもとから持っていたものとは考えにくく、いったいどこの誰が用意したのかという疑問が起こったが、今はそんなことを聞いている場合じゃない。


「マユ、私も大変なの、お願いだから私の言うこと聞いて」

「お母さんみたいに言ってもダメだ! っていうか、風邪ひくから早く体拭け!」

「だって……」


 しゃがみこんだまま、マユを見上げていると、「あ~、くそっ」と濡れた頭をかきむしった後、セカイの手からバスタオルを奪い取って、彼女の濡れた体を拭き始める。


「あのな、喧嘩ってのはどっちが悪くても早く謝っちまったほうがいいんだよ。例外はあるかもしれないけどな、どっちか一方が悪いと思っているタイプの喧嘩は考える前に、行動しちまえ。じゃないと、時間が経てば経つほど謝りにくくなるだろ」


 まるで母が幼い我が子へとするように丁寧にセカイの体を拭きながら、マユはそんなアドバイスをくれた。伊達に年を食っているわけではないとわかる助言を言うマユであったが、彼女の見た目が自分よりも幼く見えるからだろうか、セカイから聞いたものの、的確な答えが返ってきて、なんか複雑な気分だった。

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