第8話 契約


 冷たい空気と湿気を肌で感じながらセカイが目を覚ますと、目の前が思った以上に暗くて驚く。足元には土と草の感触があり、どうやら芝生の上に立っているようだ。そういえば先ほどから、独特の青臭い匂いがしている。まるで夜の人の手のない草原の足元にある草木から、そう、愛媛の五段高原に似ていると思った。


 自分がどうしてこんなところにいるのか、状況を理解するために、あたりを見回してみるが、あまりにも黒く深い霧のせいで1メートル先もわからない。


 とりあえず、と、歩き出したセカイは、一歩歩くごとに、だんだん、この場所に見覚えがあることに気付く。いや、正確に言えば『似ている』だろうか。

いつも夢の中に出てくる暗闇の世界に。


 しかし、夢の中ではこんなにはっきりとした感覚はなかったし、こんなに暗く寒い場所ではなかった。まるで、冬の季節に、世界でただ一人、取り残されてしまったかのような感覚だ。


 そんなことに気づいてしまい、ゾッとしたセカイは自分の体を腕で抱えながら、歩く。


 寂しく冷たい場所で立ち止まってしまう。同時に地面が凍り付き、まるで生きているかのように、セカイの足から徐々に凍らせていく。

 足、腰、腕、胴、と、徐々に凍り付いていく体。凍ってしまった部分は、動かせない。


 不安がこみ上げてきて、自分の存在がわからなくなり、消えてしまいそうになる。


(私、このまま死ぬのかな……)


 体が消えていく感覚は、言葉に表せないほどの恐怖。


 死が確実に接近し、それに抗うことはできない。体があったはずの場所に残るのは、ズキズキとした痛みと、ドライアイスを体に押し付けられているようなキリキリとした痛みを伴う寒さだった。


 吐く息は真っ白になるが、暗く濃い霧によって、すぐに闇の中に消える。逆に闇が、体の中にまで入ってきているような気がして、胸が苦しくなる。

 内外から浸食されてゆく体は、すでに自分のものではなく、この世界自体が、彼女を否定しているように思えた。


 息を乱して、手で顔を覆う。


 そんな、もうどうしようもなくて、セカイが泣き出してしまいそうになったとき、彼女の耳に一つの声が聞こえてくる。


『セカイ』


 瞬間、体を犯していた氷にピキピキ、とひびが入り、セカイが少し動かすと、パラパラと彼女の体に張り付いていた氷はバラバラになり、跡形もなく消え去った。


 体の中を蠢いていた闇は薄れていき、気持ち悪さがなくなる。


 はっきりと彼女の名前を呼んだのは、いつも夢に出てくるあの声だった。なぜか、声を聴いただけなのに、体が少し暖かくなったような気がした。


「君は、誰なの?」


『ここだ』


 セカイの質問に答えるでもなく、聞こえてきた声は、また、セカイの体を温めていく。

 一度立ち止まったセカイは、足を前に出して、声のする方へと進み始める。


 この声だけが頼りだった。


 始めは歩いていたのだが、声を聴くたびに、段々と、足を速めていき、いつの間にかセカイは息を切らして走っていた。

 進んでも、進んでも、開けない闇の中、それでも、声を信じて駆け抜ける。吐息は白く、暗闇を溶かしていく。


 そして、セカイは止まった。


 彼女の目の前に、一つの人影が現れたからだ。


 闇に包まれており、その姿は彼女がセカイよりも少し背が高いということくらいしかわからない。それでも、なんとなく、彼女が声の主だということはわかった。


「初めまして……だな、セカイ」


 初めて彼女の口から出た声を直接聴いた気がした。まるで、ずっと好きだったアーティストのコンサートに行って、初めて生で聞いているような感動があり、鳥肌が立って、先ほどとは全く別の意味で泣きそうになる。


 彼女の前で、セカイが息を整えていると、彼女は続ける。


「私のことは皆、『交差する光と闇(クロスロード)』って呼んでる。いつ誰が、どんな理由でつけたのかもわからない名ではあるけどな」


 重苦しい口調の女の子であったが、その声には氷を解かす春のような温かみがあった。


 しかし、『交差する光と闇(クロスロード)』と言ったときの反応が、とても自身の名前を呼んでいるようには聞こえず、なんとなく、そう呼ばれるのが好きではないのかと思う。


 なんとか息が整ったセカイは、彼女に問いかける。


「どうして私を呼んだの?」

「…………」

「十年以上だよ? しかも、君は私の住んでいる場所から途方もなく遠いところにいた。もしかしたら、一生会えなかったかもしれなかったんだよ?」


 そう言いながらセカイが彼女に一歩近づくと、彼女は一歩下がった。そして、少し怒ったような、すねたような声で、返してくる。


「それはお前が考えろ」

「考えてもわからないよ」


 だって彼女は、セカイが気づいた時にはすでに、傍にいたのだ。

 セカイの17年の人生中の多くの時間の中で彼女と会っているというのに、今までその姿を見たことがなかったので、その理由なんてずっと考えていた。それでもわからなかったから、ここで聞いている。


 セカイがもう一歩、彼女に近づく。すると、やはり彼女は逃げるように一歩下がった。


「ねえ、君の姿、見せてよ」

「ダメだ」

「どうして?」

「それは……」


 セカイが何度も近づこうと試みるが、その分だけ彼女は後退してしまう。

一歩ずつ同じ動作が二人の間で繰り返されたとき、じれったくなったセカイが、不意に駆け出して彼女との間を詰めようとしたのだが、


「やめろ!」


 そんな彼女の声に驚き、ビクッ、と体を震わせたセカイは立ち止まる。どうやらただ恥ずかしくて姿を現さないのではないらしい。


「ねえ、じゃあさ、理由を教えてよ?」

 少しくらい嫌がっているからといって、セカイの頭には諦めという文字はなかった。


 だって、ずっと追いかけてきたのだ。


 夢の中でも、この世界でも、彼女の声だけを頼りに走ってきた。彼女に会いたいがために、危険を承知でここまで来た。


 だから、せめてその顔を見るまでは、引き下がりたくはなかった。


 俯いた彼女は、握ったこぶしを震わせながら、「理由は、それは……」とつぶやいて、逡巡した様子の後、セカイの方を見た。

 暗闇の中、セカイは何も見えなかったものの、彼女と目が合っている感覚だけはあった。


 意を決したように、彼女は、言う。


「それは――あたしが醜いからだ。この姿を見れば、セカイはゾッとするから。絶対に後悔するから。やっと会えたのに……セカイはきっと、あたしを失望し、嫌悪する」

「しないよ」

「……嘘だ」


 彼女は即座に否定してくる、そして、また、セカイの元から逃げていく。しかし、セカイは、動じることなく一歩、一歩、おびえる彼女に近づく。


「嘘じゃないよ――知ってる? 醜い人っていうのはね、とっても冷たいんだよ」

「……あたしのことなど何も知らないお前に、何がわかるんだよ?」


 わかるよ、とつぶやいたセカイは、とうとう彼女の前までたどり着く。霧が濃すぎて、目の前にいるのに、その姿は見えなかった。


 そう、どんなに目を凝らしてもこんなに近くにいるのに、見えない。だからこそ、セカイは彼女の手を取って精一杯の、自分の考えを彼女に伝えなければならなかった。


「だって、こんなにあったかいんだよ。そんな人が醜いはずがない」


 一呼吸置いたセカイは、見えない少女の目をまっすぐ見つめながら、いう。


「――それだけは、私が補償する」

「…………っ!」


 闇がはじけ、一気に明るくなる。この世界を飲み込んでいた黒が白に包み込まれ、辺りは白に包まれた。


 そして、彼女の顔が、姿がようやく、目の前に現れる。


「ほら、可愛い女の子の顔じゃん」

「~っ! かっ、かわ――馬鹿なこと言うな!」


 目の前に現れた少女の目に、笑いかけたセカイは、そう言うと真っ赤になった彼女がバッ、と回転して後ろを向いてしまった。

 シリトンのような美しい黄色の瞳に、真っ白な肌、生え際から喉元までの半分が金髪、もう半分が黒という、色が途中で変わっている珍しい髪は、前髪の両端だけ伸ばしており、後ろは腰まで伸びていた。頬に大きな傷跡があり、ぼろい布切れ一枚を羽織っているだけで、当然、まともな服じゃないのだが、少なくとも容姿の面では、彼女自身が言うような醜さは欠片もなかった。もしかしたら、顔の傷を気にしているのかもしれないが、それすらも彼女にとっては魅力の一つになるのではと感じてしまうくらいに、彼女は一人の女として可愛く、美しく映った。


 耳まで真っ赤にしている彼女は、どうもしばらくこちらを向いてくれそうにはないので、セカイが明るくなった世界を見回していると、何か、写真のようなものが見える。まるで、映写機か何かで空中に映されているかのように、そこにある写真はモヤがかかったように、ぼやけており、はっきりと見えない。


 目をこすってから、もう一度よく見ると、段々と写真の輪郭がはっきりとしてきた。

 映っていたのは、二人の人間だった。一人は床に倒れており、もう一人は剣のようなものを突き付けている。


 それを見て、セカイは頭の中にあった一番大きく大切なことを思いだした。


「シオン! そうだ、私、シオンを助けないと……」


 全てを思い出したセカイは、その場で慌てふためき、頭を抱えると、


「ちょっと待て、そんなに慌てんなよ」


 いつの間にか、立ち直っていた彼女が言う。この状況を目の前にして、冷静すぎる声に、セカイはカッとなる。


「友達が大変なんだ、私がやらないと、シオンは!」

「お前があそこに入ったところで何になる。そんなもの無駄死にしかならないだろう?」

「……っ!」


 少女に否定できない事実を突きつけられて、セカイは何も言えなくなる。


 本当はわかっていたのだ、彼女の言っていることはどうしようもなく正論なことくらい。

 今、セカイが助けに行ったところで、殺されるだけだと。残るのは自分の中の自己満足だけだってことくらい。


「じゃあ、どうすればいいのさ!」


 そう叫んだセカイは、自分でも気づかぬうちに涙を浮かべていた。どうすればいいかなんて、自分でもわからないのだ。無力であるがゆえに、選択肢なんて、命を投げ出して彼女を守るか、ただ見ているだけ、その二つしかない。

そして、その選択に意味なんかない。


「私には、もう、命を懸けて抵抗することくらいしかできないんだよ……」


 もしもセカイに力があれば、こんなことにはならずに選択肢が増えていただろう。もう少しでも頭が切れば、逃げるための方法を見つられていただろうし、力があれば、彼女だけでも逃がすことができていただろう。


 握っていた手を彼女が放したので、セカイは力なくその場に座り込む。


「なんで、あの女のために命までささげられるんだ?」


 空間に写された写真を見ながら、少女が言う。


「……親友だからだよ、そこに理屈なんてない」


 いわゆるギブアンドテイクの関係であったのならば、もっとシンプルで彼女の答えにもすぐに答えられただろう。しかし、セカイにとって、伊月シオンは言葉に表せないくらいに大きな存在であった。彼女を切るなんて想像もしたくないほどに。


 セカイの揺るぎない答えに、少女は驚いたようにセカイの顔を見てから、「そうか」と言った少女は、やわらかい笑顔を向けてくる。


「人間の出会いっていうのにはな、二種類あるらしい。一つは、偶然の出会い。人生の中の出会いのほとんどがこれだ。偶然数多ある世界の中の、この宇宙の中の、地球上に生まれた。こんなものは偶然。生まれ落ち、親と出会うのも偶然で、学校の友達や教師と会うのも偶然に過ぎない。だからこそ、皆が皆、その偶然に感謝し、大切にする」

「…………」


 なぜ急に彼女がそんな話を始めたのかはわからない。

 シオンを助けるためには時間がないということは理解していたのに、セカイは彼女の話を聞いていた。いや、彼女の言葉が頭の中に入ってきたといったほうが正しいか。


 彼女の言葉は無茶苦茶だと思った。その通りならばこの世界に起こることすべてが『偶然』の一言で片付いてしまうからだ。


 無言であったが、反論したい思いがあった多少あったからか何か言いたげであったセカイの口元に指を立てて彼女の言葉を遮った少女は「だけどな、」と続ける。


「稀に神様がつなげちまった必然の出会いというものが、誰にでもあるんだ。それを見つけるために人は……いや、全ての生き物は、生きている」

「それ、って……」

「『本当の出会い』……きっと、セカイたちの間の繋がりはそれなのかもしれない」


 そして――、と言った少女がパチンと指を鳴らすと、再び彼女たちの周りの景色が変わり、温かな日差しと、サクラの木の囲まれた場所になった。


 ヒラヒラと落ちてくる桜の花びらの一枚を手のひらの上に乗せた少女は、


「――それはあたしたちにも言えると思わないか?」


 ニコッ、と少女は太陽にも負けない笑顔を向けてくる。その姿はあまりにも幻想的で、この世のものではないように思われた。


「彼女を助けたいというのなら、その命を天に捧げこの世界の境界線となる覚悟があるのなら――あたしと契約するべきだ」

「けい、やく……?」

「そうだ、その瞬間からセカイは気高き守護者になり、数えきれないほどの運命に立ち向かうことになる。逃げることは決して許されない――この『力』を得るということは同時に、いろんなものを背負うことになるし、利用しようとする奴も増えるだろう。おそらく無力のほうが人間として生きていくのには楽だし、幸せだ――でも、」


 そのとき、ビューと強い風が吹いて、桜吹雪が舞い、彼女たちの長い髪を揺らす。


 少女が花びらをギュッ、と握ると、その手から白い鎖に繋がれた一本の黒い斧が現れた。


「この出会いが本物なら、あたしたちがこうして出会ってしまった時点で、選択なんて意味はない。運命は決まってしまっているんだから」


 セカイの前まで歩いてきた少女が、手に持った鎖に繋がれた斧を差し出してくる。目の前にある、不可思議な道具を前にして、彼女の顔をセカイはもう一度見る。


「大切な者を守るために大切な者を裏切る。きっと、セカイを待っていたのは私だけじゃない――それでも、お前は前に進むことを選ぶか?」


 これでシオンが守れるのならば、たとえ醜き怪物になったとしても、悔いはない。この命が尽きようとも構わない。


 コクリ、とセカイは頷く。そこに迷いなど、あるはずがなかった。


「運命(さだめ)を、その手に」


 セカイが手を差し出すと、ふっ、と不敵に笑った少女が手にある斧を彼女の手の上に乗せた。

 その瞬間、彼女たちの周りをまるで竜巻が起こったように桜吹雪が包み込む。


 目の前が花びらのピンク色に染まったセカイは真っ白な光に包まれたのであった。

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