第7話 繭


 梯子を伝って、暗くて下が見えない中で降りていく。


 非常口か何かだろうか、掃除が一切されていないので、制服は汚れるし、錆び臭いし、息苦しい。さっさと外に出たかった。

 外から見た構造から推測するに、エレベーターは下へしかいかないはずなので、エレベーターと同じように降りているはずだが、地下一階というのはこうまで深いのだろうか。いやもしかしたら、セカイの体力がなくて、かなり降りているように見えて、まだ十メートルほどしか降りていないのかもしれない。


 そんな暗がりの中に一つ、不自然な色の明かりが見えてくる。警報機とかについている赤色のランプのような灯り方の光だった。光は奈落のように続く穴の淵の小部屋のような出っ張りから出ていた。

 さらに先が続いているようだったが、底のない地下へと続く穴を嫌ったセカイは、体をひねらせて壁にできた小部屋に足をつける。金属でできているようで、足をつけると、カンッ、と高い音が鳴った。


 後ろからシオンがついて来ているのを確認したセカイが前を見ると、不気味に光る赤いランプのそばにやはり金属製の二枚扉があった。その扉の横には金属板に『safe』と書かれている。


「『セーフ』……とは、どういう意味でしょうか?」

「そのままの意味じゃないの?」

「こんな場所が安全なはずないじゃないですか」

「じゃあ、社員食堂だったりして」

「……だったら、何か食べていきましょうね」


 適当に流されてしまった。

 取っ手に手をかけようとするシオンに「大丈夫なの?」と問う。さっき先を行くのをためらっていた人と同一人物とは思えない行動だ。扉を開けて『兵士の皆さん、こんにちは』なんてことになったらどうするのだろうか。


「この階なら、大丈夫でしょう」

「何の根拠があって?」

「……女の勘です」

「妾も女子のはずじゃが、全然感じないのはなぜかえ?」

「それはセカイが鈍いかれです」


 ふざけられる場所ではないとわかってはいるが、軽口を叩いていないと、湧き上がってくる不安を押さえられそうになかった。


 不用心なことに鍵は掛かっていなかったが、セカイ自身は用心しながら、扉はゆっくりと開いていく。

 向こう側からは何も聞こえてこないのでおそらく大丈夫だとは思うが、金属製の扉なので、万が一目の前に兵士がいたとしてもすぐに閉めれば撃ってきても壁になって防るかもしれない。


 重厚感のある扉が開いた先は一言でいえば、『変な場所』だった。


 明るいのか暗いのかわからないぼんやりとした光がともり、部屋に入った瞬間に感じたのは涼しさだ。

 今までに比べると広々とした部屋の中、その壁には教科書の中でしか見たことのないような複雑な絵文字の羅列が描かれている石板が埋め込まれており、長い机には石碑や書物とともに、写真や資料が無造作に置かれていた。まるで博物館のような場所だったが、これらが展示物なのではなく、研究物としてここにあるということは、部屋の散らかりようを見てすぐにわかった。


「考古学の研究でもしているのかな?」

「ヒエログリフで書かれた石碑に、古い聖書、この写真はイースター島のモアイ像ですか――それでセカイ、貴女を呼んだとかいう相手はどこにいるのですか?」

「えっ、いや、たぶん、この部屋にはいない……かな」


 さっき聞こえたときは、方向からしてもう少し奥のはずだ。あの後からまた新しくは聞いていないが、この先に進めば、会えるのではないだろうか。


 部屋の中にあるものを見て回ったシオンは、机の上から拝借した青色のカードキーのようなものを手に取って、「なら行きましょうか」とほほ笑んだ後、先に進んで行ってしまった。これ、バレたら相当にまずいのでは。

 部屋の隅にあったドアは内側からはカードキーが必要なく、ボタン一つで開けることができて、二人は部屋を出たのだが、その瞬間、頭が痛くなるような大きな音が耳を襲ってくる。


 ウーウー、と、うるさくなり続けるサイレンに思わず耳を塞いだセカイはその先にあった光景に思わず息をのむ。


 道理で、誰とも会わないはずだ。


 目の前にはネットやテレビの中の宇宙船の中を彷彿とさせる作りで、窓もなければ、観葉植物もない、ひどく殺風景なものであるはずだったが、今は、真っ赤な模様が辺りについている。

 血を流して死んでいる――兵士や白衣を着た、おそらくはここの研究者たち――を見てセカイたちは蒼白になって、しばらくの間硬直していた。シオンが隣でせき込んでいたが、軽口の一つでもたたいて彼女を心配できるほどの余裕は流石になかった。

 鉄臭い空気のせいで、吐き気が襲ってきて口をふさぐが、幸運なことに吐くものが胃に入っていなく、口の中に酸っぱい胃液が来るまで、外に出すことはなかった。


 耳をつんざくような音と、立ち込める血の匂い、転がる死体、その場に立っているだけで頭がおかしくなりそうになる。


『あたしは、ここにいる』


 だから、そんな声が頭に響いてこなければ、そのまま気絶していたかもしれなかった。声のおかげで我に返ったセカイは隣で、真っ青になりながら同じように静止してしまっているシオンの手を引っ張ると、シオンは目を見た後、ギュッ、と握り返してくる。不安なのはお互い様だ。


 このまま戻った方が安全だというのはわかっていた。だが、声はすぐそばで聞こえていたのだ。手の届くところまで、セカイは来ていた。

 赤いランプが光り、黒ずんでいる血の跡が生々しく刻まれた廊下を声のしたほうへ震える足を動かしていく。死体は誰もが頭を一刺しされているようだ。一人で立てなくなってしまっているシオンはセカイの腕にしがみつくようにしているが、少しであっても彼女の身長のほうが高いので、非常に歩きづらい。


「ここだ……」


 廊下にはカードキーで入ることができるらしい部屋がいくつもあり、装飾などされていないため、どれも同じように見える扉が廊下には並んでいたが、その中の一つの前に来る。


 間違いない、この部屋だ。


 長い間ずっと、夢の中で語りかけてきた一人の少女。姿かたちはおろか、年齢も、どこの国の人なのかも、いや、そもそも人間なのかどうかですらわからない存在。


 シオンが先ほど持ってきた青色のカードキーを通して、目の前の扉を開けた。


 中央だけを真っ白い蛍光灯で照らしているその部屋は、石板や書物が放置されていた部屋と同じくらいの広さであったが、部屋にはたった一つしか、ものがなかった。いや、物といっていいのかどうか、わからない代物だが、とにかく、それが部屋の中央に置かれているだけで、他に物は何もない。


 部屋の中で唯一在る、寒々しい部屋の中で異彩を放っているそれは、一見、繭のように見えたが、昆虫が作ったものであるはずがないということは明らかだ。なぜなら、大きさが全長三メートルはあり、色は灰色、一本一本の糸は頭上の蛍光灯の光で輝いていた。


「君が、私を呼んだの?」


 しかし、セカイが言葉を発したのは、目の前にある繭のような物体に向かってではなかった。その丸くて大きな物体を前で見上げている女に対してだ。


 そう、部屋の中には一人の女がいた。


「やっぱりアメリカで成功しているのは『安全級(セーフ)』までってわけかね。この『交差する光と闇(クロスロード)』にしては、同調する被験者がいないから実験すらできてねぇみたいだし――こんなに膨大な施設があって、時間をかけて研究してるってのに……それはないと思わねえか?」


 そう言って、セカイたちの方を振り返った女は、エメラルドグリーンのミディアムヘアに水晶に美しく深い目、美術の教科書の像に出てくるような、もはや芸術の領域ともとれる均整の取れた肢体は、ピッチリと肌についた服装のおかげでわかりやすい。歳はおそらく、セカイたちよりも少しだけ上だろうか。色気と美しさを併せ持つ彼女は、『女』という言葉をそのまま形にしたような姿のように感じる。その手には血の付いた金色のレイピアが握られていた。


 セカイは彼女の声が、自分を呼んでいたものと違っていることにすぐに気づいて、すぐに彼女に対して、警戒する。引き返して逃げるべきか、いや、部屋を出たとして逃げ場がない。シオンは怯えているし、セカイ自身もまた、彼女から逃げ切れる気がしなかった。


「お前たちもここの人じゃねぇみたいだが、やっぱり、どこかの国に依頼されたのか? それとも、興味本位かよ? じゃないなら、買われてきた可哀想な『実験体(モルモット)』ってところか? はたまた、この機関の警備員か何かよ? まさか見たまま、日本の学生ってわけじゃねぇよな?」


 コツコツ、とハイヒールの音を響かせて歩み寄ってくる女。歩くごとに、レイピアの剣先からは血が滴り落ちて、点線を描いていた。


「あたしが質問しているんだ、答えろよ?」

「わっ、私たちは、普通の高校生です」


 歩きながら女が見ているのは、セカイではない。隣にいるシオンだけだ。

すでにセカイたちの後ろのドアは自動で閉まっており、開けるにはボタンを押さなければならないのだが、それは無理だ、振り返れば殺されることは、はっきりとわかっていた。


 壁まで後ずさり、女から目を離さないまま、壁についたボタンを震える手で必死に探していると、手を女に捕まれた。その力は女の、いや、人のものとは思えないほどに強く、まるで、鉄の枷で固定されてしまったかのように動かせない。


「無粋なことはやめろよ、空気読めない女はモテねぇんだぜ?」


 そう言った女が、顔を近づけてくる。見定めるようにセカイの顔から体、足にかけてまで、見回した後、


「まさかとは思ったが、あんたは本当に普通の人間なのか――つまらねぇ」


 女がセカイを突き飛ばす。その力はやはり強く、セカイは背中を地面に打ち付けられる。痛みを発する腕を見ると、握られた腕に女の手の跡がついていた。


「でも、お前の方は――」

「……っ! さわらないでください!」


 次にシオンへ近づき、触れようとした女だったが、パシンッと、シオンの手に振り払われる。少し驚いたように払われた自身の手を見た女は「やっぱり、おもしれぇ奴だ」と言ったかと思うと、腕に持ったレイピアを動かした。

 シオン、と親友の名前を呼んだセカイは走る。動かないと思っていたはずの体が、反射的に動く。セカイには躊躇いがなかった。


 この女がどこの誰で、何の目的があって、ここにいるのか、どうして武器を向けるのか、そんなことはどうでも良い。


 ただ、彼女だけは傷つけてほしくなかった。


「私の親友に、手を出すな!」


 セカイは、女の腕にとびかかるが、やはり力不足だったのか、女のバランスは崩れない。ただ、彼女のレイピアの動きは止まる。

 武器を持っていない方の手で、セカイの首をつかみ上げた女は、罪悪感の欠片も見られない笑顔で、


「なら、あたしの裁きの邪魔もしないでくれねぇか?」

「何が、裁きだよ、神様にでもなったつもり?」

「同じ人間に決まっているじゃねえか――でも、少なくとも、お前のようなただの人間(ごみ)にはあたしの行動を止める権利すらないね」


 嫌味なく言った女は、セカイの体を投げる。

 そこまで体格差のない人間である以上、『人を投げ飛ばす』ことをしたとしても、目の前に落とすくらいしかできなかっただろうが、女のその規格外の力によってセカイは、部屋の中央にある繭の元まで投げ飛ばされる。


「セカイ!」


 シオンの叫び声が聞こえたが、彼女がどんどん遠くへ離れていくのがわかった。


 地面に強く頭を打ったため、目がかすむ。あの女がまた親友を傷つけようとしているのに、ダメだ。立ち上がれない。のどがつぶされ、声も出ない。意識すらも朦朧としてきた。


 たまらなく悔しくて、歯を食いしばって体を動かすが、グラグラと歪んだ頭のせいで、思ったように動いてくれない。さっきは、考えるよりも先に動いてくれたのに。


 ふと、セカイは思ってしまう。


(どうしていつも……)


 大切なものを守れないのだろう。自分の軽率な行動で何もかもを台無しにしてしまうのだろうか。自分を騙してまで、得ようとしなくなったのはきっと昔、そう、彼女がまだ幼稚園の年長組に転入する前にあった出来事のせいだったろう。


 あのときまだ孤児院にいたセカイは、路上で動けなくなっていた小さな蛇を助けた。院内まで連れていき手当てし、部屋の隅の空いた虫鳥かごの中で密かに飼っていた。なんとなく、そのときは、人の中にいても居心地の悪さがぬぐえなかった彼女は、ペットの蛇だけが友達だった。野生にしては珍しく懐いてくれたその蛇はセカイにとって、唯一無二の友人だったことは間違いない。

 しかし、ある日掃除をしていた相部屋の女の子が蛇を見つけ大騒ぎをしてしまった。


 けれども、セカイはそのとき、その場にいなかった。


 孤児院には爬虫類の触れるような男の人がいなかったため、セカイが帰ってきたときには、すでに籠の中にいた蛇は殺虫剤で殺された後だった。

それがきっと、生まれてから今までの最大であり唯一の喪失。

 だから、知っている。大切であれば大切であるほど、失うときに耐えがたいほどの苦痛が来るということを。


 喪失の恐ろしさを。


 人と深くかかわるのが嫌なわけではない、友達がほしくないわけではない。できることなら、大切なものを増やして、生きていきていたかった。


 だが、怖かった。


 弱い以上、どんなに大切であっても、守り切れない。すぐに、壊されてしまう。

それを想像するだけで、恐怖と不安がこみあげてきて、これ以上大切なものを増やすことができなかった。今、現段階にある自分の大切なものを守るだけで、精一杯だった。


 人はそれを、面白みのないというが、自分にとって、そのささやかな時間を守ることが、最重要事項であり、宝物だった。


 なのに、いま、目の前でその『ささやかな時間』さえも壊されようとしている。


 それも、自分の無力のせいで。


 まるで地震が起こって足元がぐらついているかのように安定しない視界の中、ふらふらになりながらも、立ち上がろうとすると、何もないところでつまずいて、後ろに倒れそうになった。


 それを受け止めてくれたのは、背後にあった繭だ。

 弾力があるが、その肌触りはアクリルのようだ。一本一本の糸がしっかりとしており、セカイが倒れても一本たりとも切れることがない。


 繭に手をかけて、再び立ってから歩き出そうとしたセカイであったが、さっきよりも体が動かくなっていることに気付く。


 気が付けば、彼女の周りには繭から生えた糸が絡みついてきていた。かけていた手はすでに繭の中にあったし、背中から回された糸は彼女の体を包んでいき、引き込もうとする。食虫植物を連想させるような気味の悪い光景だった。


(この繭……生きてる、の?)


 どうにかして外に出ていこうとするが、ピクリとも体は動いてくれない。細くて固い糸が何重にもして巻かれているのだから当たり前のことと言えば、当たり前。


 まるで、クモに捕食される昆虫のようだ。


(離して、私はシオンを――)


 空いた片手を伸ばすが、当然、届くはずもなく、やがてすべてが灰色の糸に包まれる。


 同時に、セカイの意識も灰色の中に消えていった。

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