第6話 包囲網
「おい兄ちゃん、俺にもこいつと同じのを一人前くれや」給仕の青年に愛想よく声をかけてから、男は勝手に目の前へ座った。睨みつける視線に気づくと、わざとらしく掌を振ってみせる。「怖い顔すんなよ。それとも何か、前菜代わりに俺をかじろうって魂胆か?」
失敗だった――彼は内心歯噛みしていた。空腹と疲労で警戒を怠ったこともだが、そもそもこの男が自分の目の前にいること自体、自分が致命的なミスをしたことの顕れだ。逃げるのは簡単だ。だがなぜこの男が自分の居場所を突き止めたか、それを知らずに逃げるのは単純に捕まる以上に、もっと危険だ。
「腹を空かせたけだものの仔が一匹、食い物の匂いに誘われて人里まで降りてきたか」男はテーブルの木目を意味もなくなぞりながら、頬杖をついてそう呟く。揶揄の欠片も含まない淡々とした口調が、かえって気に障った。
彼の視線に気づくと、男は頬を歪めて笑った。「そう悔しがるこたあないやな。いいじゃないかよ、確かに迂闊っちゃあ迂闊だが、その程度の可愛げ、誰にでもあっていいと思うぜ? 万事そつのない犯罪者なんて、社会の害毒でしかないんだからな」
彼はただ黙って男を睨みつけた。敵か味方かわからない男に保護者面されるいわれはないと言いたかった。その時、給仕の青年が見事なバランスで両手に盆を持って運んできた。男は両掌を打ち合わせて乾いた音を立てる。「とりあえず飯だ。お前をさんざん探し回ったから腹が減ったよ」
何か文句を言ってやりたかったが、目の前に置かれた盆から立ち昇る芳香は空腹にはたまらないものだった。ハーブを浮かべた香辛料入りのスープ、海老と野菜が透けて見える生春巻、上に半熟卵が乗った挽肉入りご飯。見ているだけで口中に生唾が湧いてくる。
男も同様だったようで、いそいそと箸を手に取った。「細かい話は食ってからしようぜ」だがそこで思い直したように手を止め、「いただきます」と言った。それから、ばつが悪そうに呟いた。「俺の実家は躾に厳しくてよ。『いただきます』を言わないと、絶対に食わせてくれなかったんだ」
そう言われると何も言わずに食うのも気が咎めた。彼は軽く頭を下げ、いただきます、と言った。――普段よりはトーンを落とした声で。それからすぐに顔を下げて食べ始めた。顔を上げなくとも、目の前の男が妙に嬉しそうな顔をしているのがわかった。自分と男の両方に腹が立った。
しばらく、二人は一言も口を聞かずに食べた。
彼が一滴残らず中身を呑み干した椀を置くのと、目の前の男が最後の米の一粒を口に運ぶのは、呆れたことにほぼ同時だった。それに気づいた男が、してやったりと言わんばかりの笑顔を浮かべる。また腹が立った。
「さて。腹一杯になったところで」男が口を開いた瞬間、指の間に挟んだ二本の箸を男の顔面に突きつけた。店内の雑音が一瞬で途絶える。給仕の青年や周囲の客が凍りつく中、男はゆっくりと瞬きしてみせた。「危ないな。箸を人に向けちゃいけませんってパパとママに教わらなかったか?」
「何のつもりだ。どうして俺につきまとう」
「お前が逃げるからだろ。ここに来るまでどんだけ金と手間をかけたと思ってるんだ」男は突きつけられた箸を払いのけるように手を振ってみせた。「まあいい。お前にな、ぜひとも会わせたい人がいるんだ。一緒に来てくれや」
「断る。俺にはやることがある。それが終われば考えてやる」
「そりゃお前が今やってる、楽しい楽しい拷問ごっこのことか?」返事の代わりに箸をさらに男の目に近づけたが、微動だにしない。「おかげで街のちんぴらまでもがぴりぴりしてやがる。お前について話を聞こうとしたら、行く先々で怖い連中が湧いてくるんだぜ。俺がどんだけうんざりさせられたか、ちったあ想像してほしいもんだ」
「何か用があるんならそいつから来い。もっとも俺も当分潜らせてもらうが。今日みたいなへまはそうそうしない」
「そりゃよかった」男はどうでもよさそうにいい――そして手を動かした。
とっさに顔を反らしたのはほとんど本能だったが、結果的にそれは正しかった。男の袖口から強烈な閃光が放たれる。半目になっていてさえ、目の裏まで焼きつくようなまばゆい光。
だが一瞬の隙が仇になった。箸を持つ右手が払われ、真下から掴み直される。しまったと思った瞬間には視界が一回転していた。内臓が浮く一瞬の浮遊感の後、背からテーブルに叩きつけられていた。
彼の全体重を受け止め損ねたテーブルが背で潰れる感触。木片と陶器の破片を撒き散らし、大音響とともに彼は床に叩きつけられた。衝撃に呼吸が止まる。逆さの視界に、男がこれみよがしに袖口に仕込んだ何かを見せつけた。
「フラッシュライトだ。悪いがズルさせてもらった。俺がまともに殴り合いで勝負するとでも思ったか?」肩をすくめてみせる。「ひきずってでも連れてこいとの仰せでな。お前には拒否権もなければミランダ警告もなしだ」
そうかよ――口中で呟く。じゃ、こっちも「容赦なし」だ。
仰向けのまま両手を床に就き、全体重を乗せた両足蹴りを男の顔面に放った。さすがに予想外だったか、男が驚愕の表情。それでも腕で蹴りを防いだのはさすがだが、それが彼の狙いだった。後方へ宙返りし、距離を稼ぐ。
「抵抗するのは勝手だが、意味がわからねえぞ、けだものの坊や……」なぜか男は、にやりと笑ってみせた。「人里にまぎれようったって、狩りたてられて、てっぽうで撃ち殺されるのが落ちだろうに……」
もう耳を貸したくなかった。近くのテーブルから碗をひったくり、中身を床にぶちまける。
もうもうと立ち昇る白煙。周囲の客が怒声と悲鳴を上げてのけぞった隙に、禿げかかった額に手を突いて跳躍し、隣の客の肩を踏み台に店の外へ大きく跳躍した。通りかかったバイクが急ブレーキをかける。その荷台をさらに蹴って、低い隣家の屋根に飛び乗る。
振り向かず、そのまま全力疾走に移った。男は追ってこなかったが、その意味を考えようとは思わなかった。
「すげえ動き。何だよあいつ。忍者か何かか?」頭を振った男は、ふと振り向いた。食事を台無しにされた客たちの怒りの視線と、給仕の青年の哀しげな眼差しが男一人に注がれていた。「これ……やっぱり俺が弁償すんのかな」
【〈物見〉より〈星〉へ。〈蛇〉が動き始めました。ご指示を】
【〈星〉より〈物見〉へ。まだ対処は無用です。巣穴に戻り次第、こちらで確保に移ります。予想外の事態に備え、警戒は怠らないで】
【しかし、確実を期すならやはり増援の要請を——】
【〈蛇〉が〈賓客〉を殺し、巣穴を放棄する可能性は低くありません。今必要なのは時間です】
【――了解。ただし、具申は致しましたよ】
饐えた空気の立ち込める倉庫へ、彼は戻ってきた。捕らえたイゴールの様子を見ると、彼は戒められたまま傷だらけの顔でいびきをかいていた。なんとなくほっとはしたが、安心してばかりいられないことにも気づいた。あの男なら早晩ここの位置も嗅ぎつけるだろう。その前に移動しなければ。
イゴールの利用価値ももうない。安全な場所に逃げた後なら解放したところで――そこまで考えて、彼は自分の過ちに気づいた。もしかすると、もう遅かったのかもしれない。
姿も物音もないが、何者かが近くにいる。もう、倉庫の中にまで入ってきている。
誰何などする気はなかった。彼は身をかがめ、侵入者の気配を感じ取ることに集中した。
倉庫の床は砕けたコンクリ片や錆びたボルトなどが散乱しているが(ここをまがりなりにも通れるようにするには一手間だった)驚くほど物音を立てない。特殊な素材のブーツでも履いているのか。
「だ、誰だお前……?」眠りこんでいたイゴールが顔を上げる気配。「も、もしかして俺を助けに来てくれたのか? だったらあの糞野郎をぶち殺してくれ……いや、それよりまずほどいてくれ! お礼は幾らでもする、いくらでも!」
まるでシャンパンの栓を抜いたような、くぐもった射出音が数回。それが返事だった。苦痛というより何かに驚いたような吐息。そして、耳の痛くなるような沈黙。
一定の間隔を置いて、何かが床に滴り落ちる音。彼は頭を巡らせた。どうやら、侵入者は第一目標を果たしたらしい。では第二目標は?
侵入者の気配が動き出す。大小何かの破片が散乱する床を物音一つ立てず、凄まじい速さで。奇妙なほど冷えた頭で、なるほど、と納得した。
反射的に身を翻す。再びあのくぐもった音。数秒前まで彼の頭があった空間を飛翔体が貫き、壁に火花を散らす。暗さと距離を考えれば恐るべき精確さだ。
しかしどうする?飛び道具の威力は侮れるものではないし、追手は凄まじい速さで追いすがってくる。何より、侵入者があいつだけとは断定できない。どうする? どうやって、勝つ?
不意に笑いの衝動に捉えられ、彼は唇を歪めた。イゴールから引き出せた情報はとても労力に見合う成果ではなかったが、思わぬ副産物をもたらしたわけだ。俺の追うものが妄想ではないとわかっただけでも素晴らしいじゃないか。
暗い笑いと共に彼は決意した。撃退するだけではもったいない。これ以上は無理というほど泥を吐かせてやる。――それが俺のできる、あの人への、せめてもの弔いだ。
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