第5話 追跡と尋問

「こんなことをしてただで済むと思っているのか?」

 四肢を縛られた不自由な姿で、イゴール・ザトヴォルスキーは必死に身をよじっていた。デスクライトの光が顔面に向けられ、目をまともに開けていられない。「お前がどこの誰だろうと、この礼は必ずするぞ……お前だけじゃない、お前の一族郎党にもな……」

「脅し文句としちゃ陳腐だな、ザトヴォルスキーさん」響いてくる声に感じ入った様子は微塵もなかった。「俺の家族構成にまで思いを馳せていただけるなんて汗顔の至りだ。でも、俺だってあんたについてそれなりに調べたんだぜ。表裏両面のビジネスも、あんたの家族や若い愛人のこともな」

「お前、この国のサツじゃないよな……あいつらにこんな無茶苦茶ができるわけがねえ……チャイナやコリアとはこの前手打ちしたばかりだ……ヤクザなのか?日本のオルガニザーチャ(犯罪組織)なのか?今になって俺相手に憂さ晴らしなんてお笑いだぜ! この国はもう乗っ取られたも同然なのにな!」

 返ってきたのは含み笑いだった。「まあ、あんたに想像できるのはそのくらいだろう。好きに想像しておけばいいさ、想像は万人の自由だからな」何かを取り上げるごとりという音。「それよりあんた、自分のこれからについて想像した方がいいんじゃないかね……?」

 大振りの布裁ち鋏が、余計な前置き一つなしに袖口を切り裂いた。最近目立つ腹肉が気になってきたので、思い切って奮発したオーダーメイドのスーツだ。

「おい貴様何しやがる......幾らしたと思ってるんだ!?」

「高かったんだろうな、わかるよ。あんたのぶくぶく肥え太った身体を見栄えのするように繕うのは、なかなか挑戦し甲斐のある仕事だったんだろうな。いい買い物をしたと思うよ。だからやるのさ」

 声も、鋏の動きも止まらない。「このスーツだけじゃない、あんたはいろいろなものに守られている。優秀なボディガードと番犬、豪邸とセキュリティシステム、そして地位と名声。たくさんのものがあんたを包んでいる。まるで赤ちゃんのおくるみみたいにな。自分には誰も手出しできないと思い込んでいる。だから、まずはそれを奪うのさ。そうすれば、自分がいかに脆くて儚い生き物かわかるだろう」

 冷たい金属が汗ばんだ肌の上を滑る。スーツは瞬く間にワイシャツごと切り裂かれ、無数の布片となってしまった。今まで感じなかった寒さに、イゴールは総毛立つ。

「ほら、自分がいかに脆くて儚い生き物か、そろそろ実感が湧いてきただろう?」


「……ひどい、こんな綺麗な車なのに……」スクラップと化したそれを見た瞬間から、青年は泣かんばかりだった。「これを壊した人は、車について相当勉強したんだと思います。でも、それを......こんなひどい形で使うなんて……」

 本当に目を潤ませている作業服の大柄な青年を見て、男は開いた口が塞がらなくなった。「いやあのな、それはわかってるんだわ原田君。わかってるから、『犯人』がどういう手口を使ったか説明してくんないかな。俺、キミほど車に詳しくないからさ」

「はい、そうですよね……ごめんなさい……」青年は袖口で目元をぬぐったが、それでもまだ鼻をすすっていた。「最近は会社の重役や社長クラスの人がこのタイプの防弾防爆仕様車をよく発注していますから、僕の工場でもよく見かけるんです。だから、見当はつきます」

 青年の指がタブレットの上で踊り、車の立体図を表示させる。

「防弾ガラスは強化ガラスとポリカーボネイトとの2重構造で銃弾を防ぎます。これによりたとえ銃弾がガラスを破損しても、ラミネートされたプラスチック膜が衝撃を分散、中の人員を守るわけです。『犯人』はこれに極低温の液体をかけることでガラスを脆くし、膜を劣化させたんでしょう」

 人が変わったような滑らかな語り口に男は感心する。正直、この青年も「候補」の一人ではあったのだが、メンタルの弱さは致命的だ。まあ現状では補欠と言ったところか。

「運転制御システムへのハッキングは?」

「今の車は走るコンピュータみたいなものですから、高度であればあるほどハッキングには脆弱になります。今回はカーナビからですが、車内で携帯機器をいじっていればそれを踏み台に無線LAN経由で侵入することも不可能じゃありません。今後はうちの工場でも対策を考えないと……」

 まさにSFだなあ、と男は呟く。「いや、しかし助かったよ原田君。正直俺一人じゃ手詰まりだったもんでね」大柄な青年はまるで少女のようにはにかむ。「とんでもないです……これを調べるだけで、あんなに貰っていいんですか?」

「ああ、コンサルタント料だと思ってくれ。何か旨いものでも食いなよ」

「なあおい、和気あいあいとしているところ悪いが、俺の車を全損にしやがった野郎の目星はついたのか、望月さんよ?」粗末なパイプ椅子に逆向きに座った趙安国が、不機嫌そうに椅子をがたがたさせながら口を挟んできた。「俺はそのために恥を堪えて、何もかも喋ったんだぜ?」

 不機嫌そうな趙に、青年は巨体を縮めて恐縮したが、男はわざとらしく溜め息をついた。「そう急くなって趙さん、手口がわかれば次に打つ手も大体限られてくるってもんだ。慌てるナントカは貰いが少ないって言葉、あんたの国にもあるだろ? よくは知らんけど、何か四字熟語でそれっぽい奴が」

「余計な御世話だ。とにかく、その豚野郎の寝ぐらを突きとめたら真っ先に教えてくれよ。相応の礼はする。結局商売には大穴を開けちまったし、大金はたいて雇った護衛は利き指を折られて当分使い物にならないんだ」

「ああ、そのことなんだが、金は要らないんだ。その代わり2つ条件がある」

「何だ?」

「報酬は別のところから出ることになっているんだ。だからあんたがそれを守ってくれれば、必ずそいつを探し出してやる。駄目なら俺の素っ首でも金玉でも好きなだけ持っていけばいいさ。もっとも失敗した時、俺に両方とも残っているかどうか大いに怪しいがな」

「……いいだろう」

「まず1つ。あんたら〈密売人〉のコミュニティに動きがあったらすぐに知らせること。俺だって先を越されたくはないし、あんたも死体を土産に持ってこられても困るだろう」

「なるほど道理だ」

「2つ。この件の始末は、俺に全部任せること」

「おい、そりゃないだろう!? コケにされたのは俺なんだぜ、俺自身が野郎を切り刻みでもしなきゃ、この国で商売やってくどころじゃねえ、ずっと笑い者にされっちまう!」

「その心配はないだろう? 笑い者にされているのはあんた一人じゃないんだからさ」

「何の話だ?」

「おとぼけはなしだぜ。あんたらだけじゃねえ、インド人もロシア人も、とにかくご禁制のブツを扱ってる奴らは今、血眼になってらあ。なあ趙さんよ、この件に関しちゃ俺がきっちり型にはめてやる。だから、自分の手で復讐するのは諦めろ」

 趙は眼前の男こそが犯人だと言わんばかりの目つきをしていたが、やがて頷いた。「……わかった。だが、今の言葉は忘れるなよ」


「……拷問ってのは、あれはあれでなかなか難しいんだってな。やりすぎて殺しちまっちゃ拷問にならないし、拷問される側が苦痛から逃げるために出鱈目や偽の情報をでっちあげちまうこともある……イラク戦争でCIAがやらかした拷問も、どこまで有効だったか怪しいらしいしな」

 ゆっくりとした、語り掛けるような口調の背後に水の滴る音が混じる。そして微かな呻き声も。

「それよりはまず穏やかな話で相手の心を開かせ、好意と信頼を得てそいつの方から自発的に喋らせた方がいいって説もある。どっちが正しいのか、俺にはわからない。その筋の専門家ってわけでもないしな。ただ一つだけ言えるのは……」

 彼は水に濡れて重くなったタオルで、思い切りイゴールの顔面を張り飛ばした。びしゃりという音とともに太り肉の顔が衝撃で揺れ、鼻から血が噴き出す。「俺はあんたの好意も信頼も、どちらも欲しくないってことだ」

 どくどくと鼻孔から血を垂れ流しながらも、イゴールは口元を歪めてみせた。嘲笑おうとしたらしい。

「大したことないって、お前のやることはこの程度かって思ってるな? いいさ、今のうち笑ってろよ。その方が後で楽になる……もう一度最初から聞くぞ。17年前、沖縄、偽装核、『ネクタール』、HW。これらの言葉に聞き覚えはあるか?」


 ――遥か高空から自分を見下ろす「目」があることに、まだ彼は気づいていない。


 ぽたり、ぽたり、とタオルの先から液体が滴る。水と、それに混じった血の色。

「あれこれ考えたんだが、爪を剥いだり指を切り落としたりってやり方はやめたよ。感染症でも起こされたら素人にはどうしようもないからな。だから一番単純な方法にした。つまり......死なない程度に殴る」彼は水に濡らしたタオルで、イゴール・ザトヴォルスキーの横面を思い切り張り飛ばした。

「そろそろ効いてきたんじゃないのか? 初めは何だこんなもんか、と思っていた一発一発が、そろそろ辛くなってくる頃だろう?」返す手で反対側の横面を張る。「『脳を揺らされる』のが、長い目で見ると一番効くやり方だからな」

 事実、イゴールにはもうせせら笑う余裕もないようだった。その顔面はサッカーボールのように腫れ上がり、どす黒く鬱血している。鼻孔と口の端から鼓動に合わせて血が滴り落ちている。忌々しげに見上げてくる眼光にも、目を覚ました時ほどの迫力がない。

「質問に戻ろうか。一番簡単な奴から始めるぞ。17年前、沖縄。何を連想する?」

「家に帰って……お袋とやってろ」

 物も言わず、濡れタオルを振るった。イゴールの首が激しく揺れ、血と唾液が飛沫になって飛んだ。「汚い言葉を使うなって、お母さんに教わらなかったか?」

 イゴールは酷くむせた。咳がおさまってからも、笛を鳴らすような呼吸音はなかなか元に戻らなかった。

「そんなに難しい質問をしたか?それとも今の質問の答えがそれか?ならもう一発」

 濡れタオルを振り上げると、イゴールは必死で首を振った。何か言おうとしているようだが、血混じりの涎が口の端から滴り落ちるだけで言葉にならない。「……言えば殴らない」彼はうんざりして手を下ろした。自分の手が殴りすぎて痺れ始めていることに気づく。

「畜生が、なんで……なんで俺なんかを痛めつける必要があるんだ……俺はただの『運送屋』なんだぞ……」

「その運送屋さんに用があるってさっきから言ってるだろ。いいから話せ」

「17年前でオキナワって言ったら、一つしかねえ……〈第2次オキナワ上陸戦〉だ」

「思い当たるところがあるじゃないか」彼は失笑した。「〈上陸戦〉と名の付いている割には、実際はちっとばかり大規模なテロに過ぎなかったはずだがな」

「だが被害は甚大だ……何しろ那覇市そのものが、小型戦術核で吹っ飛んだんだからな。ああ、覚えているさ……当時の俺は本当に使いっ走りで、あの頃のオキナワは運び屋が何人いても足りない状態だったからな」イゴールは滑らかに喋り出した。喋っている間は殴られないことに思い当たったらしい。「今思い出しても怪しげな連中がうようよしてた。初めは軍需物資、後半は救援物資」

「まさに無辜の人々の生き血をすすったってわけだ……」

「何とでも言え。必要とされているから、俺たちはそこへ行ったんだよ。良き商売はそこにある、って奴だ」笑おうとして失敗し、イゴールは咳き込んだ。「その程度の情報なんて、ネットを漁ればすぐ拾えるんじゃないか?俺に聞くまでもなく」

「察しがいいな。俺が聞きたいのはその『先』だよ」声がその若さに似合わない陰々滅々とした響きを帯びた。「あの日海兵隊の通信施設と補給基地を襲った国籍不明の特殊部隊は、ヨーロッパ製の最新式火器とハードウェア群を装備していた。襲撃者たちの身元は一切公表されず……調査チームは組織されたようだが、結局成果を上げる前に解散。中国軍の特殊部隊という説もあるが、それだって推測の域を出ない」

「そりゃそうだ、不正規戦部隊がご丁寧に自分の国の火器を使うわけもないだろ?」

「あんたなら知ってるんじゃないかと思ってね。当時の『空気』を肌で感じていたあんたなら」

「知るわけがないだろう、それともお前もあれか? 米帝の陰謀とやらを信じているクチか?頭にアルミホイルでも巻いてろ!」哄笑が、途中で凍りついた。

「やめろ!」遅かった。唸りを上げる濡れタオルが真正面から振り下ろされた。まるで本当に拳を食らったように鼻血が飛び散る。さらに横面に2発、3発。「やめろ! やめてくれ! 喋ってるだろう、殴らないでくれよ! 頼むから!」

「……聞かれたことにだけ答えろ」さすがに肩で息をしなければならなかった。「今羽振りのいい〈業者〉は、どいつもこいつも当時の沖縄で荒稼ぎした奴らだ。お前が取るに足らないと思っていることでも、俺にとってはそうじゃないかも知れない……次の質問だ。『ネクタール』という名前の意味は?」

「た、確かに知ってる……インドの何とかって製薬会社が作った麻酔薬だ。副作用が強すぎるから発売中止になったが、サンプルの一部が流出して合成麻薬として売りに出されたらしい……だが妙なんだ、17年前を境にふっつりと流通ルートに上がらなくなった。まるで最初からなかったみたいに」

「名前とルートを変えたか、〈業者〉に頼る必要がなくなったのか……だな。『偽装核』は?」

「押収された襲撃部隊の『核』は、精巧に作られたレプリカだったって話だろ?それは本当に知らん。CIAの陰謀なんて、それこそ真に受けたくもない馬鹿話だろ」

「……よし。じゃ最後の質問だ」

 声が隠し切れない熱を帯びた。

「『HW』。これだけがどうしてもわからない。何の略称なのかさえ。17年前の沖縄の真実とやらを吹聴して回る奴らも、これについては何一つ言わない。まるで台風の目みたいに……逆に言えば、こいつはあの〈第2次オキナワ上陸戦〉の核心となる『何か』なんだ」

「俺は知らない。それだって他と同様、どうでもいいもんに決まってる。さっさと俺を解放して、政府の陰謀と戦ってろよ。お前の頭の中にだけにある、ありもしない陰謀とな」

「......そんなはずはない」声が震えるのを抑えられなかった。

「そうか、お前、知り合いか! 知り合いがあの時、あそこにいたのか!」まるで最後の力を振り絞ったような凄まじい哄笑。

 堪え切れず、濡れタオルを振り下ろした。5度、6度、7度、8度。

 室内に響く、荒い自分の呼気で我に返った。イゴールはすすり泣いていた――度の過ぎた折檻を受けた子供のように。手から濡れタオルが滑り落ちたが、もう拾いたくなかった。彼はよろめくようにして部屋を出、壁に向かって嘔吐した。


 やや間を置いて、彼はのろのろと動き出した。彼自身も疲れ果てていた。腹も減っていた。外の空気が吸いたかった。何より、すすり泣くイゴールと一緒にいたくなかった。

 外に出ると静かで穏やかな昼前の晴天が広がっていた。見上げた空をゆっくりと横切っていく飛行機雲。遠くの高速道路上をのろのろと進む乗用車の列。風が埋立地の乾いた砂を舞い上げる。すべてが、今の自分にそぐわないと思った。

 埋立地を出て、雑踏に入る。飛び交う無数の言語、入り混じる香辛料の匂い。暗い軒先を覗くと、ままならない人生に歩くのも嫌になったという風情の男女が昼間から一杯傾けている。誰も彼に構わない。彼も誰にも構わない。誰も彼もが他人という雑踏を歩いていると、孤独が少しだけ和らいだ。

 旨そうな匂いが鼻孔を突いた。今にも崩れそうなビルの一角を強引に仕立て直した、数人座れば一杯になりそうな料理店。空腹には耐えがたい誘惑だった。半ば無意識のまま、彼は店に入った。

 やたらと愛想の良い浅黒い肌の青年にメニューを指さして見せる。言葉は通じなかったが、意味は通じた。青年が厨房に消えると、疲労が全身に襲いかかってきた。尋問中は休憩どころかろくに座りさえしなかったのだから無理もない。

「……悪いね。ここ、いいかな?」

 かけられた声に目を上げて、彼は凍りついた。旧友に偶然出くわしたような顔で目の前に腰を下ろしたのは、あの「追跡者」の男だった。

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