14-2 「あの人のこと、見たことあるもん……」


「……それで、あの結城っていう男子と、舞はどういう関係なんだ?」

「だから、ただのクラスメートだって!」


 先週の金曜日に司が舞を送ってくれたのは、単なる義務感からであろうと舞は考えていたが(舞としてはそれ以上のことを期待しなくもなかったけれど)、「偶然にも」二階の窓から二人の遣り取りを「目撃して」いた父親はすっかり不信感に取り憑かれていて、ここ数日は邪推が服を着て歩いているようなものだった。舞にとってはこんなことは初めてなので、朝食中も不機嫌そうに、いつもの習慣で新聞だけは広げながら、コーヒーとトーストに手を付けるよりまず先に末娘に尋問を開始する父の姿は、意外でもあったしおかしくもあったが、それ以上にうんざりしていた。舞の感情は、京野家の女たちの中ではすっかり共有されていた。姉のゆかりはまた始まったとばかりに呆れた顔をしながらソーセージにフォークを突き刺し、母の方は「いい加減にしてくださいな」と言いながら、舞を積極的に擁護してくれた。


「ですから、何度も言ってるでしょう?あなただって知ってるはずじゃないの。結城君は、舞の幼馴染で……」

「幼馴染だったのは昔の話だろう。お父さんは、今の話をしてるんだ」

「だから、今はただのクラスメートだってば!」

「信用できるか!お父さんは認めないぞ!中学生の不純異性交遊なんて……!」

「ふ、ふじゅ……?」

「どこが不純なんですか?」

「そうそ、家族ぐるみの付き合いじゃん」


 不純異性交遊の意味を理解しかねている舞のために、母と姉とが反論してやる。すると、父親は、新聞を投げ捨てて演説を始めた。


「いいや!不純だ!中学生の男女が二人きりで夜道を歩くなど……!いいか?父さんと母さんはな、お互いに出会うまで他の異性とは手もつながなかったんだぞ!そういうことをするのは、結婚すると決めたその人だけだ。それが清く正しい恋愛というものだ!それなのに今日の中高生ときたら……!」

「ちょっと、戦前の人間は黙っててよ」

「誰が戦前だ!」

「考え方が戦前じゃん」


 ゆかりは、普段は仲のよい父親に対しても容赦なく言い放って、ジャムのついたトーストをかじった。舞は家族の論争にやや気圧され、父親に軽い反感を抱きながらも、それでも優しい娘の心の常として、父親の意志を尊重することにし、困ったような微笑に全てを包み込もうとする。


「まあまあ、お姉ちゃん。お父さん、わかってるったら。もう男子と二人で夜道を歩いたりしないよ……」

「はあっ?!あんた、何言ってんの?!せっかく共学に通ってるくせに?楽しいこと不意にするわけ?女子校なんかなぁ……!」

「ちょっと、ゆかり、食べながら喋らないの」


 なぜか沸点を刺激されて大いに怒り始めたゆかりを、母親が諌める。それに勢いを得たのか、父親はふんと鼻を鳴らすと、再度舞に尋ねた。


「それで、結城という男子とは本当に何でもないんだな?」

「だから、ないっ!」

「それならよろしい」


 舞は胸の中でこっそり父親に舌を出した――なにが、よろしい、よ。お父さんの石頭。分からず屋!普段優しいお父さんが、こんな風になるなんて思ってもみなかった。今度から気を付けようっと……そう、ばれないように。




「今日はいいお天気でよかったー!」


 舞は薄曇りとは言えど、久しぶりに日差しを透かしている朝の空を見上げてぐっと腕を伸ばした。町の中央を十字型に巡る大通りは通勤やら通学やらの車で賑わっているが、まだ時間は早いので、通り沿いにある店はシャッターを下ろしたままでいる。そのシャッターに落書きは見られない。桜の木は花盛りをとうの昔に終えて、花の終わりと共にその枝に芽吹きはじめた新緑は、青年らしい闊達さと健康美とにみなぎって、早くも夏の日差しを待ちわびているようであった――その焼け付くような激しい日差しに耐えうる若さとそれ故の無謀さを誇るかのように。舞は彼らからすればまだ幼い。舞は五月の青葉どころか、まだ四月の花盛りの風情を漂わせているのだから。


 木漏れ日の差し込んでくるあたりを見上げていたせいで、舞は地面のちょっとしたくぼみに足をとられて転びかけた。すると、後ろから舞の襟元を掴んで支えてくれた人がある。舞はなんとか体の均衡を立て直すと、くすくすと笑っているその人を振り返る。


「おっはよ、舞。相変わらずで安心したわ」

「美佳!!」


 美佳は大抵女子サッカー部の朝練があるので、登校中に美佳と出くわすことはさほどない。今日は舞が早いのか、美佳が遅いのか。舞が早いのである。


「今日は日直?」

「うん!美佳も朝練、大変ね!」

「べっつに。サッカー楽しいもん!」

「そ、そう……それならよかった」


 二人がいつも通りの角を曲がって中通りへと入り、校門を潜りかけたところ。と、そこで美佳の肩を叩く人がいる。

「おい、佐久間!先に昇降口に着いた方が今日の昼休みに校庭全面使えることにしようぜ!」

「あっ、ずるい!」


 ぽかんと恭弥を見つめていた美佳は、恭弥の言葉に我に返ったらしく、突如奮い立ったように跳びはねると、舞に何も言い残すこともなく恭弥を追って駆けはじめた。そんな美佳と恭弥の後ろ姿を微笑ましく思いながら、舞は胸中呟く――美佳は全然変わらないな、と。


 すると、舞の肩を両側からそれぞれ叩く人々がいた。


「おはよう、舞!」

「やっほー舞ちゃん!

「あっ、おはよう!」


 どこでどう一緒になったのか、仲良く登校してきたらしい翼と奈々に、舞は笑顔を浮かべる。


「今日は早いじゃん!どうしたの?」


 舞の鞄の中の左大臣とハイタッチしながら、奈々が尋ねる。


「今日は日直なんです。翼と奈々さんは?」

「あたしは学級委員の集まり。奈々さんは進路面談なんだって」

「進路面談……!そっか、奈々さん、三年生ですもんね!たまに忘れちゃうけど……」

「そうそ、担任の先生がすっごい心配してさー。もっと勉強しないとダメだって。参っちゃったなー」

「奈々さん、頑張って!」

「そういう舞の方こそ、期末テストの勉強してるんでしょうね?」


 翼の言葉に、舞はうっと息を詰まらせる。そういえば、期末テストが来月に始まるのだった。えーっと、確か……


「来週であと二週間になるんだっけ?」

「いやだー!」


 泣き叫ぶ舞に、翼と左大臣とは呆れかえって溜息をつき、奈々はまあまあと舞を慰めようとする。


「なんでテストばっかりなのー?!遂この間テストやったばっかりじゃない!!」

「仕方ないでしょ、学校なんだから」

「翼は頭がいいからそんなのんきなこと言えるんだよ!!」

「勉強すればいいでしょ。あっ、そうだ、結城に勉強教えてもらったら?」


 突っかかる舞の額を片手で抑えながら翼がにやにやと笑いながら言うと、翼に弾かれた舞は、みるみるうちに顔を赤くした。あまりの分かりやすさのためか、色恋沙汰に疎い奈々でさえ、思わず舞の変化を面白がって、感心までして眺めている。舞は顔色がピークになると同時に口を開いたが、言葉らしきものは一向に聞こえてこない。翼はそんな舞を見て、肩を震わせている。


「なに、想像してるの、舞?」

「そ……ソーゾーなんか……!」

「最近仲いいもんね!結城と」

「そ、そんなことは……!」

「えっ、そうなの?」


 舞の言葉におっ被せるように訊く奈々に、翼は楽しげに頷いた。


「そうなんですよ!昨日もね、一緒に帰ってたもんね?ねー、舞?」

「あっ、あれはたまたま……!」

「それに、最近の結城、舞に『だけ』はなんとなく優しいし。英語の教科書まで見せてくれたんだもんね?よかったねっ、舞?」

「もう!翼だって東野君と一昨日……!」

「言うな!言うなったら!」


 中庭の真ん中で追いかけっこを始める舞と翼とを、奈々とその腕の中に避難した左大臣とは眺める。「いやはや……」左大臣が呟く。本当にお変わりのないお二人だ。それはそれでよいけれど、もう少し成長してほしい気もするのであるが……奈々が指先でつんつんと左大臣の頬のあたりを突いたので、左大臣はテディベアの顔を上げる。奈々がその指で示した先に、校門を潜ってくる黒髪の少年の姿があった。少年は、遠目にも朝日に煌めいて見える宵闇のような薄紫色の瞳で舞と翼の追いかけっこを認め、小さく肩をすくめてからふっと笑ったようだった。ただ、それは、雲を透かしてわずかに薄氷のような光線を投げかけてくる太陽が地上に投げかけた、一つの奇蹟の形の幻であったかもしれなかった。左大臣の目には判然としない。


「ねぇ、結城って、あれ……?」


 奈々が問う。そのおかげで、左大臣は奈々が結城司を知らなかったことに気付くことができた。


「おお、左様でございます。奈々殿、よくお気づきで……!」


 腕の中から見上げた奈々の目は、結城司を捉えつつ、まるでその奥の景色を見つめているかのようだった。確かにその時、奈々は司の影を見つめていたのであるが。


「だって、あの人のこと、見たことあるもん……前世の夢の中で…………」


「東野!」


 朝練に向かう途中らしい東野恭弥は、エナメルバッグを右肩から提げて、あの悪戯少年のような女子をときめかさずにはいられないあの笑顔で、颯爽と舞と美佳の傍らを抜けて、中庭へと入り、少し二人を追い越した地点から後ろ向きになって手を振った。

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