第十四話 夢と現

14-1 「すまない、ドミトリー・ドミトリエヴィチ」

 白崎ルカが空っぽの防音室で篝火と出会う、その十分ほど前の出来事である。柏木武とルカの伯父・ドミトリーは、白崎家の豪壮な廊下を並んで歩んでいる。共に長身ながら、片や肩幅の広い体躯のよい黒いスーツ姿の男性、片や針のような痩身の白衣の男性とで、傍目から見る分にはこの二人が並んでいるのは異質である。しかし、今この時、二人の男性の表情には共になにかしら緊迫したものが漂っていた。二人は足早に廊下を過ぎていく。


「すまない、ドミトリー・ドミトリエヴィチ。共犯者に仕立て上げてしまったようだが。事は一刻を争うんだ」


 柏木の言葉に、ドミトリーは気難しげに唇を引き結んだ。


「決して勝手な思いから言っているんじゃない。それを分かっていただけると嬉しいのだが」

「いや、わかっているとも。あなたのことを、実は私は高く評価しているんだ。我が姪への態度はいただけないがね」

「その辺りは堪忍していただきたい。あなたの知らないところで、色々あったのだ。彼女とはね」


 四階まで階段を上りきるか、きらないかというところで、不意に柏木は足を止め、ドミトリーをも制止した。足音を立てぬように慎重に最後の一段を踏み込むと、柏木は黒い瞳を鋭く赤い絨毯を敷かれた廊の、目の届く範囲に走らせる。曇り空を窓が透かして、まだこの時間には灯りをともしていない廊下は、もやのような白い光でぼんやりと照らし出されている。窓の格子が十字型に白い壁に映り込んで、立ち並ぶ墓標のように見えることに、ドミトリーはその時初めて気づいた。なんだか不吉である。義弟はそういうことに無頓着な男ではなかったはずだが。ドミトリーは唇の上の銀色の髭を撫でた。


「……どうしたんだね?」


 ドミトリーが低い声で尋ねると、柏木はスーツの上着の裏側から慎重に銀色に光るものを取り出した。銃弾が装填されるその微かな金属音を、ドミトリーは知っている。母国から母と妹と共に逃れてきたときの、少年時代の思い出のうちに幾度も聞いた。また、この平和な国でその音を聞くなんて。


「敵の気配がする……気をつけてくれ。その場で待っていてほしい。私が防音室を見てくる。もし、万が一のことがあればすぐに逃げてくれ」

「時と場合によってはそうしよう」


 柏木は迅速に、かつ静かに、獲物に忍び寄る黒豹のような物腰で防音室へと近づいていくと、徐に扉を開けた。階段の最上段でその後ろ姿を見守っていたドミトリーは、扉が閉まるその直前、確かに銃声を聞いた気がした。ドミトリーはその瞬間、防音室に向かって駆け出していった。


「どうしたんだね?!」


 覗きこんだ部屋の中では、扉の真向いの壁にめり込んだ銃弾が煙を立て、チャイコフスキーの交響曲が始まりのアダージョのもの悲しい旋律で、低く唸っていた。床と壁とに赤黒い血が飛び散っていたが、柏木は無傷なようで、寝台の上から玲子を抱きかかえていたところであった。乙女は、まるで眠っているかのように柏木の胸に首を凭せ掛けている。その腕が力なく宙に落ちて揺れている。柏木はドミトリーを認めるなり、急いで駆け寄ってきて玲子を預けると、銃を構えて部屋の四隅を見渡した。その姿勢のまま後退しつつ、柏木は微かな手の動きで、ドミトリーに部屋を出るように指示した。


 ドミトリーが玲子を抱えながらもなんとか扉を開け、二人は共に部屋の外に転がり出た。二人は示し合わせたように廊下を駆け抜け、階段を下り、美味しいプリャーニクが出来たと自慢しようと出てきたソーニャを唖然とさせながらその前を通り過ぎて、屋敷の裏口から戸外へと出た。柏木が背後を警戒するなか、ドミトリーは肩に玲子の体を載せて片手で支え、片手で柏木が投げて寄越した車の鍵を受け取ってロックを解除すると、まず後部座席に玲子の亡骸を寝かせた。ドミトリーが助手席でシートベルトを締めている間に、柏木も遂に意を決したらしく、銃をしまって車へと駆けつけ、運転席に身を投げ込んだ。すぐに車は動き出した。白崎家の広大な駐車場を抜けて、車は裏門より桜花の町に飛び出していく。車が門を過ぎるのを待って、ドミトリーは尋ねた。


「なんなのだね?一体何があったのかね?!」

「敵がいた……!狐のようななりをした少年だった。咄嗟に頭を狙ったが外れて肩に当たった。まさか死んではいまい。恐らくうるしに飼われたあやかしの類だろう。それもなかなかに性質たちの悪い……!」

「花魁の次は狐ときたか。受難が絶えぬな、全く。しかし、やはりあなたの読みはあたったな。タイミングも完璧だった」

「読みもなにもあったものじゃない……!敵はルカの奴に気付いて偵察していたんだ。私は防音室の前で見かけた葛の葉は、恐らくあの狐のものだろう。ルカの結界は今まで戦ってきたような敵を想定しているから、あの狐のような奴の術には効かないんだ。だから、敵も新しいのを雇ったりしたんだろう……敵は当然あの部屋に何が隠されているのか気になったはずだ。それで覗いてみれば、四神の少女が眠っている訳じゃないか。それも、我が身を守る事もできないようなお姿で……!敵がお嬢様を狙うと見るのは当然だろう」


 柏木は腹立たしさを紛らわせるようにアクセルをいよいよ強く踏み込んだ。仮にも市長の車だぞ、とドミトリーはよっぽど注意してやろうと思ったが、そのハンドル捌きを見るうちに、余計な忠告は不要なように思われたので、やめた。ドミトリーはちらりとバックミラーで後部座席を覗きこみ、一度は前方の信号へと目を戻した後に、もう一度、鏡を見遣った。気のせいだろうか……少女が今、動いたような気がしたのは。ただ車の振動を受けただけであろうか。そうだ。そうに違いない……



 眠る少女の頬に、つと涙が伝って、車の座席を濡らす。



「……ひめ、さ、ま…………」






 また、だ。また――舞はその内側あるいは外側に業火の存在をほのめかしている闇の中を駆け抜けている。それは暁闇であるのか。それとも濃く成りゆくばかりの宵闇であるのか。将又はたまた、永久に解けぬ地獄の闇であるのか……


 舞の手を引く人がいる。彼、もしくは彼女の後ろ姿さえ、闇の中ではおぼろげで、舞の目にははっきりとしない。舞は走り続けなければならない気持ちに煽られると同時に、立ち止まらなくてはならないという痛いほどの心の叫びに苛まれていた。しかし、何度足を止めようとしても、先導する人は手を緩めない。足を緩めない。その人の苦しい息遣いが聞こえてくる。


(もういいの……!)


 口にのぼせることは出来なかった。舞はまた立ち止まりかけたのを妨げられて、口惜しさのあまり前を行く人の手をきつく握りしめながら、ただ胸の中で叫ぶ。


(もういいの……!戻ろうよ。そうしなきゃ……そうじゃなきゃ…………!)


 舞の頬を涙が伝っていく。



「幸せに、なって…………」




 目の覚めた舞は、いつも通りの朝の寝室に横たわっていた。窓からは朝の日差しが差し込んで、舞が今朝最初に映し出すものたちを祝福するように照らし出し、左大臣がクローゼットの中で鼾を立てている、そんないつも通りの朝に。携帯電話を見ると、アラームが鳴るちょうど一分前であった。舞はアラームをさっさと解除してしまうと、ひと時ばかりの猶予を、夢のことを思い出す時間にてた。


 同じ夢を見たのは、確か四月十二日――それも、時間が巻戻り、司の性格が豹変してしまう、その日より前の四月十二日のことであった。あの時、舞は授業中の居眠りに紛れてこの夢を見た。そして、国語の教科書の裏でなぜだか涙を一滴だけ零したのである。


 舞は頬に手を充ててみる。今日は泣いてはいないようだった。けれども、夢の中の心地を引き摺っているのは、あの国語の授業の時と同じである。どうしてこんなに切ないんだろう。どうしてこんなに寂しいのだろう……あの夢が、前世の記憶であるからなのか。舞は起こした上半身を屈ませて、まだ布団の中に潜ったままのパジャマの両膝の間に顔を挟んでみた。思いだせるだろうか――舞は目を閉じる。舞の手を引いていたのは誰?舞がいたのはどこ?そして、幸せになってと舞に次げたその人は、手を引いていた人と同じだろうか……?


 どうしたって思いだせない。だからこそ、舞には引っかかる。なにかとても大事なことを忘れている気がするのだ。決して忘れまいと心に誓ったようなことを。私、そうだ、とても大事な人のことを忘れている……



 舞ははっと顔を上げた。いけない、いけない。思いだそうとしている間につい眠っていたみたいだ。洗面所まで出て顔を洗い、髪を丁寧に梳ってから、夏服に着替えた舞は、クローゼットをこんこんと叩いて左大臣に声をかける。


「おはよう、左大臣!朝ごはん食べにいってくるね!」

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