13-4 「わたくしの手で殺して差し上げる」

「ほ、本当にこちらであっているのですか?!」

「疑わないでよー!竹藪なんてこの山にしかないんだから!……多分」


 竹藪を掻き分け、インディー・ジョーンズ博士よろしく未開の地へと進みながら、左大臣と京姫とは泥濘に足を取られたり、竹に行く手を阻まれたりと、散々な有様であった。こけかけた京姫を左大臣が慌てて支える一騒動が終わって、二人は降りかかる霧雨にじっとりと髪を濡らしながら、肩で息をしつつ立ち止まる。藪は進むほどにいよいよ薄暗く、気味悪くなり、そして京姫と左大臣の他に人の気配はない。踏みゆけど踏みゆけど、ルカの姿はどこにも見当たらなかった。


「しかし、かれこれ三十分近くも歩き回っておりますぞ。それでも敵の気配はなし……」

「わからないけど、あの狐の子には鈴が反応してくれないみたいなの。だって、ルカさんのお家に行ったときも鳴らなかったでしょ?あの時まだ近くにいたなら、私たち、気付けたはずだもん……!」

「いやはや。恐らく姫様がたの霊力は、前世で戦った敵か、よほど強力な邪気を持った者にのみ反応するのでしょう」

「じゃあ、あの狐の子はそんなに危険じゃないってこと?」


 竹に手を突いて呼吸を整えながら、京姫は尋ねる。左大臣はただ唸った。


「……わかりませぬ。ただのさまよえるあやかしかもしれませぬし、或いは……いえ、いずれにせよ油断してはなりませぬぞ、姫様。強い力を持つ者ほど、かよわい者に化けるのです。かの九尾の狐も、美しい女に化けたというではありませぬか」

「キュ、キュウビの狐って……なに?」


 とぼけた京姫の返事に、左大臣はがっくしと溜息を吐く。


「わたくしが姫様のために懸命にこの日本の歴史や文化を勉強しておりますのに、肝心の姫様ときたら……ともかく、いいですか?子供のなりをしていても、あの漆の雇った者!侮られませぬように」

「はーい」


 小休憩をはさんで、二人はまた歩み始めた。そのうちに、京姫も左大臣も次第におかしな感覚にとらわれるようになった。なんだか、同じ場所を何度も何度も巡っているような――いや、竹藪なんてどこまで行っても景色が変わり様がないのはわかっているけれど……何度この倒れ掛かって隣にもたれかかった竹のトンネルを過ぎただろう。それに、なぜだか霧が立ち込めてきたような。こんな低い山であるのに?否、そういえばまだ、山の斜面にも踏み出していない。そうだ、だからここは平地のはずなのに、まるで高い山の上にいるかのようにとっても息苦しい。


(そういえば……ここで昔、行方不明になっちゃった子がいなかったっけ)


 京姫はふと思い出す。あれはいつのことであったか。確か筍狩りのイベントの時のことであった。舞と美佳は、その年の筍狩りには参加しなかったはずだが、あれはおかしな事件で、しばらく桜花市はその奇怪な事件で持ちきりだった。舞の母は、そういう話を家庭ですることを一切禁じたから、舞は小学校の噂でしか情報を得ることはできなかったけれど。筍狩りの途中で、女の子が一人行方不明になった。いくら探しても出てこない。東雲川の底までさらったけれど、遂に見つからなかった。その子の父親は半狂乱になって、事件から一月後のある嵐の夜に、傘も差さずに家を出るところを近隣の住民に最後に目撃されたきり、戻ってこなかった。これだけでも十分奇怪であるが、ますます不思議なのは、あの親子のことを筍狩りの事件以前に知っていた者が、誰もいなかったということである。まるで、彼女らは事件に巻き込まれるがためにこの町に現れたようだった……


 京姫は背筋の辺りがぞくっとするのを感じた。


(ああ、なんで思いだしちゃったんだろう……!)


「姫様……!」


 左大臣が声を押し殺して呼びかけるのに、我が身を呪っていた京姫ははっと我に返った。左大臣は立ち止まって周囲を注意深く見渡している。尋常の様子ではない。


「何者かがこちらを窺っております……!」


 左大臣は刀の鞘に手をかける。京姫もまた、人ならざるものの気配を感じ取って翡翠色の瞳を、竹の幹と幹との間を埋めている仄暗さの中にそっと伝わせた。竹藪の闇は漆黒ではない。羊羹の色のようにぼやけた色だ。ただ、羊羹に差す光が、この菓子の色を透かすことをよしとせずに、その表面にじっと吸い込まれたが最後、その内側に沈み込むことに甘んじるかのよう、見通そうとすればするほど、人の視線は薄闇の中に溜め込まれていく。竹の色はそんな闇に気圧されて鬱々と押し黙り、京姫と左大臣とを目のない目でじっと悲しげに見つめているようであった。


「姫様……」


 左大臣が一歩後ろへと退いて、己の影のために姫の視界から覆い隠されていたものをそっと示した。京姫は心臓が凍りついたかと思った。左大臣が姫の視線を促した先、竹の幹の後ろから、おかっぱ姿の少女の顔の半分がじっとこちらを覗いているのである。だが、驚いたのも一瞬、その不思議そうにこちらを見ている黒い大きな目と、そのあどけない表情に姫の恐怖はたちまち溶けて、ほっと安堵の息が漏れ出る。かわいらしい白いブラウスを着せられた小さな左肩と、スカートから突き出た小さな左足とが覗いている。右半身は細い竹の幹の裏に隠れているらしい。京姫は左大臣に微笑みかけた。けれども、左大臣は当惑したような表情を浮かべた。


「姫様……?」

「こんにちは!」


 京姫が言うと、少女は竹の後ろから姿を現して、ぱたぱたと京姫の傍に走り寄ってきた。それでも、まだ警戒しているのか、京姫と左大臣からやや距離を置いたところで立ち止まり、京姫と、左大臣との顔を交互に見遣る。左大臣がなぜだかほっと溜息を吐くのを左耳で聞きながら、京姫は屈みこんで、少女と視線を合わせた。


「こんにちは!私、京野舞っていうの!舞って呼んでね!えーと、お名前聞いてもいいかなあ?」

「……はな」


 少女は小さな声で答えた。


「はなちゃんっていうんだ!かわいい名前だね!はなちゃん、お母さんは?こんなところでなにしてるの?」

「……お母さんはいない。お父さんはいる。すぐ近くに。はなはここで遊んでただけ……お姉ちゃんたち、こんなところでなにしてるの?」

「そっか。お父さん、近くにいるなら安心だ。迷子になった訳じゃなかったんだ!」

「お姉ちゃんたち、こんなところでなにしてるの?」


 少女は機械的に繰り返す。京姫はその口調に驚いてややまごつきながらも、笑顔を崩さなかった。


「えっとねー、人を探してるんだけど。あっ、はなちゃんは見なかった?金色の髪のねぇ、すっごくきれいな人。白いお洋服を着てたと思うんだけど。あとね、狐のお耳を生やした男の子も一緒にいたかもしれない……!」


 狐のお耳を生やした男の子――その言葉が、明らかに少女の胸の琴線に触れたのは確かだった。それを聞いたとき、少女は確かに目を光らせたから。少女はしばらく黙りこんでいたが、京姫が「はなちゃーん?」と呼びかけると、姫の顔から目を落とし、姫の胸元あたりを眺めながら尋ねた。


「お姉ちゃん、その狐さんと仲良しなの?」

「えっ、ええっと、仲良しって訳では……」

「その狐さんがもし悪いことしたら、お姉ちゃんどうする?」

「えっ、そ、そりゃまあ、倒す……というか、う、ううん、もちろん怒るけど!」

「退治してくれる?」

「た、退治……?」


 少女の口から自分よりも物騒な言葉が出てきたので、京姫は目を丸くしたが、この少女は「狐のお耳を生やした男の子」に絵本的なメルヘンチックな世界ではなく、お化けや妖怪のようなおどろおどろしい世界を見出したのだと気づいて(無論、後者の方が正しいのだが)笑顔で大きく頷いた。


「もちろん!お姉ちゃんは正義のヒーローだもん!」


 前もこんなことを言ったような気がする。そういえば、奈々の弟の悠太が蜘蛛に襲われていたのを助けたときに……すると、少女は京姫の顔を見上げてまじまじと見つめ、それから初めてふっと笑った。


「それなら、いいよ……」


 「えっ?」と京姫が聞き返した時、少女はもうくるりとこちらに背を向けて、竹藪の向こうに消えていくところであった。姫が止めても、少女は振り返りもしない。父親が近くにいると言っていたので心配することないとは思うのだが。と、京姫はなんとなく違和感を覚えて周囲を見回した。なんだかさっきと景色が変わっているような気がする。こんなに明るかったっけ。さっき潜った竹のトンネルは、振り返ってみても見えない。それになんだか道が上り斜面になって……いつの間にか、山の中に差し掛かっていたのだろうか。


「今の、なに……?」



 玲子の血と、毒と――小屋の中に満ち満ちる絶望に命を蝕まれながら、白虎は芙蓉の前に打ち伏せるばかり。玲子の顔に手を伸ばす白虎の体に鞭を巻き付けて、芙蓉は白虎を無理やり仰向けにした。白虎の視界から玲子の瞳が消える。芙蓉の袖に煽られてか、炎の色がちろちろと揺れてだいだい色の花のような文様を天井に映し出す。白虎は長い髪に覆われた後頭部の辺りが血だまりに浸る感覚だけを覚えた。それを除けば痛みも苦しみもない。あとは死ぬばかりだ。ただ、この芙蓉を散々満足させて死ぬことだけは心残りであるけれど。それから、姫様のことと……


「泣き喚きませんの?せめて我が身だけは助けてくれって。こんな風にはなりたくないって、惨めったらしく無様に懇願しませんの?」


 白虎は答えない。答えようとしたところで舌が動かないのである。芙蓉は白虎の体に巻き付けたままの鞭を、白虎の身が床から浮かび上がるほどますますきつく縛り上げたが、白虎が唇を血がにじむほど噛みしめたままで声すらあげないのを見てつまらなそうに鞭を解いた。


「仕方ありませんわね。どこで間違えたのかしら。お前は自分の命乞いはしないつもりですのね。もしかしたら、この女の命乞いならばしたのかもしれませんわ。先にお前が泣き叫ぶのを見ておけばよかった」


 芙蓉は玲子の髪を掴んでその首を持ち上げると、忌々しそうに見下ろした後、床に投げつけた。白虎はただ玲子にくわえられる冒涜から目を逸らすだけだ。


「では、残るは死に顔だけということですわね。無論、あともう少しすればお前はくたばるのだけれど、やっぱりそれではつまらないから、わたくしの手で殺して差し上げる。わたくしの手と、お前の剣でね」


 床に打ち捨てられていた白虎のサーベルを拾い上げて二三度空を切ってから、芙蓉は満足げに笑う。その刃は、かつて芙蓉を死に至らしめた。そして、同じ刃が今度は白虎の命を奪おうとしているのである。芙蓉は、しずしずと衣擦れの音を引き摺りながら鎖に繋がれたままの玲子の体に歩み寄ると、その体に切りかかった。左肩から右腰まで、銀色の閃光が走る。白虎が次に目を開いたとき、天井からは鎖に繋がれた腕から右の胸乳のあたりとそれを覆っていた布きれとがぶらさがり、左腕に繋がれていた鎖は突如与えられた重みに耐えられなかったのか、それとも剣の切っ先を受けたものか、脆くも玲子の身を支えきれずに床に取りこぼした。床に叩き付けられた鎖がけたたましく鳴った。芙蓉はその切れ味に満足したものか、白虎の傍ににじり寄って、その視線の真上で血に濡れた刃を舐めた。それから、十二単の裾で白虎の頬を撫でながら、剣の先を、憐れにも床に伏す他ない白虎の左肩にあてる。


「ここから、ここまでで、ばっさりと……そうでしたわね?」


 芙蓉がかつての己の傷痕を白虎の体の上に見出して笑みを浮かべるのを、白虎は感慨もなく眺めている。私を殺して楽しいのなら何度だって殺すがいいさ――けれど、もし自分が死んだら、姫様は……玲子が死んでしまった以上、もう四神は揃わぬのだ。前世では四神が総出になって漆に立ち向かい、そしてことごとく……また、現世でもまた同じことが繰り返されるのか。


 なんのために生まれ変わり、また新たな命を授かったのだろう。なんのために前世の記憶を引き継いで、それでも尚、新しい道を行こうとしているのだろう――こんな風に惨めに殺されるためか。この邪悪な女の復讐心を満たすためか。たとえ、そうだとして……私はそんな運命に納得してやるというのか。前世でも苛酷な運命を強いられたというのに?そんな義理が、どこに……



「私の体を頼むわ、ルカ。私は必ず戻ってくる。姫様の元に馳せ参じるために。どうか守り抜いて。私の体を、そしてなにより、姫様を……」



 モスクワでの夢で果たした最後の対面で、玲子は決然としてそう言い放った。彼女との約束のうちの一つについて、自分は守れなかった。それならばせめて、もう一つの約束だけは……そうだ。四神たる自分は、絶望の淵にあったとしても、姫様のことを見離す訳にはいかないのだ。


 玲子は彼女の武器を、ルカに託した。彼女との約束をルカが遂行するために、せめてもの手助けになればと。


 剣が振り上げられたその刹那、白虎は最後の気力を振り絞って、マントの内側へと手を入れた。サーベルの刃は、白虎の突き上げた銃口に大きく弾かれて、宙高く跳ね上がり、体の均衡を崩して一瞬前のめりになった芙蓉の額を銃弾が掠めていく。外したか、と白虎は舌打ちする。だが、落下してきた剣の先が、主人の仕留め損ねたものを、芙蓉の心臓を、背中側から刺し貫いた。


「なっ……!」


 芙蓉はふらふらと後ずさって、床に倒れ込む。激しく芙蓉の咳き込む音がする。その音になにか泡のようなものが絡みつくのも。ともかく相討ちにはなったのだ……安堵のせいか、白虎の変身が解けた。ルカはもう思うことなく床に伏すことができる。そして、ただ死を希うことができる。結局、またもやルカは苛酷な運命を強いられたが、それに服従した訳ではなかった。そうだと信じたい。


 その時、小屋の中に光が差した。高燈台の灯りではない。もっと明るく、美しい――光の中でルカは懐かしい声を聞く。


「ルカさん!」


 ――ああ、姫様が来てくださった。


「ルカさん!」

「姫様、待ちなされ!!」

「えっ……?」


 勢いよく部屋の中に駆けこんできたのは左大臣であろうか。光しか見えぬルカには京姫と左大臣の声ばかりしか聞こえない。左大臣は真っ先にルカに寄ってきたのではなかった。どうやら何かを床から拾い上げ、それを持って再び外で飛び出していった様子だ。そうだ、芙蓉の香炉だ……一瞬でその毒を嗅ぎ取った辺り、さすがはあの京で左大臣まで登りつめたことはある。


「ルカさん!ルカさん!」


 誰かが肩を揺さぶっている。瞳の上に影がかかる。京姫がようやく左大臣の許可を得て、ルカの元に駆けよってきたものと見える。ルカの目にはぼんやりと京姫の顔が見えるばかりだ。清らかな、翡翠の色の輝きが。ルカはその頬に縋るように手を伸ばす。


「姫様……」

「ルカさん、どうして……?!一体なにが……!」

「姫様!ルカ殿は毒にやられたのです!姫様のお力で一刻も早く浄化なされませぬと、ルカ殿の命が……!」

「じょ、浄化って……!」

「以前、奈々殿の妹御を蜘蛛の毒から癒し清められたではありませぬか!お忘れではありますまい!」

「あっ……!」


 あっ、と呟いたのは京姫ばかりではなかった。ルカもまた胸の中で、「あっ……」と。そうだ、我らが姫様は、傷ついたものを癒し、荒ぶるものを鎮め、穢れたものを清める――京姫とは、そういうお力を持ったお方であったことよ……



(私はまだ、生きられるのか……)



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