7-3 「あたし、黒田奈々。よろしくね!」

  姉の自転車を借りて出かけた翼は、気まぐれに公園を通っていこうかなと思った。いつも夕食を届ける時間は七時過ぎなので暗いけれど、今日はまだ五時過ぎで明るいから、公園の景色もなんとなく楽しいだろう。いつもと違ったことをしよう。なんて言ったって、誕生日なのだし。


 子供や鳩で賑わっている噴水広場を一周してから、図書館の方へと自転車のタイヤを滑らせた。螺鈿伝説に関わる本を取り寄せたのがちょうど来ているはずだから、それもついでに借りていこう。図書館脇の駐輪場に自転車を停めて、お弁当の包みを持って入り口へと向かう翼は、ちょうどその時、図書館から出てきた少女とぶつかりそうになった。「あっ、ごめんなさい……!」翼は謝ったが、相手の方は黒縁眼鏡の奥の目をぱちくりさせて、翼を見つめるばかりである。なんだ、変な人。制服を見ると、桜花中学の生徒みたいだな。でも顔は知らないな。とにかく、せっかくの誕生日に揉め事はごめんだ。腹は立つけど何も言わない方がいいかもしれない……そう思って翼がその脇を小さくお辞儀しつつ通り過ぎようとすると、突如、少女が「やっぱり!」と叫んだ。翼はびっくりして立ち止まった。


「えっ?えっ?あの……」

「やっぱり!そのカチューシャ、あたしのだ!」

「あなたの?へっ……?」


 と、翼は少女に肩をがっしりと掴まれた。翼は悲鳴をあげかけたが、少女がきつく翼を抱擁してきたので、声も思わずすくんでしまう。


(な、なんなの、この人……!)


「あたしがデザインしたの、そのカチューシャ!昨日、かわいい女の子が買ってくれたんだけどね!じゃあ、あの子がプレゼントした相手って、あなただったんだね!すっごく似合ってる!」

「ちょっ、ちょっと……!」


 翼は喜びはしゃいでいる少女の腕をなんとか振りほどき、翼はようやく一息吐く。それから、腰に手をあてて、


「も、もう……っ!いきなりなんなのよ……っ!」


 すると、少女はようやく自分の行動に気付いたように、笑いながら頭を掻いた。制服のセーラー服を着ていなかったら、男性かと間違えたかもしれない。でもよく見れば、優しい顔立ちをしているけれど。


「あっ、ごっめーん。あたし、いっつもこうなんだよね。それでよく怒られるんだけど。でも、嬉しくって。すっごくかわいい子があたしのデザインしたカチューシャ、つけてくれてた訳だから。あはは!」

「あはは、って……!」


(あれ、なんだろ、この感じ……なんか、前にもあったような……)


 翼が早くも少女とのやりとりにげんなりしていると、少女はにこりと笑って手を差し出した。


「あたし、黒田奈々くろだなな。よろしくね!」

「あ、あたしは、青木翼……」

「あっ、そうだ!ねぇ、翼ちゃん、今時間ある?ちょっと絵のモデルになってよ」


 奈々は握りしめた翼の手をそのまま両手に包みこんで、自分の胸元まで持ち上げて言った。


「えっ、ちょっと……今から?」

「うん!大丈夫。すぐ済むから。ねっ、ちょっとこっち来て!」

「あっ、ちょっと、あたし、用事が……!」


 奈々の勢いと、そのきらきらした目の輝きについに抗えぬまま、翼はぐいぐいと引っ張られていく。翼は胸中、「なんなのこの人……!」を連発しながら、さながら荷車で運ばれていく子羊のごとく、図書館の裏へと連行されていった。図書館の裏は、小さな庭のようになっていて、梅雨場はとてもじめじめしていていられたものではないが、今日のような五月のさわやかな日には人生の一日を謳歌するためには最適の場所である。なにもないといえばないのだが、小さな広場を囲う木の配置や木漏れ日の入り方、風の吹き方が絶妙で、公園内の一角ではあるけれども、図書館の近くであるから大きな音を立てる者もなく、ぽつんと置かれたベンチの上に座ってさえいれば、いくらでも時間を潰していられるところだ。


「やあ、おっはよう」


 広場に入るなり、奈々が木々を見上げて挨拶をしたので、翼は唖然とした。この人、もしかして、本当に危ない人だったりして。奈々はようよう翼の手を離し、鞄から食パンの耳を詰めたビニール袋を取り出した。逃げるなら今なのだが、ついそうも出来かねて翼が躊躇していると、いつの間にか雀や山鳩たちが奈々の周りに降り立ってきていて、奈々が細かく千切ってやるパンくずを啄みはじめた。小鳥たちは奈々の肩や手に乗ってまで、餌をねだった。その感触がくすぐったいのか、奈々の口からは笑声が絶えることがない。ついに鳥たちの仕切りにねだるのに耐えかねて、奈々が袋をひっくり返した。それでも尚、奈々の手を離れずにいる小鳥たちは、奈々に撫でられるのを心待ちにしているようであった。


「あ、あの……!」

「あっ、翼ちゃん、ごめんごめん!今ポーズを指示するからね」

「えっ、ポーズって……」


 奈々は翼に弁当の包みをベンチに置いて、自分の方を向いてくれるように指示した。翼はもうされるがままにしようと思った。心の中に、乾いた砂のように溜まっているものがあって、それがこの人から離れよう逃れようという意志に纏わりついて、翼の足を留まらせる。翼は、自分がなぜだかこの奈々という少女と一緒にいたいと思っている事実を、どう処理すべきか分からなくて困っていた。いや、まさか。あたしがそんな風に感じている訳がない。あたしはお父さんのところに行かなくてはならないけれど、この人に捕まっているだけなのだ。そう、仕方なくここにいるだけだ。だって、あんなにきれいな目で頼むものを、拒むのも残酷だもの……


 奈々は鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出した。ぱっと中身が見えた限り、どうやら教科書らしきものの姿は見えなかった。この人、なにしに学校に行っているんだろうと翼は訝しんだ。奈々はスカートが汚れるのも厭わずに地面に直に座ってあぐらをかき、鉛筆を削ってまっさらなスケッチブックと翼とを交互に眺めはじめたが、ふと思いついたかのように尋ねた。


「ねぇ、一応聞いとくんだけどさ、ヌードは駄目だよね?」

「ヌ……!」


 赤面して何もいえなくなってしまった翼の様子に、さすがにこの不思議な少女もその指すところを察したらしく、「あっ、やっぱり」と呟いてまたスケッチブックに視線を落とした。


「じゃあ、いいや。じゃあさ、こっち向いて足を肩幅ぐらいに開いてくれる?そうそ、で、右手をだな、こういう風に腰にあてて、左手は背中の方にまわして。ほら、ワンピースの裾に肘から下が隠れるように……そうそう」


 翼の姿勢が定まると、奈々が鉛筆を動かすために俯けた顔は急に真面目になった。翼はその変化に驚くとともに、感心した。この人、単に変な人ではなかったんだなとの安堵も湧き上がってくる。翼はかくも真剣に手を動かしている奈々に話しかけていいものか迷ったが、それでもなんだかこの沈黙には耐えきれないような気がしたので、口を開いてみた。


「あ、あの……絵を描くの、好きなんですか?」


 なんだか臆してしまって敬語になる翼。


「うん、一応ね。プロ志望なの。今度個展開くんだ」

「えっ、こ、個展?」


 うん、となんでもなさそうに奈々は頷く。


「そっ。大したことないよ。商店街に明海ギャラリーって本当にちっさいギャラリーがあるんだけど、そこでね。入場無料だし、よかったら来てみてよ。来週からやってるからさ」

「で、でも、奈々さん中学生ですよね?それ、うちの学校の制服だし」

「なーんだ、翼ちゃんも桜花中なの!奇遇だねぇ!何年生?」

「二年生です。あの、奈々さんは……」

「あたしは三年。じゃあさぁ、そのカチューシャ、プレゼントしてくれた子も桜花中だったりする?」

「はい、同じクラスの、京野舞って子ですけど……」


 ヒューと奈々は口笛を吹いてみせた。


「じゃあ、会おうと思えばいつでも会える訳か!ねぇ、そのカチューシャってさぁ、なんのプレゼント?誕生日……?」


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