雨空と猫と。(一万字バージョン)

丸尾累児

雨の中のモノローグ

商店街の路地に冷たい雨が降る。

その白露はくろの一滴、一滴はまるで雪ように白く、ザーッという音を立てて地面を叩いた。

遠くでは、雷鳴が轟いている。

通りを歩く人影はなく、彼女一人だけが商店の庇の下で雨を眺めていた。

目の前には、紫陽花のプランターが置かれている。だが、肝心の店は営業をしておらず、花だけが主人のいない店先で寂しそうに咲き誇っていた。

つまり、そこは絶好の雨宿りスポット。

さっきまで別の女性が雨宿りをしていたが、すぐに待ち人とおぼしき男性が傘を持ってやってきた。そして、そのまま一本の傘に収まり、女性は男性と楽しそうにおしゃべりをしながら去って行った。

残されたのは、彼女1人。

去りゆく女性を見ながら、彼女は羨ましそうにその背中を見送った。





――まさかこんなに雨が降るなんて。



予想外の強い雨だったのだろう。

彼女は傘を持ってこなかった。だが、濡れて帰りたくはないし、はたまた誰か連絡するアテがあるわけでもない。

傘を忘れた彼女は、雨に遮られた世界で独りぼっちになった……。



「……イヤな雨……」



ポツリとつぶやいて、空を見上げる――虚しい。

なぜなら、愛しい人とはさっき別れたばかりで心がキリキリと痛かったから……。

思い出したのは、別れを告げられたときの一片の情景。



ほんの30分前。

彼女は、小さな喫茶店にいた。

座ったのは、路地側に据えられた窓際席の一角。

店の広さは十二畳といったところで、黒檀調の壁紙が落ち着いた雰囲気を醸し出している。さらにアルトサックスをメインにしたフュージョン・ジャズも相まって、居心地の良さを演出をしていた。

店主の趣味だろう。

午後から雨の予報のせいか、客足は途絶えていた。窓際に座る男女二人組の会話は店内によく響いて、どんよりとした天気に似た雰囲気を醸し出している。

それを察してか、店主は二人にオーダーを差し出すと奥へと消えていった。



「――別れよう」



とっさに向かいに座って俯く彼が言う。

その口調は、まるでズシリと重い扉を開くようで、完全に開ききるまでにかなり時間を要した。

途端に向かいに座った彼女が驚いた表情を見せる。



「え……?」



ようやく発したのがその一言。

彼女はそれほどに男の発言が理解できなかったのである。

どうして? なぜ? ワケがわからない――そんな表情なのだろう。彼女は頭が真っ白になった。

それでも答えを求めて、男の彼の顔を見続けた。



「な、な、なに……? どうしたの、急に」

「君が尽くしてくれているのはわかってる。でも、俺にはそれが逆に重荷なんだ」

「え? え? 言ってる意味がわかんない……」

「……ゴメン……もう無理……」

「無理って、私なにかヘンなことした? アナタを阻害するようなこと――」

「そうやって、自分に都合のいい立ち振る舞いをするのはやめてくれ!」

「……」



唐突な彼の叫び。

彼女は大いに驚かされた。

いつもならこんなに声を荒あげない。そういう印象からか、彼女は想定外の事態に思い知らされたのだろう。

それほどに萎縮していた。



「とにかく、俺たちに関係はお終いだ」

「待ってよ。急にそんなこと言われても……」

「急じゃねえよ。俺だって、必死に考えて答えを出したんだ」

「……そんな……」

「悪いとは思っている。でも、もう耐えられないんだ」



彼はそれ以降口を閉ざして語らなかった。



ハッとなって、現実に立ち返る。

しかし、さっきまでの光景がまぶたの裏に焼き付いて離れなかった。

どうしてこんなことになったのかわからない。

ただ、自分は彼に尽くしていたつもりなのに……。なぜか心は離れ、いつのまにか煙たがられていた。

憂鬱な気持ちが心の奥底から湧き上がるように広がっていく。


「ニャ〜」



そんなとき、足元から動物の鳴き声が聞こえてくる。

彼女が俯くと、1匹の猫が佇んでいた。

ほっそりとした胴の長い灰色の猫――いつのまにやってきたのだろう?

猫は彼女の周りをグルグルしたかと思うと、何事もなかったかのようにパッとやめて空を眺め始めた。

激しく降る雨に身動きが取れないのだろう。

下半身を落として、前足をピンと伸ばした状態で姿勢よく雨足を窺っている。



「……アナタも1人?」



彼女は、そんな猫に話しかけた。

毛並みの揃った色艶のいい猫。

当然、猫は答えない――人間ではないのだから当たり前と言ったら当たり前である。代わりに返ってきたのは、顔を差し向けるという行為だった。

それを見てか、彼女は猫と同じ目線になるようしゃがんで見せた。



「私もね。さっきまで彼と一緒だったんだけど、別れちゃったんだぁ……」



自らを嘲笑するようにつぶやく。

その間にも雨は降り続けた。まっすぐ、どこまでもまっすぐ雨は降り続け、川のようになって地面を流れた。

不意に猫が足下に身体を擦り寄せて来る。

彼女は応じるように優しく背中を撫でてやると、猫は気持ちよさそうに目を細めた。

撫でる毛並みは毛布のように柔らかかった。触れる手には、猫の体温と心地よい感触を伝わってくる。

彼女は、なんとも言いがたい手触りに背中を撫で続けた。

時間を忘れて、終始夢中になる。

猫もそうされることが嬉しいのか、足元でうずくまって気持ち良さそうな顔を見せた。

そんなときだった――。

ふと気付いて顔を上げると、何もない真っ白な世界が広がっていた。

耳障りな雨音も、寒々しい雨粒もなくなっている。

――夢でも見ているのだろうか?

不思議なことに雨に濡れる商店街の路地は消失していて、唯々まっさらな景色が彼女の視界に映っている。

そんな光景が理解できず、彼女は目をキョトンとさせて驚いていた。



「……え? え? え?」



意味の無い言葉を幾度も吐く――それくらい驚きがあった。

自分は確か商店街にいて、雨宿りをしながら猫と戯れていたはず。その認識を確めながら、彼女は周囲の様子を窺った。

すると、左方に道らしきものが見えた。

道は、0.5ミリのシャーペンで両端をうっすらと書いたように曲がりくねりながら、どこまでも続いている。

行く先はわからない――遠くを見ても、真っ白だからだ。

1つわかることは、道が続いていると言うこと。彼女は気になって、道の向こう側へとズンズンと歩き出した。

やがて、見えてきたものは真っ白な道とは対照的な色付いた森と、その手前に耕されたキャベツ畑だった。

キャベツ畑には、大玉のキャベツではない芽キャベツが植わっている。

そのどれもがブドウの房のようにボツボツと太い茎の根元から大量にぶら下がって実っていた。

彼女は、その芽キャベツ畑にゆっくりと近づいていった。



「わぁ~お客さんだあ」



ところが、目の前で見たモノは驚きの光景だった。

何の予告もなく、急に芽キャベツに顔のようなものが現れてしゃべり出したのである。

まるで擬人化したかのようで、沢山の房が「キャッキャ」といたずらっ子っぽい笑い声を上げている。

当然、そんなものだとは露知らず。

彼女は絶叫と共に驚いた。あまりの突然のことによろめいてしまい、お尻からバタリと地面へと倒れ込む。



「ねえねえ、アナタはいま幸せ?」



その間にも、芽キャベツは突拍子もないことを聞いてきた。

彼女が戸惑っているにも関わらず、複数の芽キャベツが押しかけるように詰問してくる。

それは、まるで沢山の子供が一斉に質問してくるかのだった。



「ねえねえ、どうなの? 幸せなの?」

「……えっと……あの……その……」

「なんで答えないの? 幸せじゃないの?」

「そんなこといきなり言われても……」

「じゃあ幸せ?」

「わかんないよ。私が幸せだったかどうかだなんて、わかんないよ」

「だったら、幸せじゃなかったの?」

「それもわかんない」

「えぇ~いったいどっちなの?」



何度も繰り返される質問と無邪気な笑顔。

そのどれもが彼女を戸惑わせ、及び腰にさせる。

なにより芽キャベツがしゃべっていること自体が驚きだったのだろう。彼女は現実離れした光景に思わず逃げてしまった。

逃げて、逃げて、来た道とは反対の森の奥へと進んでいく。

気付けば、彼女は完全に芽キャベツ畑から離れていた。

もうあんな質問をする生き物はいない――。

彼女は安堵から溜息をついた。



「ねえねえ、お母さん。こんなところに知らないお姉さんがいるよ」



ところが、それも束の間。

途端に子供の声が聞こえてくる。彼女はすぐさま気付いて、声のする方向に顔を差し向けた。



「あら、まあ本当ね」



そこにいたのは、木の枝から彼女を見る小さな小さなシマリスの親子だった。

しかも、芽キャベツ同様に人の言葉をしゃべっている。

若干ビックリはしたが、芽キャベツの件もあってヒドく驚かされたというほどではなかった。

ただ、現実味のない世界と登場人物に戸惑いを見せている。

彼女は、恐る恐るシマリスの親子の様子を伺った。



「お母さん。お姉さんがこっち見てるよ」



そんな彼女の視線に気付いたのだろう。

子リスがとっさに母親の背中に隠れてしまった。人見知りなのか、オドオドしく顔を覗かせている。



「まあまあ、この子ったら恥ずかしがり屋さんなんだから」



母リスは身を隠す我が子を見て、微笑ましそうに笑って見ていた。

かと思えば、パッと向き直って彼女と顔を合わせた。



「ゴメンナサイね。どうにもこの子は人見知りが激しくて……」

「い、い、いえ、いいんです……。可愛いお子さんですね」

「フフフッ、ありがとう」



と母リスが言う。

子リスの頭を撫で、愛おしそうに慈しんでいる。



「この子はいつもこんな調子だから、なかなか友達ができなくて」



睦まじい母子の姿。

彼女はそんな光景から緊張感を解きほぐされた。しかし、すぐに聞きたいことを思い出して、母リスに問いかけた。



「あの、ここはどこなんですか?」

「ここは幸せの森。誰もが幸せに暮らして、誰もが笑い合う夢のような森よ」

「……夢の森? そうか、じゃあやっぱりこれは夢なんだ」



母リスに告げられ、彼女は初めて夢であるという確信を得た。

それにしても、意識はハッキリしている。まるで自分が不思議の国のアリスになったみたいだ。

彼女は自分の頬に触れ、妙にリアルな夢の心地を実感した。



「アナタ、これから一体どこへ行くつもり?」



とっさに母リスからの質問を受ける。

しかし、彼女はその問いかけに答えを用意していなかった。夢の住人に「夢を見ているからわからない」などと説明して、誰が納得するだろうか。

そもそも、自分がどこへ向かっているのかすらわからないのに……。

彼女は、戸惑いながら返事をした。



「わかりません。気付いたら、この森の近くに佇んでいたんです」

「それは、困ったわね。その様子じゃ幸せもなにも掴めないわ」

「幸せって、掴むものなんですか……?」

「アナタはそれがわからないのね」

「……わからない……私が……」



と、視線を落とす。

見たのは、胸の前で開いた両手の手のひらだった。幸せは掴むものという母リスの言葉に反応したのだろう。

彼女もいつの間にか幸せがこぼれ落ちたような気がしてならなかった。



「もし行く当てがないのなら、この森をまっすぐ抜けた先にあるお屋敷へ行ってご覧なさい。男爵がきっとアナタの幸せのありかを教えてくれるわ」


顔を上げると、唐突には母リスがそんなことを言ってきた。



「男爵? いったい誰なんですか」

「この辺り一帯を納めるご領主様よ。みんなは幸せ男爵って読んでいるの。きっとアナタの幸せについて、なにかアドバイスしてくれるわ」

「……幸せ……男爵……」



そう聞いて、彼女は男爵の姿を頭に思い浮かべた。

幸せ男爵というぐらいなのだから、幸せの様々なことを知っているだろう。彼女は母リスに言われたとおり森の中をまっすぐ歩いて行った。

やがて、見えてきたのは背景と同じ色をしたお屋敷だった……。

邸宅も、囲いも、門扉すら真っ白である。そんなお屋敷の入り口には、同色の鎧を着た守衛が兜から赤みのある顔を覗かせて立っていた。



「何者だ?」



守衛は彼女を見つけるなり、白くて長い槍を差し向けてきた。

彼女は抵抗する意志がないことを示して、守衛に男爵のことを尋ねた。



「こ、こ、こんにちは……。男爵から私の幸せについて聞けると伺って訊ねてきました」

「なんだ、男爵の客か」

「そんなに怖い顔でどうかしたんですか?」

「最近、男爵の家に忍び込んだ不届き者がいてな。それで警備を厳しくするように仰せつかったのだ」

「なにか盗まれたんですか?」

「盗まれたと言えば、盗まれた――だが、金品ではない」

「じゃあ、いったいなにを盗まれたのですか?」

「――男爵の幸せだ」

「……幸せ……ですか……」



そんなものを盗んでどうしようというのか。

普通なら金目の物を盗んでいくはず。だが、この夢の世界では幸せを盗むことに何らかの価値があるらしい。



「まさか貴様が盗んだのではあるまいな」



不意に守衛があらぬ疑いを掛けてくる。

彼女は慌てて両手を振って「違います」と答えた。しかし、疑いは晴れていないのか、守衛の目つきは変わらなかった。



「では、誰が盗んだというのだ。この4日間、未だに犯人らしき人物を特定できていない。そんなときに現れた貴様こそ、犯人なのではあるまいな」

「ですから、誤解です。私はただ森のリスさんたちに私の幸せについて、男爵から聞けると聞いてやってきただけなんです」

「それは本当か?」

「本当です」



どうにか信じてもらおうと、守衛の目を見て訴えかける。

すると、その気持ちが伝わったのか――。

とっさに守衛が振り向けていた槍を降ろした。



「どうやら、本当らしいな」

「信じてください。私は、男爵の幸せを盗んだりなんかしてません」

「なら、代わりに貴様の幸せを通行料として置いていけ」

「私の幸せを……?」

「見たところ、貴様は幸せな想い出を持っていても、それをまったく幸せなものだとは思っていないのだろう?」

「そんなことありません。私の幸せは、過去も、現在も大切なものです」

「では、なぜそれを大切そうに持っていない? 貴様のスカートのポケットから、いまにもこぼれ落ちそうになっているではないか」

「スカートのポケットから……?」



そう言われ、スカートのポケットに手を突っ込む。

すると、野球のボールほどの大きさの玉がいつの間にかポケットに収まっていた。手に取りだして見てみると、それは七色の光る美しい水晶玉だった。



「……これが……私の幸せ……?」



ポツリとつぶやく。

守衛が指差しているのだから間違いないだろう。彼女の幸せは、こんなにも美しく輝いていたのだ。



「さあ、こっちにそれを寄越すんだ」

「どうしてですか? どうして、アナタに私の幸せを渡さなきゃいけないんですか」

「貴様には必要のないものだからだ」

「必要かどうかは私が決めます――ですから、幸せは誰にも渡せません」

「では、オマエを男爵の元へお通しするわけには行かぬ」

「だったら、私は男爵の元へ行きません」



売り言葉に買い言葉。

彼女は、守衛の言葉にカッとなって「行かない」という選択肢を選んだ。そもそも男爵の元へ行くといいと言ったのは母リスなのだ。

彼女にとって、それほど男爵のアドバイスが必要とは思えなかった。



「ほう、行かぬと申すか」



そんな発言を聞いてか、守衛が意味深なことを口にする。

彼女は釣られるように言葉の意味を聞き返した。



「どういう意味ですか?」

「言葉の通りだ。男爵の元へ行けば、必ず貴様の新しい幸せの掴み方をお教え頂けるだろう。だが、行かぬと言うのならば、貴様は新しい幸せの掴み方も知らぬままだ」

「そんなの自分で探します。放っておいてください」



つい意固地になって、屋敷を後にしようとする。ところが、不意に見た邸宅の窓に移ったものに足を止めてしまう。

彼女が見たもの――それは、ついさっき別れを切り出された彼の姿だった。

我が目を疑い、もう一度遠くにある窓をよく見る。

すると、そこには確かに彼がいた。しかも、ジーッとこちらを伺うようにカーテンの袖から眺めている。

彼女は、思わず彼の名前を呼んでしまった。夢の中とは言え、それほどに衝撃的で愛おしく、未だ気持ちが残っていることに気付かされたからである。

急いで駈けて、守衛がいた門の前へと戻る。



「ん、なんだ? 必要なかったのではないのか?」



当然、守衛からはそんな意地悪な質問が飛んできた。

彼女はめげずに頭を下げて懇願した。



「お願いします。中に入れてください」

「ならば、貴様の幸せをよこせ」

「それは出来ません。私にとって、この幸せは大事なものなんです」

「では、ここを通すわけには行かんな。さあ、諦めて早く帰れ」

「イヤです! お願いですから、なにも取らずにここを通してください」

「だから、オマエの幸せを寄越すことが通行料代わりだと言っているだろうが」

「そこをなんとか……」

「ええーいっ! ダメだ、ダメだ、ダメだ!」

「そんな……」



一向に譲らない守衛の態度に心が折れそうになる。

しかし、ここで引くわけにはいかない。

いま手にしている幸せを渡すということは、彼との楽しい日々をなかったことにすること。そんな大切なものを易々と渡すわけにはいかない。

彼との思い出が脳裏をよぎり、彼女をより一層意固地にさせた。



「通しておやりなさい」



そんなとき、どこからともなく声が聞こえてくる。

どうやら、守衛に向かって発せられてものらしい。途端にキビキビとしていた態度が声の主の命令に慌てふためいていた。



「だ、だ、男爵様!!」



その一言から察するに男爵の声ようだ。

不思議なことに姿は見えない。スピーカーがあるわけでもなく、魔法のように聞こえてくる声は守衛をなだめていた。



「男爵様のそう仰るのでは仕方があるまい――通っていいぞ」



さっきの態度とは打って変わって、守衛は槍を片手に閉ざしていた門をもう片方の手で押し開いた。



「ありがとうございます」



彼女は一礼すると、そそくさと門をくぐり抜けた。

敷地に足を踏み入れると、目の前には大きな生け垣が広がっていた。

ヨーロッパ古いお屋敷にありそうな様々な形をした生け垣。象やウサギ、キリンなどあって、不思議なことにどれも生きている。

邸内を闊歩する様は、さながらサファリパークだ。

つい目移りして見入ってしまいたくなったが、彼女は窓辺に映った彼に会いたい一心で前庭をまっすぐ突き進んだ。

そして、本館の玄関口へと辿り着く。

玄関口の木製の扉は固く閉ざされていた。しかし、彼女が辿り着くやいなや誰の手も借りず勝手に開き始めた。

彼女は慎重に扉の中へと入った。

ふと目の前を通り過ぎる一本のほうきに目が行く。

ディズニー映画に出てきそうな魔法のほうきは、独りでにシャッシャカと掃除をしている。

左手からは、宙を浮くトレーに乗ったティーカップたちが楽しげに踊りながら、どこかへと行こうとしていた。

そんな中、彼女の目の前に礼服を着たウサギ顔の男がやってくる――どうやら、この家の家令のようだ。

彼女を前に一礼するなり、無言で「付いてこい」と言わんばかりに歩き始めた。

導かれるがまま後を追う。

エントランスの階段を登り、回廊を巡って二階へと上がる。さらに左手の通路を曲がって、奥へと進む。

案内されたのは、観音開きの扉で閉ざされたある一室だった。

扉の前に来た途端、ウサギ顔の家令が片方の扉を開いた。物陰に隠れるように扉を押さえて立ち、彼女を部屋の中へと招き入れる。



「ようこそ、幸せの舘へ」



室内へ入ると、これまたウサギ顔の白い燕尾服を着た男が挨拶してきた。

背は家令に比べるとだいぶ小さい。

身体は太っちょで、輝くような白い毛並みが上品さを現している。ヒゲが自慢なのか、チョロンと巻かれたヒゲにしきりに触れていた。

しかし、それ以上に彼女が気になったのは、窓辺の円卓に座る『彼』の姿だった……。

ずっと外を眺めているのか、こちらに気付いた様子はない。それどころか、無視しているようにも思える。

彼女は喫茶店の一幕を思い浮かべながらも、彼に話しかけようとした。



「これまた可愛らしいお嬢さんだ」



ところが、間を割って男爵が話しかけてきた。

彼女は退いてもらおうと手を出して除けようとした――が、逆に捕まれてしまう。それどころか、手の甲にキスをして敬愛の意を表されてしまった。



「これはほんのご挨拶代わり――して、今日はどのような幸せについてお聞きになりたいのですかな?」

「い、いえ、それより私は……」

「宝くじの当て方から運命の赤い糸まで、なんでも存じておりますゆえ。仰っていただければ、貴女のお望みの幸せを見つけて差し上げましょう」

「……あ、あ、あの……」

「どうかされましたかな?」

「盗まれた幸せは……」

「ご心配なく。また手に入れればいいのですから!」

「で、で、でもそんなに簡単に手に入るものじゃ」

「いいんです。それよりも、貴女のお望みをお聞かせくださいませんか?」

「……私の……望み……」



そう問われ、ゆっくりと窓辺に向かって指を差す。

彼女が示したのは、紛れもなく彼だった。すぐに男爵も気付いたのか、クルリと振り返って窓の方を見ていた。

しかし、とっさに向き直って、



「彼がどうかしましたかな?」



と問いかけてきた。

彼女は求めるように返事をかえした。



「彼と居させてください。それが私の幸せなんです」

「貴女といえど、それは無理なお願いですな」

「どうしてですか?」

「だって、その幸せはもうここにはありません――私が盗まれたと言った幸せは、貴女自身が持っていた幸せのことなのですよ」

「じゃあ彼と居たいという私の幸せは……」

「はい、もうとっくにこの世にはありません」

「……そ……んな……」



心からなにかがこぼれ落ちる気分だった――。

彼女は、死刑宣告のような男爵の言葉に絶望を抱いた。しかし、それでも諦めきれず、制止しようとする男爵を避けて彼に詰め寄った。



「ねえっ、お願い! もう一度、もう一度やり直そうよ!!」



その言葉に彼が彼女を見る――が、返事はない。

まるで役割を与えられた操り人形のように顔を眺めている。彼女はどうにかして言葉を引き出そうと、さらに語気を強めて投げかけた。



「なにか返事をして。私は、こんなにアナタを求めているのに……」

「…………」

「ねえ、お願い!」

「………………」

「お願いだから……」


縋り付くように彼の答えを求める。

しかし、返事はない――。それどころか、窓の方を向いて彼女と顔を合わせようとはしなかった。



……ただ、答えがほしい。



彼女は祈った。

だが、いくら願おうども彼は役割を与えられた人形のように口を閉ざしたまま。いくら待てども、希望の言葉は発せられなかった。

ひとときの沈黙が宿る――。

彼女は彼を、彼は窓の向こう側を。

同じ方角を向いているにもかかわらず、それぞれが見ているものはまったく別の物。そのことが悲しくて、彼女は涙した。



「さようなら、君とはもうここでお別れだ」



刹那、窓辺の彼が言葉を漏らす。

まるで胸を穿つ鋭いナイフのようだった。冷たくて鈍い痛みすら感じさせないそれは彼女の心を深くえぐる。

彼女は悲鳴も上げられず、ただ大きく目を見開いた。

衝撃と深い悲しみ――。

そのせいだろう。

途端に耳の奥で激しい雨音がザーザーと騒ぎ立てた。幻聴だとわかっていても、周囲の音をかき消す雨音は彼の言葉すら聞こえなくした。

ヒドく憔悴して、動揺を隠しきれずその場で倒れる。



「彼の機嫌を損ねた彼女をここから引きずり出せ!!」



ボンヤリとする意識の中、不意に男爵のくぐもった声が聞こえてくる。それと同時にドタドタという音が響いて、沢山の衛兵が部屋へと雪崩れ込んできた。



「さあ、我々と一緒に来てもらおうか」



衛兵の1人がそんなことを言ってくる。

だが、彼の言葉が深く突き刺さった彼女にはどうでもよかった。

腕をつかまれ、どこかへ連れて行かれようとも自分には関係ない――そんな風に思えてしまう。

彼女は自暴自棄になっていた。



……もういいや。このままどこかへ連れ去られるのなら、誰も知らない場所へ行きたいな。



彼女は本気でそんなことを思ってしまった。

そんなときだった。

コツッという音が彼女の真横でハッキリとした音を立てた。それで意識が覚醒させたのか、彼女は横になにかが立っていることに気がついた。



「顔をお上げなさい」



顔を向けると、いつの間にか男性らしき人物が目の前に立っていた。

だが、よく見るとその顔は人ではなかった。

灰色の体毛に覆われ、口元から左右に三本の曲線を描く細いヒゲを生やしている。眼はぎろつく

クルリと男性が振り返る。

すると、そこにはあの商店街で出会った猫の顔があった。



「……猫……さん……?」



彼女は驚き、猫の顔から一寸たりとも目が離せなくなった。



「ボーッとしている場合じゃない。君は、もうここにいてはいけないんだ」

「……だけど……私……」

「君の幸せはもうここにはない――さあ、ボクと一緒に早く逃げるんだ」

「で、でも……」

「さあ早く!」



と言って、猫は衛兵から彼女の腕を引き剥がした。

途端に衛兵が複数の槍を向けてきたが、猫はそれをモノともしなかった。白いマントを翻して彼女を覆い、その場から連れ去ろうとしたのである。

当然、彼女にはまだそこから去りたくなかった。



「待ってっ、彼も一緒に!」

「ダメだ――アレはもう君の知る彼ではない」

「それでも一緒にいたいの! お願い猫さん、彼を一緒に連れて行って!」

「残念だが、君と彼が一緒にいることは叶わないんだ」

「どうして!?」



とっさにそう問いかける。

しかし、猫は言いづらそうに深くシルクハットを深く被った。

それから、数秒の間黙っていたが、彼女の聞きたいという眼差しを窺って決意したのだろう。

ハァ~という深い溜息が漏れた。



「彼の目に君はもう見えていないんだ」



そう告げられた瞬間、彼女の中でなにかが壊れた。



……嗚呼、これは未練だ――幸せを求めるがゆえの未練。



彼女は気付いてしまった。



「ゴメンナサイ。もう行かなきゃ……」



彼女はスッパリと彼にすがることを諦めた。

それから、猫と共に屋敷を出た。

背後からは何人もの衛兵が追ってきている。逃げて、逃げて、必死に逃げて、彼女は猫と共にどこかへ行こうと思った。

ふと周囲が歪み始めていることに気付く――。

いや、正確には真っ白な世界はしぼみ始めていたのだ。真っ白な世界は内へ内へとしぼみ、丸い団子みたいに小さくなっていく。

やがて、世界は1つのまとまりに圧縮された。

彼女は餡のように身体ごと押し込められ、あまりの窮屈さに悲鳴を上げた。このままでは自分も饅頭まんじゅうの具にされてしまう。

――そう思った直後だった。

意識はハッとなって別のところにあった。視界には、土砂降りの雨が降りしきる商店街の路地が映っている。



「夢?」



朦朧とする中、彼女は夢から覚めたことに気付いて思わずつぶやいた。

……それにしても、あの夢はなんだったのだろう?

右頬からもみあげの辺りを伝い、上へ上へと愛でるように優しく撫でてみる。しかし、頭がボーッとしてなんにも考えられそうにない。

代わりに目元から落ちたのは、空知らぬ雨の一滴だった。



「あ、あ、あれ……?」



彼女は自分が泣いていることに驚いた。

さっきまで夢を見ていたはずなのに、どうして涙を零しているのだろうか。そんなことを考えていると、彼との喫茶店でのやりとりが矢庭に思い出された。



「ニャ~」



右手で頭を撫でる猫が鳴き声を上げる。

彼女は、途端に嗚咽を漏らして泣き出した。

失恋した――。

そのことを知るなり、止めどない涙が2つの瞳から溢れてきた。幸い、激しい雨音のおかげで周囲には聞かれずに済んだ。

だが、その勢いは降りしきる雨にも負けず劣らない。





「ありがとう、猫さん」





ふと、目元にかかる一筋の光に気がつく。

空を見上げると、雲が割れて日差しが姿を現そうとしているのが見えた。さっきまで降っていた雨のせいか、雲と太陽の間にわずかな虹が出ている。

彼女はその様子をジーッと眺め続けた。



「……雨……止んだね……」



猫に語りかけるようにしてつぶやく。

その瞳には、もう涙はない――雨と共にすべて地面へと流れ落ちたからだ。

彼女は目元にわずかに残った涙を服の袖で拭った。

そして、顔を上げたまま路地へと足を一歩踏み出す。途端にパンプスの靴底が水溜まりに浸かって濡れた。

眺める雨雲が東へと移ろい行く。

彼女は猫と一緒に空を見つめ、真っ赤に腫れ上がった顔で優しくはにかんだ。



「なんだか私、まだガンバれそうな気がする」

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