第9話 半尺

 あの後、脱出した嬰はどうしたのだったか。

 

 むろん昔話など往々にして脚色されるもので、事実とは異なるもの。それくらいかくも十分承知だったであろう。

 僊仁せんにんは今、暗闇の本堂で龍像りゅうぞうを前に座っている。

 それにしても、あの鶴という娘は実に似ている。

 昔のえいに。

 私に。

 僊仁となって、あの頃とは何もかもが変わった。

 私は卑怯者だ。最後には戒律だ教えだ、他人の決定に責任を放り投げている。

 鶴に女人であることを盾に取った。

 そうすれば、昔自分がそうであったように、すごすご引くはずだった。

 しかし似ているとはいっても鶴は鶴。私ごときとは違う。

 今思えば、できぬ、などと言ったのは誰にであったのだろうか。

 鶴にだろうか。

 それとも、抑えねばあふれてしまいそうな若き嬰にか。

 鶴は、それでも目を輝かせた。

 その目は奴を思い出させる。

 伯昌はくしょう

 

 あの日。

 穴を抜けると道があった。

 どこへ繋がっているのか知らない。闇が広がっている。

 振り返れば、その炎は天を衝くがごとし。

 戻るか、このまま下るか。

 先ほどは答えを決める前に、伯昌めに無理やり押し込まれてしまった。転がり続け、穴を抜けた。

 伯昌は大馬鹿者だ。

 あれは修行中だったか。何が、娘に似ているだ。

 これは処分を待つ時。何が、蝉の亡骸を葬ってくれてすまないだ。

 第五門を閉めた時。何が、嬰は生きねばならないだ。

 一発をくれた後。何が、ありがとうだ。

 お礼を言わなければならなかったのは自分の方なのに。

 嬰は大馬鹿者です。

 今、決めました。

 穴を戻ることにします。


 嬰は謝らなければなりません。

 私がかの高位なお方から逃げてしまったばかりに、お父上もお母上も。

 罪は償わなければなりません。

 でも、自分のせいじゃないと思ってしまいました。

 半尺がないから。女だから。

 本当ならその時点で下山して、全てを終えているべきでした。

 なまじ伯昌がやさしかったから、甘えてしまったのです。

 だから、彼を。


 引き返す。

 手が汚れに汚れた。でも血も土も気にはならなかった。

 出口が見えた。不思議な感覚があった。

 もう一度生まれ直した、そんな気がした。

 気がしただけで、結局は何も変わらなかった。

 炎が目を焼き付ける。それが覚えている最後。

 いきなり大きな何かが起こって、

 気が付けば全てが終わっていた。


 気を失っていた。

 目を覚まして、穴から出ると、雨が降っていた。建物の火は鎮火している。

 もう、何も、誰もいなかった。

 伯昌も。

 あるのは千貫せんがんたき

 もうわかっていた。全ては終わったのだと。

 滝壺に近づく。

 五歩、四歩、三歩、二歩。

 止まる。両足がそろう。

 自分は何をしにこの僧院まで来たのか――

 決める。

 右足を踏み出す。

 あと一歩。

 つま先が滝壺の上に浮いている。

 あと、半尺(15センチ)だ。

 それで全てが終る。

 体が震える。

 早くやらなければならない。

 自分も伯昌の後を追わなければ。

 全てに絶望して、この僧院に来たのではなかったのか。

 即身天となり皆の救いとなるため、来たのではなかったのか。

 自分が自分でなくなることなど、覚悟していたのではなかったのか。

 だったら、こんなところで立ち止まっている時間などあるはずがない。

 理屈ではそうだった。

 感情では違った。

 怖い。


 こうしていてどれだけ経った。

 すぐに勇気を出していたら、こんな恐怖など呼び寄せることもなかったような気がする。

 さあ、やれ。

 震えが――

 震えが止まるまで待っていたらいつまでも水中入定すいちゅうにゅうじょうなどできやしまい。

 戒律が――

 戒律が何だ。そんなものハナから守る気がないからこの場所にいるのではないか。

 私は女――

 女であることなど一時しかなかったはずだ。兄弟もおらず男として育てられてきたではないか。

 龍がお怒りに――

 その龍を見たものがどこにいる。龍など存在しない。いたとしてもその龍の中には伯昌が、

 伯昌。

 怖いよ。

 あの男もこんな恐怖と戦ったのだろうか。

 それとも、奴のことだから気にも留めなかったか。

 伯昌のことを考えると、こみあげてきた。

 震えが止まらない。

 雨のせいだ。そう思い込みたかった。

 だとしたら、この雨を降らせている龍――伯昌のせいだ。

 自分がこの滝に入定できないのは、やっぱり伯昌のせいだ。

 ずるい。代わってほしい。

 大して恐怖も感じず入定して、伯昌は龍になったんだ。

 そんな自らの妄想をうらやんだ。

 かかとを釘で打ち付けられたように、つま先は浮いたまま。

 あと半尺なのに。

 そいつはそのまま膝を抱えてもう動かない。

 水面は落ちてくる水滴で乱れている。

 落ちたのは果たして雨だけだったか。 


 嬰にとって、永遠の半尺がそこにあった。



 半尺は体躯たいくによる差ではない。

 心の差だった。

 たかが踏み出す足の一歩の差でしかない。

 昔、確かに伯昌は言った。

 皆、半ら半尺。

 でも、皆が半ら半尺なのではない。

 我、嬰のみがこの僧院という世界で半尺足らずだったのだ。

 伯昌。

 もう永遠の存在となっただろうか。

 どうあっても、この半尺の差は埋まらない。

 もう二度と。

 

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