第2話 僊仁院にて

 門柱には「僊仁院せんにんいん」と刻まれている。

 門柱の前には坊主頭があった。

 元の姿を知らない以上、見てたところで歴史の変化など分かりやしないのに、は観察し続ける。

「……よし」

 何か決心がついたか。

 ひょっこり立ち上がった。

 門柱の「仁」ほどしかない少女の背は、一刻経っても変化していない。門柱は黙して語ることがなかったが、もし口が利けたのならうんざりした顔でこう言っただろう。

 うっとうしいからとっととどっかいけ。ちび。

 じろじろ見られるのはそのくらい嫌だ。かくはそのことを一番よく知っている。

 鶴というこの少女は、幼少から曾祖父に僧院そういんのことを聞かされてきた。

 曾祖父である陳昌ちんしょうは、たいそう鶴を溺愛できあいしており、あれやこれや話を聞かせた。最初は、無知な子供に道理と教育と礼節を兼ねた話をした。

 が、しまいには主客転倒しゅかくてんとうし、「もう聞き飽きた」と「もっと話したい」とが争い、いつも「もっと話したい」が勝利を収めたのであった。

 そうなるとそれはもう厄介で、鶴は鼻をほじりながらでもそらんじられるようになるまで説法をされ続けた。聞き士に勝る陳勝のはなし、と近所では懐かしまれている。

 鶴がもっと嫌だったのは、ついでに鶴のことも金魚のふんのように話について回ることだった。これは大人が悪い。

 それから少女はすっかり道理まで嫌いになってしまった。

 その道理の権化のような僊任院にわざわざ来たまでは良い。

 が、

「どうすっかなあ」

 誰も見当たらない。

 輝かしいまつ毛が、しなやかに陽の光を弾く。

 美しい顔立ちからは想像もつかない剃髪ていはつに、伏魔殿ふくまでんを超えたとは思えない華奢きゃしゃな体躯に、誰が彼女の武勇伝を本当だと信じるのだろう。

 鶴はそういう奴らをこうやって納得させてきた。

 五歩、四歩、三歩、二歩、一歩、

 門扉もんぴの前に立つ。扉を拳の裏でバンバン叩く。

 大きく息を吸って、叫ぶ。

「おーい!」

 返事はない。

「……誰もいない?」

 門扉は押してみるとすんなり開く。鶴はそれも気にせず、顔が真っ赤になるほど吸って、

 吐く。

「返事をしろお――――――!」

 むなしくも咆哮ほうこうはそのまま下界へと去っていった。

 鶴はいつもこんな調子で大男たちにも勝利してきた。

 男なんかにゃ負けやしない、と。

 たまに負けたけど。

 ときに、

 曾祖父の話の中に出てくる僊任院は、入り口は門徒であふれ、中に入れば龍がまつられており、修行は厳格に行われ、一秒とて空気がよどまない場所のはずなのに。

 不思議に思い、鶴は中をのぞき込むことにした。

 顔だけ門に突っ込んで中を覗いて、

 気が付く。

 何かいる。動いた。

 鶴は思わず頭を引っ込めた。もう一度しっかり見てみようと思い直して、別に何も変わりやないのに、今度はゆっくりと覗く。

 見えたのは、煤こけた建物と煤こけた行き倒れ。

 修行の一環か。いやそんなはずはないか、と思い直す。

 動いた。まだ生きている。

 それなら、とすぐさま鶴は僧に駆け寄って、身体を揺すり、

「おい。おい! 聞こえるか!」

 すると、僧は微かに身震いをした。

「……うん。聞こえるとも」

 が、そう言うと、そのまま気を失った。

 残された鶴。

「……どうすっかなあ」

 途方に暮れた。



 その僧が目を開けた時、そばにあったのは坊主頭。

 鶴は僧が目を覚ましたことに気がついて、

「大丈夫?」

 煤けた天井を背景に、心配そうな顔が覗いている。

「ええ。そなたは……」

 僧は目の前の人物に見覚えなし。記憶あいまい。

 僧は周囲を見渡す。

 その間、鶴は僧をじっと見つめていた。

「私は鶴。あなたはここの僧か?」

「……うむ。私は」

 ああ、と何か納得をし、僧は続きを話そうとする。

 だがのどが粘りついたのか、次の言葉が出てこない。

 僧は体を起こし、龍像りゅうぞうを背にずまいを正す。

 それから、

わしは、僊仁院二十一代大僧天だいそうてん

 大気が震えた。続いて、

僊仁せんにんだ」

 鶴は背中を正された。

 言葉に、ではなかった。

 死人のつらだったのが一転して、鶴の眼前がんぜん荘厳そうごんに満ちた別の顔が現れたからである。

「して、其方そなたはなぜここに」

 答え如何いかんによっては――

 選択を迫られている。そう思った。

 相手のくらいはどんなもんか分かりゃしない。知りたくもない。

 ただ、自分の名誉のために言えば、これは決して道理嫌いのせいでもない。ろくに信仰など持たぬ者にはそう珍しいことでもないの。

 しかし、鶴も礼儀くらいはわきまえている。

 が、曾祖父ゆずりの話術を脳内で駆使して出した答えが、まず確認を取ること。時間稼ぎをしながら考えてみるべし、だった。

「ここは、僊仁院で、あって……正しいでしょうか」

「確かにここは僊仁院」

「伝わる話は、本当でありますか」

「話本当とは」

 即座に返答。お見通しだと言わんばかりだ。まずい。

 汗が背中をつたう。

「本当に、即身天そくしんてんが為され、龍が降りたのか」

 僊仁はうつむいた。

 それはそのとおりということか、それとも、

「もう今は昔のこと」

「昔はあった、のですか」

「しかし其方……」

 いやな予感がした。

 言葉の澱みは大波をもたらす。鶴は経験からそれと似た雰囲気を感じ取った。

 次の言葉を受け止めようと、鶴は唾液を飲む。

 来る。

「鶴、其方は女人だろう」

 そら来た。やっぱり。しかしこの程度な

 僊仁。

「女人には関係のない話だ。それより、儂はお礼がしたいのだが」

「……でしたら、私めに即身天の修行、」

「それはできない」

「なぜ。確かに私は女人です。しかし男として育てられてきました。だから――

「もうできぬ」

 鋭い返答が言葉を摘んだ。冬がきた。声は突き刺すような冷たさを持っていた。

 もう一度確認をするように言葉が漏れ出た。

「できぬ」

 鶴はぐうの音も出なかった。

 僊仁はくうを睨み、鶴は軽く握った手を震わせ、陽は既に帰り支度したくを始めている。


 時が経った。

 雷。

 僊仁は一度天井を仰ぐ。

 天命

 そう言ったのだろうか。

 僊仁の背後に祀られている龍像が、ただ見下ろしている。

 音が止み、静寂せいじゃくが訪れた。

 そして、本堂内に差し込む茜がその面積を縮め、風が戸を叩き、次第に雨も伴い始めた頃、

 僊仁が口を開いた。

「いいでしょう」

 突然の声に、鶴の反応はない。

「もうこの僧院にいるのも儂とそなたのみ」

 山を超えてきたのが嘘のように、そこにはまだ齢15の少女がいるのみ。

「誰が何と其方に教えたか知らぬが、お礼に少し話でも致そう」

 返答はない。

「この僧院に伝わる、もう儂以外は知る者もいない言い伝えを」

 しばらく死んでいた鶴が、ようやく首を縦に小さく二回振った。

「そなたにも、いや、そなただからこそ、話しておくべきことやもしれぬ」

 僊仁は質実しつじつに、

「なに、つまらぬ昔話よ」

 気がつくと、遷仁の前に顔がある。

 祖父の話を聞くときと大違い。今度は、鶴は聞き逃さないように身を乗り出し、耳を澄ませている。

 まるで餌付えづけをされた野良犬のよう。

 外にはただ、雨があるばかりである。

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