ラシェッド2. きっかけ

「――――ここまで来りゃあ、もう見つからねぇだろ」


 建物と呼ぶにはあまりにもみすぼらしい、背の低い掘建小屋が立ち並ぶスラム街。日も沈み薄暗くなったそこは、まるで黒い藪のなかのような不気味さを漂わせ始めていた。


 ラシェドは周りを確認しながら銃をホルスターに収めた。

「僕、もう、歩けな………」

「肩は貸さねぇからな。寝床はすぐそこだから、もう少し歩け」


 肩で息をするクレイを連れて、細道を進む。


 二人はこのスラムにひしめくように陳列する、掘建小屋の一つを寝床として使っている。住人だっただろう一人の老人は、小屋の隅でうずくまって冷たくなっていた。それが幸運だったと言えばクレイは嫌がるのだろう。だがラシェッドは、とりあえず落ち着ける場所を見つけることができたのは、どういった理由であれ良かったのだと思っている。


 人がスラムに流れてくることがよくあるのか、他の住民たちはラシェッドたちに干渉してくるどころか、気にもとめていない様子であった。その点でも、今のところは二人の住処としてスラムは悪くないと言えた。


 地べたに座るのと大して変わらない、汚いカーペットに二人して座り、もとから置いてあったランプをつける。


「―――あ。また明日、水汲みに行かなきゃ」


 クレイが二本目のペットボトルを開けながらつぶやいた。彼が飲んだ後にラシェッドも水を一口飲む。


「食いもんは?」

 バッグパックを漁るクレイに尋ねる。顔を上げた少年の眉尻は下がっている。口に出さずとも、何が言いたいのかだいたいわかった。

「たぶん明日で終わり……」

「………チッ」


 本格的に餓死の危機だ。少年兵としての生き方以外を知らなかったラシェッドは、どうやったら働けるのかなんて知らない。まして目の前のお坊ちゃんが、身を削って働くということを知っているはずがない。


「あ、あの……ごめん……?」

 無意識に睨みつけていたらしい。ラシェッドは我に返り、ランプの方へと視線をそらす。


「ま、まあ、明日貧民街に行ってこれからのことも考えようよ。今日はこれ食べて休もう」


 気を使うような調子で、クレイは残りわずかな豆の缶詰を開けた。本当は、ラシェッドは食べなくても我慢できるのだけれど、こればかりはクレイが譲ってくれず、小屋で見つけたコップに取り分けられた豆を口にする。


「明日、働けるとこ見つかったらいいね」


 しばらく無言で夕食を摂っていると、不安になったのか、クレイが唐突にそうこぼした。ラシェッドはコップの底を叩いて、残っていた豆を口の中に落とした。食べながら彼の言葉に応える。


「アテなんてどこにもねぇけどな。ま、最悪盗みでもなんでも―――」

 言いかけて言葉を止めた。クレイを見る。

 

 ――またダダこね出すか?


 そう思ったが、クレイは苦笑しているだけだった。自嘲しているようにも見える。こっちが困惑しているのを感じたのか、彼は笑みを浮かべたまま言った。


「それは絶対ダメって言いたいけど……ちょっと仕方ないかもって思っちゃって。なんだか……僕もこうやって慣れていくのかなぁって少し怖くなったよ」


 それはきっと、銃の扱いも含めてのことを意味するのだろう。


 ラシェッドはうつむきがちなクレイをじっと見つめる。真新しい頰の火傷が、ランプに灯されてやけに生々しく見えた。


 適応しているといえば聞こえはいいが、果たしてそれは彼にとって、あるいは自分にとって望ましいものと言えるのだろうか。今のところ、答えは分からない。だからラシェッドは、話題を変えることぐらいしかできなかった。


「―――盗みは本当に死にそうな時だけだ。明日なんとかするから、うじうじ考え込むクセいい加減やめろ」

「うん……へへ、ごめん」


 力なく笑ったクレイは、少しだけはにかんだ表情をしていた。ひとまず暗い雰囲気にはならずに済んだと内心ホッとしながら、ラシェッドは銃の整備をし始めた。


「食料の他に何か必要なものってある?」

 バッグパックの中身をひっくり返しながらクレイが尋ねてきた。ラシェッドは数秒考え、


「弾だな。あとは……それくらいか」

「うーん、やっぱり銃弾は必要になるのかな。アザムさんみたいに親切な武器屋さんとかいるかな……」

「あいつが親切ゥ?」


 思わず聞き返すと、彼は屈託のない笑顔を見せた。

「とってもいい人だったじゃないか。たくさんお世話になったし………」

「ぐ……」

 強く反論できないのが悔しい。言い返す代わりに、ラシェッドは整備し終えた銃を枕元に放り、二つ目の整備に取り掛かる。


「―――あのジジィが親切かどうかはおいて、武器を譲ってくれるヤツを見つけなきゃならないのは確かだ。食料はどこでも売ってるが、銃とか弾とか売ってるトコってのはそう簡単に見つかるモンじゃねぇからな」


 アテがない今は、人づてに聞いて探し出すしかない。


 とてつもなく面倒なことになりそうな明日の予定を組み立てながら、ラシェッドは大きくため息をついた。


「地図とかに武器屋さんの場所のってないのかなあ」

 一通りバッグパックの中身を整理し終えたクレイが、今度はカーレッドからもらったポーチの中を確認しだした。


「それはソヘールまでの地図だろうが。それに、武器屋のある場所を地図で示すアホがどこにいるんだよ、アホ」

「ちょ、ちょっと言ってみただけだよ………」


 そんなに怒らなくてもいいじゃんか………。しりすぼみになっていくクレイの言葉を聞きながら、ラシェッドは銃の整備からナイフ磨きへと作業を移行する。


「―――地図の他に入ってたのは……あ、ちょっとだけ弾が入ってるよ」

「よこせ」

「はい、どうぞ。一緒に入ってた水と携帯食料はもう食べちゃったし、あとは……ん?」

「あン?」


 言葉を切ったクレイを疑問に思い、ラシェッドはナイフを磨くのをやめる。クレイに視線を移すと、彼は小さく折りたたまれたメモのようなものを見つめていた。


「それ何だ」

「わかんない。カーレッドさんがポーチに入れっぱなしだったとか?」

「何が書いてある」

「ちょっと待って……あ、これ……」


 クレイがメモを見て困惑していた。ラシェッドはその表情で察した。

「ま、英語なわけないか……」

 ラシェッドは文字が読めない。結局メモの内容は分からずじまいになってしまった。そう思ったが、クレイは小さく首を横に振った。


「あ、いや、英語なんだけど……」

「じゃなんで黙るんだよ」


 ラシェッドはクレイの隣からメモを覗き込む。確かに英語のようだ。文字の羅列に混じって、数字も記されていた。

「何だこれ」

 眉をひそめてメモを睨む。するとクレイはぽつりと答えた。

「これたぶん……住所だよ」


 ソヘール南地区、32の5番地。


 確かめるような調子で、クレイはそう続けた。

 ラシェッドはそんな彼の横顔を見て、それからまた走り書きへと視線を戻す。


「―――や、やっぱり、渡すときに出し忘れたのかな?」

「いや、英語で書かれてるってことは、英語が読めるやつに当てたものってことだ」


 ラシェッドはクレイからメモを奪うと、ランプの光を頼りにそれをまじまじと観察した。


「見た感じ古いメモってワケじゃなさそうだし、イフリート内では英語なんてほとんど必要ない。そもそも、オレたちは地図に従って南からここに来た。ソヘール南地区ってのも、おそらくこの辺だ。絶対偶然じゃない」


 これは間違いなく、自分たちへ宛てたものだ。


 ラシェッドが黙ってメモを見ていると、クレイが不意に疑問を口にした。

「でも、それなら僕たちに何かメッセージとかがあってもいいんじゃない?」

「大方、情報に従うか従わないかは自分で決めろってところだろ。この住所が助けになるかどうかも含めてな」


 ラシェッドは鼻をならして、それからクシャリと紙切れを握りつぶした。そしてそのまま部屋の隅に放る。


「な、なんで⁉ あのメモ信じないの‼」

「違ぇよ、もう覚えたから必要ないだけだっつの。明日は一日中歩き回るかもしれねンだ。もう寝る」


 ラシェッドは上着を脱いでタンクトップ一枚になると、ぎしぎし音を立てる狭苦しいベッドに潜り込んだ。


 背後でクレイがほっとしたように息をついたのが聞こえた。そしてランプの明かりが消え、クレイもベッドに入ってきた。最初の頃はくっついて寝るたびに慌てたり、こっちが苛立つほどに抵抗を示していたクレイだったが、今はもう慣れたのか、騒ぐことなく眠るようになった。


「確信はないけどさ」

 背中合わせになっているのだろう。クレイの声が少しくぐもって聞こえた。ラシェッドは少しだけ首を動かして、彼の言葉を待った。


「きっと、その住所にいる人はさ、僕たちのこと、助けてくれると思うよ」

「は、どうだかな」


 適当な返事をして、ラシェッドは壁の方に向き直り、シーツを肩までかぶる。するとクレイが少しムキになった。


「だってカーレッドさんは、ラシェッドのことを自分の子供みたいに大事に思ってくれてるから―――」

「あーもーわかったよ。…………ったく、さっさ寝ろ」

「いてっ」


 これ以上話しがむず痒い方向へ飛躍しないように、ラシェッドはクレイの後頭部を手の甲で軽く小突いた。顔を半分までシーツに埋めると、ゆっくり瞼を閉じる。


 ――自分の子供みたいに、ねぇ。


 イフリートに残してきた(といっても、彼らがそれを選択したのだが)車椅子の男と、その従者のような青年のことがふと頭をよぎる。彼らは今頃、どうしているだろうか。この国が平和になるころに、もう一度会えるだろうか。


 考えにふけっているうちに、ラシェッドは眠りに落ちていった。

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