ラシェッド1. 少女の新しい日常

 気がつけばもう空が赤く染まり始めていた。


 ラシェッドは残り少なくなってきたタバコに火をつける。見知らぬ誰かのポケットから拝借したライターもまた、あとどれくらい使えるかわからない。決してヘビースモーカーというわけではないが、こうも何もない時間が続くと、タバコの消費量もそれなりに増えている気がする。今だってこうしてドラム缶に座って夕日を眺めていること以外に、何もすることがない。


「お、終わったよ……ってちょっと?」


 息も切れ切れに呼びかけられ、ラシェッドは我に帰る。目の前で汗だくになったクレイが、彼にしては珍しく恨めしそうにこちらを見ていた。


「ンだよ」

「君が言う通り、スクワット終わったよ」

「次腹筋」

「さっきやったじゃないか!」

「あ? ―――ああ、悪りぃ」


 すっかり忘れていた。もはや泣きそうになっている少年に軽く謝罪の言葉を向け、ドラム缶から降りる。


「んじゃもうスラムに帰るぞ。その瓶持って来い」

「うん…あ、ねえ待ってよ!」


 ぼーっとしていたことでバツが悪くなり、クレイよりも先を歩こうとした。しかし彼はというと、横に並んで覗き込んできた。外套の奥の青灰色の目が、心配そうにラシェッドを捉える。


「大丈夫?」

「何が」

「いや、何がっていうか……なんかぼんやりしてるから君らしくないなって思って……」


 普段からぼけっとしていることが多いクレイにそう言われると、なんだか少し腹立たしい。ちょっとしたお返しに煙を彼の顔めがけて吐き出してやる。


「うぇっ、けほっ」

「余計なお世話だ。やることなくて退屈してただけだっつの。あと大丈夫じゃねえのはお前の足だろ。年寄りみてぇな歩き方になってるぞ」


 するとクレイは心外だと言わんばかりに口を開いた。

「だって君が……」

「あ?」

「……なんでもない」

 無理やりに会話を終わらせ、いつもの調子を取り戻したラシェッドは黙って歩く。不満そうな面持ちではあったものの、クレイもまた前を向いて隣を歩いた。


「でも、多分いいことだよね」

「何のことだよ」

「あ、いや、君が退屈だって言ったからさ。その……何も起こらないのが、一番いいよなぁって思って」


 金色の髪が夕日を浴びてきらきらしている。少し照れたような顔をするクレイを横目で見遣り、気まずい気持ちなって目を逸らした。


「どうだろうな。何も起こらなきゃ何も変わんねぇし」

 曖昧に返事をすると、隣に並ぶ少年は苦笑した。

「そりゃあ……いつまでもここで暮らしていけるとは僕も思ってないし、このままでいいわけじゃないんだけど」


 何か仕事とか探したほうがいいのかなぁ。独り言のように呟いたクレイの言葉には、ラシェッドも少なからず賛成だった。


 首都に来てみたはいいものの、金もなければ頼りがいるはずもない。しかたなく、二人は貧民街よりも少し街から離れたスラムに身を置いていた。倒壊寸前の建物が乱立する貧民街もひどいものだが、「ゴミ溜め」と名高いソヘールのスラムにたどり着いた時は、ラシェッドですら驚きを隠せなかった。


「せめて貧民街でできる仕事と寝床が見つかるまで、スラムで過ごすしかない。……お前だけアメリカ大使館に行くって手もあるけど」

「えっ、そんなのやだよ! 君と一緒にいたい!」

「冗談だからデカいこえで痒いこと言ってんじゃねえよ」


 顔をしかめつつも、ラシェッドはほんのちょっとばかり安心した。彼は自分の隣から離れていかない。少なくとも、離れていくつもりはない。そのことが今後への漠然とした不安を和らげるのだった。


 それから二人はしばらく互いに無言だった。半壊状態の二階建ての角を曲がり、そろそろスラムに出るところだった。


「ねえ、ラシェッド……!」

「――――何の用だ」

 クレイも気づいたようだ。足を止め、振り向きざまに数人の気配へと声をかける。少しの間を置いて笑顔の、だが明らかに苛立っている五人組の男がこちらに歩み寄ってきた。あっという間に周囲を囲まれる。ラシェッドは短くなったタバコを地面に吐き出した。


 数日前から、貧民街をうろつくと必ずと言っていいほどチンピラに遭遇するようになった。理由は大体、人攫い。しかも突っかかってくる人間は限られていて、この男たちもその中の一組であった。


『いきなり来たガキがいい気になってんじゃ――――』

『3人がダメだったからって今度は5人かよ』


 失笑してやると、リーダー格と思われる男が眉間に青筋を立てた。

『おいコラ、痛い目見るだけで済むと思うなよ――!』

 その言葉を皮切りに襲ってくるチンピラを、ラシェッドは冷めた表情で観察した。

 まず、先陣切って飛びかかってきた男をかわし、銃床でガラ空きの後頭部を殴りつける。


「クレイ避けろ!」

「ひぇっ!」


 クレイがしゃがむ。背後から彼に迫っていた男の腕を切りつける。ラシェッドのナイフをギリギリで避けたクレイは、頭上の攻防戦におののきながらも避難した。


『こンの、ちょこまかと……!』

「うわっ! ちょっ‼」


 本当に避けるのだけは上達したようだ。と、クレイの動きをどこか冷静に評価しつつも、相手のみぞおちに肘を入れ、ついでに肩を脱臼させる。


「ラシェッド後ろ!」

 クレイの声に反応して振り向く。リーダー格の男が拳銃を取り出した。ナイフを持ち変えると同時に拳銃を抜き、相手の腕を撃った。


『うぁ‼ クソ、腕が……』

 退路に立って呆然としている大男の片足を撃つ。大男が地面に伏すのを見たクレイが、慌てたように肩を掴んできた。


「ラシェッド!」

「殺してねぇよ! ほら行くぞ、走れ!」

『てめぇ! 待てクソガキ!』


 クレイの腕を引っ張って、ラシェッドは貧民街を抜け、スラムへと逃げ込んだ。

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