ラシェッド6. 少女は優しさに慣れない
「ねえラシェッド、どこに行くの?」
「……」
「ねえ、ラシェッ…」
「うっせえ‼」
ラシェッドはしつこく話しかけてくるクレイに、ついついそう叫んでしまった。クレイの口を閉じさせることには成功したが、周りを行く人々から視線を感じ、小さく舌打ちをした。
「チッ、……おい、帽子もっと深くかぶってろ」
「あ、うん」
隣を歩きながら大き目の帽子をかぶり直す彼を横目で見てから、再び前へと視線を戻す。
アザムの店を後にし、二人はセンターシティ―の表通りを歩いていた。あの日の、老人との不愉快な会話を思い出し、背中に変な汗が流れた。
「クレイ君はよく似ているね、彼女に」
そう尋ねられて、胸をえぐられるような痛さを感じた。この金髪の少年を助けたのは、単なる気まぐれみたいなもので、捨てようと思えばいつでも簡単に捨てられる。と、何度も思い込もうとしたが、アザムに突きつけられた言葉が頭の中をぐるぐると巡っていて、それの邪魔をする。
――だから、会いたくねえンだ。
あの老人は、自分が気取られないように、また気にしないようにしていることをいとも簡単に見破っては、楽しそうにそれを口に出す。それは耐え難い屈辱であり、同時に脅威だ。どんなに強くても、弱みを知られては勝つことは出来ない。
だとしたら、人の心をたやすく見透かしてしまうアザムはある意味最強だ。だからこそ、ラシェッドにとって彼は最も会いたくない人間という立ち位置を居座っているのであった。
――考えても気分悪ぃだけだな。
そう思うと、起きた時から引きずっていた変な緊張も、幾分かほぐれた。ついでに、アザムとの会話の一部始終も記憶の隅に追いやる。
数日前の夜なんかよりもずっと活気に満ちた町中を、車やバイクがゆっくりと移動していた。狭い道を行き交う人々は、太陽の光に目を細めている。
『おい、誰か止めろ!』
『警察呼べ! 警察』
唐突に響き渡った叫び声に、ラシェッドは思わず声のした方を見た。車道越しに人だかりができている。
「喧嘩……かな?」
クレイが心配そうに呟いた。
「ああ、多分な。けどあれは……」
おそらく、本人たちの事情ではなく。
『政府の独裁的政治が今のサミニアの現状を作り上げたのだ!』
『革命家気取りの暴力組織などがのし上がっていいはずがないだろ!』
『イフリートは国に革新をもたらす組織だ!』
『その革新とやらのために犠牲になった人間が多くいるのを知らないのか?』
『なんだと⁉』
喧嘩はすでに取っ組み合いにまで発展しており、止めに入ろうとする人間や見物する野次馬が集まっていた。
「ありゃイフリート派と政府派の抗争だ」
「一般人っぽいけど」
「一般人だってどっちかに偏ったりするんだよ。イフリートなんかは、一般人が加わってデモに参加することなんてしょっちゅうだ」
「へえ………」
クレイは興味深そうに観察すると、思いついたように訊ねてきた。
「ここって英字新聞とか売ってないかな」
「なんで」
「知っておいた方がいい情報が載っているかもしれないじゃないか」
なるほど。そうやって情報を集めたほうがいいのかもしれない。だがしかし。
「英字新聞なんてオレは見たことねぇけどな」
「じゃ、こっちの言葉教えてよ。そしたら、僕も君と一緒に新聞読めるし」
「無理だ」
ラシェッドは即答した。クレイが残念そうに眉を下げた。
「どうしてさ」
「オレは字が読めん」
「えっ」
クレイが目を丸くした。青いガラスみたいだな、と思いつつ、驚く彼にもう一度告げる。
「簡単な文とか単語は分かるけど、新聞とか本とかは全く読めねぇ。ああ、数字は分かる」
「でっでも、君英語話せるじゃないか」
「話せるだけな。オレ育ててたヤツが教えたからできるってだけだ。他にはフランス語と中国語ちょっと喋れるな。でも文字はからっきしだ」
歩きながら淡々と説明していると、クレイが驚いた表情のままになっていることに気が付いた。少しだけ劣等意識が生まれる。
「まあ、先進国のお坊ちゃんからすれば可哀そうなヤツなんだろうけど」
「そんなことないっ! 君、すごいじゃないか!」
自嘲気味に笑うと、予想外のリアクションが返ってきた。足を止めて彼を見ると、今度は目を輝かせて自分を見ている。
「な、なにが」
「だって! それってつまり口頭だけで外国語が喋れるようになったってことだろう⁉ しかも十三歳なのに! 僕なんてフランス語を小さい時から習っていても、話せるようになるのに凄く時間がかかったのに!」
「へ、へぇ……。そう、なのか」
すごいすごいと喜ぶ少年を見ていると、なんだかむず痒い気持ちになってきた。いつの間にか口元が上がりそうになっていることを自覚し、ぶっきらぼうに言った。
「すごくなんて、ないけどな。これくらいしか頭使うことなんてなかったし」
「でもやっぱりすごいよ」
「………」
――悪くはない、かな。
無邪気に笑う少年を見て、ふとそんなことを思った。
*
しばらく歩いているうちに、太陽はすっかり高く上り、気温も朝の比じゃなくなっていた。
「暑いなぁ………いたっ‼」
帽子を深くかぶりすぎたらしい。横を歩いていたクレイが、時計が取り付けられている街灯に頭をぶつけ、うめいていた。
「お前はそこにいるだけで目立つんだからさぁ…、気を付けてくんねぇ……?」
さっきのように声を張り上げないように気を遣い、涙目になっているクレイに注意した。帽子はかぶったままで、クレイが慎重そうにゆっくりと歩き出した。ラシェッドもしばらく歩幅を合わせていたが、あまりにゆっくり歩くので、だんだんイライラしてきた。
「ったく、遅ぇよ!」
ラシェッドはクレイの腕を乱暴につかみ、ずんずん前に進みだした。
「い、痛い痛い」
彼の訴えを無視して先を進む。さっきの街灯に取り付けてあった時計は二時を指していた。起きてすぐアザムのところを出たつもりでいたが、今朝起床してからすでに三時間以上経過していた。
――なんか食いモン売ってる店は……。
ラシェッドはあたりを見回し、一番みすぼらしい食品店を見つけると、クレイを引っ張って中に入った。
「そこで待ってろ」
クレイの腕から手を離しそれだけ言うと、ラシェッドは店主らしき男の方へと向かった。
『パン二つと水をくれ』
弾を買った時にとっておいた小さな黒い財布を男に差し出した。男はそれを受け取って金額を確かめていたが、やがて冷たい表情で言い放った。
『これじゃあパンは一つしか買えないね』
『ハア? ンだって?』
ラシェッドは男から財布をひったくった。財布の中にはコインが数枚入っているだけで、確かにパンを二つ買うのは無理がある金額だった。
――クソ…。もっと金もってそうなヤツ選べばよかった。
少しだけ後悔したが、過ぎたことをどうこう言っていても仕方がない。
『じゃ、ひとつでいい。水もくれよ』
『はい、まいどー』
無表情で品物を受け取ると、律儀にも動かずに待っていたクレイの元へと戻った。ラシェッドが戻ってくると、彼は人形のように端正な顔で微笑んだ。
「何買ってきたの?」
「メシだよ」
「あ…、そういえばお腹すいたなぁ」
「………」
どこまでものんきなクレイに呆れながら、ラシェッドはどこか座れる場所がないか探し、町の中央の広場に向かった。そしてボロボロのベンチを見つけた。
鉄製の歪んだベンチに座り、パンの入った袋をクレイに渡す。タバコに火をつけているラシェッドの隣に、クレイがちょこんと座った。
「少し休憩」
「ありがとう。―――あれ? パンは一つしか入っていないよ?」
クレイが戸惑ったように言った。
「オレはいいよ」
断ると、彼は表情を曇らせた。
「でも……ダメだよ。ラシェッドも食べなきゃ」
「だからいいって」
ろくに食べることのできない生活を送ってきたラシェッドにとっては、二、三日くらい何も食べられなくても耐えることができる。けれどクレイは固いパンを二つに分けると、ラシェッドに突きだしてきた。くわえていたタバコの火が、パンにつきそうになった。
「君が買ったんだ。僕だけ食べるなんてできない」
ラシェッドはしばらく無言でクレイを睨んでいたが、彼に引く気がないということを感じ取ると、差し出されたパンを乱暴にひったくった。
「フンッ!」
吸いかけの煙草を地面に捨てて、ちぎったパンを口に放り込む。
「ん」
「え、何?」
「水!」
「あ、ごめん……」
クレイの顔を見ずにペットボトルを受け取る。輸入品のようで、この国のものではない文字で何か記されていた。
無言のまま数分が過ぎ、ちょっと乱暴すぎたか、と何気なくクレイの様子を覗った。しかしクレイは何も気にしていない様子で街並みを眺めながらパンを食べていた。一人で気にしていた自分に何故かとてもイライラし、ラシェッドはまたそっぽを向いて顔をしかめた。どうにも自分は、思いやりや優しさに慣れないらしい。
――めんどくせぇ……。
だがその少年の純粋さにほんの少し居心地の良さを感じている自分自身に、ラシェッドは気付かない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます