ラシェッド3. 朝市にて

 久しぶりに、深い眠りについたと思う。ラシェッドはうまく機能しない頭で、ここがどこなのか、思い出そうとした。隣に人の気配を感じ、ゆっくり首を動かし、


「―――うわっ」


 金髪の少年にたじろぐ。少年は髪の色と同じ睫毛をその双眸におろし、静かに寝息を立てていた。一気に目が覚めたラシェッドは、昨日の出来事を鮮明に思い出していった。


 この少年は、クレイ。昨日、自分を危機から救った少年で、家族は銃殺されている。助けられた借りを返すために自分はこの少年を生かし、しばらく行動を共にすることを決めたのだ。少年の存在と生かした理由を頭の中で整理し、気持ちを落ち着けた。


 クレイを起こそうとも考えたが、まだ寝かせておくことにした。この細くて体力のなさそうな少年が一日動き回るには、できるだけ長く休んでもらった方がこっちにも好都合だと思ったからだ。


 クレイを部屋に残し、ラシェッドは一階に降りた。昨日カウンターにいたおかみもいない。起きていないのか、あるいは朝に開かれている市に出向いているのかもしれない。


 そういえば、昨日の夜は戦闘で疲れているにもかかわらず、何も口にしていない。何か食べる物は売っているのだろうか。


 ラシェッドは静かに宿を出て、表通りへと向かった。


 夜の冷気が残った外は少し肌寒かったが、日光が鬱陶しく照りつける真昼よりは随分と快適だった。建物を隔てたところから、町の騒音が聞こえてくる。ラシェッドは昨日通った道を正確に辿り、にぎわう表通りに出た。


 そこではラシェッドの予想通り、市場が開かれていた。店や民家のまえにテントを並べているせいで、随分と道が狭くなっている。おまけに人が多いものだから、前に進むことすら困難である。しかしそんな雑踏を器用にすり抜け、ラシェッドは品物を眺めつつ物色した。


「ちょっと、そこの缶詰ふたつ頂戴よ」

「はいよ」


 そんな会話を耳にし、足を止めた。若い女が缶詰を買おうとしていた。「そこのデーツも」と追加され、店主は缶を入れた紙袋を、無防備にも雑多に並べられた食料の上に置いた。ラシェッドはそれを見逃さず、腕を伸ばして袋をつかんだ。店主と女がラシェッドの姿を確認する前に、足早にその場を立ち去る。うしろの方で二人が騒ぐ声が聞こえた。


 その後もパン、そして財布を五つ盗み、そろそろ宿に戻ろうかと考え始めた時だった。


「おい、ガキ」

「………」

「おい、お前だよ、長髪」


 ラシェッドは無視していたが、どうやら自分のことを呼んでいるらしいということに気づき、振り返った。酒のにおいをくっつけた青年が二人、ニヤニヤしながらすぐ後ろに立っていた。


「……ンだよ」

「お前、さっきオレの財布スったろ」

「…スってねえよ」

「嘘つけ。オレ以外にも何人かの財布盗んでいくところをこいつが見たって言ってんだよ。サツに突きだされたくねぇんなら、ちょっとこっちついてこいよ」


 今ここで逃げてもよかったが、騒がれても迷惑なだけだ。ラシェッドは仕方なく彼らに従った。人ひとり分くらいの幅の建物の隙間に追いやられる。逃げ道をふさいでいるつもりなのか、ラシェッドの目の前に立ちはだかって壁に体重をかけている姿がやけにマヌケに見えた。面倒だ、早くおとなしくなってもらうしかない。


 そんなラシェッドの胸中も知らず、青年のうち一人が片手を突きだした。

「なあ、盗まれたって騒がれたくなかったら持ってる財布全部オレらに渡せ。お前はまた同じように盗めばいいだろ?」

「――分かった」


 ラシェッドの返事を聞くと、彼らはしてやったりみたいな笑みをその顔に刻んだ。確かに、ラシェッドは先ほどから自分に話しかけている青年と、ほとんど密着するほど距離を縮め、ジャケットから取り出した。


「はっ?」

「動くな」


 だがラシェッドが取り出したのは財布ではなくナイフだ。危険にきらめく先端を、青年の腹部に当たるか当たらないかの距離で固定させた。行きかう雑踏は二人の間に漂う緊張に気づかない。ラシェッドは周囲の雑音に溶けるような小声で言った。


「動いたら内臓なくなっちまうぜ。ついでに心臓にも穴をあけてやろうか」

「ぅひあ、た、助」


 彼は救いを求めて首を回したが、後ろにいたはずの連れは姿を消しており、彼の背後の市場で誰かが人ごみの中を走り去っていくのが見えるだけだった。


「残念。助けてくれる奴はもういないのか?」

「う、嘘。冗談だろぉ? なあ、オイ」


 返答する代わりに、真上にある怯えた顔を見上げた。無表情のラシェッドから何かを察することができたのか、目の前の顔が泣きそうに醜く歪んだ。

「な、なんだよ……。ち、ちょっと強請ゆすっただけじゃんか。見逃してくれよ。なな、なあ?」


 ラシェッドはあくまで無言を貫く。もちろん、このまま殺すつもりである。放っておいても害はなさそうだが、弱者が強者を喰うことは当然のことであり、理由はいらないはずだ。ただ、頭の中でそう繰り返しても、昨日の少年の言葉が頭に引っかかって、ラシェッドの行動を制止しようとする。


「…僕を助けたように、あの人を助けることはできないの?」


 少年の言葉が勝手に脳内で繰り返される。助けたところで何になるというのだ。そう反論したいが、殺して何になるわけでもないということを自覚しているからできない。どちらでも同じなら、一体どちらを選ぶ方が自分に有利なのだろうか。あの少年は、助けることにわずかでも利益を見出しているのだろうか。


 いや。


 そもそも彼は、得をする、しないで行動していないのだ。


 自分の正義に従って――という表現は少し大げさかもしれないがそれでも、彼は自身の行動を疑うこともないのだろう。昨日出会った直後に、そのことをまざまざと見せつけられた。


 思考が加速していき一秒がやけに長いように感じた。青年の荒い息も、ゆっくりと聞こえた。


 ――ラシェッド、あなたは強くならなくちゃいけないわ。でもその強さは弱い人をいたぶるためのものにしちゃいけないわよ。自分と、他の大切なものを守るための強さを身につけてね。


 そして思考の末に思い浮かんだのは、記憶の片隅から現れた彼女の言葉。


 ―――――どうして、今思い出す。


「………おい」

「ぁい⁉」


 呼ぶと、青年は情けない声で返事をした。ラシェッドは微動だにしない表情で告げた。


「死にたくなかったらそのまま後ろ向いて騒がずここから失せろ」

「ひ、ぇ? あの」

「もう一度言わせるのか? オレの気が変わっていたらどうする?」

「な…、スイマセン‼」


 くるりとを返し、指図されたことを忠実に実行する彼の後姿を一瞥し、ラシェッドもまたナイフをしまって歩き出した。


ふと、自分が標的を見逃したのだということに驚く。一度殺そうとしていた人間を、自分の意志で見逃すのはこれが初めてだ。


「………違うか」


 昨日あの少年を助けているから、二度目である。


 何にしても、自分にしては珍しい。

 自身のちょっとした変化に気づきつつ、ラシェッドは人のごった返す市をすり抜けて行った。

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