第二羽 卯月の人
何の変化もなかった五年間は、一瞬にしてその形を変えていく。
湯浅さんからうさぎを預かることになった私だが、これまでにうさぎを飼ったことはない。そのことで湯浅さんには学生時代に何を勉強してきたのかと怒られたが、それは理不尽である。
「仕方ないわね、私が一からうさぎの飼い方を教えるから」
私が預かるのだからむしろ私の方が立場は上だと思うのだが、それでも命を預かるのだからちゃんと学ぶ必要があることは確かだ。
こうして私は湯浅さんが台湾へ行くまでの三週間で、基礎知識を叩き込まれることになった。
平日はさすがにお互い仕事があるから、学ぶのは週末にしようということになった。学ぶ場所はというと、もちろんウーサがいる場所である湯浅さんの部屋だ。
小さい頃に女の子の部屋に行った記憶はあるが、大人になってから入るのは初めてだからドキドキする。これが恋人の部屋であればラブロマンスを期待出来るのかも知れない。だがそんな期待が出来ないことは、湯浅さんの部屋が物語っていた。
(なんだこれは)
湯浅さんの部屋は、私と同じマンションだから大きさや構成は同じなのだが、その全てがうさぎ仕様になっていた。
まず玄関にはうさぎの置物、その先の廊下にはうさぎ模様の敷物、廊下の右サイドにある台所の食器乾燥機にはうさぎの形やイラストがプリントされた食器が並んでいる。
「特にこのうさぎのコップは気に入っているの」
そう言って見せてくれたのは、陶器タイプのコップだ。側面にうさぎの顔の模様が逆向きについており、うさぎの耳を模した二本の突起が可愛く、それによりコップが立つようになっている。
コップをひっくり返すと、正しい向きのうさぎ顔になる。飾っても可愛いし、飲んでも楽しい。そんな素晴らしいコップだった。
居間に入ると、部屋の右奥に一メートル四方のうさぎ小屋がある。うさぎ小屋は四本足の机の下にあり、その机の上にはうさぎの餌や草、そして色々なうさぎの人形が飾られている。
「一つだけ注意しておくけど、うさぎの『食事』ね。ペットは家族なのだから、餌なんて言っちゃだめ」
湯浅さんの指摘に、私は納得して頷く。
そして、そのうさぎ小屋と机を取り囲むように柵がある。これはうさぎを自由に遊ばせるときのスペースを区切っているのだろう。
部屋の左側には、腰ぐらいまでの洋服タンスに、その上に本棚が乗っているという組み合わせが二セット横に並んでいる。
「なんでこんなちょっと不安定な置き方をしているのですか」
素直にタンスと本棚を一個ずつ、大きなものを買えば良い気がする。
それはね、と言いながら湯浅さんは本棚から一冊の本を取り出す。その本を見ると、表紙がぼろぼろに破れていた。
「私も最初は普通の本棚を置いていたの。でもウーサが届く範囲に本があると、こんな風に齧られてしまうの」
だから、ウーサが届かない範囲までは洋服タンス、そしてその上に本棚を置いているとのこと。地震がちょっと怖いが、このマンションは耐震構造だから大丈夫だろう。うん。
そんなことを思いながら、改めて本棚を見る。そこには様々なうさぎ関係の書籍や雑誌が並んでいる。うさぎ以外の本は、ぱっと見た限りでは見当たらなかった。
部屋の中央にはちゃぶ台がある。
「まぁ、座ってよ」
私は湯浅さんに促され、ちゃぶ台の横に座る。湯浅さんは冷蔵庫からお茶を取り出し、私の前にさっきのうさぎ型の陶器のコップを置いた。手にとって見ると、より一層可愛く見えた。
「ありがとうございます」
私は一息つきながら改めて部屋を見渡す。そして肝心なものがないことに気がつく。
「湯浅さん、どこで寝ているのですか」
私の部屋であればベッドを置いているスペースにうさぎ小屋があるのだ。
そんな私の発言に、湯浅さんは悪そうにニヤリと微笑む。
「何? いやらしいことでも考えているわけ」
「そ、そういうわけじゃないです」
私は慌てて否定する。
「ふふ。ちゃぶ台を片付けて、今はクローゼットにしまっている布団をここに敷いて寝ているわよ」
なるほど。だから片付けやすいちゃぶ台を使っているのか。
湯浅さんは、その通り、と頷いた。
会社でうさぎ付箋を使っているのだから、うさぎ好きということはわかっていたが、予想以上のうさぎ好きだった。
私は口触りの良さを感じつつお茶を飲みながら、うさぎ小屋を見る。今まではキャリーの中にいる姿しか見ていなかったので、こうして全身を見るのは初めてだ。私は改めてウーサによろしくと挨拶する。ウーサはそんな私を見ているのか見ていないのか、特に動くことも無く小屋の奥で横になっていた。
「今はお昼だから、まだちょっと眠いのかもね」
夕方になると元気になるから触れ合うのは後にしましょうと言われ、私は頷く。
そもそも私がここに来た目的は、うさぎを飼うことについて学ぶためだ。いつまでもこうしてお茶しているわけにはいかない。私は本棚を見ながら湯浅さんに尋ねる。
「うさぎを初めて飼う人が読むような本ありますか」
湯浅さんはあるよーと言いながら、本棚から一冊の本を取り出す。
そして、私に手渡す。『うさぎと共に暮らす時間』という本だ。
「まずはこの本を読んで」
うさぎの迎え方、お世話の仕方の基本が書かれているようだ。
だが私はこの本の内容よりも気になることがある。
「何か、本棚にこの本と同じような初心者用の飼育本がたくさんあるように見えるのですが」
本棚には、『うさぎ初心者本』『はじめてのうさぎ』『うさぎのいる生活』などなど、明らかに今私が受け取ったのと同じようなうさぎ初心者本が並んでいる。こういった本はどれか一冊あれば大体わかるのではないだろうか。ましてや湯浅さんは大のうさぎ好きなのだから、必要はないはずだが。
私がそんなことを思っていると、湯浅さんは私が何を言っているのかわからないといった表情をしている。
「私は知識目的にこれらの本を飼っているわけではないわよ」
「え、じゃあ何でですか」
「その本に載っているうさぎの写真を見るためよ」
なるほど。確かにこの本にも、うさぎの飼い方の前に、うさぎの種類の紹介と称して様々なうさぎの写真が載っている。一種のうさぎのグラビアのようにも思える。
でも、だからといってこれらの本も安いわけではない。それでも当たり前のようにこれだけ買っているわけだから、うん、そうだ。
彼女は、私のように名前だけの『卯月(うさぎ好き)』ではなく、本物の『うさぎ好き』なのだ。
私は湯浅さんのような本物になるつもりはないが、少なくともウーサを預かっている間の世話をしっかりするためにも、ちゃんとした知識を身に着けなければならない。
「さて、始めましょうか」
こうして、私と湯浅さんの、三週間という短期間限定の、週末だけ同じ部屋で暮らす日々が始まった。
★ うさぎエピソード 変形
当たり前のように私専用になったうさぎ型の陶器コップでお茶を飲みながら、ふと思う。
「うさぎって、丸まっているときの姿と、伸びているときの姿で全然違いますね。まるで変形ロボのようです」
私がそう言うと、寝転びながらうさぎを題材にした漫画を読んでいた湯浅さんがこちらを見て答える。
「人間だって、立っているときの姿と、こうして私のようにへだらくに寝そべっている姿は全然違うけどね」
湯浅さんはそう言うと、ウーサを見て寂しそうな表情を見せる。
「そしてうさぎは最後には千の風に変形し、月に帰るんだよ」
「なるほど」
うん、何言っているのかさっぱりだ。というか勉強しましょうよ。
★ うさぎエピソード うさぎチップス
ちょっと小腹が空いてきた。私は湯浅さんに何か食べるものは無いですかと聞くと、ペレットを出してきてくれた。それを食べるのはうさぎとペレットの味マスターの人だけでいいと断った。
「じゃあ、これを食べるのを手伝ってよ」
湯浅さんはそう言って台所の上の棚から出してきたのは『うさぎチップス』と書かれたお菓子だった。原材料は、うさぎ。ではない。
「一瞬恐ろしい想像しちゃったじゃないですか!」
「ふふ、気にしない」
うさぎチップスとは、アニマルカンパニー社という動物関係の商品を総合的に扱う会社の新商品だ。通常のサイズではなく、少し小さめの袋になっており、その代わりにうさぎカードがおまけで一枚付いてくるようだ。
「これが、そのカード。可愛いでしょ」
カードには様々な種類のうさぎの写真がプリントされている。確かにこれは可愛い。可愛いけど、
「これ、百枚ぐらいあるのですけど」
ニヤリ。湯浅さんは笑っている。私はため息一つ。
「食べればいいんでしょ」
私は観念して袋を開けると、中からさらに二つの袋が出てくる。一つはポテトチップスだが、もう一つは何だろう。
「こっちは、りんごチップス。人間も食べられるけど、うさぎが食べても大丈夫なものになっているの」
なるほど、うさぎと一緒にオヤツを楽しむことが出来るのか。コンセプトとしては嬉しいものだ。これがあと何十袋も残っているであろう現実を除けば。
今は現実を忘れ、パリッ。うん、美味しい。
★ うさぎエピソード 絵本
湯浅さんの本棚を見る。そこには絵本も置いてあることに気づく。
「うさぎを題材にした絵本、こんなにあるのですね」
私が小さい頃に読んだような気がするものは三冊程あったが、その他のものは見たことすらない。
「絵本も、小説や漫画同様、現在も出続けているからね」
確かに私たちが絵本に触れる時期はそんなに長くないから、知らない作品が多くて当然か。
そう思っていると、湯浅さんは一冊の絵本を取り出す。
「この絵本知ってる? うさぎのうーさん」
「なんか凄くパクリくさい匂いがするよ」
危険な香りがするので、中は見ないことにした。
☆
三週間という時間はあっという間に過ぎた。
カレンダーは十一月を示し、今日は、湯浅さんが台湾へと出発する日だ。湯浅さんは午前中だけ出社して様々な事務手続きを行い、いったん帰宅している。
私は今日は定時に退社し、マンションでウーサを預かるという段取りだ。
「ぎりぎりまで私の部屋にウーサの小屋を置いておきたいから、出発日に私が卯月君の家に運びいれておくよ」
少しでも長くウーサと一緒に居たい。その気持ちは三週間という短い間ではあったけれど、その間に見てきた湯浅さんのウーサに対する愛情の深さから充分に理解出来た。だから私は、湯浅さんに私の部屋の鍵を預けた。何らおかしいことは無い。
時刻は十八時過ぎ。仕事が一段落し、勤務時間も形だけの定時を過ぎたので、私は予定通り退社した。
そして、マンションの前に到着すると、
「おかえり」
そこには、休日に湯浅さんの部屋に訪れた際に着ていたような、デフォルメされたうさぎがプリントされたシャツに、ジーパン姿というラフな格好の湯浅さんがいた。その傍にはかなり大きめのスーツケースがある。そして、湯浅さんの手にはキャリーに入ったウーサがいた。
昨日まではずっと元気だったが、今日ばかりはさすがに湯浅さんの表情に不安な気持ちが見て取れる。
私はそんな湯浅さんに対し、ニッコリと微笑む。
「ウーサは私にまかせて、仕事がんばってきてください」
私の言葉を受け、湯浅さんはちょっとだけ笑った。
湯浅さんはキャリーの扉を開け、ウーサに行ってくるね、と声をかけ、頭をゆっくりと撫でる。だが、あくまでそれは短時間。
ウーサに寂しい気持ちを悟らせてはいけないのだから。
私は、扉が開いたままのキャリーごと、湯浅さんからウーサを預かる。
「改めてよろしくな。ウーサ」
そう言って、私もウーサの頭をゆっくり撫でた。ウーサは何かを悟っているのか、少し身体が強張っているようだった。
「あまり緊張させてもいけないな」
私はキャリーの扉を閉める。その行動をトリガーに、湯浅さんはスーツケースの取っ手を持つ。そして、
「はい、これ」
そう言って、私に二本の鍵を手渡す。一つは貸していた私の部屋の鍵だ。ということはもう一つは、
「私の部屋の鍵よ。本を読んだりペット用品を使ったり自由にしてくれていいわよ」
「それは助かります」
湯浅さんは、基本の賃貸料は払うけど光熱費は後で請求するからそのつもりで、と付け加えた。私は頷く。
「あと、洋服ダンスは開けないでよね」
私は、もちろん! と言いながら深く頷いた。もちろん! ココロの中ではニヤリといやらしく笑っているが。
気がつけば、そろそろ湯浅さんは駅に向かわなければならない時間になっていた。
「じゃあ、そろそろ行ってくる。ウーサをよろしくね」
湯浅さんはそう言うと、スーツケースのごろごろ音を響かせながら、旅立った。小さくなっていく湯浅さんの姿。
それを見ている私の心の中にかすかな寂しさが生まれていることを、もちろん私は気づいていた。
☆
湯浅さんが見えなくなり、私とウーサはマンションの中へと進む。
進む際に、ふと見たマンションの粗大ごみ置き場。そこにどこか見覚えのあるベッドがあった気がするが、うん、キノセイだろう。
マンション七階にある私の部屋。そこに戻ってすぐに気がついた。
「ウーサ、キノセイじゃなかったね」
当初の予定では、私の自由なスペースが狭くなるが、ベッドの横にウーサの小屋を置くつもりだった。だが、今朝確かに私が寝ていたベッドは部屋に無く、そこに代わりにウーサの小屋と、それを取り囲むように柵が立てられていた。そして、ベッドの代わりなのだろうか、真新しい敷布団が部屋の片隅に置かれていた。
テーブルの上には、メモが一枚。
『ちょっとだけ部屋を改造させてもらいました』
これがちょっとですか! と、ココロの中で今頃空港に向かっているであろう湯浅さんにつっこむ。
だが今更ベッドを戻すわけにもいかないので、私は観念した。
ひとまずウーサをキャリーから出し、小屋の中に戻ってもらう。
小屋に戻ったウーサは、いつもと違う環境であることに気がついたのか、少し落ち着き無く小屋の中をぐるぐる回っている。
私はそんなウーサにオヤツを差し出しながら、話しかける。
「今日から半年ぐらいかな、よろしくな」
ウーサは私の言葉を聞いたのか、オヤツの匂いに気がついたのか、こちら側にやってきてオヤツを奪って行った。
(ふふ)
そんな仕草にも可愛さを感じる。撫でてあげようかなと思ったが、
とりあえずは環境が変化したこともあるのであまりかまいすぎるのは良くない。
私は食事と水が充分であることを確認した上で、ウーサの小屋に目隠しカバーをかける。
さて。
私は湯浅さんには内緒にしていたが、計画していることがあった。
「まずは、買い物だ」
仕事用の服を脱ぎ、少し厚めの服装への着替えをさっと済ませ、
「行ってくるよ」
ウーサに挨拶をして、外へ出る。
「出かけるときに誰かに挨拶することなんて、久しぶりだな」
そんなことを思いながら、マンションの入口へ。そこにはマンションの管理人がいたので、私は軽く挨拶する。
「うん、出かけるときに誰かに挨拶すること、久しぶりじゃないな」
こうして、私とウーサの新しい生活が今始まる。
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