第一羽 うさぎ付箋の人

パソコンのモニター右下にあるシステム時計は、十七時四十五分を示していた。それはつまり、今日の業務時間が終了したこと。

だけど、周囲の様子は何も変わらない。

「帰りたいな」

そう思いながら、私はぐっと背伸びをする。椅子の背もたれは私の背伸びを受け、少し後ろに反り返る。背もたれからの抵抗感の少なさに、近々壊れてしまうのではないだろうかと心配してしまう。だがその心配をしてからもう五年だから、案外このまま定年まで共に歩めるかも知れない。それは言いすぎか。

そんなよそ事を考えながらも、私の手は目の前のキーボードを叩きながら無機質な音を奏でている。例え今日が週末で疲れが溜まっていたとしても、そうそう帰宅してゲームや漫画の世界に行くことは出来ない。だから次第に私は、表面上は仕事をしているが頭の中では別の事を考えて気分転換するという術を身に着けた。

だが、そんな状態の私はとてもとても無防備だ。何故なら、おそらく少し前からいたのであろう、目の前に立ちながらこちらを見ている女性に気がつかなかったのだから。

その女性の名前は、湯浅(ゆあさ)春子(はるこ)。セミロングの黒髪に、折り目で模様が描かれている白いシャツ。そしてパンツスーツを履いている。そんなオフィス街を歩けばどこにでもいるような服装でも、この業界で言えば綺麗な方だろう。だが湯浅さんも例外なく、この業界特有のちょっとひねくれた性格の持ち主だ。

湯浅さんは私より三年早く入社している。そして私の入社当時の教育係でもある。そのときにフレンドリーに色々話してもらえたから、今でこそあまり会話はしていないものの、私がこの会社で気軽に話すことの出来る数少ない人の一人だ。

カタカタカタ。キーボードが語る。

「何か御用ですか」

「寝てたでしょ」

「寝てないですよ。見ていたらわかったと思いますが、ずっとキーボード動いていたでしょう」

「ふーん、それならいいけど」

なんとも感に触る言い方である。だが、彼女はいつもこうなのでもう慣れてしまった。そう、慣れたのだ。だから湯浅さんが私の元に来た理由もわかるのだ。

「このテスト結果の精査の続き、頼めるかしら」

そらきた。

私はキーボードから手を離し、目の前から私の横へと移動してきた湯浅さんから資料を受け取る。この紙束の厚さ、この一枚一枚に書かれている文字の密度から考えるに、三時間コースと思われる。 

ちらっとシステム時計を見る。シンプルな時計は十八時の五分前を示している。それはつまり、私の今の残作業と彼女から渡された作業をあわせると、あわせると、いや、考えたくない。

私は思考を麻痺させ、でも表情は麻痺させずに疲れを見せないように笑顔にして、いつも通り答える。

「喜んで」


私は机の脇に受け取った資料を置き、作業を再開する。再開してすぐに聞こえる湯浅さんの声。

「おつかれさまでした」

そして、颯爽と湯浅さんは退社した。それは私が知る限り、ほぼ毎日同じ時刻で、十八時。

湯浅さんがその時刻よりも遅く会社に残ることはほぼなかった。

 私は椅子に座ったまま、再びぐっと背伸びする。そして、思う。

(うらやましい)

私も今ぐらいの時間に帰りたい。そうすれば色々私生活も楽しめるだろう。時々頭の中を過ぎる、何のために働いているのか、といううつ病への一歩のような思考も無くなるだろうし。

だけど、現実は難しくて。いや、難しいというよりは、私自身に勇気と行動力がないだけだろう。

湯浅さんの様に、残作業を他の人に任せることも、任された人のことを考えると出来ないし、出社時間を早くするという元気も無い。

湯浅さんが羨ましい。だから私は、湯浅さんから渡される仕事に苛立ちながらも、そんな彼女を応援してしまうのだ。


私は三度ぐっと背伸びをする。


私の名前は、卯月(うづき)悟(さとる)。

何となく色々な会社に就職活動し、その中で一番早く内定を貰うことが出来たこのゲーム会社に就職した。この会社は大企業というわけではなく、かといって小企業でもない。なんとも中途半端な感じの会社だ。だから、実はそれなりに人はいて、それなりに融通が利くこともある。休みも事前に申告していれば基本的にはとれるし、仕事が焦げ付きそうになれば周りの方に応援を頼むことも出来る。

だから、湯浅さんのようなほぼ定時には帰宅するという仕事への取り組み方も、周りがどう思っているのかはさておき、会社としては問題というわけではない。残った仕事が回ってくる私には大問題なのだが。


湯浅さんから受け取った資料を見る。その資料の重要なポイントにはうさぎの付箋が貼ってあるのが見える。

そう、彼女が『うさぎ付箋の人』なのだ。この業界は付箋を湯水のように使うこともあり、会社がベーシックなタイプのものをどっさり用意してくれているのだが、彼女はそれを使わずに自前で持ってきたうさぎの付箋を使用しているのだ。付箋は大小様々で、形状はベーシックタイプと同じでうさぎのイラストがついているだけのものもあれば、形がうさぎになっているものもある。とても可愛いとは思うが、その付箋が貼ってある書類はとても可愛くない。

早く帰ることに加えて、うさぎの付箋を使っていることから湯浅さんはそれなりに会社内では有名人なのだ。

私はうさぎの付箋を眺めながら、高鈴の言葉を思い出す。

「最終幻想社の新プロジェクトか」

それに湯浅さんは選ばれている。だから近々台湾に行くことになるのだろう。それはつまり、彼女の今のこの早く帰る生活が変化するということ。彼女は変化についてどう考えているのだろうか。


パソコンの画面にスクリーンセイバーがかかる。操作をせずに五分経つと自動的にかかるように設定してある。ちょっと考え事をし過ぎていたようだ。私は姿勢を整え、一つ深呼吸する。

「今日もまた、何も変わらない日常だ」

ココロの中でそう思い、仕事を再開する。


 ☆


気がつけば、時計は二十一時半を示している。湯浅さんから受け取った仕事は全て終わらせることが出来た。私の元々の仕事はまだ残っているが、この程度なら明日少しだけ闇出社すれば問題ない。

パソコンをシャットダウンさせ、まだ残っている他の方に軽く挨拶し、私は退社した。


会社前。毎日変わらない、闇と電球のコントラストが見せるどこか私の心を不安にさせる景色。季節は十月の秋。ほんの数ヶ月前の茹だるような暑さはどこいく風。上着を着ないと少し寒く感じる。

私はゆっくりと駅方面に歩きながら、携帯電話を取り出して時刻を見る。二十二時だ。湯浅さんが退社してから、実に四時間経っている。それだけあれば、漫画を読んだり、ゲームをしたり、自炊したり、色々出来そうだ。

だけど私は、今から帰ったら、コンビニで買ったちょっとした惣菜やお菓子を摘みながらネットサーフィンし、そして力尽きるように眠るだけ。


こんな日々を望んでいたわけではない。こんな日々を変えたい。だけど私には変える力はもう無くて。ただただ、変えてくれる何かを待ち望む日々。

「宝くじでも当たらないかな」

当選番号を携帯電話で検索するも、当たっているはずもなく。なぜなら、私は宝くじを買っていないのだから。


 ☆


私が住むマンションの前に着いたのは、二十三時。マンションの中に入ろうとしたときに、どこかで聞いたことのある声がする。

「今日も元気ないね」

振り返ると、そこには何故か湯浅さんがいた。その姿は会社で見るきちんとした姿ではなく、ピンクと白の横ストライプの七分袖のシャツに水色に近いジーンズを履いている。そしてその手には動物を入れるキャリーと呼ばれるものを持っている。

働き始めてから五年間。このマンションで暮らしているが今まで湯浅さんにここで出会ったことはない。私は今、表情にこそ出してはいないが、とても驚いている。

「湯浅さん、どうしてここに」

私の問いかけに、彼女は呆れ顔をする。

「私はずっとここに暮らしているのよ。大学になってからだから、卯月君より四年は長く住んでいるわ」

気がつかなかった。確かに普段は湯浅さんの方が早く出社し、そして早く退社している。だから通勤時に会うことは無いのはわかるが、休日などを含めて全く会っていないのはおかしい。

そんな私の心を読んだのか、湯浅さんは答える。

「私たち、何度もすれ違っているわよ。でもいつも卯月君は考え事をしているのか、ぼけーっとしているのか、私には気づいていなかったわ」

「そうでしたか」

確かに私は移動中にすれ違う人の顔を見ることはない。会社でも同じなので、時々無視されたと勘違いする人がいるがそうじゃない。 

ただ単に移動中は考え事をしているだけなのだ。

しかし五年も無視を続けてしまったとは。湯浅さんも、もっと早く声をかけてくれたらよかったのに。

(はて)

「それなら何故今日は私に声をかけてきたのですか」

私の当然の問いかけに、湯浅さんは何故かとても驚いた。そんなに驚くような質問だろうか。さらに、湯浅さんは何故かわからないと言ってきた。そんな湯浅さんがよくわからない。


私たちはそんな話をして、一緒にマンションに入る。

私は七階、湯浅さんは十階だそうだ。

エレベーターが到着するまでの待ち時間。

「そういえば、そのキャリーの中には何か動物がいるのですか」

私の問いかけに、彼女はまた驚いた。これもさっき同様に驚くような質問だろうか。それにしても湯浅さんは会社にいるときとは違い、妙に感受性が豊かに見える。

私がそんなことを思っていると、湯浅さんは見せてあげると言って、キャリーの扉を少しだけ開けてその中を私に見せてくれた。

その中には、茶色い毛をしたうさぎがいた。

「どう、可愛いでしょ!」

そういう湯浅さんの眼が輝いている。私自身、うさぎを写真以外で見た覚えがないので、写真以上の可愛い存在に驚いた。キャリーの小さな扉からだけなので細かいところまでは見えないが、顔は茶色の毛がライオンのたてがみの様な形で覆われており、Y字ラインの鼻の部分だけがミスプリントのように白くなっている。

そのうさぎは鼻をひくひくさせてこちらを見ている。私はお世辞抜きにその姿を可愛いと思った。

「ええ、可愛いですね。湯浅さん、うさぎ飼っていたのですね」

 湯浅さんは嬉しそうに頷く。そして、

「そうよ。だからいつも早く帰っているでしょ」

と、付け加えた。五年間働く中で一度も聞かされていないのだからわかるはずもなく。でも確かに普段からうさぎの付箋を使っているぐらいだから、うさぎを飼っていてもおかしくはない。

 ピンコーン。エレベーターが一階に到着したようだ。

そこからは特に会話はなく、エレベーターが七階に到着したところで私は降り、中に残る湯浅さんに軽く挨拶して別れた。


ガチャリ。七階の自身の部屋の扉を開ける。

相変わらず真っ暗な部屋。私は明かりとパソコンの電源を入れ、そしてカップスープ用のお湯を沸かしながら、お手洗いに入る。その後、手を洗いながら、疲れた表情を見せる顔を水で洗い流す。


日々繰り返してきた日常。私はそれを今日も繰り返しながら、さっきの出来事を思い出す。

同じマンションに住んでいることがわかった湯浅さん。そして、うさぎを飼っているという事実。私は、五年間繰り返してきた日常を変えるフラグが立った。そんな予感がした。


 ☆


翌週の月曜日。この会社は毎週月曜日の十時から全社ミーティングを行っている。普段は各チームが現在の状況を説明するだけで終わるのだが、今日はそのあとに珍しく社長が出てきた。

オホン! というお決まりの咳払いをしてから、話し始める。

「既に関係者には連絡しているが、この度、我が社から最終幻想社の新プロジェクトに参画することになりました。今回のプロジェクトは今までとは大きく異なり、台湾のプロジェクトルームで作業していただくことになります」

周りからざわめき声が聞こえる。私も事前に高鈴から聞いていなかったら驚いていただろう。高鈴の方を見る。高鈴はわざとらしく動揺して見せていた。

その後、社長は参加者の名前を順に呼び上げる。もちろんその中には湯浅さんの名前もあった。そして、

「今お呼びした方には、十一月の頭に出発してもらいます。期間は現在の予定では三月末迄です。ですが皆さんがご想像の通り、最終幻想社のプロジェクトはだいたい遅延します。なので少なくとも半年は帰って来れないと想定し、皆さんは引継作業をしっかり行ってください」

と付け加え、話すことは以上ですと言って執務室を出て行った。


ミーティング後は、名前を呼ばれた人の周りに人が集まり、新プロジェクトのことや海外勤務になることについて色々な質問をしているという光景があちこちに見られた。

ワイワイガヤガヤ、わいわいがやがや。喧騒が執務室を包む。

「ダメだ、これだけ騒がしいと仕事しずらいな」

私はいったん休憩することにして、執務室からを出て、いつものベランダに移動する。

いつものベランダに立ち、向かいのビルをぼーっと眺める。眺めながら、思う。

「そういえば、湯浅さんは飼っているうさぎはどうするのだろう」

さすがに台湾に連れていくことはないだろう。存在を聞いたことはないが、恋人がいたらその人に預かってもらうのだろうか。もしくは友人か。でもさすがに半年近くも友人に世話を頼むには負担が大きいかな。じゃあ、実家とかかな。

今日は風が吹いていない。だからなのか、秋にしては少し暑い。

何か飲むかなと思った瞬間、ガコンガコン。缶コーヒーを二つ購入する音。そして、プシュ。缶コーヒーの開封音。

(やつか)

と思ったが、数秒しても二回目の開封音が聞こえない。私は不思議に思い、自動販売機側を見る。するとすぐ横まで来ていた湯浅さんを間近で見ることになった。

「おわっ?!」

てっきり高鈴が来たと思っていたので、予想外の来訪者に私は思い切り驚いた。湯浅さんは私が派手に驚いたことに、おおげさね、と言いながら、缶コーヒーを私に手渡してくれる。

「ありがとう」

湯浅さんにこうして缶コーヒーを奢ってもらったのは初めてだ。そもそも会社で誰かに奢ってもらった経験は無いが。

「卯月君は、高鈴君と付き合っているのかな」

うぐっ。思わずコーヒーを噴出しそうになったが堪えた。

「どうしてそうなるのですか。高鈴は男性ですよ」

私が否定すると、湯浅さんは口に右手の人差し指を軽く当て笑う。

「そうよね。いつも二人でここにいるからそうなのかなって」

私は冷静さを取り戻し、答える。

「同期なだけです」

あとで高鈴にも変な行動は慎むように伝えておかねば。


それから湯浅さんとは新プロジェクトについてありきたりの質問をした。

最後にうさぎのことについても聞こうかなと思った瞬間、

「おお、今日は珍しい組み合わせだな」

高鈴が空気を読まずにやってきた。それを見た湯浅さんは、邪魔しちゃあれだし戻るね、と言ってそそくさと執務室に戻っていった。

その様子を不思議そうに見ながら高鈴は缶コーヒーをプシュっとする。何かあったの? と高鈴が聞いてくるも、私も正直何故湯浅さんがここに来たのかわからなかったので適当にはぐらかす。


ただ一つわかったことがある。私はそれを高鈴に教えると共に、注意しておく必要がある。

「高鈴、悪い話がある」


 ☆


 翌日から、ある変化が起きた。

高鈴がショックを受けてへこんでいるのはさておき、

「その仕事、私も手伝うね」

「あ、はい助かります。湯浅さんがお持ちの仕事は大丈夫ですか」

 湯浅さんは軽く微笑む。

「大丈夫よ。心配ありがと」

湯浅さんが私の仕事を手伝ってくれるようになったのだ。

手伝うと言ってくれた最初のときは、十八時には私に仕事を渡して退社しているのだから私の仕事を手伝う意味は無いと思っていた。

だがその日以降、彼女は私に仕事を渡すことは無くなった。傍から見ていても湯浅さんの作業速度は尋常じゃない程あがっていた。

一体湯浅さんに何が起きたのか。


 ☆


一体何が湯浅さんを変えたのだろうか。

その答えはわからぬまま、金曜日を迎えた。

今日はいつも以上に自身の作業に時間がかかってしまい、その結果、あの日と同じ時間。私は二十三時にマンションの前に着く。

そしてそこには、あの日と同じ、だらしない感じの上着にジーパン姿の湯浅さんがいた。


一体何が湯浅さんを変えたのか。いや、そろそろ白状しようか。

もちろんその答えはわかっているのだ。

私は軽くためいきをつきながら、観念する。

「わかりましたよ。私がうさぎさんを大切にお預かりします」

私の言葉に、湯浅さんは計画通りと思ったような悪い顔を一瞬見せたのち、すぐに笑顔になる。実にわかりやすい人だ。


湯浅さんはキャリーの扉を開け、その中にいるうさぎを私の顔の位置に近づける。あのときに見た茶色の毛をしたうさぎが見える。

「ウーサちゃん、彼がこれからしばらく世話をしてくれる卯月(うさぎ好き)君だよ」

ウーサと呼ばれたうさぎが、キャリーの中からじーっとこちらを見ている。耳は片方だけが立っており、もう片方は背中にくっついている。モノラルか。

 私は少し腰の位置を下げ、ウーサちゃんの高さに顔の位置を合わせる。そして、

「なんか妙な呼び方で紹介された気がしますが、卯月(うづき)です。ええと、ウーサちゃん、よろしくな」

と、笑顔で挨拶した。ウーサは一瞬だけもう片方の耳も立てたが、すぐに元の背中の位置に戻した。

私は湯浅さんに頭を撫でてあげてと言われたので、恐る恐る撫でる。


サワサワッ。


初めて触るうさぎは、思っていた以上に毛がふさふさで気持ちよかった。もっと警戒してくるかなと思いきや、そうでもないことに少し驚いた。

私の撫でる様子を見て、湯浅さんは楽しそうに笑っていた。

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